ちょっとだけオムニバス


目次

文字との対話
前置きを少し
純粋なるカマキリの祈り

 


文字との対話



文章を書くのは何のためか?

これは、
こうしてホームページに投稿する記事を書く度に、
この10年自分に投げかけ続けて来た問いです。

前回記事を書いたのは
去年の11月のこと。

本当に書きたい、と感じるまで
無理に書くのは止めよう。

そう考えて
記事を書くのをストップしてから、
早1年と1ヶ月。

いや~、さすがに
そろそろ書かないと!
…と浮かぶ焦りを手放しつつ、

でもそろそろ書いても良いのかなぁ、
書きたい気もするなぁと感じ始めたつい最近のこと。

ふと、こんなことに気付きました。



今まで、文章は一人で書いていると思っていた。
でも、違った!

文章は何よりも、文字との対話なんだ、
と。

文章を書くことは、
自分の思考や意識を文字にすること。

そうやって一つ一つ丁寧に拾い出して
選択的に並べた文字を見ながら、
自分の内なる世界の真実がどんなものであるか、
それを自分で気づいて行く。

自分の内なる世界に気付く作業には、
文字の協力が欠かせない。

文字達は鏡となって、私自身の意識を反射する。

そう言う働きをしてくれるから、
私の意識は自分で選び記した文字から
自分を知ることが出来る。

一人じゃなかった!
一人でやっていたのではなかった!

 文字達との協働作業無くしては、
そうした自分を解き明かす鍵としての文章は
生まれて来ないんだ!



誰かのために書くこと、
ましてやお店に人を呼び込むために
文章を書くようなことは、

私と言う人間の生き方の方向性、
もっと言えば私の魂にはそぐわない、
私にとっては意味を感じられない事だと言うのは
以前から分かっていました。

それでも文章を書いている。
これは一体何のためなのだろう。
どうして自分は文章を書くのだろう?

ず~っと探し続けて来たその答えは、
「何のため?」という問いかけに対して
想定していたものとは全く違う方角から
不意にやって来たわけです。



目からウロコ。
晴天の霹靂。
そうか~、そうだったのか~。

文字を通して自分を知るため。
文字を通して、自分の意識の在り処や
意識の行こうとしている所を知る為。

今、
文字そのものと対話するために、
こうして文章を綴っています。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像



前置きを少し…。



順序が逆になりましたが、
皆様、大変ご無沙汰していました。

1年という時間が経つ間に、
平成が31年で幕を閉じて令和が始まり、

沢山の台風が日本を訪れて、
多くの場所が姿を変え、

消費税が8%から10%へと変わり、
それを待たずして
neMu no ki も料金設定が変更になり、

色んなお店のレジ打ちのお姉さん方が
様々な決済方法にスムーズに対応できるように
なって来た頃に
天皇陛下の即位式やパレードがあり、
日本中がラグビーで熱狂し…。

今は12月中旬。
日中19度という破格の暖かさの中、
遅い紅葉・黄葉が青空に美しく映えています。

目まぐるしく新旧が入れ替わり、
更には何とも風変わりな一年でもありました。

そんな2019年の出来事の中で、
強く印象に残っていて
どうしても書きたいことがあります。

その中の一つが、
次に紹介する
「カマキリの祈り」です。


純粋なるカマキリの祈り



わ~!
驚いた!

何がって?
花を摘みに庭に出たら、
こんな姿のカマキリがいたの。


花はムクゲ。

次の日に見た時には萎んでいたから、
この日がムクゲにとって
最も美しくきれいに開いた、
晴れの日。

全ての花びらを大きく目いっぱい広げた
そのムクゲの花芯に向かって、 
カマキリがまっすぐに立っている。



顔は花芯の少し下の高さにあって、
少し上目遣いに見上げる位置関係。

後ろ足は左右で高さの違う葉に乗せ、
前足は花びらの縁にそっと触れている。

決してバランスを取りやすいようには
見えないのだけれど、
風がそよいで葉がそよりと揺れても 
カマキリはぴくりとも動かない。



「珍しいものが観られるよ~!」 
私の声で母が庭に降りて来たのと
同時くらいだったかな。

それまでは、 周りをウロチョロしながら
様子を覗き込んでいた私を気にしてか、
カマキリもキョロキョロと目線を
動かしていたのだけれど、

急に覚悟を決めたみたいに
頭をすっと下げると、
静止したの。

きちんと合わせた両の鎌の上に
顔を近づけて、
それはまるで花芯に向かって
こうべを垂れるかのよう。

まさに、祈りの姿。


お尻から胸まで
す~っと美しく立ち上がっている、
その力みのない自然な姿勢を観ていたら、
何だろう。

広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩を観ている様な、
神妙な気持ちになっちゃった。

Public Domain(菩薩半跏思惟像 像高131.2cm 中宮寺/朝日新聞社、昭和17年 小川晴暘)


母の目にも、これはやっぱり
祈りに見えたそうで。

― こんなに真剣に、何を祈ってるんだろうね?
― 世界平和かなぁ。



摘み終わった花を片手に
出勤する時にも
カマキリは祈り続けていて、

後で母に聞いてみたところ、
20分以上はそのままの形だったそう。

祈りの姿勢を解いた後は、
鎌を片方ずつきれいに舐めて
丁寧にゆっくり
身体のお手入れをしていたんだって。



この日は8月22日。
ようやっと文章にまとめたのはその2か月後。
更に2か月を経て、今。

この4か月の間に、
本当に色々な事があったと思う。

記事のURLを決めるために、
カマキリを英語でなんて言うのか
調べてみた。

それでもって、



わ~!
またまた驚いた!

何がって?
カマキリは英語でpraying mantiseって言うのだと
初めて知ったから!

prayingは、祈り。

うわっ、
祈りって言葉が入ってた!

一体語源は何だろう?

調べてみたら、
mantiseという言葉自体も
ラテン語で僧侶や預言者という意味だと言う。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412539149

英語圏の人たちにとっては、
カマキリってそんなに尊いイメージの
存在だったのか~。



祈る僧侶。

最初に名付けた人も、
弥勒菩薩みたいなあの姿を
見たのだろうか?

あの気高いカマキリの姿を。




「身体の声を聴く施術」が出来るまで / 年末年始までの営業予定

 

目次


知性ある身体

身体を信頼する
揺らぐ自己信頼
コントロールを手放す
パターン化した緊張
変化しない自由
善悪のジャッジを超えて
年末年始までの営業予定

 

すっかりブログの更新が

のんびりになっておりまして、

 

10月の営業のお知らせをしないまま

11月に入り、しかも

11月も中旬となりましたが(^^;

皆様お元気でしょうか?

 

 

今年は、

neMu no ki にとっては

開業10年目の年。

 

施術は、この10年の間に

大きく変化して来たなぁと

改めて思います。

 

施術の方法は、

基本的には変わりません。

 

ですが、

相手にしている「身体」そのものが

その現れをどんどん変えて行きました。

 

 

 

 

知性ある身体

 

初めの頃は、

物理的な肉体の「質感」を頼りに、

施術を行っていました。

 

この時期、

私が向き合っている「身体」は、

あくまで観察されて施術を施される

受動的な「客体」でした。

 

それはやがて、

望む変化を自ら選んで

その方法を能動的に示す、

施術の「主体」となって行きます。

 

身体は

単純な物理的な肉体ではなく、

能動性と知性を持つものとして、

その本来の姿を現し始めたと感じました。

 

 

10年経た今、

施術の中での身体は、

自らの中に蓄積して来た体験を

まるで地図のように、

体表というキャンバスに描き出します。

 

地図は、

「音」によって描かれます。

 

身体の声とでも言うべき、

身体から響いて来る

音なき音を施術者が聴き、

 

様々な方向へ自由に移動する

その音を追いかけて行く内に、

それは地図となります。

 

 

 

 

この10年で起きた変化は、

施術における身体と施術者との

関係性の変化ももたらしました。

 

「施術者が行う施術」から、

身体が主体となって展開する

「身体が行う施術」へ。

 

こうした変化が生じたのは、

施術者としての私自身が

自らの意識を大きく切り替える事を

望んだことが始まりでした。

 

 

 

身体を信頼する

 

「自然治癒力」と言う

言葉があります。

 

もし、身体が本当に

自然治癒力を持つのなら、

 

当事者ではない治療者や施術者が

経験則やデータを元にして

方針を決めて治療や施術を行った後、

 

そこから先だけ

本人の身体の回復力に任せる様な

従来の治療や施術の在り方は、

 

治療者や施術者にとって

都合が良いだけだと思いました。

 

身体の回復力、

その治癒力を本当に信頼するなら、

 

どのように治癒を進めていくか

その方針を決める事自体も

身体に任せるべきだし、

 

身体にはそれを決められる力が

あるはずだと思ったのです。

 

身体の持っている力が

どのようなものか

まだ全く分からないけれど、

とにかく信頼して委ねてみよう。

 

身体を信頼して、

施術の全てを身体に委ねよう。

 

そう意図したのが始まりです。

 

 

 

そうした意識を持って

向き合う内に、

 

身体は最良の方向へ向かうために

必要なことを全て知っており、

またそれを表現するための

叡智も持っている、

 

つまり「知性」ある生命だ

ということが、

明確になって行ったのでした。

 

このようにして

変化して行く身体と

向き合うことは、

私自身にも大きな変化を

もたらしました。

 

今回は、

そんな風にして起こった

私自身の内側の変化の一つを、

お話しようと思います。

 

 

 

揺らぐ自己信頼

 

スピリチュアリズムや

精神世界に興味のある方は、

リーディングやチャネリング

と言う言葉を

聞いたことがあると思います。

 

霊的な存在とコンタクトを取り、

あるいは彼らに自らの身体を

一時貸すことによって、

彼らの言葉をこの世界に

もたらすことを表します。

 

リーディングやチャネリングを行う

能力者にとっては、

自分が本当にそうした存在と

繋がることが出来ているか、

また彼らの言葉をちゃんと

聴くことが出来ているかなど、

 

多くの人からは目に視えない存在を

媒介しているがために、

責任を持ってその役割を

担おうとすればするほど、

自分を疑う要素が出て来ます。

 

霊的な存在の姿を見たり

声を聴くことが出来れば、

行き先を迷うこともなく

生きるのは楽なように思えますが、

 

そうした役割を確かに担うには、

他の人が視たり聴いたり

することのないもの、

 

つまり

その存在の根拠を

自分以外の人間に求めることが

出来ないもの、

 

そうした性質のものを

感じ取っている自分自身への、

丸ごとの信頼が必要となります。

 

 

「身体の声」を聴くことへと

施術が変化し始めた時、

これと同じ事情により

私の中でも自分への信頼が

ぐらつき出しました。

 

身体の声をちゃんと

聴き取れているかどうかは、

施術が終了すれば分かります。

 

身体の変化の仕方と

そこに描かれる地図とが、

それを示すからです。

 

ですが、

施術を行っている間は、

身体がどこへ進もうとしているのか、

どこにどのような変化を

もたらそうとしているのか、

 

行き先の読めない状態で

身体に耳を澄ませることになります。

 

 

 

コントロールを手放す

 

このような時、

「こうかも知れない」という

見立てを立てれば

少しは安心できるかも知れません。

 

ですが、「見立て」は

施術者が身体の変化を

方向づけする意識なのです。

 

そうした意識を持つと、

実は身体はそのように反応します。

 

身体は、身体の持ち主だけでなく

周囲の人の意識の動きにも

敏感に反応しています。

 

そして、その意識が

誰からもたらされたものなのかを

区別しません。

 

身体自身が望むような変化を

現実化させて行くサポートをするなら、

 

施術者が身体の変化の方向を

決めるような意図を持つことは、

身体にとって邪魔になります。

 

予断、判断はすべて手放して、

身体の望むことだけを

聴き取る意識が必要なのです。

 

 

 

予断も判断もしないで

臨床に立つと言うのは、

丸腰で戦いの場に

赴くようなもので、

恐さを伴います。

 

最初の内は、

今回も最後に決着するだろうか、

ちゃんと全ての辻褄が合う形で

結果が出るだろうかと、

施術の度に不安がよぎりました。

 

あるいは、

微細な音なき音を

聴き取れなかったらどうしようと

思う時もありました。

 

施術者という役割を支え、

施術者であることに

価値と保証を与えてくれるのが、

施術で生じる「結果」だと

思っていたため、

 

結果をコントロールしたくなる誘惑、

分かりやすい大きな変化を

身体に生じさせたいと思う気持ちは、

幾度も執拗に現れました。

 

 

 

こうした誘惑を手放して、

結果にこだわる意識から

自分を解放しないと、

目指している施術には

手が届かないことは感じていました。

 

誘惑を手放すには、

背後にある自分の感情と

それを生み出している思考に

向き合うことが不可欠です。

 

施術者として結果を出さないと

という責任感や、

結果が伴わなければ

お客様が離れていくかも知れない

という恐れ、

 

明確な結果を出すことで

認めてもらいたいと思う気持ちや、

自分がやっていることは

本当に正しいのだろうかという

自分への信頼の欠如…。

 

驚くほど沢山、

手放すべきものが見つかりました。

 

 

 

そうした感情や思考を

一つ一つ丁寧に拾い出し、

手放す作業を行う内に、

 

コントロールを欲する気持ちの

背後に隠れていた大きなものに

気付きました。

 

それは、身体の声として

感じ取っていることは、

自分が勝手に作った

思い込みではないのかという

自己不信でした。

 

そのため、

確実な証明や保証を

「結果」という形で

求めようとしていたのです。

 

ですが、

本当は外側から

保証されることではなく、

 

自分が感じたことと自分自身を

掛け値なく「信頼」することが

重要だったのです。

 

ただひたすら

身体を信頼してみよう。

 

施術の初期の頃に

そう決めた自分が、

自分を信頼出来ていなかったことに

気付けたのでした。

 

 

 

パターン化した緊張

 

自分の内側が

整理されて行くと、

 

結果をコントロールしたい

という意識は

自分のハートの周囲を

ぎゅっと押さえ込み、

 

そこに絶え間ない緊張を

生み出していたことも、

 

感覚としてはっきりと

捉えられるようになりました。

 

徐々に軽減してはいましたが、

施術の度に感じていた

ハートの周囲の緊張は、

 

放っておくと

施術すること自体を苦痛にし、

施術に臨む気持ちを

萎えさせる可能性のあるものでした。

 

 

 

施術の間に感じる緊張は、

いかなるものであれ

施術者に疲労を残します。

 

長い時間の施術や

集中力を要する施術では、

一回一回の施術は

本当に楽に行えることが重要です。

 

とりわけ、

人と人との関係性を司り、

施術の際には

最も活躍するチャクラが位置する

ハートの周囲に緊張があると、

 

施術は必要以上に疲労を生む

辛く苦しいものとなります。

 

 

 

更に問題なのは、

コントロールの欲求と

結びついた形で

ハートに緊張があることで、

 

意識の上ではコントロールを

手放しているにも関わらず、

 

施術の際にはその緊張が、

コントロールしようと

自動的に反応を起こす、

言わばプログラムのような形で

作動することでした。

 

結果へのコントロールを

完全に手放すためにも、

何としてもハートの緊張を

手放す必要がありました。

 

 

 

変化しない自由

 

思いに反して、

コントロール意識と癒着して

パターン化してしまっていた

ハートの緊張は、

容易には解けませんでした。

 

何とかしようと

四苦八苦していた

ある日の施術中、

 

ふと

「変化しようがしまいが、

身体の自由。

どっちでも良いんだ!」

と気付きました。

 

それはハートの緊張の話ではなく、

クライアントの身体のことです。

 

施術者なのに、

クライアントの身体が

変化してもしなくても

どっちでも良いなんて、

 

それまでの自分なら

何て無責任な、あり得ない!

と思ったはずです。

 

でもその時は、

急にそう閃きました。

 

そう思った途端に、

ハートの周囲が

フワッとゆるむと、

 

何の緊張も感じることなく

臨床に臨んでいる自分がいることに

気付いたのです。

 

コントロールしようとする意識を、

ついにやっと、本当に

手放せたのだと分かりました。

 

手放したと言うより、

今まで握りしめていたものを

ぽ~んと気持ちよく

放り捨てたと言った方が、

その時の実感に近いかも知れません。

 

 

当のクライアントさんの

身体はと言うと、

 

どっちでもどうぞと言われて

変化をやめるどころか、

自由にエネルギーを吸収して

大きく素早く変化を起こしました。

 

まるで、全ての枷が外れて

やっと自由に変化が出来る、

とでも言う様に。

 

変化する・しないも含めて

全てを身体の意思に委ねること。

 

それが身体にとっては

何よりも望ましいサポートなのだと、

心底理解した瞬間でした。

 

 

 

善悪のジャッジを超えて

 

変化するもしないも、

身体の自由。

 

そう思えた時に、

実はもう一つ

手放していたものがありました。

 

それは、

変化することは良い事、

変化しないのはダメな事、

と無意識の内に決め付けていた

思考のパターンです。

 

これは、

物事を善悪の両極に分断させる

ジャッジの意識でした。

 

ジャッジの意識を持つと、

一旦ダメだと判断したものは

その全てが「ダメ」に見え、

 

そこに含まれている

豊かな価値や意味に

気付くことを妨げます。

 

これを手放せたことで、

「変化しない」という現象にも、

身体にとっては必然性と理由が

ちゃんとあること、

 

変化する時はもちろんのこと、

期待したようには

身体が変化しない時にも、

 

どちらにも同じように

重要な意味があるのだと、

信頼できるようになりました。

 

そして、

それは身体だけでなく、

全ての物事に関しても

そうなのだと。

 

 

 

身体の声を聴いて行う施術は、

こうしてやっと、

一切を身体に委ねて

行う施術になりました。

 

確実な結果(変化)を出す

責任から解放されて、

 

施術者は、身体の変化を

クライアントと共に見守る

オブザーバーとなりました。

 

施術は楽ちんだし、

どんどん楽しくなっています!

 

また、施術者の役割が変わると、

こんなことも分かって来ました。

 

それは、施術は身体に

変化を起こすためのものではなく、

 

施術を受ける前に

その時に必要な変化を

身体はすでに起こしていること、

 

そして、施術はその変化が

肉体にはっきりとした形で

現実に現れるよう、

 

変化を確定し、

その現実化を助ける為の

ものであると言うことを。

 

 

 

年末年始までの営業予定

 

あっという間に

季節が過ぎて、

今年も残すところ1ヶ月半。

 

わ~、そう書いて

ちょっとビックリ!

 

少し気が早いですが、

年末年始までの営業予定を

お知らせしますね。

 

 

 

11月はすでに

ご予約がいっぱいですが、

 

 

キャンセルやご変更が

出る場合もありますので、

ご希望の方は遠慮なく

お問合せ下さい。

 

12月は以下の日程が

臨時休業となります。

10(月)、17(月)、

18(火)、25(火)

 

これらの代替日として、

通常は定休日の水・日を

以下の日程で開院します。

12(水)、19(水)

23(日)26(水)

 

年末年始の休業は、

12月28日~1月2日です。

 

年始は3(木)~5(土)を

開院致しますが、

7(月)~11(金)まで

再度お休みとなります。

 

年末年始のご予約をお考えの方は、

お早めにお問合せ頂ければと思います。

 

 

 

今年は秋に入ってからも

暖かさ(暑さ?)を感じる日が

多くありましたが、

 

だんだんと気温が下がって、

やっと秋らしくなって来た気がします。

 

晴れた日には

本当に青空が美しいですし、

 

隣家の柿の木も

豊かな彩を見せてくれていて、

勝手ながら借景を

楽しませて頂いています!(笑)

 

皆さんも、どうぞこの季節を

目いっぱい楽しんで下さいね~!

 

 

ハートの中心に居る感覚 / 9月までの営業予定

 

目次


9月までの営業予定

意識の在り処
聖なるハートの中心
中心に居ることの難しさ
現実世界の体験を変える体内感覚
自他の境界を見失わせる「前のめり」
「受け取る」ことを阻む体内感覚
中心からズラす力の正体

 

 

9月までの営業予定

 

またまた、ブログをアップするのに

時間が掛かってしまいました!

 

あまりにも間が開くと

「営業してるの?」なんて

密かに心配されている方も

いらっしゃるかも知れませんが、

 

大丈夫です!

neMu no ki は猛暑に負けず

元気に営業しておりますよ~!

 

 

今回は、まずはじめに

今後の営業予定について

お知らせさせて頂きますね。

 

neMu no ki は

9月の3日から1週間、

営業をお休み致します。

 

定期的に通って下さっている方には

早めにお伝えしていましたので、

8月はほぼご予約がいっぱいです。

 

残すところ25日(土)の

一枠のみとなっています。

 

また、同じ理由により、

9月も中旬までいっぱいです。

 

施術をご希望される方は、

出来るだけお早めにお問合せ下さいね!

 

 

 

意識の在り処

 

さて。

今回の記事の本題です。

 

あなたの意識は

どこにいますか?

 

そう聞かれた時に、

すんなり自分の内側に

意識を向けられる人もいれば、

ちょっと戸惑う人もいると思います。

 

意識は、私たちの身体の中に

力が集中しているような、

「焦点化」している感覚を

生み出します。

 

先を読み進める前に、

少し自分の身体の内側に

意識を向けてみて下さい。

 

あなたの意識はどこにいますか?

頭の中でしょうか、

胸の辺りでしょうか?

 

頭と感じた人は、

その焦点を一旦

胸へ下ろしてみて下さい。

 

そして、胸の中心へと

その力の焦点を移してみて下さい。

 

頭の中に居た時と

胸に移ってみた後では、

感覚は変わりますか?

 

胸の中心ではどうでしょう。

 

自分の中の静けさや

寛ぎの感覚などには、

違いを感じられるでしょうか?

 

 

 

聖なるハートの中心

 

少し前の、まだ涼やかだった

初夏の頃のこと。

 

私には、

お気に入りの散歩道が

幾つかあります。

 

その中の一つ、

緑濃く繁るアカシヤや

豊かに実をつけた桑の木が

爽やかな風にそよぐ堤防沿いを

のんびり歩いていた時に、

 

「ハートの中心に戻る」

体験をしました。

 

自分がハートの中心にスポンと

はまったのを体感しました。

 

 

この日は、

ハートの中心の感覚を捉えようと

意識しながら歩いていました。

 

ここで言うハートとは

エネルギーセンターとしての

ハートチャクラです。

 

心臓が正中よりも

少し左寄りであるのに対して、

ハートは正中に位置します。

 

つまり、ハートチャクラは

胸のど真ん中にあります。

 

そして更にその中心には、

聖なるハートの空間

もしくは聖心と呼ばれる「場」があり、

 

私たちはここを通じて、

自分という存在の根源と

他のすべての生命の中心とも

繋がっているそうです。

 

 

この日は、周囲の光景も

ひときわ心地よく、

美しく感じました。

 

「きれいだな~。

気持ち良いな~!」

 

自然の美しさに感激しながら

歩いていたことで、

普段より呼吸も

深くなっていた気がします。

 

ふと、

心臓の周囲の緊張が

解け始めたのを感じました。

 

心臓の外壁がふわ~っと緩み、

それに伴って内部の空間も

大きく広がって行きます。

 

心臓の中で空間が広がる感覚は、

私たちが安心や寛ぎを感じる時の感覚と

とても良く似ています。

同じものと言って良いと思います。

 

 

 

まもなくして、

先程の広がって行く動きとは逆に、

今度はハートの中心に向けて

何かがひゅ~っと集まり始める

感覚が生じました。

 

流れは勢いよく中心に集まると、

最後にスポンという感覚と共に

ハートの中央部で留まりました。

 

 

 

その中央部には、

まるで小さな球形の鋳型が

密かに設置されていたかのようで、

 

流れは球の天辺から流れ込むと

鋳型の内部に満ちて行きました。

 

ちなみに、

球形(もしくは宝珠型)と感じたのは

流れが鋳型を満たし切った時でした。

 

鋳型が満ちた瞬間に

スポッとハマった感覚が生じ、

 

それと共に、

流れによって満たされた空間の形が

分かったのでした。

 

 

 

スポンと

ハマるべきところに

ハマった感覚を感じた時に、

 

自分の意識が

「自分」という存在の中心に

ピタリと収まったのだと分かりました。

 

 

中心に居ることの難しさ

 

こうして、

自分の中心と一致している状態と

そこから来る絶対的な安心感は、

しばらくの間続きました。

 

でも、一度体験したことが

そのまま定着するという具合には

なかなか行かないのですね。

 

やがて、

一体化していた中心から

意識が離れて行こうとして、

身動きし始めました。

 

 

 

意識は中心から前へと

ズレて行こうとします。

 

それを引き戻して、

中心に収め直します。

 

それでもやはり

落ち着かない様子で

また勝手に前に動くので、

また引き戻します。

 

身体の中で

こんなやり取りを

繰り返している内に、

気付きました。

 

前にズレて行くと、

心臓の前面にモヤモヤ

ビリビリするような

苦しく不快な感覚が現れます。

 

中心に戻ると、

寛いだ感覚がふわ~っと全身に広がり

心だけでなく思考も落ち着きます。

 

ハートの中心が

自分の意識にとって

本来居るべき場所であるのは、

こうした感覚からも

確かなようです。

 

それにもかかわらず、

放っておくと意識は中心から離れて

勝手に前にズレて行こうとします。

 

一体何が、

起きているのでしょうか?

 

 

 

現実世界の体験を変える体内感覚

 

前にいる感覚と

中心に居る感覚とを

交互に体感している内に、

 

それぞれの感覚の違いが

こんなことを教えてくれました。

 

自分の意識が

ハートの中心よりも前にいる時は、

 

本来の自分の在り方よりも

前のめりになっている状態であること、

 

そして、本来の自分の前に

自分で立ちはだがっているような

状態でもあること。

 

 

 

身体の中で生じ、

私たちが意識的・無意識的に

味わっている体内感覚は、

単なる感覚というだけの

ものではありません。

 

実はこうした体内感覚は、

自分の外側に見ている現実世界を

どのようなものとして体験するか、

それを左右します。

 

(より正確に言うなら、

私たちが外側の世界を

どのような現実として体験しているか、

体内感覚はそれを映し出す

鏡でしかありません。

 

ですが、この鏡が一たび

固定的な形で据えられると、

自分で作り出したこの鏡に

今度は私たち自身が

左右されるようになり、

 

外側の世界を

パターン化した形で

体験し続けることになります。)

 

例えば、

今まで見て来たように、

 

ハートの中心に居る時は

安定感や確実性、

居るべき場所に居ると言った、

肯定的な感覚・感情と共に

私たちはいます。

 

こうした感覚・感情にある時、

普段なら腹が立つ様な事も

大して気にならず、

「あら、そう?」と言うように

サラッと受け流すことが出来るなど、

 

外側の世界の中に見出す刺激にも

容易に左右されることはありません。

 

では、もう一方の

ハートの中心から前にズレた

前のめりの体内感覚の時には、

私たちは外側の世界をどんな風に

体験するのでしょうか?

 

 

 

自他の境界を見失わせる「前のめり」

 

前のめりは、

何かあった時にはいつでも

すぐに現場に駆けつけて対応しようと、

アクセルをふかしている状態と言えます。

 

この時、

私たちは自分と他者の間の

境界を飛び越えて、

相手の領域へ踏み込みがちになります。

 

前のめりであるがゆえに、

互いの境界がどこにあるのかを

見失いやすいのです。

 

また、これは相手の領域に

自分から寄って行っている状態でもあるため、

 

相手の領域で起きている事柄でも、

まるで自分の身に起きていることの様に

はっきりした体内感覚を伴って

体験し易くなります。

 

その結果として、

必要以上に他者の問題に

首を突っ込んでしまったり、

 

相手の気持ちを確かめずに

自分の勝手な判断で

(と言う意識は本人にはないのですが)

相手の領域の問題を結論付けてしまう、

というようなことが起き易くなります。

 

 

 

「受け取る」ことを阻む体内感覚

 

更にもう一つ、

ハートの中心から前にズレて

自分で自分の前に

立ちはだかっている時には、

 

他者が与えてくれるものを

無意識に弾き返し、

自分が受け取ることを

自分で阻止し易くなります。

 

と言うのも、

本来の自分の前に

自分で立ち塞がっている状態とは、

 

外から来る刺激に対して

自己防衛をする構えであり、

すぐに応戦するための

臨戦姿勢であるからです。

 

そのため、

外側からやって来るものは、

 

それが情報であれ

他者の思いやりであれ、

自分に有益なものであれ

そうでないものであれ、

 

その種類や性質を

見極める暇もなく、

反射的に打ち返す反応が

自動的に起きてしまうわけです。

 

 

 

と言うことは、

 

自分が思ったように

他者から認められていないと

感じたり、

 

自分が与えている程には

他者や社会から多くのものを

与えてもらえていないと

感じるような場合も、

 

それは

外側の世界のせいではなく、

 

自分の体内感覚の不安定さから

現実をそのように

感じているだけなのかも知れません。

 

 

 

中心からズラす力の正体

 

散歩の時のお話に

少し戻ります。

 

前にズレると、心臓の前面に

モヤモヤ・ビリビリするような

苦しく不快な感覚が現れたと、

前述しました。

 

この不快感は、

自分を中心からズラそうとする力の

性質を物語っていました。

 

それは、

不安や焦り、恐れや疑いと言った

否定的な思考や感情です。

 

 

否定的な感情や思考を抱く時、

私たちの中には必ず

何らかの緊張が生じています。

 

この緊張は概念的なものではなく、

物理的なレベル、つまり肉体に生じます。

 

どの感情・思考に対して

どこにどの様に緊張が現れるかは、

 

私たちがそれぞれ経て来た

体験や経験によって

少しずつ異なります。

 

ですが、例えば

人との関わりの中で

痛みを感じる体験をすると、

 

愛情のやり取りを司る

ハートチャクラの表面には、

自分を守るための防壁が築かれます。

 

エネルギーの動きが凝集し、

硬い殻のように固まっているのを

イメージしてもらえば良いと思います。

 

外側からの様々な刺激を

その殻によって遮断して、

対処しようとするわけです。

 

エネルギーにこうした変化が

生じるのと同様に、

 

心臓そのものの表面にも、

緊張によって組織を固めたり

厚みを持たせることで、

外の世界から自分を守るために

変化が生じます。

 

 

 

こうして形成された複層的な防壁は、

「凝集」や「緊張」という

活動的な力を帯びた、

言わば生きている能動的な盾です。

 

そして厄介なことに、

私たちを守っているこの忠実な力と、

私たちは多くの場合「一体化」しています。

 

そのため、

私たちが本来の自分に戻ろう、

ハートの中心に戻ろうとした時に、

 

この生きている盾は

私たちが多くの恐れや不安を

抱えていたことを思い出させ、

 

ハートの中心から

防衛のための前線へと、

私たちを引き戻す力として

作用することになります。

 

 

 

本来の自分に還るために

根本から変化しようとする時、

 

それは肉体の変化だけでも

心理・思考面の変化だけでも

為すことは出来ません。

 

肉体の変化は、

パターン化した体内感覚から

抜け出すことで、

現実をより歪みのない形で

体験することを助けてくれます。

 

そうした肉体の変化に加えて、

 

これまで自分自身が

同一化して来た「盾」を、

自分から良い意味で分離して行く

必要があります。

 

盾を形成していた感情や思考は

どのようなものか、

それを一つ一つ意識的に見つけ直し、

それら全てを手放す作業を行います。

 

自分を防衛へと引き戻す

感情や思考のパターンから、

自分自身の力によって

自分を解き放って行くことが、

とても大切になるのです。

 

 

(感情や思考のパターンを手放す方法について知りたい方は、

当サイト内のブログ記事より

『天使に願いを~ネガティブな思考や感情を楽しんで手放す方法』

をご参照ください。)

 

 

時間と感情 / 2月の営業とキャンセル等の規定変更のご案内

 

目次

時間感覚を生み出す感情
電子に生じる歪み
恐れを現実化する電子の歪み
歪みが自分を本質から遠ざける
感情と時間をつなぐ、電子の回転
電子の共鳴
自分と一致して生きるには
2月の営業予定
各種の料金・時間設定に関するご変更

 

 

 

年が明けてから丸ひと月。

(と言うか、もう2月(^^; )

 

今年はお正月から

の~んびりしたペースだったせいか、

1か月の経過もゆっくりだった気がします。

 

大急ぎで頑張って

間に合わせの大掃除をするのではなく、

無理のない範囲で本当にやりたい事だけをしよう。

 

そう年末に決めたことで、

その後の流れも穏やかだった気がします。

 

 

 

時間感覚を生み出す感情

 

時間の感覚は、

その時々で違った印象を

私たちにもたらします。

 

急いでいる時には

あっという間に時間も過ぎて行き、

下手をすると

時間に追われている感じさえします。

 

ゆったりした気持ちでいる時は

時の流れもゆっくりしていて、

全てが穏やかに感じられます。

 

またあるいは、

退屈なことや面白くないことに

関わっている時には、

時間が経つのは嫌と言う程遅く感じ、

 

何かに夢中になって

時計を見るのも忘れて

取り組んでいる時には、

時間は飛ぶように過ぎていたりもします。

 

 

 

このように挙げてみると、

時間の感覚と言うのは

私たちの気持ちや感情の状態に

直結していることが分かります。

 

では感情と時間とは、

どのように関わっているのでしょうか?

 

 

 

電子に生じる歪み

 

最近、ある本の中に

面白い記述を見つけました。

 

それは数年前から

持っている本でしたが、

そうした記述があったことには

今頃になって初めて気付きました。

 

情報と言うのは、求める本人が

それを理解できる段階に至るまでは、

目の前に現れて来ないものなのだな

と思います。

 

 

 

その中には

『生命の最小の現れ』としての

電子について触れており、

こんな風な説明がありました。

 

 

(以下、読みやすい形になるよう、

元の文章を抜粋・要約しています。

『』内は、元のまま引用しています。)

 

 

 

電子は『純粋な宇宙の光の物質』で、

神と人が発揮する創造的な力(※1)に

稲妻のように反応すると、

(※1:具体的には、意図や意思を指していると考えられます。)

 

 

その力の働きに応じて形を変え、

物理的な世界を作る素である原子を

作り出すのだそうです。

 

 

そして、

 

 

『原子を構成する電子の数は

意識的な「思考」の結果であり、

意識的な「思考」で決まります。

 

 

それらが中心核のまわりを回る速度は

「感情」の結果であり、

「感情」で決まります。

 

 

中心核内部で激しく旋回する動きは

「神の息」です。

 

 

…中略…

 

 

電子のエネルギーはとても中立的で、

完全に生命に尽くすものです。

 

 

電子は、生命のほかの意識部分によって

条件付けされるときにのみ、

形となって現われます。

 

 

どのように条件付けされるかに応じて、

さまざまな形、姿、濃度を取ります。

 

 

…恐れや怒りや貪欲で創造するとき、

あなたは電子を誤用していて、

いのちに捧げる(電子の)原初の目的を

歪めて創造しています。』

 

 

(オレリア・ルイーズ・ジョーンズ著/『新しいレムリア』)
>p.283~285:復活の炎の章

 

 

 

恐れを現実化する電子の歪み

 

ここでの大前提として、

私たちの意識や意思、意図が

現実を創造している、

という理解があります。

 

その理解の上に立って

ここで言われているのは、

 

私たちがどの様な意識に基づき、

どの様な現実を作り出すことを

望むかによって、

 

現実を実際に作り出す

素材としての電子が

「条件付け」されることになる、

と言うわけです。

 

仮に、何らかの恐れを持って

現実を生み出した場合、

その思考に動員された電子や

おそらくは電子が描く軌道も、

恐れにより歪みを帯びることになります。

(歪みという条件付け=パターン化が起きます。)

 

そのため、自分の自覚としては

理想的な現実を思い描いていたはずなのに、

 

実際には

電子に付与された歪みによって

隠れていた恐れが反映されるため、

「現実」は恐れていたことが

形となって現れることになります。

 

例えば、

ヤマが外れたらどうしようと思いながら

試験勉強をしていたら、

ちょうど確認を省いたところが

出題されていたというように。

 

(もし、この人物に

どんなことを考えながら勉強していたの?

と質問をしたら、

「ヤマが当たると良いなぁと思って」

と答えるかも知れません。

 

そこで、本当にそういう言葉だった?

と更に詳しく聞いてみると、きっと

「ヤマが外れたらどうしよう、だった。」

と答えるでしょう。

 

つまり、私たちは無自覚の内に

恐れを含む言葉を心の中で使いながら、

それを意識していないことが多いのです。)

 

 

 

歪みが自分を本質から遠ざける

 

ここで言われている「歪み」は、

臨床を通して触れる身体の中に

私自身が観て取っているものと、

とても近いものだと感じました。

 

身体が帯びている歪みは、

単に肉体だけではなく

感情や意識なども含めた

あらゆるレベルにおける「歪み」を

反映しています。

 

こうした「歪み」こそ、

私たちの構造のまとまりや機能を

物理的に低下させるだけでなく、

 

私たちを自分の本質から遠ざけている力が

目に見える形で表現されたものだと、

経験を重ねる中で確信するようになりました。

 

肉体・感情・意識・エネルギーなどの

あらゆる階層で生じている「歪み」は、

全て同期してもいます。

 

ですが、「歪み」が電子のレベルから

起きているものならば、

それも当然のことだと納得できます。

 

 

 

…だいぶ脱線してしまいましたが(#^.^#)

 

以上のようなわけで、

この本の記述は

感覚的に信頼できると、

私自身は感じたわけです。

 

 

 

感情と時間をつなぐ、電子の回転

 

さて!

それでは時間の話に戻りましょう。

 

引用文の中程に、

電子が中心核を回る速度が

感情によって決まる、

という説明がありました。

 

電子の数を左右するのが思考で、

電子の回転速度が感情。

 

回転速度と言うことは、

電子の軌道とも関係があると

考えて良さそうです。

 

感情の状態に応じて、

電子の回転速度だけでなく

電子が描く軌道の形にも

変化が生じると仮定してみます。

 

 

感情によって決められる

電子の回転運動ですが、

 

その回転は、

回転の中心に位置する中心核と

呼応しているはずです。

 

中心核の中で生じている動きは

「神の息」でした。

 

『激しく旋回する動き』と

記述がありましたから、

非常に速い速度で旋回しているのでしょう。

 

ですが、

そこはあくまで「神の息」ですから、

どんなに目まぐるしい速度の中でも

永遠不変の秩序と調和が

保たれているはずです。

 

 

 

電子の共鳴

 

ここからは、

想像力を働かせてみます。

 

楽しさや幸福感の中に居る時、

感情は軽やかです。

 

この時、

感情のエネルギーは

心地よくスムーズに流れているので、

電子の回転も一定の速度を保ち、

軌道も美しく整っていると想像できます。

 

「神の息」の速い回転に対しては、

回転数(周波数)は異なっているでしょうが

共鳴の形で気持ち良くリズムが合います。

 

意識や感情は、いわば

「神の息」のリズムの内側にいますが、

そこから見える周りの世界は

感情自身のリズムを反映するため、

ゆったりした気持ちでいる時には

世界もゆっくり流れているように見えます。

 

 

一方、

やらねばならないことで

意識がいっぱいになっている時は、

感情的には焦りや不安を感じています。

 

こうした時、私たちの内側は

雑音が鳴り続けているような感覚です。

 

雑音を回転に置き換えてみると、

不安定で荒い軌道に、

不揃いでリズムを持たない回転

というイメージが浮かびます。

 

例えば、

なかなか眠れずに焦っている時、

一定のリズムで時を刻む

秒針の音を聞いてしまうと、

余計に焦りを感じるようになりますが、

 

自分が不安定な状態でいる時に

何かが一定不変のリズムで動いていると、

 

その揺るがない安定感との間に

大きなギャップを感じ、

自分の不安定さをより鮮明に

自覚するようになります。

 

焦りや不安によって

速度も軌道も乱れている

電子の気持ちになってみると、

 

「神の息」は残酷なほど

一定不変のリズムを奏でているように

感じることでしょう。

 

そのリズムに追い立てられている状態が、

つまりは私たちが時間に追われている感覚を

作り出していると想像できます。

 

 

…面白いですね~!(#^.^#)

 

 

 

同じように、

退屈な時には時間の経つのが遅く

楽しい時にはあっという間に過ぎるのも、

 

感情による電子の回転のリズムと

神の息による中心核の回転とが

共鳴しているかいないか、

と言う観点で理解できそうです。

 

 

 

自分と一致して生きるには

 

心地よい、楽しい、ゆったり、

寛いでいる、夢中になっている。

 

こうした状態でいる時、

私たちは自分の本質と共にいる、

と言うことが出来ます。

 

自分の本質と一致しているから

楽しく感じ、寛いでいられるわけです。

 

一方、焦ったり不安な気持ちでいる時、

私たちはどこかで無理をしていたり、

自分を信頼できていなかったりします。

 

つまり、

自分自身に対して正直ではなく、

強い言葉で言えば

自分と乖離しているとも言えます。

 

こうした状態にいる時、

実は私たちは

電子という最小単位から、

狂ったリズムで存在している

ということになるのですね。

 

おぉ~…。

 

想像しただけでも、

大変そうです。

 

 

 

自分自身に正直に生きる。

自分と一致して生きる。

 

こうした生き方は、

本当に行おうとすると

時に様々な困難に

出会ったりします。

 

ですがそれは、私たちがまだ

歪みを抱えているせいなんですね。

 

歪みを手放そうと意識し始めた時

私たちの電子は共鳴へと向かい始め、

 

その共鳴によって、

私たちが自分と一致して

生きようとする試みもまた、

大きな追い風を受けるように

なるのではないかと思うのです。

 

 

 

2月の営業のお知らせ

 

まずは、2月の営業日について

お知らせ致しますね!

 

12日の月曜日が臨時休業となる他は、

通常通りの営業を予定しています。

 

定休日は毎週水・日曜日、

営業時間は11時から20時となります。

現在の施術の最終受付時間は、

15時半とさせて頂いております。

 

また、

繰り返し利用して下さっている

クライアント様で

ご事情のある場合に限りますが、

水・日曜日の定休日も

ご予約を承っております。

 

水日ならば都合がつくのになぁ!

と思っていらっしゃる方は

どうぞ一度ご相談下さいね。

 

 

 

各種の料金・時間設定に関するご変更

 

最後になりましたが、この度

従来のneMu no ki のシステムの中で

二つほど変更・改善を行いましたので、

皆様にご案内申し上げます。

 

1つ目は、キャンセル料についてです。

 

ご予約間近での日程変更やキャンセルについて

今まで一括したキャンセル料を設けていましたが、

条件に応じてのより詳細な形に改善致しました。

詳しくは、こちらからご覧下さい。

http://inemurino-ki.com/prior-agreement/#cancel

 

 

 

二つ目は、施術前後でのお話の時間と

メールでのサポートに関してです。

 

当院では、施術の前と後に

お話の時間を設けています。

 

この時間は、

施術を単なる施術で終わらせることなく

良きセラピーとして機能させる上で、

実はとても大切な要素になっています。

 

そのため、これまでは

お客様に好きなだけ自由に

お話をして頂けるようにと考え、

そのように環境を設定して参りました。

 

ですが、

セラピーをより豊かなものとするために、

今後はお話の時間に敢えて

区切りを設けさせて頂くことに致しました。
また、

メールを通してのご相談やご質問も

これまでは自由にご利用頂いておりましたが、

 

セラピー後のフォローアップ以外は

有料の形で承らせて頂くこととなりました。

 

お話の時間とメールサポートに関する詳細は、

こちらにてご案内しております。

http://inemurino-ki.com/duration-and-charge/#charge

 

 

 

この度のシステムの変更を通して、

クライアントの皆様には

今まで以上に気兼ねなく安心して、

公平な形で利用して頂くことが出来、

 

更に、このように

これまで曖昧であったものに

明確な形を与えることによって、

 

皆様との関わりはより健やかで

かつ質の高いものになるのではないか、

私自身はそのように

期待を寄せています。

 

ご利用下さっている皆様にも

どうぞご理解頂けますように、

お願い申し上げます!

 

 

形の向こう側にあるもの/年末年始と1月の営業予定

 

 

目次

「形」とは何か?
形態と形成
形態は過去のもの
形の背後にあるカラクリ
形を見ることから抜け出す
「形成」を捉える
今、ここにある。
年末年始と1月の営業予定

 

 

「形」とは何か?

 

私達はなぜ、

「形」を持っているのか。

 

これは私にとっては

長い間の疑問になっていて、

今も答えを探しながらいます。

 

物理的な身体を持っていることの

理由についてもですが、

 

例えば一つ一つの臓器は

なぜあのような姿形をしているのか、

なぜあの形でなくてはいけなかったのか、

と言った点にも興味は尽きません。

 

なぜ、私たちは

形や形態を持っているのか。

これは正面から取り扱うにはまだ難しい題目ですが、

 

形とは一体何なのか、

形は私たちに

何をもたらしているのかについて、

今回はお話してみたいと思います。

 

 

 

形態と形成

 

「ゲシュタルト」と言う言葉があります。

 

ゲーテによれば、

「形態」を表すゲシュタルトという言葉は

何らかの姿形を伴って現れるあらゆる存在を

まとめて指し示すものなのですが、

 

彼はこの言葉に

ある問題が含まれていることを

指摘しています。

 

それは、

この言葉を用いることによって

生動し変化するものが捨象

される点です。

 

つまり、

あらゆる存在が持っている

生き生きとした活動性を、

この言葉は切り捨ててしまう、

というわけです。

 

彼はまたこの言葉によって

相互に作用しあって

全体を形成するそれぞれが固定され、

他とのつながりを断って

一定の性格を示すことになる

とも説明しています。

(註:「」内の太字はゲーテの表現。)

 

本来は、

すべての存在は「全体」の中にあり、

豊かな関係性やつながりの中で

互いに影響を与えたり受け取ったりしています。

 

例えば、対話している相手によって

自分の異なる面が出ることを

誰しも体験したことがあると思いますが、

 

「私」が示している姿も、

その時々の状況や関係性の中で

豊かに自由に変化しているわけです。

 

ところが、ひとたび

「ゲシュタルト/形態」という

表現を用いると、

 

豊かな「全体」の中から

特定の瞬間や部分が

バラバラに切り取られます。

 

そして、それ単独で示す姿を

固定的に捉えることになる、

というわけです。

 

たまたまムスッと機嫌の悪い時に

ぱちりと写真を撮られて、

「あなたって本当に愛想ないわよね~!」

と決めつけられてしまう感じ、

と言ったら良いでしょうか。

 

 

もし、

私たちが直観的に理解しているような

自然のありのままの姿に近づこうとするなら、

形態ではなく「形成」を大切にする必要がある、

とゲーテは続けます。

 

例えば肉体について考えてみると、

肉体は一瞬たりとも

静止したり固定化することはないので、

本質的には「形態」ではありません。

 

仮に意識的にすべての動きを止めても、

呼吸や心臓の拍動によって

身体の活動は維持され、

全身の細胞は振動し続けます。

 

目で見て分からなくても、

そうした運動によって私たちの姿形は

毎瞬ごとに様相を変え続けているわけです。

 

このように、変化し続けて

運動してやむことがない」ものに対して、

ドイツ語ではゲシュタルトという表現と分けて

形成(ビルドゥング)と呼ぶことを、

ゲーテは理に適っていると考えていました。

(参照:潮出版社『ゲーテ全集14/自然科学論』p.43~44)

 

 

 

形態は過去のもの

 

「形態」と「形成」と言う言葉に対する

ゲーテのこうした考え方に触れた時、

 

彼の頭の中にあった理解は、

量子力学でいうところの粒子と波動に

とても近かったのではないかと感じました。

 

量子は、粒子と波動の両方の性質を

同時に持ちます。

 

波動は、

粒子が常に運動し続けている状態であり、

その運動全体が波動です。

 

波動は動き続けているので、

それがある特定の時に

空間のどの位置を占めるかは不確定です。

 

すなわち、

時空間の中で明確な座標を示すことができない

という特徴を持ちます。

 

一方の粒子は、

時空間の中で静止している点なので、

座標を持ちます。

 

 

 

波動を粒子に変え

粒子を波動に変えるのは、

観察者の存在です。

 

外側から私たちが「見る」と、

その見られた瞬間において、

波動であった量子は

時空間の特定の位置に貼り付けられ、

固定されて粒子となります。

 

 

 

観察者の目が離れると、

粒子は波動に戻ります。

 

 

 

形を生み出し、さらに

変化していく過程である「形成」は、

固定することのできない波動と同じです。

 

一方、形成の中から

一瞬間を切り出したものが

「形態」ですから、

これは粒子と同じです。

 

そして形態は、

切り出した瞬間に過去になります。

形成は一瞬も止まることなく、

常に前へと進んでいるからです。

 

そうだとすると、

形や形態を見ながら生活している時、

私達は「今ここ」ではなく、

過去を生きていることに

なるのかも知れません。

 

 

 

 

形の背後にあるカラクリ

 

こんなことに思いを巡らした数日後、

近所の丘陵公園へと散歩に行きました。

 

この日はとても陽の光が美しく、

木々は紅葉していて、

全てが本当に美しい日でした。

 

リラックスした気持ちで森の中を歩き、

ちょっと知らない小道に入ってみたり…。

 

そんなことをしながら歩いている時に、

ふと頭に浮かびました。

 

今まで私は植物を見る時に、

「形」で捉えようとしていたのだと。

 

そして、

形態で見ているということは

定義づけをしているということであり、

ジャッジでもあるのだと。

 

 

 

普段何気なく使っている

自分のものの見方は、

物事を流動して変化していく

ありのままの姿を捉えるものではなく、

 

それをある特定の視点で切り取り、

そこで「これはこういうものだ」と

定義を決定づけしようとするものだ、

と気づいたのです。

 

そしてまた、

その一瞬間の印象によって

存在を固定されてしまう側からすると、

これはジャッジに他なりません。

 

「形態を見る」ことの

背後にあるカラクリが、

不意に見えた気がしました。

 

 

 

形を見ることから抜け出す

 

形から物事を捉える目を持って、

私達は生きています。

 

と言うことは、

あらゆる瞬間において、

変化し続ける周囲の情景や環境から

ある一面を選択して切り取り、

それを「形態」として認識し続けている、

ということになります。

 

これは例えるなら、

身体と言う全体性を把握するために

まずはバラバラに細部を切り出して、

部分の描写をしていく、

そんな解剖学的な作業と

似ているかも知れません。

 

分解された身体は、

精巧に組み立て直しても

生きた身体には戻らないように、

 

切り出した「形態」を

どれだけ積み重ねてみても、

自分を取り巻く環境や状況の

本質に辿り着くことは難しそうです。

 

形を見るというのは、

私たちが生まれてから

ずっと使い続けて来た、

現実を把握する方法です。

 

そこから抜け出すには、

どうしたら良いのでしょうか。

 

 

 

「形成」を捉える

 

ゲーテは

自然の生きた直観に到達しようとすれば、

われわれ自身が、この生きた自然の示す

実例そのままに形成を行えるような、

 

動的で伸びやかな状態に

身を置いていなければならない。

と言っていました。

 

それなら、

「形成する力」につながろう。

 

シンプル過ぎる試みのようですが、

私たちの意識の力は現実に働きかけ、

変化を生み出します。

 

意図を定め、信頼し、

改めて葉っぱを眺めました。

 

まもなく

自分の内的な感覚に

かすかな動きが生じ、

葉っぱの中のエネルギーの流れと

自分の感覚がつながった、

と感じました。

 

自分の視野に意識を向けると、

目が捉える景色も

少し変わっています。

 

今までは、例えば植物なら

葉っぱの形や幹の形と言う具合に

植物の部分部分が目に入りがちでした。

 

それが、木全体であったり

山の中でその植物が

どう在るかと言うような、

「全体性」がおのずと映り込んできます。

 

 

また、それまでは

観察する私と観察される植物の間には

「あなたと私」という

越えられない壁がありました。

 

それが今は、

植物の中のエネルギーが

自分を通り抜けて行きます。

 

自分もここの一部なのだ、

一体だという実感がありました。

 

歩き進むと、

森が力を与えてくれるのを

感じます。

 

森の中をそよぎ渡るように

大きな生命力が動いています。

 

その中を歩いて行くと、

歩く毎にその生命力が

流れ込んで来る、

そんな感覚でした。

 

 

 

今、ここにある。

 

もしかすると

森の精霊たちの力だったのしょうか、

大切な体験をさせてもらえたことに

感謝をしながら、

帰路に着きました。

 

途中、

橋に差し掛かった時に、

立ち止まって川を眺めました。

 

少し前に台風があったので、

川はとても澄んでいます。

 

川は台風によって

浄化されていました。

 

青色を湛えた美しい水面を見ている内に、

自分の内側を川が通り過ぎていくように

感じました。

 

川の上に立っていることで、

私も川と一緒に浄化されているのだ、

と分かりました。

 

 

 

きっとこういうことが、

「つながっている」

と言うことなのかも知れない。

 

形の奥にある流れと繋がった時、

そこには観察者も

観察されるものもなく、

すべてが共に変化して行くものの

一部としてあり、同時に全体としてある。

 

…そんなことを思っていると、

小さな川が注ぎ込んでいる合流地点に

アオサギが佇んでいるのが

目に入りました。

 

合流地点に重なるように

鎮座している大きな石の上に、

長い首をスッと伸ばして

微動だにせず立っています。

 

 

静かな、大きな存在感。

 

このアオサギは今、

居るべき場所にいるのだと

感じました。

 

そしてその姿は、

私が理解したことは合っている、

というサインのように思えました。

 

そう感じた瞬間、私の胸の中心から

大きな空間がふわ~っと

広がり始めました。

 

その大きく寛いだ感覚は、

深い安堵感と穏やかさに

変わって行きます。

 

身体のあらゆる感覚が

軽やかになると、

私は自分が子供の様に

自由になったのを感じました。

 

 

 

年末年始と1月の営業予定

 

ここのところ、朝晩の冷え込みも厳しさを増してきて、寒い日が続いていますが、みなさんお元気でいらっしゃいますか~?

 

本当に寒いですけれど、その一方で、今年は例年になく青空も陽の光も美しい日が多いように感じます。空気も澄んでいますよね。

 

…なんて、季節の移ろいを見守りながら楽しんでいる内に、年末が目前!

年末年始の営業予定のお知らせがすっかり遅くなってしまいましたが、お伝えさせて下さいね!

 

年末は29日までの営業で、年始は1月7日(通常は定休日の日曜日に当たっていますが、営業を予定しています。)から開始致します。

 

年内はご予約をお受けすることの出来る空枠がございませんので、これからご予約をお考えの方は、新年に入ってからのお日にちでご検討頂けましたら幸いです。

 

1月は、臨時でのお休みの予定はありません。

 

定休日は毎週水・日曜日となります。

リピートで来て下さっているお客様に限ってのお話ではありますが、ご事情があって水曜日や日曜日でとお考えの場合には承ることも可能ですので、その際にはどうぞご相談下さい。

 

営業時間は11時から20時まで、最終の受付時間は16時となります。

 

ご予約のない日は、急遽休みとさせて頂くことがあります。また、当日のご連絡ですと施術のための準備が間に合わないこともありますので、ご予約の際には前日までにご連絡を下さいますよう、ご理解とご協力をお願い致します。

 

 

少し早いご挨拶ではありますが、今年も一年間ネムノキを応援して下さった皆様に、心より御礼を申し上げます。皆様にとって、来年が今年よりもさらに豊かな一年となりますように。

 

それでは!

どうぞ良いお年をお迎え下さいね~!!

自然界が教えてくれる「自然体」でいることの大切さ /9・10月の営業のお知らせ

 

** 台風で被害に遭われた地域の皆様が一日も早く日常に戻ることが出来ますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

 

目次

 

 

ここ数年、長くて厳しい残暑が9月まで続いていて、秋らしい秋を体験していないのを寂しく思っていたのですが、今年は8月の末頃から急に冷え込むと、足早に秋がやって来ました。

 

少し前から、風に乗ってかすかに金木犀の香りが漂う日もありますね!

 

香りを辿って行くと、まだ少数だけれど、金木犀の小さな花が咲き始めています。本当にちっちゃな花なのに、随分遠くまで香りが届くんですよね。

 

そうか。
開花し始めの頃は、余計に芳香が強いのかも知れません。「これからいよいよ出番だわ~!」っていう勢いがあって。

 

 

 

幸せな自然体

 

9月の初め。

 

抜けるような青空の下、涼しく爽やかな風の吹く秋らしい日がありました。

 

風に誘われるまま川沿いに散歩に出かけると、そこかしこにレースのような花が咲いていました。辺り一面に、香水のような品のある良い香りも漂っています。

 

 

あ~、秋だなぁ~。
なんて空気が美味しいんだろう。

 

ミツバチとカナブンの一種かな?
その香りで呼ばれたんでしょうね。可愛らしい仙人草の中に首をつっこんで、花粉まみれです。

 

 

正しく自然と一体。粉にまみれてても(まみれてるからこそ!?)、その姿はとっても幸せそう。

 

思わず仙人草の前にしゃがみこむと、しばらく彼らの幸せな様子を観察。私も童心に帰ったみたい。妙に楽しいなぁ~。

 

 

 

それからしばらく日を経て、通勤中のこと。頭上でガサガサと大きな音がしました。

 

何だろうと思って見上げてみると、その先にいたのは一羽のカラス。電線の上に止まっているんですが、落ち着かない様子で姿勢をこっちに向けたりあっちに向けたりしています。

 

何をしたいんだろう?と思って改めて見てみると、カラスのいる電線に向けて枝を伸ばしていた柿の木に、葉に紛れるようにして青い実が生っています。

 

カラスはその実をつつきたくて、安定して姿勢を保てるポジションを探していたのでした。

 

しばらくの間、ああでもないこうでもないと姿勢を変えた末に、最後は電線からエイッと思い切って飛び降りました!

 

…と。
思い切った感じの大きな身振りだった割にはごくごく近くにあった枝に止まると、無事に実をつつき始めました。

 

なんだぁ。そんなに近くを狙ってたの?だったら、あんなに電線の上で迷う必要なかっただろうに。
思わず苦笑い。

 

でも、食べたい!っていう自分の欲求に、素直に一生懸命になっていたせいなのかな。迷ってた姿も何だか軽やかで楽しそうで、思わず私もウフフッて笑っちゃいました。

 

 

 

そして、先日のこと。

 

用水路わきの道を散策していたら、水路の中にプカプカ浮いているカモを発見しました。

 

黒と黄色のくちばしに、美しく青い翼鏡(よくきょう)。カルガモです。全部で5羽。狭い水路なので、すごい人(鳥)口密度!(笑)

 

ここは良く散歩で通りますが、カルガモを見かけたのは初めて。しかもこんなに沢山。

 

あ~、カメラを持って来れば良かった!

 

それにしても…。
みんな成鳥だし、普通に大きさがあるのに、5羽が一カ所に密集してる。仲が良いんだなぁ~。しかも身体の向きが揃ってて、シンクロみたい!

 

5羽描くのは大変なので、1羽だけ…。

 

少し先に行けば大きな川もあるのに、幅1mちょっとのところに何でわざわざ?他に競合する鳥がいない水辺で、のんびり過ごしたかったのかな。自分たちだけの空間を楽しみたかったとか?

 

よく見ると、カルガモのいる辺りは植物が茂っていて、周囲よりも特に涼しそうです。

 

 

カルガモとの間は、かなりの至近距離。そのまま歩いて行くと水面から飛び立って逃げそうだったので、カルガモから視線を外して目線を地面に落としながら、用水路とは反対側の端っこに沿って側道を進みました。

 

カルガモたちは止まってるかな?
チラッと横目で見てみると、彼らもこちらへ向かって移動して来ており、私とすれ違う姿がより間近く見えました。

 

あれれ?
逃げるでも止まるでもなく、逆に近づいて来てたんだ。変なの~。こちらの気遣いを分かってくれたのかな?面白いな。それだったら嬉しいな。

 

少し先の方に行くと、5羽そろって仲良く止まりました。やっぱり涼しそうな日陰の場所。「気持ち良いね~!」なんて話していたりするのかしらん。

 

カルガモたちにとっては、みんなで心地よい時間と空間を共有することが幸せの形みたいです。

 

 

どの生き物も、日常的な些細な風景の中で出会ったのだけれど、その姿はどの瞬間を切り取っても本当に自然体。(当たり前なんだけれど!)

 

だから、見ているこちら側もほのぼのした気持ちになって、あ~幸せ、楽しいなぁって、彼らと一緒になって感じるんですよね、きっと。

 

 

 

自然体を妨げるジャッジの意識

 

そう言えば、馬の仕事をしていた20代の頃に、こんなことを考えたことがありました。

 

人間は顔だちや性質が可愛いとか可愛くないとかで優劣を付けてしまうことがある。でも、馬はどんな個体でもみんなどこかしら可愛いって思える。それはどうしてだろう?と。

 

例えば馬と言ったって、顔立ちが美しく整っていることもあれば、ちょっと面白い愛嬌のある顔のこともあります。

 

目が離れていたり、反っ歯だったり、額に大きくへの字の模様があるから「へーちゃん」なんて呼ばれていたり。いやいや、冗談じゃなくて。

 

それに、みんなが競走馬のようにスラっとしていて格好良いわけではありません。中には頭が大きくて首の太い子もいるし、太っちょでお尻の大きいのや、胴体が太くて丸太みたいだから乗り手が足で挟めない、なんていう子もいます。

 

みんな色々です。

 

性格だって、明るいのもいれば、もしも人間だったら自閉症か鬱って診断されるかも知れない、そうでなくても、付き合いにくいって嫌厭されちゃうかもなぁ、と言うような陰の気が強い子もいる…。

 

でも、それはそれ。
不思議と、それぞれみんな可愛いんです。

 

ウマが合う合わないって言うのは(馬だけに…)もちろんあるけれど、どんな姿でもどんな性質でも、例え言うことを全く聞いてくれなくたって(←コラーとかコノヤローとは思いますが。)、そのせいで嫌いになったりなんて無いんです。

 

これは私だけではなくて、世話をしたり、馬と触れあっている馬好きな人たちの表情や態度を見れば、みんなもそんな風に感じているだろうなと分かりました。

 

で、それは何でだろう?と思ったのです。

 

人間同士だと、あの人は言うことを聞いてくれないとか、性格が暗いから、という要素が好き嫌いにつながったり、顔立ちで優劣のジャッジが下ることがあるのに、どうして相手が動物だとそういうことが起こらないのだろう?と。

 

当時考えた答えは、動物には自意識がないから、でした。

 

私は美しいとか、私は可愛くないというような、自分が他者からどんな風に見られるか?と気にするような意識を動物たちは持っていない。だから、いつも自然体でいられる。

 

そうやって自然体であることが、可愛さを感じさせるんじゃないか、という理解です。

 

今なら、これをもう一歩踏み込んだ表現に変えます。彼らが優劣や好き嫌いと言った、言わば価値判断=「ジャッジ」に関わる意識を全く持っていないから、と。

 

ジャッジの意識がなければ、他者を優劣や上下で価値づけることもなければ、自分自身に価値づけをして、自ら卑下するようなことも起こりません。

 

 

 

自分を偽らない素直な表現

 

馬たちと寝起きを共にしていた期間は6年半。今思い返すと、本当に本当に貴重な時間だったなぁと思います。

 

観光客や、普段は馬場の中で練習している乗馬クラブの会員さんなんかがやって来る馬専門の牧場で、その人たちを連れて外乗に行くのが主な仕事でした。

 

富士山が近い土地柄だったこともあり、秋や春などの観光シーズンは忙しく、馬の仕事量も多くなります。

 

忙しい日がしばらく続いたある朝、「仕事だよ~」と小屋に迎えに行くと、中にはこちらにお尻を向けて微動だにしない馬もいます。あらら、普段はちゃんとこっちを向いてくれるんですけどねぇ。

 

つまりこれ、出勤拒否の意思表示なんです(;^ω^)

 

もしこれが人間だったら、仕事が嫌いになって、もう無理!もう辞める!って怒り出しそうなところですけれど、彼らの場合は違います。辛いから怒るって言うことはなくて、辛いから「辛い」って意思表示をしている、という感じなんです。

 

ストレートに自分の感じていることを出して来るけれど、そこには辛い仕事をさせる人間への憤りはありません。「こいつらのせいで自分は辛いんだ!」なんて考えはないんですね。ただ、自分が身体で感じたことを素直に表現しているだけ。

 

(このセリフ、ジャッジの意識の一例です。この言葉の裏側には、例えば「相手がもっと配慮のある人なら…」というような形で、相手を他の存在と比較し、その価値を値踏みする意識が隠れています。そしてこの例からも分かるように、ジャッジの意識は被害者意識と表裏一体でもあります。)

 

こうした表現は、相手を傷つけることがありません。それに、馬自身も自分が表現したいことを抑えてはいないので、とても素直で分かりやすく、付き合い易いんです。そして、このような存在は一緒にいるだけでこちらの心も落ち着き、癒されて行きます。

 

馬たちのこうした姿を見ながら、私も彼らと同じような素直さを持ちたいと無意識の内に感じていた様に思います。

 

私は当時、人の感情に敏感なために気を遣いすぎたり、人の感情が自分に向けられた刃のように感じたりと、人の感情に巻き込まれがちな傾向があったために、人間が苦手でした。

 

そんな中、馬たちの腹蔵ないコミュニケーションに触れたことで、私は初めて気を遣うことなく他者と関わり、その中で安らぎと信頼を感じる経験を持つことが出来ました。馬たちは、私にとって最善のセラピストだったのです。

 

相手に自分の感情を投げ付けることなく、自分の感じたことを、ただ感じたままに素直に表現できる存在であること。そして相手の言葉にも、ジャッジすることなく耳を傾けられること。

 

自分がどんな人間になりたいのか、その理想とする姿も馬たちが教えてくれたと思います。馬たちと過ごした日々からずっと、これは私の中の大切なテーマであり続けています。

 

 

 

9・10月の営業予定

 

9月も半ばを過ぎてしまいましたが(^_^;)、確認のためにブログを見て下さっている方もいると思いますので、営業の日程をお知らせ致しますね!

 

9月は22日(金)、23日(土)29日(金)、10月は14日(土)、26日(木)が臨時でお休みとなります。

 

それ以外は、通常通り11時~20時の間でご予約をお受けしています。(最終受付時間は、17時です。)

 

以前に比べてフレキシブルにご予約をお受けしていますので、定休日となっている水日に関しましても、もしご希望がありましたらまずはご連絡下さいませ。

 

それでは!
皆様からのご連絡をお待ちしています!(*’▽’)
気持ちの良い秋をお過ごし下さいね~!

 

現実を作り出す「意図」の力とそのメカニズム

 

目次

 

 

 

 

無意識にやっている、「恐れ」に基づく選択

 

私たちは日常の中で、

様々な形で判断したり選択したりする場面に出会います。

 

もう9年ほど前になるのですが、

セッションルームの開店準備を行っていた時期のことです。

 

どんな部屋を借りるかから始まって、

壁紙の色、床材の質感、施術ベッドはどうするか…。

 

とにかく、自分で決めなくては行けないことが

次から次に出て来ます。

 

最初の内は、

あんな風にしたい、こんな風にしようか、と

色々と想像しながら選ぶのが楽しかったのですが、

 

次第に、「選んで決める」と言うことに対して

苦痛を感じるようになったことを覚えています。

 

 

 

選んで決めることが大変だと感じたのは、

「失敗してはいけない」という思いが

生じ始めたためでした。

 

沢山のものを選び、購入する中で、

「ありゃ~」と感じるような事が起きると、

同じ失敗を繰り返すまいとして慎重になります。

 

同じ轍を踏まないために、

様々なリスクを洗いざらい計算して検討します。

 

しまいには、

購入するのがどんな小さな物であっても、

 

セッションルームの雰囲気に

どんな風に影響を与えるだろうか、とか、

もっと手頃で良いものがあったりするのではないか、

いや、ここは金額よりも質を優先すべきか…。

 

なんていう迷いが、いちいち

頭の中をグルグル巡るようになり、

決断するまでに時間を要するようになりました。

 

 

 

こんな風に、私たちは日頃、

「失敗しないように」「損をしないように」

「出来るだけ適切なものを」

というような意識を持って

選択や判断に当たっていることが多いと思います。

 

それは買い物だけに限りません。

 

カフェに入って何を頼むかとか、

週末は自分の趣味と友人からの誘いの

どちらを優先したら良いのかとか、

 

彼女の言い分に賛成できないけれど、

果たして正直に言った方が良いのかとか、

 

あるいはもっと大きく、

人生の岐路に立っていて、

自分がどの道へ進んだら良いか

悩んでいる時など、

ありとあらゆる場面に当てはまります。

 

 

 

「失敗しないように」

「間違った選択をしないように」

と考えている時、

私たちの中にあるのは「恐れ」の感情です。

 

本当は、私たちには望ましい理想があり、

いつだってそれに従って

良い選択をしたいと考えているはずです。

 

でも、それに反して実際には、

私たちが選択に際して持つ「意図」は

恐れを反映している場合が多いようなのです。

 

 

 

望みに基づく前向きな意図と、

失敗を避けようとする、恐れに基づく意図。

 

(「意図」と言う言葉がピンと来ない方は、

動機や目的、ヴィジョンなど、

ニュアンスが重なる他の言葉に

適宜置き換えて読んでくださいね。)

 

意図の持ち方が異なれば、

生み出される結果にも違いが現れます。

 

その例を見てみましょう。

 

 

 

「恐れ」が現実になるメカニズム~うつ症状との関連

 

脳と言うのは、

私たちの心や意識の中にあるものを

現実化しようとして働きます。

(これは主に大脳の役割ですが、

それについてはまた書く機会がある時に。)

 

ただし、これは必ずしも

私たちが望むような形で現実化が成される

とは限らないところがミソです。

 

例えば、

こんな話をよく耳にすると思います。

 

小さい頃、母親に理不尽な怒られ方をして、

自分が母親になったら絶対にあんな風には

子供を怒らないゾ!と心に決めていたのに、

自分が母親になってみたら、

 

嫌だったその怒り方と

そっくり同じことをやっていた…。

 

 

 

脳は、私たちが「こういうのは嫌だな~。」

と思っているものも、現実化します。

 

どういうことかと言うと、

脳は私たちの意識が何かにフォーカスしていると、

それに関連する情報を収集し、分析し始め、

現実化へ向けて準備を進めます。

 

嫌だな、嫌だな、と思いながら

繰り返し同じ情景に焦点を当てて見ていると、

意識はそこで展開している事柄を鮮明に記憶します。

 

「嫌だな~」の気持ちが強ければ強いほど、

強い感情と結びついて記憶は克明になり、

より強く刻まれます。

 

「嫌だと意識する→記憶する」

という内的な作業が繰り返される内に、

思考の中にはその記憶に対応した「回路」が

出来上がって行くのです。

 

ある日、母親になった自分が、

幼少だった自分が怒られた時と

同じような状況に出くわします。

 

「同じような状況」をきっかけとして、

思考の中に出来上がっている回路は

自動的に作動し始めます。

 

そして、嫌がっていた母親の言葉が

今度は自分自身の口から飛び出る、

と言う現象が起きます。

 

つまり、望まない言動のパターンが、

知らないうちに脳の中の自動反応式の

回路として組み上がっていたわけで、

 

(厳密には、

この回路は身体の動きや感情も

要素として組み込んでいるので、

脳や思考の中だけで

形成されているわけではありません。

ここでは説明をシンプルにするために、

こうした表現を用いています。)

 

言ってしまった後で

「え~っ!?」と気付いて、

自分で愕然となったりするわけです。

 

(こうした回路も

変えることが出来るものなので、

これを読んで不安に感じた方も、

どうぞ安心してくださいね。)

 

つまり、脳と言うのは、

意識が集中しているものを

現実世界の中で何らかの形を取らせて

現出させる、

 

あるいは

意識の作用に物理的な形を用意する、

と言う役割を担っているのであって、

 

意識が集中しているその対象のものが、

私たちの良心や願望に照らし合わせて

好ましいか好ましくないか、

正しい方向性かどうか、

と識別するようなことはしてくれません。

 

もし、脳みそに

こうした自動識別装置が付いていたら、

選択することや判断することは

どんなに簡単だろう!と思いますが、

 

そうなると、今度は

私たちが持っている自由意思が

機能しないことになります。

 

自由意思を持っていることによって、

私たちは選択や判断の困難さとも

向き合うことになっているわけです。

 

 

 

上述したような、

「嫌だな~」と思っていた母親の行動を

そのまま無意識に踏襲してしまった例は、

「こうはなりたくない」という

「恐れ」に基づく意図を持っていたために、

それが現実化した一例です。

 

恐れや不信に基づいて

選択や判断が成された時、

現れる結果は自分の望んだものとは

異なっているもののように感じます。

 

この場合、

意図・選択は無意識になされているので、

現れた結果(母親の行動の踏襲)を

自分の選んだものだと認識することが

困難なためです。

 

でも、実はすべての結果=現実は

自分で選んでいるものなんですね。

 

もし、「ああいうのは嫌だな~」

と思いながら母親を見るのではなく、

「私はこういう風にありたいな。」

と理想的な姿を思い描けていたなら、

母親の行動を再現することはなかったでしょう。

 

前者は恐れに基づく意図、

後者は前向きなヴィジョンに基づく意図です。

 

 

 

私たちが選択や判断をする機会は

一日の間に何十回となくあります。

 

恐れや不信から選択することが

パターン化していると、

そのすべての機会において

様々なリスクを頭の中に並べ立て、

計算をして…

というプロセスが繰り返されることになります。

 

この思考を毎日毎日繰り返すことは

トレーニングを重ねているようなものなので、

本人としては望んでいないのに

このパターンはどんどん強化されます。

 

やがて、些細なことでも迷うようになり、

次第に自分一人では何も判断できなくなったりします。

 

これは私自身

体験があるので言えるのですが、

 

こうした思考のパターン化こそが、

現代社会においてうつ症状を作り出す

大きな原因となっていると思います。

 

では、こうしたパターンを手放して

現実を望ましいものにするには、

どのように自分の意識と

取り組んでいったら良いのでしょうか?

 

「意図」の使い方を

変えて行く必要があります。

 

 

 

 

結果を決めるのは、意図(動機)

 

意識の在り方に応じて、

私たちの目の前の現実の中に

それが結果と言う形を伴って

現れてくる。

 

こうした言説は、

成功哲学や精神世界系の分野では、

比較的よく目にします。

 

少し話が飛躍するようですが、

アメリカに心理学者でありながら

有名なサイキックヒーラーでもある

ドリーン・バーチュー女史と言う方がいます。

 

彼女は天使を見ることが出来、

対話することも出来るのですが、

その彼女の著作の中に、

 

「天使に頼んだり祈ったりする時は、

どうなりたいかだけを伝えるように。」と

いう意味合いのことを

天使から告げられたと言う記述が出て来ます。

(『新版・女神の魔法』ドリーン・バーチュー著 島津公美訳/p.209)

 

これは、望んでいる結果を思い描けば、

それを実現する方法は天使が選ぶ。

だから、私たち人間がやるべきことは

望みを明確に意図するだけということでもあり、

 

(むしろ、私たち人間の狭い視野の中で

実現に至る方法まで考えてしまうと、

かえって望みの実現を遠ざけることも

文意から汲み取れます。)

 

結果=現実を生み出す因子として

選択・行動以上に意図が重要であると言うことを、

この記述からも読み取ることが出来ます。

 

 

 

とは言っても、現実には

結果を出すには選択・行動が必要だもの。

それなら、選択・行動だって

結果に影響するよね?

と思いますよね。

 

意図や意識の在り方によって、

選択や行動は左右され、自ずと決まって来ます。

 

これも、例を見てみましょう。

 

 

 

例えば、アパートのお隣に

新しい人が引っ越してきて、

ドアの開け閉めなどの

騒音が気になるな…と思った場合。

 

音に少し気を付けてもらえるよう、

直接話しをしに行ったとします。

 

ここでの最大の目的=意図は、

静かにしてもらうことです。

 

聞いてもらう立場なので、

少し下出になるかも知れません。

 

「この建物は思ったよりも

音が響きやすいようなんです。

私も出来るだけ気を付けますので、

少し気にかけて頂けたらと思いまして。」

 

ところが、

「先住者に対する配慮が足りない」

なんて気持ちがちょっとでもあったりすると、

 

こちらの希望を聞いてもらう

という意識はうっかり消え去り、

相手を責める気配が出て来ます。

 

「音がうるさいので、

少し静かにしてもらえますか?」

 

…ありゃ~(;^ω^)

 

意図の持ち方・意識の在り方は、

選択や行動(言動)に

目に見えぬ形で影響を与え、

それらを自ずと決定づけます。

 

 

 

恐れによって、現実化の過程はゆがむ

 

と言うようなわけで、

何らかの結果が生まれてくる

現実化のプロセスを考えると、

 

まず、

それをやることで自分が何を得たいのか、

その意図(目的・ヴィジョン・動機)を決めて、

それに従って選択・行動が成されることで

そこに結果が自ずと生じてくる。

 

意図→選択・行動→結果、

こういう順序になる訳です。

 

ここで、もし意図の中に

「恐れ」が紛れ込んでいる時には、

前向きで自発的であるべき

意識的な意図の代わりに、

恐れが作り出す言わば「妄想」が

結果を生み出す因子として作用し始めます。

 

 

 

先ほど、選択・行動は

意図や意識の在り方に

影響を受ける、と書きました。

 

前向きな意図の場合、

選択・行動も前向きになるので、

方向性は同じです。

 

一方、

恐れによる妄想の場合は、

 

現実がその妄想通りになるのを

避けようとして

選択・行動がなされるため、

 

意図(この場合は妄想)と

選択・行動の示す方向性は、

逆の向きになります。

 

意図と選択・行動の関係性が、

ここでは歪んでしまっています。

 

 

 

さらに、これらの結果として

現れる現実を比べてみると、

 

前向きで意識的な意図の場合は

選択・行動も前向きでしたから、

結果もそれに準じて現れます。

 

仮に思ったような結果ではなくても、

因果関係がすっきりしているので

次に取るべき行動がすぐ分かり、

がっかりしたり凹んだりすることも

あまりないかも知れません。

 

一方、

恐れによる妄想の場合、

選択・行動は妄想とは逆方向でしたが、

「現れる結果は意図に従う」わけなので、

結果・現実は妄想に則したものになります。

 

ここにもまた、歪みが生じています。

 

このようにして、

意図、選択・行動、結果の間の

関係性が歪み、

それぞれの方向性に混乱が生じた時、

 

私たちの目の前に現れる「現実」は、

私たちの手には負えない

コントロール不能のもののように

見えて来るのです。

 

 

 

 

現実化の過程を正常化するには

 

では、私たちが

「意図→行動→結果」の間に

健全な関係性を取り戻すには、

どうしたら良いのでしょうか?

 

この関係性に秩序を取り戻すには、

日々の努力が必要になります。

 

そもそもの原因は、

日々の選択・判断の際に

無意識に「恐れ」と

繋がっていたことにあります。

 

と言うことは、

すべての選択・判断を

前向きな意図から行うように

変えて行くことが出来れば、

「意図→(選択・判断)行動→結果」の間には

秩序が戻るはずです。

 

(意図を明確にする際に、

そこにどうしても恐れが入る

ということもあると思います。

 

意図そのものをクリアにする為には、

恐れと向き合う取り組みも大切です。

恐れの感情を手放す方法については、

以下の記事を参考にしてくださいね。)

天使に願いを~ネガティブな思考や感情を楽しんで手放す方法/1~2月の営業予定

 

 

取り組むのは、

どんな些細なことでも構いません。

 

例えば、

この仕事を今日中に仕上げないと、

と言うようなシチュエーション。

 

今までは

「できなきゃ上司に叱られる」

と思っていた(無意識の妄想)所を、

 

思い通りに仕上がって

満足している自分の姿を

思い描いてみる(意識的な意図)、

というような具合です。

 

あるいは、

それを受け取ったお客様が

満面の笑顔になっているのを意図する、

というのも良いですよね。

 

 

 

日常的に行っている

ちょっとしたストレッチだって、

 

「ここが固いんだよな~。

やっぱり伸びないな~。」

と思いながら(無意識の妄想)やるのと、

 

「これをやると、流れが良くなって

身体が柔らかくなるはず。」と信頼して、

それを意識的な意図として行うのとでは、

実際に身体の反応も異なります。

 

どんな些細なものであっても、

行動する際にはそれに先立って

こうした前向きな「意図」を

自分の中で思い描く、

 

それを徹底して行うことが出来れば、

意図→行動→結果のプロセスが

秩序を取り戻すだけでなく、

 

先の例で挙げたような

母親の負のパターンを再現するような

自動反復の思考の回路も、

健全な形で書き換えられて

行くだろうと思います。

 

 

 

起きる現実に、信頼を持つ

 

ちなみに、

自分が本当に望んでいることを

まず意図する習慣が出来ると、

結果にも頓着しなくなります。

 

なぜかと言うと、例えば

望まない結果が出てきた場合でも、

それを見て

「なぜ失敗したのか?」と

後ろを向いて考えるのではなく、

 

自分は本当はどうしたかったのか、

本当に望んでいたものは何だったのか、

ということが自分の中でより明確になり、

結果を飛び越えたさらに先へと

目線が行くからです。

 

現れてくる結果は、

自分がいかに失敗したかを

責める材料ではなく、

 

目的を再確認するため、あるいは、

自分の本当の望みが何かを、

より深く理解するために

存在するようになります。

 

 

 

また、望ましい結果を意図することは、

その結果が起きることを

結果に先んじて信頼することでもあります。

 

つまりこの取り組みをすることは、

まず信頼の気持ちを持つこと、

そして結果の如何に関わらず、

その信頼の中にいられるようになる、

と言うことを目指すことにもなるのです。

 

 

 

 

「意図」の持つ本当の重要性:バウンダリ―の強化と、本質的な自己との一体化

 

実は、「意図」の重要性は

意図自体にあるのではなく、

 

意図をするということを通して

2つの重要なことが

可能になる点にあると思います。

 

その一つ目は、

自分自身への信頼を回復し、

自分と他者の世界の間に

健全な線引きをすることが出来る点です。

つまり、自己のバウンダリ―の強化です。

 

自分への信頼を失い

自己不信を深めて行く時、

 

私たちは無意識的に、

自分の取った選択や行動が

間違っていたのではないかと、

自問を繰り返します。

 

そして、

もしかしたらその選択や行動に

利己的な気持ちや自己防衛、あるいは

邪な考えが入り込んでいたのではないか、

と自分の心の中を疑い始めると、

 

自分自身に対する信頼は急速に、

根本から揺らいで行きます。

 

ですがもし、選択・行動をする前に

自分の意図を意識的に把握する習慣を

身につけることが出来れば、

このような形で自分自身を疑うことはなくなり、

自分への信頼が増して行きます。

 

また、自分が前向きな良き意図から

選択・行動したことを自覚していれば、

仮に他の人がそれを否定的に見たとしても、

それはその人なりの受け止め方として

割り切って考えることが出来ます。

 

こうして自分と他者の世界の間に

適切な線引きをすることが出来るので、

他者の世界の中にある

本来は他者自身が向き合うべき問題を、

不必要に抱え込んでしまう様なことから

自分を守ることも可能になります。

 

 

 

二つ目は、

意図をするということを通して、

私たちが一日の内に何度も

高い次元の自己と繋がる機会を

持つことが出来る点です。

 

前の章の最後に述べた、

「結果を見る前に

まず結果を信頼する。」

 

これは高い次元の意識の在り方であり、

全ては調和の中に現れてくる、

ということに対する信頼でもあります。

 

 

 

私たちが何か選択をする時、

そこで考えられる選択肢は

大抵の場合、複数あります。

 

その選択肢の一つ一つには、

その選択を行った「私」がいます。

またその「私」の数だけ、世界もあります。

 

つまり、選択肢の数だけ

幾人もの「私」が同時に存在し、

また幾つもの並行世界が存在していると

考えてみて下さい。

 

もし、恐れに屈して

選択肢Aを選んだ時、「私」は

恐れの中に住み、視野の狭まっている「私A」と、

 

結果を信頼する前向きな意図で

選択肢Bを選ぶ時は、「私」は

今の自分よりも開けた視野を持つ

高い次元にいる「私B」と、

 

それぞれの機会の中で

一体化することになります。

 

 

 

一日の中で何度も行う「選択」において、

すでに高い次元の並行世界にいる

自分自身と繋がることを

繰り返し意図することが出来たなら、

 

私たちは日常の地道(地味(;^ω^))な

取り組みを通して、

高い次元の自己であり本質的な自己である

ハイヤーセルフへと、

私たち自身を近づけて行くことが

出来ると思うのです。

 

 

 

___________________________

 

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天使に願いを~ネガティブな思考や感情を楽しんで手放す方法/1~2月の営業予定

 

1月ももう下旬! 新年を迎えてのご挨拶が

大変遅くなりました~!

どんだけのんびりなんだ!

っていう感じですが、

 

本年もどうぞ

よろしくお願い致します!

 

今年の年始めは、

空気がとてものんびりと

しているように思いました。

 

例年は、元日に3軒

初詣のはしごを

していたのですが、

 

今年は 初詣に行かなやきゃ!

という気持ちを手放して、

 

本当に自分の好きなように

時間を過ごすことにしました。

 

 

 

そう言えば、

私が子供の頃のお正月は

市内のお店と言うお店の

シャッターが閉まっていて、

町中ひっそりとしていました。

 

三が日の間は

日中でも人の気配がなく、

 

静かで平和なその空気には、

子供心ながらに

特別さを感じたものでした。

 

今年のお正月は

本当に何十年ぶりかで、

そんな「特別」な感じに

近い感覚を味わえたような

気がします。

 

でもそれは、

マイペースに過ごしたから

というだけでは無く、

 

自分の内側に

起きつつある変化が、

反映されたせいでも

あったように思うのです。

 

 

 

ネガティブな思考を手放す

 

昨年の末頃、私は

ある取り組みを始めました。

 

自分の内なるおしゃべりに

自覚的になり、

 

そこで浮かんでくる

ネガティブな思いや考えをすべて

きれいに手放すことです。

 

言うのは簡単だけれど、

実際にやるとなると

どうしたら良いのかわからず、

かなり難しそうなことに

思えますよね。

 

でも、出来るんです。

と言うか、私には

必ず出来ると信頼を感じて

取り組み始めたことがありました。

 

 

今回の記事では、

それが実際に

どんな取り組みなのか、

その詳細について

お話しして行きたいと思います。

 

自分の意識を

クリアにしていく方法の

お話ですので、

 

瞑想をやりたいのに

雑念が浮かんで来て

上手く行かないと言う方や、

 

どうしても

ネガティブな思考から

抜け出せずに

苦しんでいる方には、

 

きっと役に立つ

内容だと思います。

 

その前にまずは

1~2月の営業予定の

お知らせを。

 

 

 

1~2月の営業予定

 

1月23日(月)と

2月27日(月)は

臨時でお休みさせて頂きます。

 

それ以外は通常通りの

営業となります。

 

定休日は毎週水・日曜日、

営業時間は11時~20時、

施術の最終受付時間は

17時とさせて頂いております。

 

施術のご予約は

前日までに

ご連絡下さいます様、

皆様にご協力を

お願いしております。

 

キャンセルや

日程のご変更の際には

ご予約2日前から

キャンセル料が発生

致しますので、

どうぞご注意下さいませ。

 

 

 

感情や思考は「感覚」から生まれる

 

ネガティブな思いや考えを

抱えている時は、

何よりも自分自身が

辛く感じるものです。

 

思いや考えには

「感覚」が伴います。

 

むしろ実際には、

まず感覚が生じます。

 

何かのきっかけで、

気付くか気付かないかの

かすかな感覚が生じると、

 

それはほどなく

「言語」の形態をまとって、

感情や思考として

意識に上ってきます。

 

 

 

浮かんできた思いや考えが

ネガティブなものである時は、

 

モヤッとしたり

イラッとしたりするような

不快な感覚が先行しています。

 

何せ不快なので、

身体はこの感覚を黙って

抱えたままにしておくことが

出来ません。

 

不快さを解消しようとして

身体は自ずと反応を起こします。

 

時には自分でも抑制できずに

相手に怒りをぶつけたり、

 

内側から出ようとする

衝動的な力を

ぐっと押さえ込もうと、

感情を飲み込んでいる自分に

気付いたりします。

 

どちらの場合にしても、

不快な感覚は残念ながら

解消されることがないのは、

誰しも経験を通して

理解されていることだろうと思います。

 

 

 

意識が身体に及ぼす影響の深刻さ

 

ネガティブな思いや考えを

手放すことは、

実は私たちが

健康を保つうえでも

大変重要なことです。

 

私たちの身体は

「嫌だな~」

「失敗した!」

「急がなきゃ」

「なんで私って…」

と言ったような、

 

私たちが日頃

何気なく口にする、

些細な自己非難の

言葉にさえ反応しています。

 

私たち自身の

何気ない一言によって、

身体は緊張し、

身構えるのです。

 

特に緊張が起きやすいのは、

心臓や背中の辺りで、

時には後頚部にも

感じられるかも知れません。

 

私たちが意識せずに

「あ~」と思うたびに、

心臓や背中、首では

律儀に反応が起き、

緊張によって硬くなることを

繰り返しているわけですから、

 

一日経つ内には

身体は何もしなくても

相当バリバリです。

 

それを毎日繰り返すとなると…。

 

健康に良くないわけが

分かりますよね( ;∀;)

 

 

 

さてさて。

 

自己非難や他者への怒りなど

ネガティブな要素を含む

思いや考えは、

 

発散したり

抑え込むことによっては

解消できないことは

先に述べました。

 

これらを手放すのに

カギとなるのは、

「芽」の段階で

察知することです。

 

「芽」とはつまり、

感情や思考になる前の

感覚の段階を指します。

 

それは、

自分の胸の辺りや

みぞおちの辺りに

もわっと湧いて来たり、

 

時には頭の中で

カッと点火するような、

かすかで瞬間的なものです。

 

そうした感覚が

生じたことに気づいたら、

それを自分の中で

解消しようとせずに、

 

私たちよりも

高い次元の存在へと、

処理を委ねます。

 

 

 

天使に願いを。

 

自分の中に

不快さの「芽」が

生まれるのを感じるのは、

 

例えばこんな場面かも

知れません。

 

電車の中に、

大きな声で

電話をしている人が

いた時、

 

たまたま目のあった人に

不機嫌そうな顔で

にらまれた時、

 

朝、出勤前の

急いでいる時間に

父親がトイレを

占拠していた時、

 

いつもきれいにしている

自宅の前で、

タバコのポイ捨てを

発見した時。

 

 

どれも些細なことですが、

数限りない状況で

不快さの「芽」は

生じる可能性があります。

 

それに伴って

身体と心まで

緊張させてしまわない為に、

 

私は自分の守護天使に

「芽」を引き渡して、

光に変えてもらうようにしました。

 

不快さが

生じそうになったら、

心の中で

天使に呼びかけます。

 

「天使さん、

あの方に光と祝福をお願いします。」

 

こうして、不快さを感じる

きっかけになった人や物へと、

光を送ってもらえるように

依頼するのです。

 

 

 

急に天使が出て来たので、

驚いた方もいらっしゃるかも

知れませんね( ^ω^ )

 

この方法は、

ある書籍からヒントを得て

やり始めました。

 

その書籍には「祈り」について

こんなことが書かれていました。

 

「愛とは人の心を

開くエネルギーであり、

私たちは思いによって

それを送るのです。

 

私たちが純粋な愛の光を

人々に送ったとき、

天使の力が

それに結び付いて

奇跡を起こします。

 

もし、そのとき

天使に助力を

お願いすれば、

それはもっと

パワフルになります。」

 

「戦争の起こっている

場所のことを考えるときには、

そこで起こっている悪い事柄に

焦点を合わせないことです。

 

闇の力にエネルギーを

与えることになります。

 

その代わりに、光が

その場所に射しこむように

イメージしてください。

 

天使たちがそこにいる人々を

助けてくれるよう

お願いするのです。

 

あなたの祈りが、

天使たちがそこを訪れ

救うための

光の道筋となります。」

(引用:ダイアナ・クーパー著

『エンジェル・ストーリー』 p.34)

 

 

 

これを読んだ時に、

こんな理解が浮かびました。

 

私たちは他者の配慮のなさや

思いやりのなさを見咎めて

ついつい責めたくなりますが、

 

その代わりに

その人に向けて

光と祝福を送って下さいと

天使に祈ることは、

 

その人に対して直接

天使が働きかけるための

光の道筋を作る事になり、

 

その人が本来持っている

配慮や思いやりの気持ちが

より良く機能するように、

 

間接的ながらも

サポートの手を

差し出すことになるのだ、と。

 

(天使は高い次元の存在で

高い周波数を纏っているため、

 

低い意識でいる人には

近寄りたくても

近寄ることが出来ず、

直接サポートすることが

難しいのだそうです。

 

そこへ、

その人へ向けて祈りが届くと、

 

それが天使の通る

光の道となって

天使がサポートすることが

可能になるようです。)

 

 

 

天使の存在を

信じているかどうかは

ここではひとまず

置いておいて頂いて、

 

願えば変化は起きます。

そして、それは

私たちの内側の感覚で

実際に感じることが出来ます。

(詳しくは後述します。)

 

 

 

あまりに腹が立つような時には、

相手のために祈るのは

難しく思えるかも知れませんが、

 

実際に試してみて、

祈ることで不快感が

解消されるのを

実感するようになると、

 

不快感を握りしめて

腹を立て続けるよりも、

祈ることの方が

明らかに実用的だと

感じられるようになります。

 

 

 

天使に祈った際には、

私たちが気付けなくても

天使はちゃんとそれに

応えてくれているので、

 

「ありがとうございます。」

 

とお礼を言い添えることも

忘れないようにします。

 

 

 

ジャッジの意識や過去の記憶も手放す。

 

実際に天使に祈る際には、

怒りや自己非難が生じそうな

場面だけではなく、

 

自分の中で

他者に対するジャッジが

起きそうになった時にも

必ず行うようにしました。

 

例えば、

目つきの悪い若者を見て

「わ、怖そう」

と思うようなことも、

 

道端で寝起きしている

人を見て、

「大変だろうな~。」

と思うようなこともです。

 

自分の価値基準や

先入観があると、

 

他者との間に

必要のない溝が生まれ、

その人の真実の姿を

見誤りがちになります。

 

ニュートラルに物事を

受け止められるようになるには、

 

小さなジャッジの「芽」も

天使にすべて引き渡して、

これもまた光へ変えてもらうのが

一番良いと思いました。

 

 

 

また、天使には

時空間をまたぐ移動も

可能なはずですから、

今現在における

ネガティブな思いや考えに限らず、

 

思い浮かんで来た

過去の出来事についても、

祈りの対象にしました。

 

過去の出来事で関わった人や、

その時の自分自身もです。

 

思い出した瞬間に、

少しでも自分の内側に

モヤッとする感覚を

感じそうなものは、

片っ端から祈りました。

 

 

 

過去の記憶は、

その痛みが本当に

解消された時には

思い出さなくなり、

 

仮に思い出しても、

その時の感情は伴わず、

冷静に見られるように

なります。

 

思い出す度に

実感を伴う内は、

 

それがまだちゃんと

処理できておらず、

手放せていない証拠なのだ

と言うことも、

 

天使の力を借りることで

改めて分かりました。

 

 

 

 

感情は、理解だけでは解消されない。

 

これをやり始めて数日は、

人とすれ違うたびに

立て続けに天使に向かって

祈らなくてはいけないような、

大変な状態でした。

 

いかに普段、

自分が些細なことに

頻繁に気を取られていたか、

嫌でも分かります。

 

その量の多さには、

自分でも心底驚き、

呆れました。

 

私は、

自分と向き合うことを

大切にできている人間だと

自分では思っていましたが、

 

自分の意識が

これほどまでに外側に

向いている状態だったかと、

初めて気づかされた思いでした。

 

 

 

自己弁護をするようで

恐縮ではありますが(^▽^;)、

 

施術者と言う仕事柄、

自分の内的な問題とは

今までかなり丁寧に

向き合って来ていると思います。

 

学びを深めて行くと、

 

自分の外側に見えているものは

すべて自分の内側の世界の

「投影」であることを、

理解するようになります。

 

その理解は、

自分の内側で起きる

感情のカラクリを

見破ることを

可能にしてくれますが、

 

腹が立つことや

感情の波が起きること自体を

無くしてくれるわけでは

ありません。

 

そのために、

学びが深まって行くほどに

かえって自分の感情に

出口を見出せなくなるという、

 

難しい循環に

嵌まり込んでいた可能性も

あったのかも知れないと

思います。

 

 

 

知っている人だと、腹は立たない。

 

天使に向かって祈ることで

面白いと感じたのは、

 

モヤモヤとした感覚が、

胸の辺りからスッと

引き抜かれるように

消えて行くことです。

 

不快さの「芽」自体を

摘んでもらったから

なのでしょうね、

 

モヤモヤがぶり返すことも

ありません。

 

 

 

祈っても

不快さが消えない時には、

祈り方をより

詳細にしてみます。

 

自分が不快に感じたのは

何に対してだったのか、

それを具体的に

把握し直した上で、

改めて祈ります。

 

私の場合は、

不快さを感じるのは

大抵の場合、

配慮と思いやりの欠如を

感じる時なので、

 

「あの方の配慮と

思いやりの気持ちを浄化し、

光で満たしてください。」

と言うような感じになります。

 

 

 

他の例も挙げてみるなら、

 

家族のケンカを見ると

辛い気持ちになる場合や、

 

人前に立つと

緊張を感じてしまう場合は、

 

ケンカをしている当人達や

その場に同席している人達に向けて

 

「彼らの理解力と受容力に

光と祝福をお願いします。」

というような感じになります。

 

 

 

もう一つ

興味深く感じたのは、

 

天使を通じて

祝福をお願いした相手は、

不思議と身近に感じることです。

 

祈る前に比べると、

「知っている人」という

感じがするのです。

 

失礼があると

知らない人だと立つ腹も、

知っている人だと

意外と「まぁいいか。」

となったりしますよね。

 

祈ることで現れる親近感は、

エネルギー的に

同期が生じることを

示しているのかも知れませんが、

 

理由はともかく、

祈るとその人のことが

気にならなくなったりします。

 

 

 

内側の静けさが、自分を自分と向き合わせてくれる。

 

始めの頃に比べて

不快さを感じる場面が

次第に少なくなり、

 

頭の中で

勝手に起きていた

ネガティブなおしゃべりも、

随分と静かになって来ると、

 

自分の内的世界に

静けさと穏やかさを

感じるようになりました。

 

散歩をしたり

瞑想をしたりしていて

雑念が浮かぶことも

少なくなりました。

 

頭の中のおしゃべりや

勝手に浮かぶ雑念とは、

処理できていなかった

ネガティブな思いや考え

そのものだったのでしょう。

 

そして、

こんなことに気づきました。

 

自由な時間が出来た時、

今までの私は

何となくテレビを見たり

ネットで物色をすることで

時間をつぶしがちな傾向が

あったのですが、

 

それは自分の内側に

つねに不快感が

くすぶっていたせいで、

 

静かにして

自分と共にいようとすると

それが浮かび上がって来る為、

 

無意識的にそれを

避けようとしていたのだな、と。

 

 

 

今でももちろん

テレビやネットは

見る時もありますが、

 

以前に比べてずっと

多くの時間を、

 

自分の内側に意識を向けて

自分とゆっくり一緒にいる、

ということに

使えるようになったと思います。

 

 

 

 

姿勢は、心の状態を左右する ~馬の臨床②:ジャック編

 

穏やかな青空に恵まれた

年の始め。

 

この日、

暖かな陽差しの中を

ポニー達のいる「馬飼舎」へと

向かいました。

 

(くにたち馬飼舎:

http://hatakenbo.org/jackdandy

 

場所は、

neMu no ki と同じ国立市内。

歩くと30分くらいかかります。

 

周囲には田畑があり、

その間を細い用水路が流れ、

 

時期によっては、

ザリガニを探す子供たちの

声が響いていたり、

 

それを見守る

お母さんたちの姿がある、

懐かしい匂いのする場所です。

 

この日は三が日とあって、

あたりは静かな気配。

心なしか、時の流れも

ゆっくりしているようでした。

 

 

到着すると、

日当たりの良い馬場の

柵の上から、

黒い顔がひょっこりと

外を覗いていました。

 

ジャックです。

 

ジャックは、

細く柔らかな手触りをした

真っ黒い毛並みのポニー。

 

のんびりしている様子に釣られて、

挨拶をしようと

ジャックの方へ近づきました。

 

 

この日はこれから、

2頭に施術を行う予定でした。

 

施術するのはこんな人間ですよと、

認識しておいてもらおう。

 

彼らには

何度か会っていますが、

まともに触れ合うのは

初めてのこと。

 

とりわけジャックは、

いつももう1頭のポニー:

白毛のダンディの

後ろにいる印象があり、

 

直接触る機会は、これまで

あまりありませんでした。

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ジャックにしても、

私のことは恐らく

大勢の中の一人と言った程度で、

個体識別はできていないでしょう。

 

 

手のひらを軽く開いて

手の力を抜き、

ジャックの鼻の下に

そっと近づけます。

 

ジャックも

自分から鼻先を近づけると、

手の匂いを確認します。

 

これが馬同士なら、

お互いの鼻孔を近づけて、

呼気の匂いを嗅ぎ合って

相手を認知するところです。

 

 

ジャック的には、

「…ふ~ん。」

という感じ?(^▽^;)

 

受け入れてくれた

かどうかはともかく、

認識はしたみたい。

 

今度は、ジャックの

頬の辺りに触れようと、

手を少し上へ移動します。

 

その途端、ジャックは

顔を素早くそらすと、

手の甲の皮膚を軽くつまむように

歯でキュッと噛みました。

 

 

…おぉ( ゚Д゚)

そう来るか~。

 

気易く触られるのは、

嫌なのかしらん。

 

ツレないなぁ~(;・∀・)

 

 

 

ジャックが抱える、コミュニケーションの問題

 

ポニー達への施術は、

飼育員さんからの依頼でした。

 

彼らの身体のバランスを

みてもらいたい

という主旨でしたが、

 

特に施術を必要としているのは

ダンディの方とのことでした。

 

ダンディは、昨年の年末に

落ち着かない行動を見せる様になり、

 

飼育員さん達の感覚では、

それはどうも

特定の理由によるものではなく、

全体的なバランスの状態から

来ているように感じられたので、

 

整体を受けさせたいと

思ってくださったとのことでした。

 

(ダンディの施術については、以下の記事をご覧ください。

http://inemurino-ki.com/2016/02/28/therapy-for-a-riding-horse/

 

施術のメインはダンディだと

ちゃんと聞いていたはずなのに、

 

お話を受けてから

この日までずっと、

私の頭の中に浮かんでいたのは

ジャックでした。

 

それは、彼らと会った際に

こんな光景を何度か

目にしている気がして、

ジャックが気になっていた為でした。

 

 

ジャックが人間の近くにいると、

ダンディはススっと寄って来て

間に割って入ります。

 

除け者にされた感じが

するのでしょうか、

ジャックは頭を上下に振って

納得が行かない様子を示します。

 

この様子がユーモラスで、

可愛かったりもするのですが(*^.^*)

 

またある時には、

 

のんびりしているダンディに

ジャックはちょっかいを出し、

ダンディに威嚇されます。

 

ダンディは嫌がって

怒っているのですが、

ジャックはちょっかいを

繰り返します。

 

 

施術前にお話をした際、

彼らの様子については

飼育員さん達もかなり

気掛かりに思っていた事が

分かりました。

 

2頭は元々

仲が良いはずなのですが、

ジャックとダンディ、食事中.

 

ここのところどういう訳か

こうした小競り合いが

パターン化したように

なっており、

 

小屋や馬場という

安心できるはずの

日常空間の中に居ても

どちらもなかなか

寛いだ状態に

なれずにいることや、

 

ダンディがイライラしていると、

ジャックもそれに合わせる形で

緊張感が高まっていくこと、

 

ジャックはダンディの

八つ当たりのはけ口に

なっている様に思えること、

 

…などと言った

状況があることも、

分かりました。

 

 

ジャックにはもう一つ、

気になるところが

ありました。

 

それは、人間に対して

心理的にどことなく

距離があるように

思えることでした。

 

これはあくまで

私見ではありますが、

 

もし、この距離感が

ジャックの元々の性質に

適っている場合には、

「クールな馬なのね」

と思うだけだと思うのです。

 

観ているこちら側が

そこに違和感を感じて

気になると言う事は、

 

本来の状態から何かが

ズレている為ではないか

と思うのです。

 

 

ジャックの関心が

ダンディに集中していると

考えられることや、

 

ペットではなく

仕事仲間として、

 

ポニー達とは適切な距離を保ち、

風通しの良い関係性であることを

大切にしているという、

 

飼育員さん達の思慮ある姿勢を

加味して考えても、

 

10年以上もの長い間

人間と密接に関わりを

持ち続けているのに、

人間との間に何となく

隔たりがある様に見えるのは、

 

もしかしたら

ジャックが本来の性質を

何らかの理由があって

発揮しにくい状態に

いるためなのではないか、

と言う気がしていました。

 

 

 

問題を、「身体」の次元に落とし込む

 

問題行動の原因を探るという

目的のあったダンディと異なり、

 

ジャックの施術は

目的がはっきりして

いませんでしたが、

 

飼育員さん達にとっても

私にとっても気掛かりだった、

コミュニケーションや

他者との距離感といった事柄が、

その目的に関連しているのだろう

と思われました。

 

 

問題が現れたのが

行動面であれ心理面であれ、

 

それに対応する現象は

何らかの形で

物理的な身体にも生じています。

 

実例を挙げて話そうと思うと、

それだけで一つの記事になる程

長い話になってしまうので、

ここでは割愛しますが、

 

今までの施術経験を通して、

心・身体・精神は

異なる次元の機能でありながら

常に互いに同期し合っており、

 

それぞれの現れ方は違っても、

実は同じ意味内容のことが

各次元で生じていると言う事を、

身体から教わって来ました。

 

 

ジャックの場合もおそらく、

コミュニケーションや距離感という

心理面で生じている問題は、

ジャックの「身体構造」に

何らかの形跡を残しているはずです。

 

施術を通して、

それがどんな現象として

立ち現われているのかを

発見し、理解できることは

施術の醍醐味であり、

 

施術者にとってはもちろん、

施術を受けて下さる方や

施術に立ち会う方にとっても、

興味の尽きない豊かな体験を

与えてくれます。

 

 

 

信頼を得るには、信頼すること。

 

ジャックの施術を行う上で

まず問題なのは、

 

ジャックとの間に

どうやって信頼関係を築くか?

ということでした。

 

 

彼は、人との間に

心理的な距離感を

持っているように

見えるだけでなく、

 

人に触られることも

嫌がっていました。

 

これでは、

施術をすればかえって

心身の緊張感が増すだけで、

良い形で手助けをするのが

難しそうです。

 

そこで最初に行ったのは、

人間に触られる事が

心地良いと知ってもらう事でした。

 

 

 

ここで用いたのは、

ダンディの施術でもご紹介した

「キコウ」です。

 

キコウは

梁構造を持つ馬の脊柱の中で

最も高い位置にあり、

頸椎と胸椎の境目に当たります。

馬のキコウの位置

 

キコウへのマッサージは、

馬達にとっては

手の届かぬ痒い所を

掻いてもらっている感覚に

かなり近いようで、

 

馬の中には

ヨダレを垂らさんばかりの

悦楽の表情になる馬も

いる程です(^▽^;)

 

やり方は単純明快。

痒い所を掻くように

指の腹でキコウを

さするだけ。

 

さする際には、

骨格のアウトラインを

掘り起こしていくような

イメージで行うと、

より効果的です。

 

 

ジャックは最初こそ

面食らっていた様でしたが、

 

次第に気持ち良くて

我慢できない様子になり、

 

首をぐ~っと伸ばして

キコウをこちらに

差し出すようにすると、

 

鼻先をぎゅうっと尖らせ、

口をはむはむと

活発に動かし始めました。

グルーミング時に、鼻先を尖らせる馬

 

鼻先に力を入れて尖らせるのは、

自分も相手の痒い所を

掻いてあげるためです。

 

その鼻先と歯を上手に使って、

馬達はグルーミングを行います。

 

思っていたよりもずっと早く、

「僕もグルーミングやってあげるよ!」

とジャックは意思表示をしてくれました。

 

 

次に、胸の方へと

手を移動しました。

 

胸に手が触れた途端、

ジャックはくるりと

後ろを振り返ります。

 

わざわざ

目で見て確かめる

その仕草には、

 

何をされているのか

すごく気になっている、

 

もしくは、

そこを触られるのは嫌だ、

という意思が表れていました。

 

 

その気持ちを尊重して、

反射的にスッと

手を引きました。

 

手が離れたのを確認すると、

ジャックは前に向き直ります。

 

視線が逸れたので、

ふたたびそっと

手をジャックの胸に

当てがいました。

 

また嫌がったら、

同じ様に繰り返すつもりでしたが、

 

今度はジャックは

わずかに耳を動かしただけで、

後ろは振り向きませんでした。

 

ジャックの身体からは

警戒と緊張感も

消えたように感じられ、

 

人間に触られることを

受け入れたのだと、

分かりました。

 

 

「いつも、お腹なんて

嫌がって触らせないんですよ~!」

 

と、飼育員の緑川さんは

驚いた声を挙げました。

 

同じく飼育員の平島さんは、

この時のやり取りから

深い意味を感じ取ってくださったそうで、

 

馬の顔色なんか見なくても良い

と教えてくれた人がいて、

そうなのだろうと思っていました。

 

でもジャックは、

顔色を見て欲しい馬

だったんですね。

 

自分の出したサインを

ちゃんとキャッチしてくれたと

あの瞬間に感じたことで、

ジャックは飯島さん(:私です)を

信頼したのだと思いました。

 

そして、人間とも

コミュニケーションが出来るのだと、

理解した様に見えました。

 

後日、こんな風に

話してくれました。

 

 

ジャックとのやり取りは、

わずかな時間の間に起きた

ささやかなものでした。

 

それを細かく観察し、

そこから深い気付きへと

理解が繋がって行ったのは、

 

平島さん達が日頃から

ポニー達の一挙手一投足に

意味があることを感じ取り、

 

 

それを理解しようと

努力する姿勢を、

持ち続けているからこそ

だったのだろうと思います。

ジャックと平島さん

遺跡の調査員だった平島さんの観察眼は、どんな細かい差異も見逃さない、鋭さと確かさを持ちます。

 

 

ジャックが早い段階で

信頼を示してくれた理由は、

 

今になって考えると、

平島さんが言及して下さった

ジャック自身に生じた理解の他に、

3つの要素があったと思います。

 

一つは、

最初に触れたキコウが

実はジャックにとっては

鍵になる重要な部位だった点。

 

これについては、

施術の過程を記述する中で

触れます。

 

二つ目は、私自身の

馬に対する信頼、

 

三つ目は、場の設定です。

 

 

 

信頼は、心地よい「間」を生む

 

私は20代の頃、

日本固有種の馬達と

仕事も寝食も

共にしていました。

 

6年半の間、馬達と

どんな風に向き合っていたか、

それはまたの機会に

お話出来たらと思いますが、

 

その年月の中で、

私は馬達、とりわけ

和種馬やポニーなどの

目線の近い馬達に

強い親近感を持ち、

深く信頼を感じる様に

なって行きました。

 

ジャックと向き合った時、

私の中にはこうした馬達への

無条件の信頼がありました。

 

そして、それは

彼らなら必ず「理解」しようと

耳を傾けてくれる、

という信頼でした。

 

 

 

もし、人間が

馬を信頼していないと、

 

人間は自分の意図に

従わせようと焦り、

力んで力づくになります。

 

逆に、馬には

人間が言わんとすることを

理解しようとする意識と

能力があると信頼していれば、

 

馬の反応の仕方が

自分の思ったような

現れ方ではなかったとしても、

 

その馬が彼なりの応答を

能動的にしてくれるまで、

見守り、待つことが出来ます。

 

待った上で、やっぱりまだ

理解できていないと分かったなら、

 

その時は伝え方を

もっとシンプルにして、

馬の理解しやすい形に

変えて行けば良いのです。

 

 

待つことは、

やり取りにちょっとした

「間」を生み出します。

 

その「間」から、

馬は考える余裕と

判断する自由があるのを

感じ取ります。

 

人間が馬を

信頼しているかどうかも、

こうしたわずかな「間」によって

馬には伝わるものだと思います。

 

 

 

変容の場としての施術

 

三つ目の要素として挙げた

「場の設定」は、

施術を行う上で

とても重要な要素です。

 

施術は、

施術を受ける人や動物にとって

「変容」の場です。

 

変容の過程は、言わば

従来の自己がまとっていた

様々な意味での「形」を

脱ぐことですから、

無防備な状態でもあります。

 

その状態にあって

変容が滞りなく進むためには、

蝶にとっての蛹や繭のように、

守られた安全な場、

空間が必要です。

 

特にジャックのように

繊細な性質の場合には、

周囲の環境に影響を受けやすい為、

意識的に場を選ぶ必要がありました。

 

 

ジャックを繋留するのは、

飼育員さんの提案に従って、

馬場の入口にしました。

 

馬飼舎では、馬場は

馬小屋と一体になっていて、

 

馬場の奥に馬小屋があり、

馬小屋の入口は

馬場の方を向いています。

 

つまり、ポニーを

馬場の出入口につなぎ、

顔が馬場の中へ

向くようにさせると、

 

そのポニーの目には、

馬場の向こう側に

大きく戸を開いた我が家と、

 

その中でのんびりくつろぎ、

時折うつらうつら居眠りする

もう一頭のポニーの姿が

映ります。

 

目の前には、安全な小屋と

のどかな情景。

 

ポニー達の心は

安心と余裕を

感じられるはずです。

 

 

それに、

この日は三が日で、

 

馬飼舎の周辺は

落ち着いた空気に

包まれていました。

 

この場にいる人間は、

ジャックが良く知っている

飼育員さん達と、

施術者の3人だけ。

 

馬場から見える道路も

ほとんど人の気配がなく、

風も穏やか。

 

何かが視野をかすめたり

怪しい物音がしたりして、

ジャックが驚くことも

ありませんでした。

 

ジャックが安心して

リラックスできる環境、

安全を感じられる

空間であったことで、

 

ジャックの意識はおのずと

自分がされている事に集中し、

 

施術に対して受け身ではなく、

能動的に参加する姿勢に

なっていたのだと思います。

 

 

 

ジャックの本質

 

キコウのマッサージに対する

ジャックの反応は、

 

ジャックが身体的な感覚を

素直に表現する性質であり、

 

内側で感じたことを

隠しておけない、

 

よく言えば

オープンで明るく、

 

場合によっては

直情的になりやすい傾向性を

表していました。

 

 

ジャックの性質が

はっきり見えて来ると、

今までの状況も

整理し易くなります。

 

たとえば、

ダンディがイライラしている時に

一緒にイライラしていた状態は、

 

ダンディに負けまいと

我を張るような

積極的な反応とも思えますが、

 

繊細な性質のせいで

ダンディのイライラに

無自覚に心理的な侵食を受け、

 

本来は自分のものではない

そのイライラと

一体化してしまい、

 

それが無意識的に

ジャックの行動となって現れた、

と受け止めることも出来ます。

 

言うなれば、ジャックは

外部からの影響に

大きく揺さぶられ、

 

実は自分の意思とは

関わりの無い所で

行動させられていたのかも

知れません。

 

 

もしここで、ジャックの肉体や

エネルギーフィールドが

十分に安定した状態であれば、

外界にはそれほど強く

影響されずに済むはずです。

 

(安定したエネルギーフィールドは卵形で、

安定した身体の細胞は

球形であると言われています。

 

卵も球も、外からの刺激に対して

物理的かつ構造的に

強い抵抗力を発揮する形であり、

 

エネルギーや身体の安定性は、

外部からの影響の受け止め方、

すなわち外部との関わり方に

直結している事が分かります。)

 

ジャックは、どこかに

外界からの干渉を許す、

弱く感応しやすい部分を

持っている可能性が強そうです。

 

だとしたら、

それは身体のどの辺りに

潜んでいる可能性が

高いのでしょうか?

 

範囲を絞り込むために、

ジャックの日頃の体調について

平島さんにお聞きしました。

 

 

ジャックは

細くて柔らかい毛並みのせいか、

寒さが苦手です。

 

(細くて柔らかい毛の馬は

皮膚も薄めで発汗しやすく、

暑い気候に適応します。)

 

身体を温める為なのか、

寒い時期にはよく跳ねます。

 

寒い日の朝は、

朝から怒っていたりもします。

 

 

…やっぱり、

気持ちが身体に出ちゃう

タイプなんですね(^▽^;)

 

 

水はいつも沢山飲んで、

おしっこはほぼ無色のものを

沢山します。

 

ボロ(糞)は、表面がまるで

コーティングされている様に

コロコロで、形がしっかりしています。

 

 

おぉ!

なんたる快便!ヽ(^。^)ノ

 

消化器系、泌尿器系は、

共に良好に機能しているようです。

 

それならば、

これらの臓器が

納まっている腹腔も、

安定した状態にある

と考えられそうです。

 

(腹腔や胸郭などの

臓器を納めている「器」の状態は、

臓器の状態と直結しています。

 

例えば胸郭の厚みが

薄くなっているような場合は、

肺も上手く膨らみませんし、

心臓は狭苦しさを感じたりします。

 

そして、

心臓が感じている狭苦しさを、

私たちは不安や焦燥感のような

心理的な感覚として、

共有していたりもします。)

 

腹腔に問題を抱えていた

ダンディと違って、

 

ジャックは仕事の中で

子供たちを乗せる事がなく、

 

日常的に、

背中や腰にかかる荷重を

耐える必要がないため、

腹腔の安定性と健全さが

保たれやすいのかも知れません。

 

少なくとも、

弱さを抱えているのが

腹腔である可能性は、

低そうです。

 

 

 

姿勢と心のつながり

 

いよいよ、

ジャックの身体に

どんな現象が生じているかが、

明らかになって行きます。

 

 

始めに、

身体に生じている

歪みや緊張を

細かく調べて行きます。

 

お尻→背中→頭部を結ぶ

体幹の背側面を調べ、

 

次はお腹→胸へと

体幹の底面を視ました。

 

背側面では、

皮膚や筋肉、筋膜などの

ジャックの体壁を形成する組織は、

後ろから前への方向性を持って

ゆるみを生じていました。

ジャック-背側のゆるみ

 

底面(腹面)では、組織は

前から後ろへ動きます。

ジャック-腹側のゆるみ

 

体組織の各部に現れる

方向性を持った緩みは、

 

身体に生じている歪みや

姿勢の偏りの現状を、

忠実に反映しています。

 

すなわち、背側では

組織は頭の方へ向かっており、

 

これはジャックの姿勢が

前のめりになりがちなことを、

 

腹側で見られた

鼻先からお腹へ向かう

後ろ向きの方向性は、

 

鼻面をお腹に

近づけるようなイメージで

身体を丸める体勢を取っている事を、

 

それぞれ示唆しています。

 

つまりこれらは、

胸をすぼめながら

背中を丸める姿勢を示しており、

ジャック-上下両側のゆるみの方向性

 

ジャックが意図していなくても、

外から身を守ろうとするような

防衛的な構えに、身体が

自ずとなってしまっていることを

示しています。

 

 

今度は、体幹の

捻れの状態を調べます。

 

体幹の上半分(背中の方)は

全体的に左へ回転します。

ジャック-背側の捻れ

 

体幹の下半分(お腹の方)は、

胸郭部分では左への回転。

腹部は、右へ回転しています。

ジャック-腹側の捻れ

 

これらを整理すると、

 

体幹の前半分では、

胸郭の左側面に向かって

上下両方から

力が集まっている状態を

示しており、

 

体重を左の前脚だけに

負荷させている様子です。

ジャック-体幹全体の捻れ

 

他方、体幹の後ろ半分は

反時計回りにぐるりと

一回転しており、

 

後肢には体重を乗せず、

力を受け流して

いるかのような印象です。

 

 

骨盤は、

全体的に組織が

後ろの方へ向かっており、

 

頭の方へ向かっていた脊柱とは、

背骨と骨盤の境目:腰仙関節で

前後に引っ張り合っている状態です。

ジャック-背部と骨盤のゆるみの方向性

 

これは、背を丸めて

胸をすぼめる姿勢とも、

つじつまが合います

 

この姿勢を取るには、

馬の場合には骨盤を幾分か

下へ落とす必要がある為です。

 

 

最後は、

4本の肢(あし)の状態です。

 

前肢体(肩甲骨と前肢)では、

組織は下から上へ向かいます。

 

後肢も同じように、

下から上へ向かっています。

ジャック-四肢のゆるみの方向性

 

四肢のすべてが

上へ向かう力を

帯びていると言うことは、

 

ジャックの肢は

大地との接触が

希薄になっており、

 

グラウンディングしたくても

できない状態だったと

想像する事が出来ます。

 

こうした

足元の不安定さは、

不安や緊張を感じやすい

ジャックの心理状態と

合致しているように思えます。

 

 

このようにして、

身体構造の主要な部分における

組織の歪みを調べ、

 

今度はそれらを全て

比較して行くと、

 

全身の歪みの原因が

どこにあるのかを、

絞り込むことが出来ます。

 

 

ジャックの場合は、

全身の歪みの原因は

左の肘関節に特定されました。

 

より詳しく言うと、

肘関節の内側のくぼみで、

人間で言うなら

腋窩に似た構造の所です。

 

人間の腋窩は

肩関節の内側ですが、

 

四足動物の場合は

肩関節は胸郭にぺったりと

張り付いた構造になっており、

 

腋窩のような窪みがあるのは、

肘関節の内側です。

 

これを腋窩と呼べるか

分からないので、

ここでは便宜的に

肘の内側窩と呼びます。

馬の肘関節の内側窩

 

ジャックの

左肘の内側窩では、

組織があまって

たるんでいました。

 

それに伴って

左胸の幅も広がり、

左右の胸幅が

不揃いになっていました。

 

緑川さんにも、

他の部分の組織と

手触りが違うことを、

触って確認してもらいました。

ジャックと緑川さん

動物看護士でもある緑川さんは、感覚と感性の人。 体組織の感触を触り分けるのには、訓練やセンスが必要だったりします。

 

 

 

ジャックの自己防衛

 

施術の相手は

小さいポニーなため、

作業中はどうしても、

中腰になります。

 

身体の軸を安定させるために、

左手はごく軽く

キコウに乗せていました。

 

その状態のまま、

左肘の内側窩への

アプローチを開始します。

 

 

左肘の内側窩の中央には、

最も組織がゆるんでいる

一点がありました。

 

そこを指先で触った瞬間、

左手を乗せていたキコウが、

フゥッと下にさがりました。

 

そんなこと、あるの!?

と思われる方も

いるかも知れませんが、

あるんですよ~(*^^)

 

これは何が起きたかと

言いますと、

 

原因部に触れたことで、

キコウの緊張が瞬間的に解け、

構造的な変化が生じたわけです。

 

この際に触れた

最もゆるんでいた一点は、

身体からしてみれば

「待ってました!

そうなの、そこなのよ~」

と言うポイントだったのでしょう。

 

ジャックの身体は、

反応する機会をずっと

待っていたのだと思います。

 

キコウが下に降りたのに伴って、

胸郭内にもふわ~っと

寛ぎが広がって行きます。

 

これはもう本当に、

ふわ~っと言う感じが

手を通して伝わって来ました。

 

 

キコウの変化の仕方から、

今までジャックのキコウは

持ち上がり気味だったことも

分かりました。

 

キコウが緊張して

うわずっている状態は、

人間に置き換えれば

いかり肩に近いでしょうか。

 

肩を怒らせると

周囲に対して自分を

大きく見せる事ができ、

 

あるいは、自分自身が

大きくなったような感覚を

持つことが出来ます。

 

キコウの緊張は、

ジャックの防衛姿勢を支える

力の一つだったのでしょう。

 

一体ジャックは何に対して

自己防衛をする必要が

あったのでしょうか?

 

自分を除け者にすることのある

ダンディに対してでしょうか?

 

 

 

守りたかった、自尊心

 

2頭は以前、日野市の

河川敷近くの公園で

暮らしていました。

 

お隣のくにたちに

引っ越して来たのは

一昨年前のこと。

 

沢山の人達の尽力によって、

機能的で素敵な馬小屋が

農地の一角に用意されました。

 

小屋は馬場と一続きなので、

ポニー達は好きな時に

馬場に出たり小屋に戻ったり

自由に過ごせます。

 

それに、小屋の中には

ロフトがあって、

子供たちが泊まることも

出来るのです。

 

 

でも、

実際に生活して行く内に、

飼育員さん達には少し

気になる事も見えて来ました。

 

河川敷にいた時より、

全体のスペースは小振りです。

 

以前に比べると、

2頭が近くに

居すぎるのではないか、

 

そんな風に

感じる事がありました。

 

 

社会性が高いとはいっても、

馬同士の関係性は通常、

個人主義の傾向を

色濃く持っているように思えます。

 

一緒にいるけれど、

互いの領分は

ちゃんと守っている、

と言う節度ある関係です。

 

領分を守る為には、

心理学で言うところの

パーソナルスペースを、

お互いに守れるだけの

空間的な余裕も必要でしょう。

 

そう考えると、

ジャックとダンディにとっては

その余裕は不足気味なのかも

知れません。

 

互いの距離が近すぎると、

そのしわ寄せは

立場の弱い方へやって来ます。

 

ジャックが自己防衛を

せざるを得なかったのは、

ダンディとの間でストレス を

感じていたからかも知れません。

 

 

キコウの緊張が解けたことで、

ジャックのリラックスは

さらに深まりました。

 

身体の緊張がゆるみ、

体内の空間が広がると、

 

それは身体全体に

深い安堵感をもたらします。

 

今や、ジャックの目は

ウットリと眠たそうで、

なかば閉じかけています。

 

「こんなジャック、

今まで見た事がない!」

 

ふたたび、緑川さんから

驚きの声が挙がりました。

 

 

原因部の左肘内側窩へ触れると、

進むべき道順を示すように

次なるサインが現れました。

 

次のサインに触れると、

また次が現れます。

それを丁寧に

追いかけて行きます。

 

次々現れるサインの正体は

一体何なのかと言うと、

 

身体構造の中に

幾層にも重なり

隠されている緊張や歪みが、

 

どのように形成されて来たかを

示す情報であり、

 

臓器と体壁とを

一つに結び合わせている

筋膜によって

 

身体構造の奥から体表へと

伝達される情報なのだろうと、

私自身は理解しています。

 

 

次々と移動するサインを

追い掛けて行くと、

 

辿った道筋はやがて、

今まで見えていなかった

不思議な地図を、

身体の表面に描き出します。

 

ジャックの左肘内側窩から

肘関節の後ろ側へまわり込み、

 

今度は少し上へ上がって、

肩関節へ出ます。

 

肩関節の接合面に沿って

関節の後ろから前へ移動すると、

 

ふたたび上へ上がり始めます。

肩甲骨の前縁に沿って、

進んで行きます。

 

肩甲骨前縁の上端に来ると、

前方へ曲がって頚部へ。

 

頚部後方の

広い三角形になっている

部位に辿り着くと、

そこには不自然な

深い凹みがありました。

 

サインの移動は、

ここで止まりました。

 

 

しばらく待っていると、

体内で波のように

変化が広がり始めます。

 

