「揺らぎ」から、一瞬を切り取る。

知人に、プロのカメラマンではないけれども、

とても印象的で美しい写真を撮る人がいます。

この記事の冒頭のシャボン玉を吹く少女の写真

『野焼きの合間に』をはじめ、

文中に出て来る写真も、

今回掲載しているものはすべて、

彼女の珠玉の作品です。

デザイナーを本職とする彼女の作品は、

その対象が人物であっても風景であっても

それ自体とは違う何かを、観る側に語り掛けてきます。

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

沢山の人から彼女の写真に寄せられるSNSのコメントを見ていると、

そう感じているのは決して私だけではない様です。

ず~っと、

彼女の写真の帯びている不思議な空気や

語り掛ける力が一体どこから来ているのか、

私自身が写真の何を通してそう感じているのかを、

理解したいなぁと思っていました。

先日のこと。

それが、やっと分かりました。

そしてその分かったことが、

ここ数か月、私の意識の中で

印象的に引っかかっていた事とも

繋がっていたことに気付きました。

彼女は、写す対象が彼女に働きかけてくる「何か」を

敏感に感じ取ります。

そうした働き掛けを受け取ることが、

写真を撮るきっかけになっているとも言えます。

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi 

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi

私も含め、写真を撮る多くの人は、

自分が目にしているものそのものを写そうとすると思います。

彼女の場合は、

「働きかけられる私」の存在が、写真の中に息づいているのです。

写す行為を通して記録されるものは、彼女自身の世界であり、

心象風景なのだと思います。

この記事へ彼女の作品を転載したい

という旨のご連絡を差し上げた時に、

彼女はこんな風な表現をしていました。

「『まばゆい何か』が気になって仕方が無くて、

写真を撮っています。」と。

写真を観た人は、彼女の観る世界の中に入り込み、

彼女の「視点」にスッと重なる体験をします。

例えば、この写真のように。

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

ああぁ、おいしそうだ…。

美味しそう過ぎて、もう、切ないくらい。

観ているこっちまで、

口の中が酸っぱくなって来ます。

つまり、普段の自分とは異なる視野で

ものを見、感じる経験を

写真を通して実際にしているのだと思うのです。

単に写真を見ていると思っている私たちは、

写真を見る瞬間に「異なる視野の中に入る」という自覚を

持つことは、通常ありませんよね。

その為、何とも言えない不思議な気持ちになるわけです。

こうした感覚を体験させてくれる作品と言うのは、

そう沢山はないだろうと思います。

こうしたことを可能にしているのは、彼女が

現実世界を切り取る彼女らしい「平面」を

鮮明に持っている為だろうと思います。

この、現実世界をどういう平面で切り取るか、

その切り取り方が安定的で鮮明であるかどうかが、

その人がプロと名乗っているかどうかに関わらず、

「本物」と「素人」の仕事を分けているのかも知れません。

私たちが目にしているこの世界は、

常に揺らぎ続けています。

これは刻一刻と情勢が変化して行く様な

社会的な側面について言っているのではなく、

私たち人間を含む全ての存在が、

波として動き続ける粒子から成っていることを

念頭に置いています。

分子生物学者の福岡伸一氏は、

著書『動的平衡』の中でこう述べています。

(『動的平衡』p231)

「個体は、感覚としては

外界と隔てられた実体として存在するように思える。

しかし、ミクロのレベルでは、

たまたまそこに密度が高まっている

分子のゆるい「淀み」でしかないのである。」

波打ち、流れ続ける分子の海、

その中に出来た「淀み」が、

三次元の肉体を持つ私たちという存在。

存在は粒子から成るものだけれど、

そこに時間の概念を加えた時に

粒子は波としての性質を現します。

そして、それぞれの存在、

例えば臓器の一つ一つにも、

それ固有の波の大きさやリズムがあり、

様々な波の入り混じった複雑な倍音の総体として、

私たち一人一人は存在しています。

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

少し話が脱線気味になって来ましたが、(;^ω^)

人間に限らず、この世界を彩る全ての存在は、

常に揺らぎ続ける流動体なのです。

これを私の専門である身体に引きつけて考えるなら、

身体もまた、変化し続けることが常です。

留まり、固定化することはもちろん、

それが固定化することを私たちが望むことさえ、

例えそれが理想的な状態に思えるものであったとしても

身体の本質に添った在り方ではないのです。

自然も、建物も、生命も。

私たちが目にする対象の全ても、

それを観る私たちの目も。

揺らぐ目が、

揺らいでいる道具を使って

揺らぎの中にある対象の姿を切り取る。

自分の内なる心象風景を

カメラを用いて瞬間の中に切り取るという事は、

いわば、

揺らぎの合間のわずかな瞬間にのみ生じる

全てが符合するまばゆい閃き、それを捉える、

非常に繊細な「チューニング」のような作業だと

言えるかも知れません。

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi