時間と感情 / 2月の営業とキャンセル等の規定変更のご案内

 

目次

時間感覚を生み出す感情
電子に生じる歪み
恐れを現実化する電子の歪み
歪みが自分を本質から遠ざける
感情と時間をつなぐ、電子の回転
電子の共鳴
自分と一致して生きるには
2月の営業予定
各種の料金・時間設定に関するご変更

 

 

 

年が明けてから丸ひと月。

(と言うか、もう2月(^^; )

 

今年はお正月から

の~んびりしたペースだったせいか、

1か月の経過もゆっくりだった気がします。

 

大急ぎで頑張って

間に合わせの大掃除をするのではなく、

無理のない範囲で本当にやりたい事だけをしよう。

 

そう年末に決めたことで、

その後の流れも穏やかだった気がします。

 

 

 

時間感覚を生み出す感情

 

時間の感覚は、

その時々で違った印象を

私たちにもたらします。

 

急いでいる時には

あっという間に時間も過ぎて行き、

下手をすると

時間に追われている感じさえします。

 

ゆったりした気持ちでいる時は

時の流れもゆっくりしていて、

全てが穏やかに感じられます。

 

またあるいは、

退屈なことや面白くないことに

関わっている時には、

時間が経つのは嫌と言う程遅く感じ、

 

何かに夢中になって

時計を見るのも忘れて

取り組んでいる時には、

時間は飛ぶように過ぎていたりもします。

 

 

 

このように挙げてみると、

時間の感覚と言うのは

私たちの気持ちや感情の状態に

直結していることが分かります。

 

では感情と時間とは、

どのように関わっているのでしょうか?

 

 

 

電子に生じる歪み

 

最近、ある本の中に

面白い記述を見つけました。

 

それは数年前から

持っている本でしたが、

そうした記述があったことには

今頃になって初めて気付きました。

 

情報と言うのは、求める本人が

それを理解できる段階に至るまでは、

目の前に現れて来ないものなのだな

と思います。

 

 

 

その中には

『生命の最小の現れ』としての

電子について触れており、

こんな風な説明がありました。

 

 

(以下、読みやすい形になるよう、

元の文章を抜粋・要約しています。

『』内は、元のまま引用しています。)

 

 

 

電子は『純粋な宇宙の光の物質』で、

神と人が発揮する創造的な力(※1)に

稲妻のように反応すると、

(※1:具体的には、意図や意思を指していると考えられます。)

 

 

その力の働きに応じて形を変え、

物理的な世界を作る素である原子を

作り出すのだそうです。

 

 

そして、

 

 

『原子を構成する電子の数は

意識的な「思考」の結果であり、

意識的な「思考」で決まります。

 

 

それらが中心核のまわりを回る速度は

「感情」の結果であり、

「感情」で決まります。

 

 

中心核内部で激しく旋回する動きは

「神の息」です。

 

 

…中略…

 

 

電子のエネルギーはとても中立的で、

完全に生命に尽くすものです。

 

 

電子は、生命のほかの意識部分によって

条件付けされるときにのみ、

形となって現われます。

 

 

どのように条件付けされるかに応じて、

さまざまな形、姿、濃度を取ります。

 

 

…恐れや怒りや貪欲で創造するとき、

あなたは電子を誤用していて、

いのちに捧げる(電子の)原初の目的を

歪めて創造しています。』

 

 

(オレリア・ルイーズ・ジョーンズ著/『新しいレムリア』)
>p.283~285:復活の炎の章

 

 

 

恐れを現実化する電子の歪み

 

ここでの大前提として、

私たちの意識や意思、意図が

現実を創造している、

という理解があります。

 

その理解の上に立って

ここで言われているのは、

 

私たちがどの様な意識に基づき、

どの様な現実を作り出すことを

望むかによって、

 

現実を実際に作り出す

素材としての電子が

「条件付け」されることになる、

と言うわけです。

 

仮に、何らかの恐れを持って

現実を生み出した場合、

その思考に動員された電子や

おそらくは電子が描く軌道も、

恐れにより歪みを帯びることになります。

(歪みという条件付け=パターン化が起きます。)

 

そのため、自分の自覚としては

理想的な現実を思い描いていたはずなのに、

 

実際には

電子に付与された歪みによって

隠れていた恐れが反映されるため、

「現実」は恐れていたことが

形となって現れることになります。

 

例えば、

ヤマが外れたらどうしようと思いながら

試験勉強をしていたら、

ちょうど確認を省いたところが

出題されていたというように。

 

(もし、この人物に

どんなことを考えながら勉強していたの?

と質問をしたら、

「ヤマが当たると良いなぁと思って」

と答えるかも知れません。

 

そこで、本当にそういう言葉だった?

と更に詳しく聞いてみると、きっと

「ヤマが外れたらどうしよう、だった。」

と答えるでしょう。

 

つまり、私たちは無自覚の内に

恐れを含む言葉を心の中で使いながら、

それを意識していないことが多いのです。)

 

 

 

歪みが自分を本質から遠ざける

 

ここで言われている「歪み」は、

臨床を通して触れる身体の中に

私自身が観て取っているものと、

とても近いものだと感じました。

 

身体が帯びている歪みは、

単に肉体だけではなく

感情や意識なども含めた

あらゆるレベルにおける「歪み」を

反映しています。

 

こうした「歪み」こそ、

私たちの構造のまとまりや機能を

物理的に低下させるだけでなく、

 

私たちを自分の本質から遠ざけている力が

目に見える形で表現されたものだと、

経験を重ねる中で確信するようになりました。

 

肉体・感情・意識・エネルギーなどの

あらゆる階層で生じている「歪み」は、

全て同期してもいます。

 

ですが、「歪み」が電子のレベルから

起きているものならば、

それも当然のことだと納得できます。

 

 

 

…だいぶ脱線してしまいましたが(#^.^#)

 

以上のようなわけで、

この本の記述は

感覚的に信頼できると、

私自身は感じたわけです。

 

 

 

感情と時間をつなぐ、電子の回転

 

さて!

それでは時間の話に戻りましょう。

 

引用文の中程に、

電子が中心核を回る速度が

感情によって決まる、

という説明がありました。

 

電子の数を左右するのが思考で、

電子の回転速度が感情。

 

回転速度と言うことは、

電子の軌道とも関係があると

考えて良さそうです。

 

感情の状態に応じて、

電子の回転速度だけでなく

電子が描く軌道の形にも

変化が生じると仮定してみます。

 

 

感情によって決められる

電子の回転運動ですが、

 

その回転は、

回転の中心に位置する中心核と

呼応しているはずです。

 

中心核の中で生じている動きは

「神の息」でした。

 

『激しく旋回する動き』と

記述がありましたから、

非常に速い速度で旋回しているのでしょう。

 

ですが、

そこはあくまで「神の息」ですから、

どんなに目まぐるしい速度の中でも

永遠不変の秩序と調和が

保たれているはずです。

 

 

 

電子の共鳴

 

ここからは、

想像力を働かせてみます。

 

楽しさや幸福感の中に居る時、

感情は軽やかです。

 

この時、

感情のエネルギーは

心地よくスムーズに流れているので、

電子の回転も一定の速度を保ち、

軌道も美しく整っていると想像できます。

 

「神の息」の速い回転に対しては、

回転数(周波数)は異なっているでしょうが

共鳴の形で気持ち良くリズムが合います。

 

意識や感情は、いわば

「神の息」のリズムの内側にいますが、

そこから見える周りの世界は

感情自身のリズムを反映するため、

ゆったりした気持ちでいる時には

世界もゆっくり流れているように見えます。

 

 

一方、

やらねばならないことで

意識がいっぱいになっている時は、

感情的には焦りや不安を感じています。

 

こうした時、私たちの内側は

雑音が鳴り続けているような感覚です。

 

雑音を回転に置き換えてみると、

不安定で荒い軌道に、

不揃いでリズムを持たない回転

というイメージが浮かびます。

 

例えば、

なかなか眠れずに焦っている時、

一定のリズムで時を刻む

秒針の音を聞いてしまうと、

余計に焦りを感じるようになりますが、

 

自分が不安定な状態でいる時に

何かが一定不変のリズムで動いていると、

 

その揺るがない安定感との間に

大きなギャップを感じ、

自分の不安定さをより鮮明に

自覚するようになります。

 

焦りや不安によって

速度も軌道も乱れている

電子の気持ちになってみると、

 

「神の息」は残酷なほど

一定不変のリズムを奏でているように

感じることでしょう。

 

そのリズムに追い立てられている状態が、

つまりは私たちが時間に追われている感覚を

作り出していると想像できます。

 

 

…面白いですね~!(#^.^#)

 

 

 

同じように、

退屈な時には時間の経つのが遅く

楽しい時にはあっという間に過ぎるのも、

 

感情による電子の回転のリズムと

神の息による中心核の回転とが

共鳴しているかいないか、

と言う観点で理解できそうです。

 

 

 

自分と一致して生きるには

 

心地よい、楽しい、ゆったり、

寛いでいる、夢中になっている。

 

こうした状態でいる時、

私たちは自分の本質と共にいる、

と言うことが出来ます。

 

自分の本質と一致しているから

楽しく感じ、寛いでいられるわけです。

 

一方、焦ったり不安な気持ちでいる時、

私たちはどこかで無理をしていたり、

自分を信頼できていなかったりします。

 

つまり、

自分自身に対して正直ではなく、

強い言葉で言えば

自分と乖離しているとも言えます。

 

こうした状態にいる時、

実は私たちは

電子という最小単位から、

狂ったリズムで存在している

ということになるのですね。

 

おぉ~…。

 

想像しただけでも、

大変そうです。

 

 

 

自分自身に正直に生きる。

自分と一致して生きる。

 

こうした生き方は、

本当に行おうとすると

時に様々な困難に

出会ったりします。

 

ですがそれは、私たちがまだ

歪みを抱えているせいなんですね。

 

歪みを手放そうと意識し始めた時

私たちの電子は共鳴へと向かい始め、

 

その共鳴によって、

私たちが自分と一致して

生きようとする試みもまた、

大きな追い風を受けるように

なるのではないかと思うのです。

 

 

 

2月の営業のお知らせ

 

まずは、2月の営業日について

お知らせ致しますね!

 

12日の月曜日が臨時休業となる他は、

通常通りの営業を予定しています。

 

定休日は毎週水・日曜日、

営業時間は11時から20時となります。

現在の施術の最終受付時間は、

15時半とさせて頂いております。

 

また、

繰り返し利用して下さっている

クライアント様で

ご事情のある場合に限りますが、

水・日曜日の定休日も

ご予約を承っております。

 

水日ならば都合がつくのになぁ!

と思っていらっしゃる方は

どうぞ一度ご相談下さいね。

 

 

 

各種の料金・時間設定に関するご変更

 

最後になりましたが、この度

従来のneMu no ki のシステムの中で

二つほど変更・改善を行いましたので、

皆様にご案内申し上げます。

 

1つ目は、キャンセル料についてです。

 

ご予約間近での日程変更やキャンセルについて

今まで一括したキャンセル料を設けていましたが、

条件に応じてのより詳細な形に改善致しました。

詳しくは、こちらからご覧下さい。

http://inemurino-ki.com/prior-agreement/#cancel

 

 

 

二つ目は、施術前後でのお話の時間と

メールでのサポートに関してです。

 

当院では、施術の前と後に

お話の時間を設けています。

 

この時間は、

施術を単なる施術で終わらせることなく

良きセラピーとして機能させる上で、

実はとても大切な要素になっています。

 

そのため、これまでは

お客様に好きなだけ自由に

お話をして頂けるようにと考え、

そのように環境を設定して参りました。

 

ですが、

セラピーをより豊かなものとするために、

今後はお話の時間に敢えて

区切りを設けさせて頂くことに致しました。
また、

メールを通してのご相談やご質問も

これまでは自由にご利用頂いておりましたが、

 

セラピー後のフォローアップ以外は

有料の形で承らせて頂くこととなりました。

 

お話の時間とメールサポートに関する詳細は、

こちらにてご案内しております。

http://inemurino-ki.com/duration-and-charge/#charge

 

 

 

この度のシステムの変更を通して、

クライアントの皆様には

今まで以上に気兼ねなく安心して、

公平な形で利用して頂くことが出来、

 

更に、このように

これまで曖昧であったものに

明確な形を与えることによって、

 

皆様との関わりはより健やかで

かつ質の高いものになるのではないか、

私自身はそのように

期待を寄せています。

 

ご利用下さっている皆様にも

どうぞご理解頂けますように、

お願い申し上げます!

 

 

天使に願いを~ネガティブな思考や感情を楽しんで手放す方法/1~2月の営業予定

 

1月ももう下旬! 新年を迎えてのご挨拶が

大変遅くなりました~!

どんだけのんびりなんだ!

っていう感じですが、

 

本年もどうぞ

よろしくお願い致します!

 

今年の年始めは、

空気がとてものんびりと

しているように思いました。

 

例年は、元日に3軒

初詣のはしごを

していたのですが、

 

今年は 初詣に行かなやきゃ!

という気持ちを手放して、

 

本当に自分の好きなように

時間を過ごすことにしました。

 

 

 

そう言えば、

私が子供の頃のお正月は

市内のお店と言うお店の

シャッターが閉まっていて、

町中ひっそりとしていました。

 

三が日の間は

日中でも人の気配がなく、

 

静かで平和なその空気には、

子供心ながらに

特別さを感じたものでした。

 

今年のお正月は

本当に何十年ぶりかで、

そんな「特別」な感じに

近い感覚を味わえたような

気がします。

 

でもそれは、

マイペースに過ごしたから

というだけでは無く、

 

自分の内側に

起きつつある変化が、

反映されたせいでも

あったように思うのです。

 

 

 

ネガティブな思考を手放す

 

昨年の末頃、私は

ある取り組みを始めました。

 

自分の内なるおしゃべりに

自覚的になり、

 

そこで浮かんでくる

ネガティブな思いや考えをすべて

きれいに手放すことです。

 

言うのは簡単だけれど、

実際にやるとなると

どうしたら良いのかわからず、

かなり難しそうなことに

思えますよね。

 

でも、出来るんです。

と言うか、私には

必ず出来ると信頼を感じて

取り組み始めたことがありました。

 

 

今回の記事では、

それが実際に

どんな取り組みなのか、

その詳細について

お話しして行きたいと思います。

 

自分の意識を

クリアにしていく方法の

お話ですので、

 

瞑想をやりたいのに

雑念が浮かんで来て

上手く行かないと言う方や、

 

どうしても

ネガティブな思考から

抜け出せずに

苦しんでいる方には、

 

きっと役に立つ

内容だと思います。

 

その前にまずは

1~2月の営業予定の

お知らせを。

 

 

 

1~2月の営業予定

 

1月23日(月)と

2月27日(月)は

臨時でお休みさせて頂きます。

 

それ以外は通常通りの

営業となります。

 

定休日は毎週水・日曜日、

営業時間は11時~20時、

施術の最終受付時間は

17時とさせて頂いております。

 

施術のご予約は

前日までに

ご連絡下さいます様、

皆様にご協力を

お願いしております。

 

キャンセルや

日程のご変更の際には

ご予約2日前から

キャンセル料が発生

致しますので、

どうぞご注意下さいませ。

 

 

 

感情や思考は「感覚」から生まれる

 

ネガティブな思いや考えを

抱えている時は、

何よりも自分自身が

辛く感じるものです。

 

思いや考えには

「感覚」が伴います。

 

むしろ実際には、

まず感覚が生じます。

 

何かのきっかけで、

気付くか気付かないかの

かすかな感覚が生じると、

 

それはほどなく

「言語」の形態をまとって、

感情や思考として

意識に上ってきます。

 

 

 

浮かんできた思いや考えが

ネガティブなものである時は、

 

モヤッとしたり

イラッとしたりするような

不快な感覚が先行しています。

 

何せ不快なので、

身体はこの感覚を黙って

抱えたままにしておくことが

出来ません。

 

不快さを解消しようとして

身体は自ずと反応を起こします。

 

時には自分でも抑制できずに

相手に怒りをぶつけたり、

 

内側から出ようとする

衝動的な力を

ぐっと押さえ込もうと、

感情を飲み込んでいる自分に

気付いたりします。

 

どちらの場合にしても、

不快な感覚は残念ながら

解消されることがないのは、

誰しも経験を通して

理解されていることだろうと思います。

 

 

 

意識が身体に及ぼす影響の深刻さ

 

ネガティブな思いや考えを

手放すことは、

実は私たちが

健康を保つうえでも

大変重要なことです。

 

私たちの身体は

「嫌だな~」

「失敗した!」

「急がなきゃ」

「なんで私って…」

と言ったような、

 

私たちが日頃

何気なく口にする、

些細な自己非難の

言葉にさえ反応しています。

 

私たち自身の

何気ない一言によって、

身体は緊張し、

身構えるのです。

 

特に緊張が起きやすいのは、

心臓や背中の辺りで、

時には後頚部にも

感じられるかも知れません。

 

私たちが意識せずに

「あ~」と思うたびに、

心臓や背中、首では

律儀に反応が起き、

緊張によって硬くなることを

繰り返しているわけですから、

 

一日経つ内には

身体は何もしなくても

相当バリバリです。

 

それを毎日繰り返すとなると…。

 

健康に良くないわけが

分かりますよね( ;∀;)

 

 

 

さてさて。

 

自己非難や他者への怒りなど

ネガティブな要素を含む

思いや考えは、

 

発散したり

抑え込むことによっては

解消できないことは

先に述べました。

 

これらを手放すのに

カギとなるのは、

「芽」の段階で

察知することです。

 

「芽」とはつまり、

感情や思考になる前の

感覚の段階を指します。

 

それは、

自分の胸の辺りや

みぞおちの辺りに

もわっと湧いて来たり、

 

時には頭の中で

カッと点火するような、

かすかで瞬間的なものです。

 

そうした感覚が

生じたことに気づいたら、

それを自分の中で

解消しようとせずに、

 

私たちよりも

高い次元の存在へと、

処理を委ねます。

 

 

 

天使に願いを。

 

自分の中に

不快さの「芽」が

生まれるのを感じるのは、

 

例えばこんな場面かも

知れません。

 

電車の中に、

大きな声で

電話をしている人が

いた時、

 

たまたま目のあった人に

不機嫌そうな顔で

にらまれた時、

 

朝、出勤前の

急いでいる時間に

父親がトイレを

占拠していた時、

 

いつもきれいにしている

自宅の前で、

タバコのポイ捨てを

発見した時。

 

 

どれも些細なことですが、

数限りない状況で

不快さの「芽」は

生じる可能性があります。

 

それに伴って

身体と心まで

緊張させてしまわない為に、

 

私は自分の守護天使に

「芽」を引き渡して、

光に変えてもらうようにしました。

 

不快さが

生じそうになったら、

心の中で

天使に呼びかけます。

 

「天使さん、

あの方に光と祝福をお願いします。」

 

こうして、不快さを感じる

きっかけになった人や物へと、

光を送ってもらえるように

依頼するのです。

 

 

 

急に天使が出て来たので、

驚いた方もいらっしゃるかも

知れませんね( ^ω^ )

 

この方法は、

ある書籍からヒントを得て

やり始めました。

 

その書籍には「祈り」について

こんなことが書かれていました。

 

「愛とは人の心を

開くエネルギーであり、

私たちは思いによって

それを送るのです。

 

私たちが純粋な愛の光を

人々に送ったとき、

天使の力が

それに結び付いて

奇跡を起こします。

 

もし、そのとき

天使に助力を

お願いすれば、

それはもっと

パワフルになります。」

 

「戦争の起こっている

場所のことを考えるときには、

そこで起こっている悪い事柄に

焦点を合わせないことです。

 

闇の力にエネルギーを

与えることになります。

 

その代わりに、光が

その場所に射しこむように

イメージしてください。

 

天使たちがそこにいる人々を

助けてくれるよう

お願いするのです。

 

あなたの祈りが、

天使たちがそこを訪れ

救うための

光の道筋となります。」

(引用:ダイアナ・クーパー著

『エンジェル・ストーリー』 p.34)

 

 

 

これを読んだ時に、

こんな理解が浮かびました。

 

私たちは他者の配慮のなさや

思いやりのなさを見咎めて

ついつい責めたくなりますが、

 

その代わりに

その人に向けて

光と祝福を送って下さいと

天使に祈ることは、

 

その人に対して直接

天使が働きかけるための

光の道筋を作る事になり、

 

その人が本来持っている

配慮や思いやりの気持ちが

より良く機能するように、

 

間接的ながらも

サポートの手を

差し出すことになるのだ、と。

 

(天使は高い次元の存在で

高い周波数を纏っているため、

 

低い意識でいる人には

近寄りたくても

近寄ることが出来ず、

直接サポートすることが

難しいのだそうです。

 

そこへ、

その人へ向けて祈りが届くと、

 

それが天使の通る

光の道となって

天使がサポートすることが

可能になるようです。)

 

 

 

天使の存在を

信じているかどうかは

ここではひとまず

置いておいて頂いて、

 

願えば変化は起きます。

そして、それは

私たちの内側の感覚で

実際に感じることが出来ます。

(詳しくは後述します。)

 

 

 

あまりに腹が立つような時には、

相手のために祈るのは

難しく思えるかも知れませんが、

 

実際に試してみて、

祈ることで不快感が

解消されるのを

実感するようになると、

 

不快感を握りしめて

腹を立て続けるよりも、

祈ることの方が

明らかに実用的だと

感じられるようになります。

 

 

 

天使に祈った際には、

私たちが気付けなくても

天使はちゃんとそれに

応えてくれているので、

 

「ありがとうございます。」

 

とお礼を言い添えることも

忘れないようにします。

 

 

 

ジャッジの意識や過去の記憶も手放す。

 

実際に天使に祈る際には、

怒りや自己非難が生じそうな

場面だけではなく、

 

自分の中で

他者に対するジャッジが

起きそうになった時にも

必ず行うようにしました。

 

例えば、

目つきの悪い若者を見て

「わ、怖そう」

と思うようなことも、

 

道端で寝起きしている

人を見て、

「大変だろうな~。」

と思うようなこともです。

 

自分の価値基準や

先入観があると、

 

他者との間に

必要のない溝が生まれ、

その人の真実の姿を

見誤りがちになります。

 

ニュートラルに物事を

受け止められるようになるには、

 

小さなジャッジの「芽」も

天使にすべて引き渡して、

これもまた光へ変えてもらうのが

一番良いと思いました。

 

 

 

また、天使には

時空間をまたぐ移動も

可能なはずですから、

今現在における

ネガティブな思いや考えに限らず、

 

思い浮かんで来た

過去の出来事についても、

祈りの対象にしました。

 

過去の出来事で関わった人や、

その時の自分自身もです。

 

思い出した瞬間に、

少しでも自分の内側に

モヤッとする感覚を

感じそうなものは、

片っ端から祈りました。

 

 

 

過去の記憶は、

その痛みが本当に

解消された時には

思い出さなくなり、

 

仮に思い出しても、

その時の感情は伴わず、

冷静に見られるように

なります。

 

思い出す度に

実感を伴う内は、

 

それがまだちゃんと

処理できておらず、

手放せていない証拠なのだ

と言うことも、

 

天使の力を借りることで

改めて分かりました。

 

 

 

 

感情は、理解だけでは解消されない。

 

これをやり始めて数日は、

人とすれ違うたびに

立て続けに天使に向かって

祈らなくてはいけないような、

大変な状態でした。

 

いかに普段、

自分が些細なことに

頻繁に気を取られていたか、

嫌でも分かります。

 

その量の多さには、

自分でも心底驚き、

呆れました。

 

私は、

自分と向き合うことを

大切にできている人間だと

自分では思っていましたが、

 

自分の意識が

これほどまでに外側に

向いている状態だったかと、

初めて気づかされた思いでした。

 

 

 

自己弁護をするようで

恐縮ではありますが(^▽^;)、

 

施術者と言う仕事柄、

自分の内的な問題とは

今までかなり丁寧に

向き合って来ていると思います。

 

学びを深めて行くと、

 

自分の外側に見えているものは

すべて自分の内側の世界の

「投影」であることを、

理解するようになります。

 

その理解は、

自分の内側で起きる

感情のカラクリを

見破ることを

可能にしてくれますが、

 

腹が立つことや

感情の波が起きること自体を

無くしてくれるわけでは

ありません。

 

そのために、

学びが深まって行くほどに

かえって自分の感情に

出口を見出せなくなるという、

 

難しい循環に

嵌まり込んでいた可能性も

あったのかも知れないと

思います。

 

 

 

知っている人だと、腹は立たない。

 

天使に向かって祈ることで

面白いと感じたのは、

 

モヤモヤとした感覚が、

胸の辺りからスッと

引き抜かれるように

消えて行くことです。

 

不快さの「芽」自体を

摘んでもらったから

なのでしょうね、

 

モヤモヤがぶり返すことも

ありません。

 

 

 

祈っても

不快さが消えない時には、

祈り方をより

詳細にしてみます。

 

自分が不快に感じたのは

何に対してだったのか、

それを具体的に

把握し直した上で、

改めて祈ります。

 

私の場合は、

不快さを感じるのは

大抵の場合、

配慮と思いやりの欠如を

感じる時なので、

 

「あの方の配慮と

思いやりの気持ちを浄化し、

光で満たしてください。」

と言うような感じになります。

 

 

 

他の例も挙げてみるなら、

 

家族のケンカを見ると

辛い気持ちになる場合や、

 

人前に立つと

緊張を感じてしまう場合は、

 

ケンカをしている当人達や

その場に同席している人達に向けて

 

「彼らの理解力と受容力に

光と祝福をお願いします。」

というような感じになります。

 

 

 

もう一つ

興味深く感じたのは、

 

天使を通じて

祝福をお願いした相手は、

不思議と身近に感じることです。

 

祈る前に比べると、

「知っている人」という

感じがするのです。

 

失礼があると

知らない人だと立つ腹も、

知っている人だと

意外と「まぁいいか。」

となったりしますよね。

 

祈ることで現れる親近感は、

エネルギー的に

同期が生じることを

示しているのかも知れませんが、

 

理由はともかく、

祈るとその人のことが

気にならなくなったりします。

 

 

 

内側の静けさが、自分を自分と向き合わせてくれる。

 

始めの頃に比べて

不快さを感じる場面が

次第に少なくなり、

 

頭の中で

勝手に起きていた

ネガティブなおしゃべりも、

随分と静かになって来ると、

 

自分の内的世界に

静けさと穏やかさを

感じるようになりました。

 

散歩をしたり

瞑想をしたりしていて

雑念が浮かぶことも

少なくなりました。

 

頭の中のおしゃべりや

勝手に浮かぶ雑念とは、

処理できていなかった

ネガティブな思いや考え

そのものだったのでしょう。

 

そして、

こんなことに気づきました。

 

自由な時間が出来た時、

今までの私は

何となくテレビを見たり

ネットで物色をすることで

時間をつぶしがちな傾向が

あったのですが、

 

それは自分の内側に

つねに不快感が

くすぶっていたせいで、

 

静かにして

自分と共にいようとすると

それが浮かび上がって来る為、

 

無意識的にそれを

避けようとしていたのだな、と。

 

 

 

今でももちろん

テレビやネットは

見る時もありますが、

 

以前に比べてずっと

多くの時間を、

 

自分の内側に意識を向けて

自分とゆっくり一緒にいる、

ということに

使えるようになったと思います。

 

 

 

 

感覚を通して、自己の内なる変化を読み解く 。〜思考する感覚

 

ここのところ、
春のように温かい日が続いていますね~!

DSC_0002_18

 

肌で感じる季節感が乏しいせいか、
年末という実感がなかなか湧かず。

 

とは言え、
もうすぐそこまで
新年が来ているんですよね~!(^▽^;)

 

 

今回は、2015年度最後のブログです。
一年の総まとめを…と思ったのですが、
そんなに簡単にまとまらないので(;^ω^)

 

最後の2か月、
11月~12月に私自身が体験した
ちょっと面白い出来事をお話したいと思います。

 

この2か月間、なぜだか
物事を深く考えることが出来ませんでした。

 

普段、当たり前の様に出来ていた「思考」。
それが出来なくなったことで、
「思考する」とはどういう事かを、
思いがけない視点から見つめ直すことになりました。

 

 

思考する時に、
私たちにはどんな感覚が生じているのでしょうか?
今回はそんなお話を軸に、

 

思考に頼るのではなく、
感覚を通して理解することの面白さを
お伝え出来たら良いなと思います。

 

 

思考は、外からやってくる

 

この2か月の間、ほぼずっと
思考が止まっているなぁ~、
考える事に頭を使いたくないんだな、
と感じていました。

 

それが特に顕著に感じられるのは、
困ったことに施術中です。

 

当院の施術では、
クライアントさんの身体の状態を
全体的に把握する事が必要になります。
自分で言うのも何なんですが(;^ω^) 、
かなり思考力を使います。

 

ところが、頭を使いたくても
頭の方が考えるのを拒否すると来ているので、
他の方法で補うしかありません。

 

今までよりも意識的に、
かつ見落としが無いように、
身体を細かく観察しながら施術を行い、

 

そこから得た情報を元に
頭の中の計算機で一生懸命演算をして、
クライアントさんの身体に何が起きているか、
その答えを弾き出します。

 

我ながら、ガンバッタナァァ〜( ;∀;)

 

それに比べると、
頭がしっかり巡っていた時には、

 

身体の色んな部位で生じている
緊張や歪み、クセや症状が、
互いにどんな風につながりあっているかを
自ずと把握している実感がありました。

 

「自ずと把握している」
と感じられるのは、

 

自分の身体を通して
相手の身体の状態を感覚的に理解していて、
それが思考による理解と自然に合致する時です。

 

そうした状態にある時には、
施術を行っている最中にピカッと
閃きのように理解が生じることが多く、
無理に考えて答えを捻り出す必要は
ありませんでした。

 

…こうやって書いてみて気付くのは、
思考できないと感じていた時でも、
情報を集め、それをまとめることは出来た、
と言う事です。
本を読んだりするのも、
読むだけなら苦痛ではありませんでした。

 

一方で、思考出来ていた時に
「思考」だと感じていたものは、
集めた情報を一段違ったものへと展開させるような、
一種の「飛躍」を含んだものだと言えそうです。

 

 

 

 

少し話は変わりますが、
「思考場」という概念を
聞いたことがあるでしょうか?

 

そう質問している私も、
どこで学んだ言葉だか忘れてしまったので、
ウロ覚え、かつ自分なりの理解ですけれど…(;^ω^)

 

誰かとコミュニケーションをする際、
私とあなたの思考の間には、
共有する「場」が生じます。

 

その共有する場の中から、
私たちは無意識かつ自動的に
お互いの情報を得て、対話を行う。
そういう情報の保存された場を、
思考場と表現するようです。

 

例えば、
この人と話をしていると
すごくスムーズに話が出来るとか、
いつもより思考のまとまりが良い!
と言う事や

 

逆に、 この人の時にはどうも、
考えがごちゃごちゃして言葉が出にくくなったり、
自分でも何を言っているかわからなくなるなぁ~、
なんて感じること、ないでしょうか?

 

これは、私たちの意識していない所で
お互いがお互いの思考の場にアクセスして、
場の力を借りながら話している為だと考えると、
あ~なるほど~、と
すんなり理解できるのではないでしょうか。

 

 

 

思考が回転しない状態を、
意識的に体感したのは
初めてのことでした。

 

どんな体感だったかを 表現すると、

 

思考が巡っている通常の状態から
自分が抜け落ちた、と言う感じであり、

 

それこそ、いつも居た思考の場から
何らかの理由で意識が離脱してしまって、
そこへ自力で戻れない、
と言う感覚でもありました。

 

 

 

今までは、理解する事や考える事は
自力でやっていると思っていました。

 

視野が広がって、 徐々に多くのものを
理解できるようになることも、
自分の努力によるものだと。

 

それが、この時の感覚からすると、
考えることは自力ではないのかも知れない
と思えました。

 

思考の場の様な所に
無意識の内にアクセスしていることで、
思考の方が私たちの中に
生起してくるのではないか、と。

 

そう考えると、
思考力や理解力を磨く努力は
考える力を生み出すためではなく、

 

自分の求める情報が存在している「場」に、
的確にアクセスする道を
自分で少しずつ切り拓いて行く、
そんな作業なのかも知れませんね。

 

 

思考する感覚

 

またある時には、
こんな面白い感覚を経験しました。

 

物事を考え始めると、
頭の中の一点に向けて
何かが集まって来る気配が生じるのです。

 

ところが、
もう少しでそれが一点に凝集する
その肝心な瞬間の手前まで来て、
気配はしゅんと煙のように消えてしまいました。
考えていた事も、一緒に散ってしまいました。

 

考えるためには、脳の機能が
考えるテーマに向かって焦点化すると共に、
脳自体にも物理的な力の凝集が生じることが
必要なんですね。

 

一生懸命に何かを考えようとする時、
ついつい眉間に縦ジワを寄せたり、
頭を前に少し傾けて額に重さを集めたり、
その額を指で支えたりすることが
あると思います。

 

あれは、脳の中で
一点への集中が滞りなく生じるように、
身体が手助けをしてくれているのかも知れません。

 

 

 

思考停止の背後で。

 

それにしても、一体どんな理由で
今までの様に考えることが
難しくなっているのだろう?

DSC_0002_26

 

自分の身に起きた異変は、
身体や心、意識の仕組みを知るには
またとない機会。
自分に何が起きているのか、
色んな方面から見直してみました。

 

すると、この期間、
暇さえあれば熱中して
やっている事があると気付きました。
縫い物です。

 

まずは、
作ったものをお披露目~(#^.^#)

 

これは、
施術衣として使うブラウス。

hand made blouse

 

こちらは、
裏地を付けはじめたものの、
難しさに嫌気がさして
去年から作業を中断していたコート。

hand made coat-1

 

2年越しで、やっとのこと
完成を迎えようとしています~!
…ボタンホールを作る、
手強い作業が残ってマスガ(^▽^;)

 

 

 

縫い物は、一枚の布から
形あるものを作って行きます。
二次元的なものから、
三次元のものを作り出します。

 

また、同じ型紙を使っても、
使用する布の風合いや
縫う作業の丁寧さによって、
出来上がりの印象が変わります。

 

手縫いだけでなく
ミシンという器械を使っても、
針目には今の自分の状態が映し出されます。

 

縫い上がったものは
自分の在り方を表現した作品とも言え、
様々な意味で創造力を必要とする作業です。

 

 

 

縫い物→創造性と来て 、
次に連想したのは
「第1チャクラ」です。

 

チャクラとは、
身体に7つ存在する
エネルギーの中枢とされますが、
単に概念だけのものではありません。

Sapta_Chakra,_1899 PublicDomain-1

 

各チャクラには、
脊髄神経の神経叢や
内分泌腺との対応関係があり、

 

人によっては
チャクラが位置するとされる場所に
螺旋の流れを体感する事もある、
エネルギー的な構造体です。

 

第1チャクラは
生殖腺と対応しています。
女性なら、子宮と卵巣です。
7つのチャクラの中では最も下に位置し、
私たちの生命力を支える土台でもあります。

 

生殖器は、
新しい生命を生み出す力を持ちます。
第1チャクラが帯びる力は、
新しいものを創出する創造力です。

 

 

 

あ~、そう言えば…。
11月に、腹腔と子宮の状態に
大きな変化があったんだった。
やっと思い出した~!

 

それがきっと、
思考が停止したことと
何か関係しているに違いない!

DSC_0002_10

 

 

幼少時からの歪みが…?

 

私は普段、
クライアントさんに行う施術を用いて、
自分にもメンテナンスをしています。

 

11月の初め頃、
そのメンテナンスの最中に
腹腔内が大きく変化しました。

 

腹腔には、腹膜腔後壁、
もしくは後腹壁と呼ばれ、
お腹の中の空間を前後に隔てている
膜があります。

 

この膜が非常に重要なので、
少し詳しく説明しますね。

 

後腹壁には、
大腸や小腸が緩やかながら
固定されています。
どのような構造かと言うと…

 

まず、一枚の布に、
ひだのたっぷりあるドレープを
縫い付けてあるとします。
そのドレープの端には縁取りがしてあります。

 

布が後腹壁、ドレープが腸間膜、
縁取りは、小腸や結腸(大腸)の管です。
ドレープを縫い付けてある部分は、
下図の中で 「腸間膜(根)」と
記載されている所です。

後腹壁ープロメテウス-4

 

布を縦に広げると、
縁取りしたドレープの重さで布は引っ張られ、
よじれが生じます。
ひだは潰れてしまいます。

 

この時、布の張りが
ドレープの重さに耐えられる位強ければ、
ドレープは美しく整い、かつ
ふんわりと余裕のある形状になります。

 

これは、後腹壁や腸に置き換えても、
同じ事が言えます。

 

小腸の長さは、弛緩時で
(解剖下で計測して)6~7メートル、
生体内で筋肉が活動している時でも、
2~3メートルあります。

 

これだけの長い物体がお互いにからまらず、
ある程度安定して納まっていられるのは、
後腹壁によるしっかりとした裏支えがある為
と言えます。

 

後腹壁はまた、その最下部では
子宮と直腸・肛門とを隔てています。
先ほどの図では「直腸膀胱窩」と書いてありますが、
女性の場合は「直腸子宮窩」と呼ばれます。

 

これもまた、子宮や直腸にとっては
後腹壁が位置の安定性を与えてくれる
支えの一つとして機能していることを
示しています。

 

身体構造にとって、
後腹壁がとても重要な役割を
担っている事が分かります。

 

 

 

メンテナンスの中で起きた変化とは、
その後腹壁の右側半分で
すぅ~っと膜が上下に伸び広がり、
それが同時に引き締まって強さを回復して行く、
というものでした。

 

例えるなら、
たるんでいた船の帆が、
ぴんと張り直された様な感じです。

 

後腹壁だと判断したのは、
変化する感覚が生じた位置と(深さ)と
広がりの大きさ、
腹腔内の冠状面で生じている
という特徴からでした。

冠状面 矢状面  Human_anatomy_planes-JA CC3_0

 

少し前の所で、
一枚の布とドレープを例に説明しましたが、

 

私のお腹の中でも、
今までは後腹壁がたるんでおり、
腸が腹腔内で潰れている
とまではいかないまでも、
腸にとって快適な状態ではなかったことが
想像できます。

 

また、後腹壁が
上下に伸び広がるように変化した点から、
今まで腹腔の右側には、
上下方向から圧縮が加わったように
ぎゅっと詰まった状態があったことも 分かります。

 

小さい頃、
私は大型の遊具から落ちて
背部を地面に打ちつけたことがありました。

 

その時に取っていた
右足を胸に軽く引き寄せ、
上半身を右に捻った姿勢が、
腹腔の右側に圧縮を作った
原因として思い当たります。

 

 

 

後腹壁の変化が、
次の変化への準備となったのでしょう。
翌日のメンテナンスでは
子宮と卵巣に変化が生じました。

 

まず子宮の右壁から右の卵巣にかけて
緊張が緩み始め、
しばらくして何かがす~っと
下に下がるような感覚が生じました。

 

この感覚から、今までは
子宮の右壁から右卵巣にかけて、
それらを上に引き上げるような
緊張があったことが分かりました。

 

子宮や右卵巣にしてみれば、
これまでずっと
引きつれた様な感覚の中にいたのを
想像することが出来ます。

 

でもこれで本当に、
子宮は、引きつれた不快感から
解放されたのでしょうか?

 

 

子宮の変化

 

まもなくして生理がやって来ると、
確かに子宮に変化が起きていたことが
分かりました。

 

前の月までは、経血は
暗赤色をした何かの残渣物といった感じで、
生命感が乏しい状態でした。
それが今は驚くほど鮮やかな赤色で、
水のようにサラッとしています。

 

そうか、経血は血液なんだ~!と
この歳になって恥ずかしながら…、
初めて実感!ヽ(^。^)ノ

 

私は小さい頃からお腹が弱く、
経血にも比較的早い内から
半流動的な塊が混ざっていたように
記憶しています。

 

今考えれば、恐らくは
背中を強打した影響によって、
後腹壁がよれ、
腹腔内の臓器が不安定な状態を
小さい頃から抱えていたのだと思います。

 

それがウン十年経って
急に健康な経血に変化したのですから、
おぉ~っ!?凄い!
となりますよね(^o^)

 

この変化は、私だけでなく
身体自体にとっても驚きだったはずです。

 

子宮にしてみれば、 今までは
持ってる力の3割ほどしか使えず、
常に徐行運転でいたのが、
急に全力を使えるようになったから、
高速走行しましょう!と
ムチャ振りをされた様な感じかも知れません 。

 

子宮は第1チャクラと繋がっていますから、
生命力そのものでもあります。

 

子宮が元気を回復したなら、
身体全体で使えるエネルギーの量も、
以前より大きくなると思われます。

 

でも、慣れていない力と言うのは、
扱うのが難しいものです。
身体もそれに慣れるためには
時間が必要になります。

 

しかも、生命力を支える
根本的な部分の変化であれば、
身体全体のエネルギーバランスを
足元から組み直す必要があります。

 

身体の中では、思っている以上に
時間のかかる大変な作業が
進行していたのではないか。
それは、実感としてもそう思います。

 

第1チャクラは、創造力の源でもあります。
活動力の増した子宮=第1チャクラに
まずは慣れるために、
縫い物で試運転をしていたのではないか、
と思うのです。

 

子宮は、ゆっくりとした
自然のリズムの中にあって、
「今」という時と共にいます。

 

一方の脳は、
過去へも未来へも自在で行くことが出来、
早い流れの中にあります。 そしてまた、
エネルギーの消費量も大きい…。

 

自然としての身体にとっては、
身体を再編成する間は
自分たちのペースを守ることが必要です。

 

その間、かしましやの脳には
ちょっと(いや、強制的に)
活動を控えてもらう…。
と言う様なことが 起きていたのかも知れません。

 

 

 

私たちは時に、自分が
自分でもよくわからない状況に陥っている
と気づくことがあります。

 

自分でも理由は分からないけど、
妙に何かが気になってそこに囚われたり、
あるいは熱中してしまったり、

 

逆に、いつも出来ていたのに
やりたくないと感じる様な事は、
きっと誰にでもあると思います。

 

そうした、自然発生的に生じる状態は、
意識下からの身体の働きかけによるものであり、
その背後にはそれが生じる理由や意味があります。

 

身体は、いつでも私たちの味方です。
私たちの知らない所で、
良い方向へ変化して行けるように、
自分への理解を深められる様にと、
いつも協力してくれています。

 

時にはそれが、思考停止や痛みなどの
嬉しくない現れ方をするので、
協力してくれている事に
私たちが気付かない場合も多いのですが(^▽^;) 、
そこには必ず、それが生じる意味があるのです。

 

 

結びにかえて~感覚との付き合い方

 

ここまで読んで頂いて、もしかすると
感覚ってそんなに信頼できるものなの?
と思われた方もいるかも知れないなぁ、
と思います。

 

感覚は、必然性を持って
自分の内側に生起してくるものです。
自分の意識によって、
恣意的に作り出しているものとは違います。

 

感覚的な情報を扱う上で
問題が生じるとすれば、それは、
感覚に対して解釈を加える際に起こります。

 

私たちは、自分が普段見ているものや
既に知っているものの中に、
起きてきた感覚を当てはめて
理解しようとしがちです。

 

感覚はおのずと生じるものです。
外部からの刺激や、内部での何らかの変化が、
感覚と言う形で意識にのぼって来ます。

 

感覚が何を表しているのか、
私たちに何を伝えようとしているのか。

 

それは、既存の、
形の決まっている考えに
力づくで当てはめようとすると、
その途端に見えなくなってしまうものです。

 

感覚を通して立ち現れてくるものを、
内側から自由に羽ばたかせる事、
その内なる意味が自ずと形を成すのを、
じっと見守ること。

 

これが感覚と付き合う上で
とても大切な姿勢だと、
私は考えています。

 

 

 

年末の慌ただしさを越えると、
新しい年は ゆったり流れる
穏やかな空気で始まります。

 

そんなゆっくりした時間の中で、
身体に静かに意識を向けると言う時間を、
ぜひ持って頂けたらいいなぁと思います。

 

整体院に足を運んで下さっている
クライアントの皆さん、
文章の長さにめげずに
ここまでブログを読んで下さった皆さん、

 

今年も一年、
心から ありがとうございました。
そしてどうぞ、
良いお年をお迎えくださいね~!

DSC_0002_27

 

 

 

幽玄の笛の音~10月の営業のお知らせ

 

 

 

またまた前回の投稿から、
一カ月が経ちました~!(^▽^;)
9月も、今日で最終日になっちゃいましたね~!

 

実は、馬と仕事をしていた時の話を
今回のブログ記事として書いているんですが、
今日中にはとても書き終わりそうもなく…(^▽^;)

 

9月はまだ記事をアップしていない状態なので、
急遽、本編に先行して
来月の営業の予定をアップしたいと思います。

 

と、その前に少し別のお話を。

 

この間の9月最後の週末は、
谷保天満宮のお祭りでした。
大学通りには屋台がずらりと立ち並び、
外からは太鼓の音が聞こえていました。

 

夕方、外に用足しに出たら、
山車と言うのか祭屋台と言うのか、
駅前でちょうどお囃子と舞いを披露していましたよ!

 

20150927-maturiyatai-2

 

何とも言えず、懐かしい空気。
日本の文化ってやっぱり良いなぁ、なんて
一人でニヤニヤしちゃったりして。

 

なぜニヤニヤかって?
いえね、タイムリーだったんです。
大きな声ではとても言えないんですけど、
(ひそひそ)実は今、能管の練習を日々行っていまして…。

 

 

総合芸術としての能楽

 

能管と言うのは、 お能の舞囃子で用いる笛です。

 

もうねぇ、吹いてます、なんて
とても言えない位 わずかな経験なので、
本当はこんな話を書く予定じゃなかったんですけど(;^ω^)

 

30代の始め頃、少しだけ謡を学んでいた事がありました。
勤めていた山梨の牧場から実家に戻り、
整体などの勉強を始めていた頃だったと思います。

 

牧場では流鏑馬をやったり、
馬上で長刀を使って演舞したりした時もあったので、
日本の伝統的な文化には興味が向きやすい環境でした。

 

実家に戻って来て、そうしたものと
触れ合う機会がなくなったことを寂しく感じ、

 

武家の文化の中でも最も理解しにくく思えるけれど
その簡素化された動作に見える様式美に惹かれていたこともあって、
(興味を持つ所は、ものが何であれ
やはり身体の動きとその美しさなんです。)
仕舞を学びたいと思ったんですね。

 

ところが、能は総合芸術で、
その基本は「謡」だと言われました。
謡が出来ないと、舞う事もできないと。

 

と言う訳で、まずは謡曲からはじめて、
…で、やがて、どういう訳か仕舞ではなくて
太鼓や笛の練習も少しさせてもらうようになったんですね。

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笛を一曲吹けるようになって間もなく、
独立して仕事をし始めたのをきっかけに、
謡も能管も、お稽古はやめてしまいました。

 

それから8年ぶりになる今年の春の事。
当時お世話になっていた先生から
秋の市民文化祭で笛を吹かない~?
という電話を受けました。

 

いつも笛を吹いている先生が仕舞を舞いたいので、
笛を吹く人を探しているとの事でした。

 

長い年月の間、 ほぼ全く吹いていなかった笛を
急遽練習する事になりました。

 

全く吹けなかったら
丁重にお断りしようと考えていたのですが、
記憶の良い内に身体で覚えた事は、
ちゃんと覚えてるんですよね~。

 

吹きはじめたら、指が勝手に動きました。
秋までなら、何とかなるかも知れないと
お引き受けする事にしました。

 

 

プロは空気を作る

 

さて。 実は本番はもうすぐ。
それに先駆けて、先日、
みんなで揃って合せ稽古をしました。

 

能の囃子は四拍子(しびょうし)と言って、
太鼓(二本の撥で打つ)、小鼓、大鼓(おおかわ)、能管の
4種類の楽器を用います。

 

大鼓は、本職の能楽師の囃子方の先生で、
その日はその先生が稽古もつけて下さいました。

 

大鼓は、それこそ大振りの鼓なんですが、
練習の時には楽器は持たず、
文机を扇で叩きながら拍を打つんですね。
ところが、その文机を打つ音が非常~にデカくて
鋭いんです。

 

こちらは別に怒られてないんですけど、
何となく怒られた気分になっちゃうくらい、
迷いなく鋭い。

 

この音で、稽古に参加していたみんなの
気持ちと集中力が一気に高まって、
稽古場の空気が一変したのが印象的でした。

 

そうなんです。
真剣な稽古場の空気って
どこか神社に似ている感じがあって、

 

ピーンと張りつめた
一線が通っている感じと言おうか、
おふざけなんかとても場違いで出来ない、
そういう神聖な空気感があるんですよね。

 

伝統文化に限らず、
本格的なお稽古の場を味わうのは久しぶりだったので、
本物の文化の担い手が持っている空気感や、
そうした人が持つ「場の空気」を確実に変える力に、
これがプロなのだなとハッとさせられました。

 

 

日常を裂き、異界を開く

 

詳細を書くとエラク長くなるので省きますが、
この稽古によって、
笛をもっと早く吹かなきゃいけなかったのが
判明しました。

 

イメージ的には2倍速。
肝心の笛からは音が出ずに、
私がヒーヒー言ってました(;・∀・)

 

これはマズい!と、やっとこさ自覚したので、
そこからは毎日、笛を吹いてます。

 

一度、自分の音を録ってみました。
そうしたら、笛の音がヒヨヒヨしていて、
頼りないし芯がない。
聞いている人達に 「大丈夫かな~」と
心配されそうな音です。

 

プロの演奏をネットで探して聞いてみると、
当たり前と言えば当たり前なのですが、
お能の笛は、お能らしい音をしています。

 

節回し、音の勢い、音の帯びる情感。
和笛には、能管の他にも篠笛や
雅楽で用いる竜笛がありますが、

 

和笛はこういう音だと思わせる
特徴的で共通したニュアンスがあるのだなと、
その時気づきました。

 

一方で、私の音は平板で表情がありません。
音は出るけれど、曲になっていない。

 

曲は、一つ一つの「音を紡ぐ」ことで生まれるわけで、
音を拾う事に一生懸命の内は、曲にはならないんですね。
そう気づきはしたものの、
具体的にどうしたら良いかが分からない。

 

限られた短い時間の中で情報を調べて、
音の聞き比べをした結果、息の強さが違う事と、
一音一音にゆらぎ(ビブラートのような)があって、
それが音に豊かな色彩を与えていると 分かりました。

 

 

お能の場合は、
登場する主人公は鬼神や亡者の魂です。
超自然的な存在がこの世に姿を現す、
そのきっかけを作るのが能管の音の役割のようなんですね。

 

能管には、管の内側に「のど」と呼ばれる構造があり、
空気をわざと対流させて
音が出にくい形に作られています。

 

それが、素人に取っては吹くのを困難にさせている反面、
その音色に独特の鋭さを与えています。

 

本来はここにないはずの存在が
この世に顕在化することを可能にする特殊な場。
日常を切り裂き、その「場」を生み出すのが、
音の出にくい能管から生み出される音。

 

雷

 

能舞台の主人公たちも能管も、
両者ともパラドックスな存在です。
何とも、象徴的に繋がっている様な気がします。

 

うむ~、なるほど~。
こんなにも重要な意味合いがあったんだなぁと、
自分で書きながら改めて気づいてみたりして(*’▽’)

 

それでもって、
笛を吹く責任の重大さにも
気付いてしまったぁぁ…。

 

 

とは言え、もう日にちはありません。
音のゆらぎに関しては短時間ではどうにもならないので、
息の強さだけは何とかしたいところです。

 

今必要なのは、笛を吹き続けるのに必要な筋肉と、
間違えても動じることなく先へ進む度胸とをつける、
実戦向きの練習です。

 

自分の笛のかすれた音を聞いていると
気持ちの面で苦しくなって来て
吹き続けるのが難しくなります。

 

そこで、同じ曲目の演奏をネットで探しました。
それに合わせて休まず吹き続けることで、
曲の速さへの適応と、
吹き続ける筋力・耐久力とをつける作戦を立てました。
そして、現在も遂行中~(^▽^;)

 

ちなみに、とにかく吹き続ける事で、
間違えた時だって平気の平左、
冷静に素早く曲に戻れるようになりましたよ!

 

さてさて、
本番の日取りはナイショではありますが(;^ω^)
このにわか仕込みの作戦が功を奏すことを、
どうか皆さんも祈っていてくださいね~!

 

 

10月のお知らせ

 

ちょびっとのつもりが、
またしても、長~い前置きになりました!

DSC_0002_25

10月の営業のお知らせをお伝えいたします!

 

臨時のお休み:10月12日(月)

定休日 : 毎週水・日

営業時間 : 11時~20時(施術の最終受付は17:30)

 

9月末から、急に気温が下がると共に
空気の乾燥も強くなって来ました。

 

あっという間に、
手がカサカサする感じや、
足先が冷えやすい感じが出て来始めました。

 

こういう時期には、特に
ノドの乾燥に要注意ですよね。

風邪を引きやすくなるので、
外出時にはのど飴やマスクを持ち歩くことを
お勧めします!ヽ(^。^)ノ

 

今日の日本では、残念ながら
周りの人への気配りのない方も見受けられます。

電車の中でも人へ向けて
平気でクシャミをする方もいたりするので、
困ったものだなと思います。
(正直を言えば、許せん!と思います(^▽^;))

 

自分が人へ感染させない気遣いと共に、
人から感染源をもらってしまわないように、
自分で出来る最小限の防衛は
心がけたいですよね!

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「揺らぎ」から、一瞬を切り取る。

知人に、プロのカメラマンではないけれども、

とても印象的で美しい写真を撮る人がいます。

この記事の冒頭のシャボン玉を吹く少女の写真

『野焼きの合間に』をはじめ、

文中に出て来る写真も、

今回掲載しているものはすべて、

彼女の珠玉の作品です。

デザイナーを本職とする彼女の作品は、

その対象が人物であっても風景であっても

それ自体とは違う何かを、観る側に語り掛けてきます。

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

沢山の人から彼女の写真に寄せられるSNSのコメントを見ていると、

そう感じているのは決して私だけではない様です。

ず~っと、

彼女の写真の帯びている不思議な空気や

語り掛ける力が一体どこから来ているのか、

私自身が写真の何を通してそう感じているのかを、

理解したいなぁと思っていました。

先日のこと。

それが、やっと分かりました。

そしてその分かったことが、

ここ数か月、私の意識の中で

印象的に引っかかっていた事とも

繋がっていたことに気付きました。

彼女は、写す対象が彼女に働きかけてくる「何か」を

敏感に感じ取ります。

そうした働き掛けを受け取ることが、

写真を撮るきっかけになっているとも言えます。

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi 

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi

私も含め、写真を撮る多くの人は、

自分が目にしているものそのものを写そうとすると思います。

彼女の場合は、

「働きかけられる私」の存在が、写真の中に息づいているのです。

写す行為を通して記録されるものは、彼女自身の世界であり、

心象風景なのだと思います。

この記事へ彼女の作品を転載したい

という旨のご連絡を差し上げた時に、

彼女はこんな風な表現をしていました。

「『まばゆい何か』が気になって仕方が無くて、

写真を撮っています。」と。

写真を観た人は、彼女の観る世界の中に入り込み、

彼女の「視点」にスッと重なる体験をします。

例えば、この写真のように。

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

ああぁ、おいしそうだ…。

美味しそう過ぎて、もう、切ないくらい。

観ているこっちまで、

口の中が酸っぱくなって来ます。

つまり、普段の自分とは異なる視野で

ものを見、感じる経験を

写真を通して実際にしているのだと思うのです。

単に写真を見ていると思っている私たちは、

写真を見る瞬間に「異なる視野の中に入る」という自覚を

持つことは、通常ありませんよね。

その為、何とも言えない不思議な気持ちになるわけです。

こうした感覚を体験させてくれる作品と言うのは、

そう沢山はないだろうと思います。

こうしたことを可能にしているのは、彼女が

現実世界を切り取る彼女らしい「平面」を

鮮明に持っている為だろうと思います。

この、現実世界をどういう平面で切り取るか、

その切り取り方が安定的で鮮明であるかどうかが、

その人がプロと名乗っているかどうかに関わらず、

「本物」と「素人」の仕事を分けているのかも知れません。

私たちが目にしているこの世界は、

常に揺らぎ続けています。

これは刻一刻と情勢が変化して行く様な

社会的な側面について言っているのではなく、

私たち人間を含む全ての存在が、

波として動き続ける粒子から成っていることを

念頭に置いています。

分子生物学者の福岡伸一氏は、

著書『動的平衡』の中でこう述べています。

(『動的平衡』p231)

「個体は、感覚としては

外界と隔てられた実体として存在するように思える。

しかし、ミクロのレベルでは、

たまたまそこに密度が高まっている

分子のゆるい「淀み」でしかないのである。」

波打ち、流れ続ける分子の海、

その中に出来た「淀み」が、

三次元の肉体を持つ私たちという存在。

存在は粒子から成るものだけれど、

そこに時間の概念を加えた時に

粒子は波としての性質を現します。

そして、それぞれの存在、

例えば臓器の一つ一つにも、

それ固有の波の大きさやリズムがあり、

様々な波の入り混じった複雑な倍音の総体として、

私たち一人一人は存在しています。

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

少し話が脱線気味になって来ましたが、(;^ω^)

人間に限らず、この世界を彩る全ての存在は、

常に揺らぎ続ける流動体なのです。

これを私の専門である身体に引きつけて考えるなら、

身体もまた、変化し続けることが常です。

留まり、固定化することはもちろん、

それが固定化することを私たちが望むことさえ、

例えそれが理想的な状態に思えるものであったとしても

身体の本質に添った在り方ではないのです。

自然も、建物も、生命も。

私たちが目にする対象の全ても、

それを観る私たちの目も。

揺らぐ目が、

揺らいでいる道具を使って

揺らぎの中にある対象の姿を切り取る。

自分の内なる心象風景を

カメラを用いて瞬間の中に切り取るという事は、

いわば、

揺らぎの合間のわずかな瞬間にのみ生じる

全てが符合するまばゆい閃き、それを捉える、

非常に繊細な「チューニング」のような作業だと

言えるかも知れません。

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi

龍神さまの思いやり

 

今回は、20代の頃に出会った

ちょっと面白い体験のお話を。

 

 

 

もう、何年も前の事。

友人と伊勢詣りに行きました。

 

当時はまだ、

山梨の牧場に住み込みで勤務していた頃。

一番近くのコンビニだって

車で5分と言う距離でしたから、

どこへ行くにも、足はとにかく車でした。

 

今は体力的にも根気からしても無理ですが、

あの頃は3時間程度なら

一人で平気で運転しましたし、

10時間の距離だって

交替できる人がいれば楽勝でした。

 

という訳で、

10時間程度の距離の伊勢にも、

もちろん車で行きました。

 

 

倭姫宮へ

 

お伊勢さまは

離れた場所に点在する小さなお宮を

沢山抱えています。

そのどの辺りを

どんなスケジュールで回ったのか、

もう遠い出来事なので忘れましたが、

 

最後の最後に行ったのが、

ヤマトトトヒモモソヒメの祀られた

倭姫宮でした。

 

図引用:三重県明和町HP<斎王<倭姫命 http://www.town.meiwa.mie.jp/romantic/saio/saio2.html

図引用:三重県明和町HP<斎王<倭姫命http://www.town.meiwa.mie.jp/romantic/saio/saio2.html

 

 

ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命。以下、倭姫)は

やたらとすごい伝承を色々持っているのですが、

簡単に要点を挙げてみますと、

 

ヤマト王権の開祖とされる崇神天皇の皇女で、

ヤマトタケルの叔母として草薙剣をタケルに与えており、

天皇家の守護である天照大御神と対立していた

大物主神と神婚をしています。

 

天照大御神が鎮座すべき場所を探す役目を任され、

伊勢の地を選定した才能ある巫女でもあります。

 

 

 

その倭姫が祀られた神社は、

高速のインターチェンジのすぐ近く。

 

せっかくだから

帰る道々に寄って行こうという話になりましたが、

立ち寄った頃にはすでに

黄昏時が迫っていました。

 

神社の入口横の駐車スペースに車を止め、

鳥居をくぐります。

 

画像参照:神宮巡々2 http://www2.jingu125.info/2014/12/14/20141214_13373420183/

画像参照:神宮巡々2 http://www2.jingu125.info/2014/12/14/20141214_13373420183/

 

 

黄昏の境内

 

原始林をそのまま保存しているせいなのか、

薄暗がりの境内は妙に鬱蒼として見えました。

 

参道には、灯篭がありません。

どこまで続くか分からない参道を

灯りもないままに歩いて行くのはちょっと…、

この時、お互いに無言ながら感じていたようです。

 

今考えると、この時

林の持つ存在感とそこに息づく気配に

気圧されていたのかも知れません。

 

「参道は長そうだし、

あんまり遅くなっちゃうと東京まで帰るの大変だから、

ここで失礼して行こうか~?」

 

「うん、途中まで来てごめんなさいだけど、

ここで失礼して帰ろう。」

 

ちょうど参道がL字型に折れ曲がる所だったので、

そこで二人並んで深々と頭を下げ、

「ここで失礼いたします。」と一言断ると、

そのまま入口の方へと踵を返しました。

 

傾きかけた太陽の弱々しい光は

林の奥までは届かず、

かえって樹々の影を深く見せていました。

 

 

後ろの気配は…

 

しばらく歩いていると、

背後にはっきりと

違和感を感じ始めました。

 

後ろに、大きな塊がいます。

私の頭よりも高い位置に居て、

後ろには5メートルほどの距離でしょうか。

 

どっしりとしたものが浮かんでいて、

一定の距離を保ちながら私たちに付いて来るのを、

はっきりとした体感として感じました。

 

参道の幅からはみ出すほどではないですが、

かなりの大きさがあります。

そして、相当に重量があるのも感じられました。

 

 

 

…なんじゃこれ?

感じてるのは私だけ?

 

右を歩いていた友人をそっと横目で見遣ると、

薄暗がりでもはっきり分かるくらいに青ざめており、

少しうつむき加減になった首が

カチンと固まっている様子が分かりました。

 

ははぁ、

同じものを感じているらしい。

 

 

 

当時働いていた牧場は

富士の樹海の一角にありました。

 

樹海で強烈な気配に出会ってヤバイと感じ

気合で追い返したという話や、

夜中に目が覚めたら目の前に巨大な目玉があった、

なんて話を日頃から聞いていた事もあったのか、

(私自身は、その手の体験は悲しい位にサッパリでしたが。)

 

自分の後ろにいる大きな気配にも

この時あまり怖さは感じていませんでした。

友人と一緒と言うのも、心強く感じていました。

 

そして、後ろからついて来る

得体の知れない存在と、

横で青ざめている友人と。

そんな状況なのに、

なぜだか分からないけど面白い感じがして、

私の頬は弛みかけました。

 

 

一方の友人は、今までに

霊的な体験で何度か怖い思いをしていました。

体験者の彼女が青ざめているのだから、

これはマズイのかも知れない。

後ろを振り向かずに進んで

とりあえず鳥居をくぐった方が良いのかもと思いました。

 

二人して一言も発することなく、

足早に鳥居をくぐりました。

 

そこまで来ると、

気配は消えてしまいました。

 

 

 

鳥居の外で再びお辞儀をして、

車に乗り込みました。

 

「感じた?」

 

「うん、怖かった~!

ちゃんとお詣りしなかったから、

怒られちゃったのかな?」

 

「そうだよね~、

引き返しちゃったもんね。」

 

この時の出来事は

お互いの中に鮮明な記憶として残りました。

 

友人は数年後、

「ごめんなさい」の気持ちを伝えに

改めてお詣りに行ったそうです。

 

一人で抜け駆け、ずる~い!

と文句を言ったのは、ご想像の通り(*^^)

 

 

意外な真相

 

ある時、

高野山の僧侶の方と

お話をする機会がありました。

 

霊視の能力がある方で、

お話を色々と聴かせて頂いていたのですが、

ふと倭姫宮での出来事を思い出しました。

 

あの気配は何だったんでしょう?

失礼な事をしてしまったんでしょうか?

と聞くと、

わずかに私の背後の空間を見つめ、

 

「あ~(笑)

それはね、龍が見送りに来てくれたんだよ。

ここまでご苦労様だったね、

気を付けて帰ってねって。」

 

「え~!そうなんですか!?

(って言うか、そんなことあるの!?)」

 

「怖くなかったでしょ?」

 

「はぁ~、確かに…。」

 

 

わ~、龍が見送ってくれたの!?( ;∀;)

何てアリガタイ…。

あの頃は友人も私も

馬とどっぷり一緒に生活していたから、

親近感を持ってくれたのかしらん?

しかも和種馬だったし。

(馬は、龍の化身とも言われます。)

ウルッと込み上げて来るものが…。

 

それはまぁともかく、

龍だったかどうかの真偽は一度置いて、

当時の記憶を検証してみましょう。

 

思い返してみると、

気配は大きかったし重量もあったけど、

こちらを押すようなことは

決してありませんでした。

 

と言う事は、

こちらの小さな歩幅に合わせて

一定の距離を保ちながら、

巨体をゆっくりゆっくり進めて

付いて来た、ということになります。

 

かなりの重量感でしたから、

少しでもあちらのペースが早ければ、

後ろから「追いかけられている」とか

「押されている」と感じたはずです。

 

これには、

こちらへの怒りどころか、

思いやりすら感じられるではありませんか。

 

私たちが鳥居をくぐり

お宮の境界の外へ出たのと共に

気配が消えたことも、

見送ってくれる為だったのなら合点が行きます。

 

あの時に、何となく

面白いような可笑しいような感じがしたのは、

相手の中に悪意がないことを

無意識に感じ取っていたからかも知れません。

 

 

 

幅のある巨体でしたが、

長さがあったかどうかは分かりません。

ですが重力に反して安定して浮いていましたし、

検証を総合してみて僧侶のお話は信頼できそうなので

龍だったと受け止めました。

 

さて、この龍神さま。

なぜに倭姫宮に?

倭姫とは一体どんな関係が?

調べてみました。

 

倭姫が天照大御神の遷宮場所を決めるために

方々を行脚している間、ずっと

守護として付き添っていた龍がいたとか。

 

その時と同一の個体かは分からないけれど、

倭姫宮に関する他の方のブログ記事なんかをみると、

龍が写真に写っちゃったりもしてるようで。

(下の画像の出展は、

http://wajo.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/1_d75b.html。

左の光の中に、龍らしき顔が見えますよね。)

画像参照:http://wajo.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/1_d75b.html

画像参照:http://wajo.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/1_d75b.html

 

気を付けてね、って

見送りもしてくれたりする訳ですし。

意外と、ホイホイ色んな所に顔を出すのが好きだったりして?

う~ん、アリガタミが… (;・∀・)

 

…もしや、こんな感じか?

画像参照:http://www.yoshie.bz/sampl/animaru/tatu/05/06/01.png

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少なくとも、人間が大好きであることは

間違いないかも知れませんねぇ。

 

 

 

存在の仕方が違う何者か(異次元の存在と言いますか)に出会うと

未知ゆえに怖いと感じるのは

当たり前のことだと思います。

ですが、本当にマズイ相手なのかどうかは、

冷静に自分の内的に目を向けてみると

きっと分かるものなんだろうと思います。

 

相手が自分にどんな働きかけをしようとしているか、

それを余裕を持って感じ取れている場合には、

そのこと自体が

相手が善意の存在だという証拠かも知れませんよね。

(本当にマズイ場合は、そんな余裕はないでしょうから。)

 

どんな時でも、

自分の内側の感覚をまず信頼したい。

これは私の施術の姿勢でもあるんですが、

思い返せば、

背後の大きな気配を何となく面白く感じたこの体験も、

自分の感覚を心底信頼できる様になる

きっかけの一つだったんだなぁと思います。

 

 

 

 

ボルネオ報告③(全4編): 食物は光を持っている。

ボルネオに行ったのも

もう2ヵ月前のことになりました。

つくづく、時間の過ぎる感覚は

東京にいると速いなぁと感じます。

 

日々、これをやらないとあれを終わらせないと、と

常に視線は遠くの前方を見て

やるべきことを鵜の目鷹の目で探す傾向にあるようで、

 

今この時に、

自分の感じている事や気になっている事に対して

十分に意識をとどめておくだけの余裕を持つことを

社会の流れが許容しにくいからなのかな、

と思ったりもします。

 

さてさて、ボルネオに話を移しましょう!DSC_0002_30

 

熱帯性気候のマレーシアは、

何と言っても植物の元気さが日本とは違いました。

市場で売られている葉物野菜はバカでかいですし、

見たことも無い種類の果物も、実に豊富にありました。

 

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左の写真はスネークフルーツ、右はタラップ。

次の記事で、植物や果物の詳細をご紹介する予定ですので、

しばしお待ちくださいね!

 

 

そう言えば、こんなことを教えてくれた人がいました。

熱帯地方では、歩いていれば

どこかしらで食べられる物が生っているから、

あまり頑張って働こうという気にならないらしいよ!と。

…なるほど、それはそうかも知れないですねぇ(^▽^;)

 

 

そうそう!

食べ物は全般的に美味しかったですよ~!

 

料理は辛いし酸っぱいしで、味がはっきりしていて、

飲み物は概して甘すぎるくらい甘いんですけど、

味のバランスが取れているんですよね。

日本人の舌には馴染みやすいと思いました。

 

それに、とにかく安い!

 

大きなショッピングモールの中にはフードコートもあって、

マレーシアの人達が普通に食べる一般的な料理を食べられます。

ランチの時間には、地元の人達も大勢食べに来ています。

 

白いご飯の入った発泡スチロールの容器に、

好きなおかずを選んで自分で盛りつけて、

それをテイクアウトできたりもします。

 

おかずは量ではなくて品数で値段が決まる形式なので、

3品選んで、ご飯におかずの汁をたっぷりかけて行っても

レジで払うのはわずか5リンギット(約170円)!

感動的な安さなのに、どれもハズレなしの美味しさ!

 

他にも、海の近くには屋台街があって、

エビやら魚やらが山の様に積まれています。

食べたいものと調理法を選んでオーダーすると、

その場で大皿の料理を作ってくれます。

 

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これは伊勢海老みたいなものだったかな?

見た目の鮮やかさで食欲が盛り上がって、

非常に美味しかったのです~!

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数あるレストランの中には

東京と同じ相場のところもありましたけど、

何と言っても日本と違うと感じたのは、

食材そのものの力強さでした。

だから、たとえ安いものであっても美味しいし、

食べると本当に満たされて、元気が湧いて来ます。

 

今までは、身体の状態が良ければ

食べ物の良し悪しははさほど問題ではない、

と思っていた所があったのですが(身体バカですね~(^▽^;))、

 

毎日食べている食材の力がこうも違うと、

根本的な「生きる力」の強さが

かなり変わって来るだろうと思います。

それは、何かを生み出したり、

想いを形にする事に情熱を注ぎ続けられる力でもあると思います。

そうした力を支える源の一つが、食事なのだと実感しました。

 

 

少し話は変わりますが、

滝を訪れた自然ツアーでは、

緑の木立が作り出す空気が本当に心地よかったのですが、

その空気を吸うことで

肺が柔らかくなったような感覚を感じました。

 

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美しいマフア滝。

流れの後ろ側に回って

滝を見上げることが出来る。

 

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私たちが日頃接触する環境によって

例えば、リラックスし易いとか、いつも緊張しているとか言った、

いわば身体が帯びているムードみたいなものが

無意識的に左右されているのだと気づかされた体験でした。

 

食べ物にしても空気にしても

生きる上で最も基本的な栄養素ですが、

私たちの心身の状態は

思いのほかこれらの要素によって

大きく規定されてしまうのだと言えそうです。

 

 

ボルネオでの豊かな食体験のお陰で、

「こんなに元気のない食材なのに、

こんなに高いなんて!」と

東京で外食をする度に理不尽さを感じては

ひとり憤慨しております(;^ω^)

 

食事は「元気」とか「活力」を得るために

摂るもののはずです。

だとしたら、食事に払う対価は当然

食事で得られる元気に比例していないとおかしい!

と思う訳なのです。

 

生きる事に最低限必要な「食べる」という事にさえ

こんなに費用がかかり、

しかもそれに見合ったエネルギーを持たない物を

食べることになっているだなんて。

 

日本は豊かな国だと言われていて、

私も以前は特に疑問も無く

そうなんだろうナと思っていたけれど、

一体豊かさとは何が基準なのかと

今は首を捻らずにはいられません。

 

 

憤慨しているだけでは成長しないので、

自分なりに出来る方法で、

食べ物に元気を取り戻してもらう方法を考えてみました!

 

ちょっとアヤシイ方法だなぁと

思う方もいらっしゃるかも知れませんが、

そのご意見もそれはそれで有りとしつつ、

ご紹介してみますねヽ(^。^)ノ

 

先日ある書籍を読んでいた時の事。

消化についての面白い一節を見つけました。

それは、

食物は光を持っていて、

真っ暗な消化管を通る時に

私たちはその食物の光を吸収する、

というものでした。

 

光とは、マナとか気とかエネルギーという様な概念に

置き換えられると思います。

消化管が真っ暗闇であることにも理由があったのかと、

妙に納得。

 

身体を物理的に構成する栄養素としてだけではなく、

食物が持つ光のエネルギーも

私たちは分け与えてもらってる事になります。

 

そう考えると、加工された食品よりは、

生に近いものの方が光を多く含んでいそうです。

 

ローフードやリビングフードには賛否両論ありますが、

良い面に関しては

食物の持っている生きた酵素をそのまま摂れるから

という理由をよく耳にします。

ですがもしかすると、食物の持っている光を

最大限吸収し易かったりするからかも知れませんよね。

 

一方で、生の野菜であれ果物であれ、

私たちの口に入るものの多くは

色んな薬剤をかけられて

育った地から遠く離れた所へ運ばれてきています。

 

彼らの身になって想像してみると…

店頭に並ぶ頃には頭は朦朧とし、

半ば冬眠した様な状態で、

自分がどこの誰だったのかも

分からなくなっている…かも知れません。

 

口に入れてしまう前に彼らの目を覚ませれば、

食材としての元気=光を取り戻せるのではないか、

なんていう発想が浮かびました。

 

で、実際に何をするかと言いますと。

いわば食材へのヒーリングです(*^^)

手で食材に触れながら、

彼らがまだ土に根を張っていた頃のイメージを

出来るだけ詳細に想像して伝えます。

 

土や空気の匂い、

風のそよぎ、陽の光の暖かさ、

そういったものを実感を伴う様にイメージして、

自分は本当は湿った香りの土から生まれた人参だったとか、

陽を浴びて輝いていたトマトだったとか言うことを、

ちゃんと思い出してもらいます。

 

そうするとどうなるか?

 

さぁて。

その効果のほどについては、

是非ご自身で試して

確かめてみて下さいね!(*’▽’)

 

 

そうそう、ボルネオの食事と言えば、

伝統的なバナナリーフでの食事もして来ましたよ!

 

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大きなバナナの葉の上に、

ライスを中心に色んな種類のおかずを盛りつけます。

 

ちなみに、

一緒に出て来た魚の頭の料理は定番らしいんですが、

こちらはいささかコワモテ。

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伝統食を食べる時には手を使うのですが、

これがなかなか難しい。

 

インドで正式な食べ方を教わった友人の説明によれば、

使う指は右手の3本。親指、示指、中指。

 

おかずとライスを混ぜて一口大にまとめ、

3本の指で掬いあげます。

示指と中指に乗せた食べ物を、

最後に親指で押し出すようにして口の中へ。

 

むむ、

知らぬ間に指4本汚れている。

なぜだ…。

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とまぁ、かような感じで、

意外にも技術が必要です。

 

でも、手で食べるのは、

思っていた以上に

良い風習だと思いました。

 

ご飯やおかずなどの

ぐちゃぐちゃとしたものを手で混ぜるのは

気持ち悪そうだなぁと思っていたのですが、

 

実際にやってみて気づいたのは、

これから食べる物を

口に入れる前に手で確認する事になるんですね。

それが、非常に健全だと思ったんです。

 

日頃、テレビを見ながら食事をするのが

当たり前の習慣になっていましたが、

そのせいで自分が何を食べているのか、

ちゃんと意識せずに食べていました。

 

食べ物に対して失礼という以上に、

自分自身に対して失礼なことをしていたな、と。

これから体内に入って

自分を構成してくれるはずの物を

その都度、認識せずにいたのですから。

 

手で混ぜる工程が入れば、おのずと

何を食べるのかに意識が行きます。

 

何が自分を形作ってくれるのかを

ちゃんと把握しながら食べる事は、

 

自分という存在の土台をしっかり認識し、

自己の同一性を安定させる事にも

繋がっているような気がします。

 

 

 

 

 

 

ボルネオ報告②(全4編):-獅子舞と華人の力

 

今回のボルネオ行は、

2月13日~23日の日程でした。

これはもうズバリ、

中国の春節に重なる時期。

 

日本の正月とは異なるマレーシアの年末年始の空気を、

思いがけず味わってきました!

 

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(サンデーマーケットの開かれる

市街中心部のGayaストリート。)

 

 

春節のお話の前に、

マレーシアやボルネオと言う地域について

少し説明させて下さいね。

 

ボルネオ島は日本からほぼ直線的に南へ、

飛行機で5時間ほど行った所にあります。

 

北端の小さな範囲にブルネイ王国があり、

上の5分の2ほどの範囲はマレーシア、

下の5分の3はインドネシアが領有しています。

 

ボルネオ島全図

 

今回行ったのは、

そのマレーシア側の最大の都市、

コタキナバルでした。

(地図の中では、島の北端の少し左にあります。)

 

 

マレーシアは、イスラム教を国教とする国。

マレー人はムスリムで国民の約6割を占めます。

他には、3割が中華系の人々、1割がインド系です。

首狩り族として知られる部族を始めとして、

多くの先住系の部族も存在しています。

 

多民族の多文化、

モスクも道教寺院もキリスト教会もあって、

多宗教が共存しています。

 

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(リカスタウンにある石造りの教会。

この日は、地元のマレーシア人が沢山集まってのミサの日。

教会の前には、実は物凄い数の車が

ぎゅうぎゅう詰めに停まっていて、大変な事になっていました。)

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単に混在していると言うよりは、

それぞれが独自性を保ちながら上手く棲み分けをし、

違うもの同士が共生するのを可能にしている。

そんな、柔軟性を持つ社会の様に見えます。

 

 

 

それを示唆する象徴的なお話を、

現地で聞きました。

 

ボルネオは19世紀にイギリスの植民地となっており、

先住部族の中では

キリスト教徒が多いそうなのですね。

 

マレーシア全体としてはマレー人が多いけれど、

ボルネオでは、実は先住部族が

住民の半数以上を占めるのだそうです。

信徒の多くが部族民なため、

教会ではマレーシア語を使って説教が行われます。

 

ところが、マレーシア本島では

これはあり得ない事だそうなんです。

マレーシア語は国教であるイスラム教のモスクで使われ、

キリスト教会では英語を用いる。

ちゃんと、宗教に応じて

言語の使い分けが決められているそうなのです。

 

 

言語をない混ぜにして用いれば、

互いの教義に影響を及ぼし合うことは

想像に難くありません。

それを避けるために、

システムとしてちゃんと枠組みが決められている、

と言う事の様なんですね。

 

 

もちろん、現地の方にとっては、こうした仕組みも

良い面ばかりではないのかも知れませんが、

単一民族の(異論はあるでしょうが)日本に住む人間からすると、

「異なる文化や宗教を尊重する」には、

それだけ具体的な形が伴う必要がある、と言う現実に

なるほどな~…と深く感心させられたのでした。

 

 

ちなみに、マレーシアは

元々はシンガポールと一つの国だったって、

知っていますか?

今まで東南アジアに興味のなかったワタクシ(ゴメンナサイ)、

今回初めて知りました!

 

シンガポールは、マレーシアに比べて

華人の割合が多いそうです。

 

マレーシア半島にある11州(マラヤ連邦)と、

ボルネオ島の2州、シンガポールとが統合されて

マレーシア連邦になったのは1963年のこと。

結構、最近です。

 

マレー系の人々を中心に政策が展開される中で

中国系の人々が反発し、紛争にまで発展した結果、

シンガポールはマレーシアから追放される形で別々の国となったそうです。

統合してから、わずか2年後でした。

 

以降、

追放された一方は華人の力で経済大国に、

一方はまだ発展の途上に。

 

歴史の皮肉を感じなくもないですが、

でも私が感じた限りでは、マレーシアは

ムリなく歩みを進めている感じで良いなぁと思います。

とにかく、時間がゆったりと自然に流れている、

そのことが何よりも素晴らしいと思います。

 

 

 

さてさて、春節。

これは、言わずと知れた中国の正月のお祝いです。

 

コタキナバルに着いた時に驚いたのは、

大きなショッピングセンターの壁に

大きな金貨(!)の飾り物が沢山下げられていたり、

道沿いに赤い提灯がぶら下げられていたりと、

まぁ~とにかく賑やかなんですね。

でも南国のせいなのか、その賑やかさが

うるさく感じたりはしないんです。

 

春節の年末は日本の年末と同じで、

どのお店も夜遅くまで営業していました。

結構、早い時間帯から遅くまで開いている所が多いんですね。

南国の人達はのんびりしているイメージが勝手にあったので、

マレーシアの人達は働き者だなぁ~と感心してしまいました。

 

 

 

春節の元旦は2月の19日。

その日、研修の会場になっていたホテルに

獅子舞の一行がやって来ました。

ピンクに白に黄色に赤、

色とりどりの獅子が太鼓に合わせて派手に舞います。

 

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ホテルやレストランなどでは、

個別に獅子舞を呼ぶのだそうです。

獅子舞の規模は、支払う金額によって変わるそうで。

 

4頭現れたこのホテルでは、

一番良いランクのものをお願いしたのではないか、

とのこと。

 

獅子舞は、

場のエネルギーを活性化させる舞いなのだそうです。

今回の研修の講師の説明をお借りして、各場面の解説を少々…

 

まず、赤い獅子はホテルに入って来ると、

そのまま太鼓を従えて最上階へ。

5階あるホテルの全てのフロアを経巡りに行きます。

これによって、ホテルの中の全てのエネルギーが

くまなく振るい動かされます。

 

 

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ホテルのフロント前では、

残りの獅子たちがホテルの中の方へと向けて舞いを行い、

外からのエネルギーをホテルの中へ取り込みます。

 

時には観客の足をかじったり、

頭をかじったりしながら(これは厄払いですよね)、

躍動的な舞いを続けます。

 

かじる仕草が

何とも可愛いんですよ~。

 

 

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↑ 躍動感のすごさは、ほらこの通り!!

 

 

フロントでは、ピンク獅子の独演が始まりました。

愛想をふりまいて激しく舞いながら、

差し出された皿に盛った果物をパクリ。

果物は皿ごと、獅子の中に消えてしまいました。

 

 

やがて、ピンク獅子は

身体を長々と伸ばして地面に伏せました。

おや~?寝ちゃったのかな?

 

寝息を立てているみたいに、

お腹の辺りが動いています。

おぉ!繊細な演技~(*’▽’)

 

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今度は、ホテルの入口の外で

黄色い獅子が階段を使って舞い始めました。

 

階段と言っても柱が並んでいる形で、

足場は恐らく直径30センチ程度だと思います。

もし踏み外しでもしたら、

1メートルじゃきかない高所からの転落です。

 

 

 

ホテルの外に出ると、

抜ける様な美しい青空と、

まばゆいばかりの陽の光でした。

 

(伝統的に大事に継承されている儀礼だったからか、

天界と言っていいのか、

異なる次元からのお祝いの光の粉が降っていたのだとか~。

ひときわまぶしかったのは、

そのせいだったのでしょうか~(*’▽’) )

 

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舞いはアクロバティックで、

柱の上を飛び跳ね、

立ち上がり、

時には上半身が足場から飛び出します。

 

そんな動きの中で、

耳をパタパタ、まぶたをパチパチと

可愛らしく動かします。

 

あ!

獅子が食べてた果物の皮を

こっちに投げてよこした~!

これに当たるのはメデタイのかな?

 

(↓ 当日の獅子舞の動画。3分程度です。)

 

 

舞い手を見ると、

獅子の上半身の子は小さく、

下半身を担当している男の子は大柄で

がっしりと筋肉がついていましたよ!

 

舞いを舞うのは10代の若者たちです。

生命力の最も盛んな時期の若者たちが舞うという所も、

エネルギーの活性という目的に適っているのですね~。

 

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外での黄色い獅子の舞いが終わるころに、

再びホテルのフロントの方で歓声がしました。

寝ていたピンクの獅子が起き上がった様です。

ホテルの外へ出てくると、

お客さん達との写真撮影に応じます。

 

フロントの台の上を見てみると、

細工の施された果物が!

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獅子が伏せて眠ったと見せて、

実は中で細工をしていたんですね~!

 

 

 

私が宿泊していたのは別のホテルだったのですが、

そこでもやはり獅子舞を呼んだようでした。

部屋に入ると、机の上に

二つのミカンとお年玉袋みたいな小袋がありましたヨ。

小袋の中身は、金貨チョコ。

 

こうやって、みんなに福のお裾分けをするんですね。

マレーシアの春節に参加できたんだなぁって、

妙に嬉しかったのです~(#^.^#)

 

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日本に戻ったのは、ちょうど春節が明けた頃。

ニュースを見ると、中国人の爆買いの話で持ち切り。

 

以前なら、節操がないなぁと不愉快に感じたと思うんですけど、

ボルネオで中華系の文化に触れたせいでしょうか、

いいんじゃない、と思ったんです。

それが、自分でも意外でした(*^^)

 

中華系の人々は、

物質世界を動かす力を本当に持っているんだなぁと、

ボルネオで感じたんですね。

 

現実を動かす為にどうやってエネルギーを活性化させたら良いかとか、

どういう土地ならエネルギーを呼び込みやすいかとか、

そういう知恵を現実社会とリンクさせて上手く使っている。

 

例えば、風水だって

面白おかしい古い迷信などでは決してなくて、

建築の世界などでも未だに活用されたりする

活きた知恵として残っている訳です。

 

彼らが世界中を飛び回っていることで、

世界でモノが動いているし、

世界に活力が与えられている。

そうした側面はあるんだろうなぁ、って思います。

 

異なる文化を尊重し合うマレーシアの社会だからこそ、

文化の特徴みたいなものが

より見えやすかったのかも知れない、とも思います。

 

その反面で日本を省みてみると。

日本の伝統的な信念体系や知恵を、

生活の一部として活きた形で

大切に継承していると言えるのかどうか。

形骸化して骨抜きになっているものが、

ほとんどなのではないか。

 

そうしたものをちゃんと活かすことが出来た時に、

世界の中で日本が果たせる役割も見えて来るのかなぁ、

なんて思ったりするのです。

 

 

 

 

 

シジミ蝶の追憶

今回は、最近体験したことを

物語風に書いてみました。

純粋に読み物として、楽しんで頂けると良いなぁ(^^)

 

・・・。。・・・。。・・・。。・・・。。・・・。。・・・。。・・・

 

開店準備のため、看板を外へと運び出す。

ふと見ると、看板の上のヘリに蝶の死骸が乗っている。

 

あ、シジミ蝶…。

いつもプランターに遊びに来てた子だ。

 

看板は腰ぐらいの高さで、いつも道路沿いに立てている。

看板の横には大きな木製のプランターがあって、

四季を問わずに花が見られるように、手を入れている。

 

そのプランターのまわりを、

シジミ蝶が飛んでいるのをよく見かけた。

そこに植えてあるカモミールが気に入っていたのか、

本当に、よく。

 

看板にはレインカバーが被せてある。

たまに、カバーの裾から中に入ってしまって

出られなくなった虫が死んでいる事があった。

シジミ蝶も、きっと知らずに潜りこんでしまったんだろう。

 

虫は基本的に苦手だけれど、

私の所を気に入って遊びに来てくれていたシジミ蝶は

特別な気がしていた。

 

そう言えば、ここを気に入って住み着いていた小さなヤモリを、

誤って殺してしまったこともあった。

死んでから数日経ったと思われる干からびた姿を見つけた時は、

思わぬショックを受けた。

 

シジミ蝶も、潜っているのを気づかずに

私が潰してしまったのかも知れない。

ヤモリの時はひどい姿で触れなかったけれど、

今回はちゃんと自分の手から土に葬ろう。

せめて大好きだった場所に、帰してあげたい。

 

手の平にシジミ蝶を乗せると、

プランターの方へ歩いて行った。

 

手に乗せているのは、死骸。

そう思うと手の平がムズムズしてくる。

異物を乗せている、変な感じ。

 

もう動き出すわけでもない、

イタズラされるわけでも噛まれるわけでもないのに、

何で怖がる必要があるだろう?

シジミ蝶の姿をまじまじと眺めた。

 

あれ?

意外と可愛いかも。

ヤマトシジミ-Pale_Grass_Blue(パブリックドメイン)

 

オレンジ色の複眼に、

周りはふさふさの白い毛で覆われた顔。

ストローだったかどうか分からないけど、

そのとても小さな頭には口もちゃんとあった。

 

2本の触角は、きれいにピンと立っている。

そのカーブの形が美しくて、

生きている虫ではないけれど、ただの死骸でもないような、

不思議な気がして来る。

標本が好きな人って、こんな感覚なんだろうか?

 

頭も触角も立体的なままだったという事は、

潰れたわけではなかったんだ。良かった。

 

手の平に乗せている蝶が、

可愛く思えて来た。

これで私の虫嫌いも、ちょっと緩和するかも知れない。

 

そんなことを考えていたら、

手の平がぼんわりと温かくなって来た。

手の平をちょうど覆う大きさで、熱のドームがあるみたい。

 

熱はシジミ蝶から出ているはずはなかったけれど、

シジミ蝶の存在自体がこの時に変容した、となぜだか思えた。

私の中で「得体の知れない虫類」に近かったシジミ蝶が、

「美しく尊い生き物」へと変わったのと一緒に。

 

そう思ったのと同時に、

シジミ蝶やヤモリが好きな場所でわざわざ死んだ理由も

急に分かった気がした。

彼らは「形」を脱いで、

ここを、あるいは私の仕事を、

見守ろうとしてくれてるのかも知れないな、と。

 

 

その晩、帰りの電車の中で読んでいた本には、

こんなことが書いてあった。

(参照:ジュディス・カーペンター『トワイライト』)

 

恐怖にも、恐怖固有のバイブレーション(周波数)があること。

恐怖を克服して、

愛や思いやりという恐怖よりも高いバイブレーションで

恐怖の対象だった存在に触れる事が出来た時、

相手のバイブレーションも変わる、と。

 

シジミ蝶に対する私の認識の変化は、

例え死骸という形になっていても

ちゃんとシジミ蝶に伝わっている、

そう言われた気がした。

 

翌日、

出勤するとすぐに、プランターを覗き込んだ。

 

植物の葉や茎が繁っているのを掻き分けて、

その根元にふわりと置いたはずのシジミ蝶の姿は、

プランターの中にも、その周りを見回しても、

どこにも見当たらなかった。

帰るべきところへ、きっと帰れたんだろう。

 

 

この一連の出来事を文章にしようと考えながら、

植物に水をあげ始めた。

その横を、

ふわりふわりと

黄色い蝶が舞って行った。

 

 

 

おわり

 

 

 

 

 

「青」と筋膜 ~11月の営業

皆さん、こんにちは~!

11月に入って、めっきりと冷え込む日が増えてきました。

neMu no ki では、すでに暖房がついております… 😆

 

11月の営業のお知らせの前に、

先月行った札幌での体験を少しお話させて下さいね!

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札幌では、エネルギーヒーリングの勉強をして来ました。

なぜ、整体でエネルギーの勉強が必要なの?と思いました?

 

neMu no ki で行う整体は、主に筋膜に働きかけます。

筋膜は単純に言えば筋膜を包んでいる膜ですが、

実際には筋肉を包んでいる膜から靭帯へつながり、

それが骨を包む膜につながり、

体幹の大きな構造を包む膜につながり、

内臓を包んでいる膜につながり…。

 

という訳で、身体の中にある

小さな器官や臓器から、大きな骨格的な構造まで、

ほとんど全てを包んでつないでいる、と言えます。

 

こうして大きく全体を包んでいる組織としては、

もっと大きな枠組みの名称である「結合組織」

と言う名前の方が相応しいかも知れませんが、

筋膜と言う名称の方がイメージが掴みやすく一般的なので、

筋膜という概念を最大限広げて使っています。

 

全体の大きな構造から小さな構成物に至るまで

様々なレベルのものを包んでつなげているという事は、

こういう風に言いかえることも出来ます。

 

すなわち、

体腔という大きな空間構造の中で、

それぞれの臓器の安定した位置関係を決めているのが、

こうした膜組織の役割である、と。

 

狭い体内にひしめき合っている臓器たちは、

お互いのポジショニングを結構厳密に取り決めています。

お互いが重なり合う場所は、ちゃんと凹んでいたりするんですよ。

例えば、肝臓の裏側なんかはこんな感じです↓

肝臓背面の圧痕

 

それがどこかで下がったりズレたりすると、

隣り合う臓器にど~んと重さや圧力がのしかかることになり、

それぞれの臓器が活発に活動するのを妨げる事になります。

 

病院の検査をしても何も異変は出ないけど、

確実に不調があって辛い…なんていう未病の状態は、

こうした膜組織による支持力不足が影響している事があるんじゃないかと、

まぁこれはあくまで、私の個人的な見解なんですけれど。

 

勝手にイメージをつけるとすると、身体の中で臓器同士が

「お前ちょっとあっち行けよ~。重てぇよ~。」

「俺だって狭いんだよ、そんなこと言われても困るよ~。」とか、

小突き合っていたり…なんて。

中には、文句も言い出せずに縮こまってるのも、

きっといるのでしょうねぇ(・ω・)

 

で、この構造を支えているという物理的な役割とちょうど重なる様に、

身体のエネルギーシステムである7つのチャクラでは、

肉体の鋳型(テンプレート)を保持していると言われる第5チャクラが

筋膜と関連しています。

 

チャクラに関して私は専門家ではないですし、

簡単に説明できるような事柄でもありませんので、

ご興味があれば各自調べて頂くとして…(^^)

 

筋膜の施術によって生じる身体の変化を見ていると、

骨格的な構造や身体の肉付きなど、

いわば身体の輪郭の変化が比較的顕著に、しかも容易に観察できます。

(その変化がその後安定して定着するかどうかは、また別問題です。)

 

身体の一部で起きた変化は、全身にすぐ伝わります。

そこには細胞同士の情報伝達や、

神経を介しての伝達などがあると思いますが、

筋膜の層で起きた変化の伝わり方はもっと三次元に広がる網の様で、

広範で複雑で、でも秩序立っているのが感じられます。

 

そうした感覚から、

単に膜を伝って変化しているだけではなく、

膜の上を電気がぱ~っと走り抜けるようにして

変化を伝播していく様子が浮かびます。

実際、筋膜は他の組織に比べて、

非常に通電性がよいのが特徴です。

 

このように、筋膜とエネルギーとは関わりが深く、

施術で生じる変化をきちんと理解しようとする時には、

エネルギーそのものについての理解が必要になります。

 

という訳で、エネルギーについて

科学的かつ理論的な視野で学ぶことの出来る講座に

参加してきたわけなのです。

(前置きがすごく長くなりました~(;・∀・))

 

今回特に面白かったのは、

ヒーリングの予備訓練の一つとして、

相手に色を伝える練習をしたことです。

 

例えば緑なら、

美しい緑の風景の写真や緑の小物などを用いました。

小物であれば実際に片手で触れながら、

もう片方の手で相手に触れます。

 

で、私がやってもらっていた時の体験はと言うと。

相手が小物から手を離している時とそれを触れている瞬間とでは、

触られている自分の目(と言うよりもオデコ。第3の目の辺りですネ。)

が感じる光の量がはっきりと違って感じられました。

 

写真の場合には、

相手の方が新緑の中にいる体感をアリアリと思い起こしていると、

触れられているこちらも、

あ~森の中だ~…陽光がチラチラしてる~…

みたいになります。

 

不思議でしょう?え、アヤシイ世界?(^▽^;)

でも、参加してた多くの人がそんな風に感じるんですから、

面白いですよねぇ~(#^.^#)

 

と、こんな感じで講座は4日間で終了しまして、

その後は2日間、自分の羽を思い切り伸ばしてきました。、

と言っても、行ったのは札幌のすぐ郊外だったんですけど。

 

一日目だけご紹介しますと、

馬に乗って林や川の中を歩いたり走ったり、

ケチャップ、水を飲む.

ケチャップ君

 

ダムのある緩やかな渓谷でインディアンカヌーを初体験、

インディアンカヌー

 

最後は、なぜかカレーが名物の温泉へ。

豊平峡温泉のカレー

 

…遊び過ぎですって?まぁまぁヽ(^。^)ノ

 

 

 

この温泉、豊平峡温泉っていうんですけど、

内風呂の床が温泉の成分で鍾乳洞みたいになっているという

垣根なしの源泉かけ流し。

非常にオススメの気持ちの良いお湯であります。

 

…でも、洗い場の水道のお水も温泉ぽいので、

見知らぬ若い女子たちは「洗ったらかえって汚くなる」と騒いでおりましたがネ。

 

この日は朝の内は曇天でしたが、

カヌーをし始めた辺りから美しい青空が広がり始めました。

折り返して川を漕ぎ戻って来る頃には、雲がほとんどなくなりました。

 

定山渓の紅葉

カヌーの上から撮った紅葉。ね、快晴でしょう?

 

自慢じゃないんですけど、晴れ女なんですよ、わたくし。

この日がたまたま誕生日だったカヌーのインストラクターさんが、

この日最後の仕事を美しく晴れ渡った空の下で出来たと、

とても嬉しそうな表情でした。

私も楽しかったな~!

 

温泉には大きな露天風呂があったのですが、そんな経緯で

青々と美しい空の下で、紅葉を見ながらゆっくり~(#^.^#)

はぁ~、極楽ごくらく~♫

だったわけです。

豊平峡温泉

(写真奥の壁の向こうが、露天風呂。)

 

突き抜ける様な青空を見上げている内に、ふと

講座でやった色の練習を思い出しまして。

青を見ていたら、全身が青のエネルギー(周波数)に

なっているんだろうなと思ったんですね。

 

そこから、ず~っとひたすら青空を見続けたんですが、

もういいかな~と言う気になかなかならない。

首が痛くなるほどではないですけど、

それでも40分ほどはそうして青空を見ていましたかねぇ。

最後は、自分が青を目から吸い込んでいるって感じがしました。

 

そろそろ風呂から出てもいい?と問いかける自分の思考と、

まだまだ、と粘る身体の攻防の末、

やっと「よし、もうOK!」という踏ん切りがついた時には、

「やっと自分に戻れた…」という実感がふっと湧いて来て、

その実感が身体にピタッとハマった感じがしました。

 

青色をめいっぱい吸い込んだことで、自分自身に戻る。

この体験を、私はこう理解しました。

青色(第5チャクラのエネルギーの色です。)によって筋膜が賦活され、

身体の構造の安定性が増したのではないか、と。

 

筋膜が整うと、

構造の枠組みがストレスの少ない軽やかな状態に変化します。

(その変化の過程の中では、必ずしもそうではないこともあります。)

そこでもたらされる構造の安定性は重々しいものではなく、軽やかで動きを好みます。

 

青く澄み渡った晴れの日。

私たちは屋内にいるのが勿体なく感じて

外に出て散歩をしたり、どこかに出掛けたくなったりします。

これは太陽の光や熱の影響ももちろんあるでしょうし、

気圧の影響もあるかも知れません。

でももしかすると、青空の、その青色そのものに

動かされているのかも知れないなぁ、なんて思うのです。

 

 

さてさて!

それでは最後に11月の営業のお知らせです。

今月は臨時でのお休みは3日(月・祝)のみです(すでに過ぎましたが^^;)

それ以外は、祝祭日に関わらず

毎週水日が定休日

営業時間は11時~20時(最終受付は18時)となります。

 

 

今の時期は、急に厳しくなって来た冷え込みに

まだ身体が適応できていない為、

体調を崩しやすいと思います。

 

今からあまり暖かい格好をしていたら真冬が乗り越えられない!

なんてことを言わずに、

今だからこそ身体を冷やさない様に注意してあげてください。

 

身体は一度冷え切る体験をすると、

すぐに冷えるようになってしまいます。

足元が寒いな、スースーするなと思ったら、

我慢は厳禁、早めに対処をして下さいね!

 

この季節の変わり目を乗り越えれば

身体は寒さに適応するので、寒い冬だって大丈夫です!

…なハズです~ヽ(^。^)ノ