この凹みのすぐ上には

タテガミがあり、

 

本来は上に弧を

描くはずのタテガミも、

そこでは凹んでいましたが、

 

体内で波のように

変化が広がって行くのと共に、

凹んでいたタテガミのラインも

上向きの弧へと戻り始めました。

ジャック-過程①

 

上向きの弧を描くタテガミは、

自信と尊厳をイメージさせます。

 

その回復を待っていたかのように、

サインが再び動き始めました。

 

次は、

キコウへ向かって行きます。

ジャック-過程②

 

キコウへ到着すると、

ふたたび

動きは止まりました。

 

しばらくして

今度は胸郭が上へと

持ち上がりはじめると、

 

それに伴って

胸郭内の大きな空間が

軽やかさを取り戻して行きます。

 

それは、

今まで中身が詰まり、

張りつめていた胸郭から、

密度や圧力が抜けて

軽くなって行く感触でした。

 

 

身体は

変化を十分に起こす為に

止まって時間をかける事を、

時折、必要とする様でした。

 

胸郭に変化が生じると、

今度はキコウから真っ直ぐ

下へと下り、

 

肩甲骨の中心を通って

肩関節の真ん中へ出ました。

 

そこから

関節に沿うような形で

後ろへ進むと、

 

肘関節の後端まで来て停止。

これで3度目の停止です。

ジャック-過程③

 

ここではまず、

肩甲骨に変化が現れました。

 

 

本来なら、

馬の肩甲骨と上腕骨は

胸郭に寄り添うような

構造になっています。

 

ジャックの場合は、

左肩甲骨の下部から

肩関節にかけて

胸郭から浮き上がり、

隙間が生じていました。

 

その隙間が、今は

閉じて行きつつあります。

 

まるで肩甲骨と上腕骨が

自分から胸郭に

吸い付いて行くかのような

迷いのない能動的な動きです。

 

 

肩甲骨と上腕骨が

浮いていた代わりに、

肘の後端では

胸郭に向かって

閉じた状態でしたが、

 

肩甲骨と上腕骨が

閉じて来たのに伴って、

肘の方では逆に

外へ開いて行く変化が起き、

 

肘をしっかりと

外へ張ることができる様に

形が回復して行きます。

 

 

この変化を受けて、

今度は上腕骨が

上下に伸び始めました。

 

今まで上腕骨には

上下から圧縮が加わっている様な

状態だったようで、

 

その外側からの圧縮力が

解けるにつれて、

上腕骨にはググッと

内側から力が入って行き、

 

体幹をしっかりと

支え上げる力強さを

取り戻して行きます。

 

横で観ていた平島さんも、

肩から腕にかけて

変化が生じたことに気付き、

目顔でうなずきました。

 

 

圧縮の生じていた上腕骨は、

歪みの検査の際に

ジャックが最も敏感に

嫌がったところでしたが、

 

普段からそこを触られるのを

一番嫌がっていたのは、

そういう事だったんですねと、

 

緑川さんも合点が行った様子で

教えてくれました。

 

 

 

上腕骨が圧縮されていると、

身体の重さを前肢で

効率的に支える事が出来ません。

 

そのため、

ジャックは肘を胸郭に引きつけ、

肘でロックするようにして

体幹を支え上げていたのでしょう。

 

肘が内側に寄った為に、

肩の関節は胸郭から離れ、

浮き上がった状態に

なっていたようです。

 

胸郭そのものが

下に沈みこんでいたことや、

タテガミ:首の根元が

下向きの弧を描いていたことも、

 

上腕骨の支え上げる力が

弱っていたことによって、

一緒に引き起こされていた

現象だったと分かりました。

 

首の根元と胸郭が共に

沈み込んでいた状態は、

 

ジャックにしてみれば、

首根っこをグッと下に

押さえ付けられている様な感覚として、

経験されていたのではないかと思います。

 

これは

何かに屈している姿勢であり、

 

この姿勢を持っている事で、

自尊心が傷つきやすくなることが

想像できます。

 

 

周囲が沈み込んでいる中で、

梁構造を持つ背骨の

頂点に位置していて

最も支持力の強いキコウだけが、

緊張を帯びて持ち上がっていた理由は、

 

一つには、

沈み込んだ体幹前方部を

何とか持ち上げようとして、

ジャックの身体自身が

工夫を行った為と考えられます。

 

そしてもう一つ、

キコウを高い位置に

保つことで、

 

首根っこを押さえられて

自尊心が傷つきがちだった

ジャックの気持ちも、

支えられていたのでは

ないでしょうか。

 

 

ジャックの身体は、

窮屈さの中に在りました。

 

そして、この

体内に生じている窮屈さが、

 

ダンディとの関係性を、

より窮屈なものに

感じさせていたのかも知れません。

 

 

肘の後端で停止していた動きは、

肘内側窩の中央:

始まりの地点に戻って来ました。

 

左肘の内側窩で

たるみんでいた組織は、

張りを取り戻し、

 

左だけ広かった胸の幅も、

左右が揃いました。

 

施術は終了しました。

 

ジャックと視線を合わせると、

ジャックは目を

キラキラと輝かせていました。

 

 

 

取り戻した自信

 

上の画像は施術前、

下は施術後の様子です。

ジャック 施術前

ジャック 施術後

 

施術前も、

良い姿勢を撮ろうと思って、

待っていたんですケドネ(;^ω^)

 

でも、しばらく待っても

ジャックは休めのまま。

仕方がないので、その状態をパチリ。

 

それが施術後には自然と、

ちゃんとした立ち姿を

見せてくれています。

 

 

全体の印象の違いとして、

施術後には力強さが出ているのを

見て取れるかと思います。

 

力強さは、どこから

来ているかと言うと、

 

まず、

左右の前肢のひづめが

施術後にはきっちり揃っていて、

胸郭を両肢でしっかりと

支えています。

 

そのため、

胸の前のラインもスッキリと

きれいに上に向かって

立ち上がっています。

 

 

背中のラインは、

間延びしているように

長く見えていたのが、

 

立体的でコンパクトになり、

輪郭がはっきりして

滑らかな弧に変化しています。

 

これは力強い曲線なので、

背中に掛かる重さを

しっかり支えられるでしょう。

 

また、

施術前には浮き上がり

緊張がある事を示している尾は、

施術後には根元から

すとんと閉じ、

 

後肢もどっしりと

グラウンディングしています。

 

 

前後肢がしっかりと

体重を支えられる様になり、

背中の曲線にも

力強さが戻ったことで、

 

胸、首、頭の位置もおのずと、

高く持ち上がっています。

 

そして今は自発的に、

人間の方へ視線を向けています。

 

顔を挙げた

ジャックの姿勢からは、

自信のようなものが

感じられると思いませんか?

 

 

施術が終わり、

ジャックは平島さんに誘導されて

小屋の中へと帰って行きました。

 

その時の姿はまるで

平島さんにピッタリと

付き従っている様で、

 

人間と一緒に居て

落ち着いた気持ちでいるのが

歩き方からも分かります。

 

小屋の中では

ダンディが待っていましたが、

ちょっかいを出すどころか、

ダンディを気にして

視線を送ることもありませんでした。

 

ジャックは自分の小屋の

窓際に立つと、

実に穏やかに

うっとりと目をつぶり、

 

窓から差し込む陽を

頬に受けながら、

内側の感覚をゆったりと

味わっているように見えました。

 

 

 

感覚を通して、自己の内なる変化を読み解く 。〜思考する感覚

 

ここのところ、
春のように温かい日が続いていますね~!

DSC_0002_18

 

肌で感じる季節感が乏しいせいか、
年末という実感がなかなか湧かず。

 

とは言え、
もうすぐそこまで
新年が来ているんですよね~!(^▽^;)

 

 

今回は、2015年度最後のブログです。
一年の総まとめを…と思ったのですが、
そんなに簡単にまとまらないので(;^ω^)

 

最後の2か月、
11月~12月に私自身が体験した
ちょっと面白い出来事をお話したいと思います。

 

この2か月間、なぜだか
物事を深く考えることが出来ませんでした。

 

普段、当たり前の様に出来ていた「思考」。
それが出来なくなったことで、
「思考する」とはどういう事かを、
思いがけない視点から見つめ直すことになりました。

 

 

思考する時に、
私たちにはどんな感覚が生じているのでしょうか?
今回はそんなお話を軸に、

 

思考に頼るのではなく、
感覚を通して理解することの面白さを
お伝え出来たら良いなと思います。

 

 

思考は、外からやってくる

 

この2か月の間、ほぼずっと
思考が止まっているなぁ~、
考える事に頭を使いたくないんだな、
と感じていました。

 

それが特に顕著に感じられるのは、
困ったことに施術中です。

 

当院の施術では、
クライアントさんの身体の状態を
全体的に把握する事が必要になります。
自分で言うのも何なんですが(;^ω^) 、
かなり思考力を使います。

 

ところが、頭を使いたくても
頭の方が考えるのを拒否すると来ているので、
他の方法で補うしかありません。

 

今までよりも意識的に、
かつ見落としが無いように、
身体を細かく観察しながら施術を行い、

 

そこから得た情報を元に
頭の中の計算機で一生懸命演算をして、
クライアントさんの身体に何が起きているか、
その答えを弾き出します。

 

我ながら、ガンバッタナァァ〜( ;∀;)

 

それに比べると、
頭がしっかり巡っていた時には、

 

身体の色んな部位で生じている
緊張や歪み、クセや症状が、
互いにどんな風につながりあっているかを
自ずと把握している実感がありました。

 

「自ずと把握している」
と感じられるのは、

 

自分の身体を通して
相手の身体の状態を感覚的に理解していて、
それが思考による理解と自然に合致する時です。

 

そうした状態にある時には、
施術を行っている最中にピカッと
閃きのように理解が生じることが多く、
無理に考えて答えを捻り出す必要は
ありませんでした。

 

…こうやって書いてみて気付くのは、
思考できないと感じていた時でも、
情報を集め、それをまとめることは出来た、
と言う事です。
本を読んだりするのも、
読むだけなら苦痛ではありませんでした。

 

一方で、思考出来ていた時に
「思考」だと感じていたものは、
集めた情報を一段違ったものへと展開させるような、
一種の「飛躍」を含んだものだと言えそうです。

 

 

 

 

少し話は変わりますが、
「思考場」という概念を
聞いたことがあるでしょうか?

 

そう質問している私も、
どこで学んだ言葉だか忘れてしまったので、
ウロ覚え、かつ自分なりの理解ですけれど…(;^ω^)

 

誰かとコミュニケーションをする際、
私とあなたの思考の間には、
共有する「場」が生じます。

 

その共有する場の中から、
私たちは無意識かつ自動的に
お互いの情報を得て、対話を行う。
そういう情報の保存された場を、
思考場と表現するようです。

 

例えば、
この人と話をしていると
すごくスムーズに話が出来るとか、
いつもより思考のまとまりが良い!
と言う事や

 

逆に、 この人の時にはどうも、
考えがごちゃごちゃして言葉が出にくくなったり、
自分でも何を言っているかわからなくなるなぁ~、
なんて感じること、ないでしょうか?

 

これは、私たちの意識していない所で
お互いがお互いの思考の場にアクセスして、
場の力を借りながら話している為だと考えると、
あ~なるほど~、と
すんなり理解できるのではないでしょうか。

 

 

 

思考が回転しない状態を、
意識的に体感したのは
初めてのことでした。

 

どんな体感だったかを 表現すると、

 

思考が巡っている通常の状態から
自分が抜け落ちた、と言う感じであり、

 

それこそ、いつも居た思考の場から
何らかの理由で意識が離脱してしまって、
そこへ自力で戻れない、
と言う感覚でもありました。

 

 

 

今までは、理解する事や考える事は
自力でやっていると思っていました。

 

視野が広がって、 徐々に多くのものを
理解できるようになることも、
自分の努力によるものだと。

 

それが、この時の感覚からすると、
考えることは自力ではないのかも知れない
と思えました。

 

思考の場の様な所に
無意識の内にアクセスしていることで、
思考の方が私たちの中に
生起してくるのではないか、と。

 

そう考えると、
思考力や理解力を磨く努力は
考える力を生み出すためではなく、

 

自分の求める情報が存在している「場」に、
的確にアクセスする道を
自分で少しずつ切り拓いて行く、
そんな作業なのかも知れませんね。

 

 

思考する感覚

 

またある時には、
こんな面白い感覚を経験しました。

 

物事を考え始めると、
頭の中の一点に向けて
何かが集まって来る気配が生じるのです。

 

ところが、
もう少しでそれが一点に凝集する
その肝心な瞬間の手前まで来て、
気配はしゅんと煙のように消えてしまいました。
考えていた事も、一緒に散ってしまいました。

 

考えるためには、脳の機能が
考えるテーマに向かって焦点化すると共に、
脳自体にも物理的な力の凝集が生じることが
必要なんですね。

 

一生懸命に何かを考えようとする時、
ついつい眉間に縦ジワを寄せたり、
頭を前に少し傾けて額に重さを集めたり、
その額を指で支えたりすることが
あると思います。

 

あれは、脳の中で
一点への集中が滞りなく生じるように、
身体が手助けをしてくれているのかも知れません。

 

 

 

思考停止の背後で。

 

それにしても、一体どんな理由で
今までの様に考えることが
難しくなっているのだろう?

DSC_0002_26

 

自分の身に起きた異変は、
身体や心、意識の仕組みを知るには
またとない機会。
自分に何が起きているのか、
色んな方面から見直してみました。

 

すると、この期間、
暇さえあれば熱中して
やっている事があると気付きました。
縫い物です。

 

まずは、
作ったものをお披露目~(#^.^#)

 

これは、
施術衣として使うブラウス。

hand made blouse

 

こちらは、
裏地を付けはじめたものの、
難しさに嫌気がさして
去年から作業を中断していたコート。

hand made coat-1

 

2年越しで、やっとのこと
完成を迎えようとしています~!
…ボタンホールを作る、
手強い作業が残ってマスガ(^▽^;)

 

 

 

縫い物は、一枚の布から
形あるものを作って行きます。
二次元的なものから、
三次元のものを作り出します。

 

また、同じ型紙を使っても、
使用する布の風合いや
縫う作業の丁寧さによって、
出来上がりの印象が変わります。

 

手縫いだけでなく
ミシンという器械を使っても、
針目には今の自分の状態が映し出されます。

 

縫い上がったものは
自分の在り方を表現した作品とも言え、
様々な意味で創造力を必要とする作業です。

 

 

 

縫い物→創造性と来て 、
次に連想したのは
「第1チャクラ」です。

 

チャクラとは、
身体に7つ存在する
エネルギーの中枢とされますが、
単に概念だけのものではありません。

Sapta_Chakra,_1899 PublicDomain-1

 

各チャクラには、
脊髄神経の神経叢や
内分泌腺との対応関係があり、

 

人によっては
チャクラが位置するとされる場所に
螺旋の流れを体感する事もある、
エネルギー的な構造体です。

 

第1チャクラは
生殖腺と対応しています。
女性なら、子宮と卵巣です。
7つのチャクラの中では最も下に位置し、
私たちの生命力を支える土台でもあります。

 

生殖器は、
新しい生命を生み出す力を持ちます。
第1チャクラが帯びる力は、
新しいものを創出する創造力です。

 

 

 

あ~、そう言えば…。
11月に、腹腔と子宮の状態に
大きな変化があったんだった。
やっと思い出した~!

 

それがきっと、
思考が停止したことと
何か関係しているに違いない!

DSC_0002_10

 

 

幼少時からの歪みが…?

 

私は普段、
クライアントさんに行う施術を用いて、
自分にもメンテナンスをしています。

 

11月の初め頃、
そのメンテナンスの最中に
腹腔内が大きく変化しました。

 

腹腔には、腹膜腔後壁、
もしくは後腹壁と呼ばれ、
お腹の中の空間を前後に隔てている
膜があります。

 

この膜が非常に重要なので、
少し詳しく説明しますね。

 

後腹壁には、
大腸や小腸が緩やかながら
固定されています。
どのような構造かと言うと…

 

まず、一枚の布に、
ひだのたっぷりあるドレープを
縫い付けてあるとします。
そのドレープの端には縁取りがしてあります。

 

布が後腹壁、ドレープが腸間膜、
縁取りは、小腸や結腸(大腸)の管です。
ドレープを縫い付けてある部分は、
下図の中で 「腸間膜(根)」と
記載されている所です。

後腹壁ープロメテウス-4

 

布を縦に広げると、
縁取りしたドレープの重さで布は引っ張られ、
よじれが生じます。
ひだは潰れてしまいます。

 

この時、布の張りが
ドレープの重さに耐えられる位強ければ、
ドレープは美しく整い、かつ
ふんわりと余裕のある形状になります。

 

これは、後腹壁や腸に置き換えても、
同じ事が言えます。

 

小腸の長さは、弛緩時で
(解剖下で計測して)6~7メートル、
生体内で筋肉が活動している時でも、
2~3メートルあります。

 

これだけの長い物体がお互いにからまらず、
ある程度安定して納まっていられるのは、
後腹壁によるしっかりとした裏支えがある為
と言えます。

 

後腹壁はまた、その最下部では
子宮と直腸・肛門とを隔てています。
先ほどの図では「直腸膀胱窩」と書いてありますが、
女性の場合は「直腸子宮窩」と呼ばれます。

 

これもまた、子宮や直腸にとっては
後腹壁が位置の安定性を与えてくれる
支えの一つとして機能していることを
示しています。

 

身体構造にとって、
後腹壁がとても重要な役割を
担っている事が分かります。

 

 

 

メンテナンスの中で起きた変化とは、
その後腹壁の右側半分で
すぅ~っと膜が上下に伸び広がり、
それが同時に引き締まって強さを回復して行く、
というものでした。

 

例えるなら、
たるんでいた船の帆が、
ぴんと張り直された様な感じです。

 

後腹壁だと判断したのは、
変化する感覚が生じた位置と(深さ)と
広がりの大きさ、
腹腔内の冠状面で生じている
という特徴からでした。

冠状面 矢状面  Human_anatomy_planes-JA CC3_0

 

少し前の所で、
一枚の布とドレープを例に説明しましたが、

 

私のお腹の中でも、
今までは後腹壁がたるんでおり、
腸が腹腔内で潰れている
とまではいかないまでも、
腸にとって快適な状態ではなかったことが
想像できます。

 

また、後腹壁が
上下に伸び広がるように変化した点から、
今まで腹腔の右側には、
上下方向から圧縮が加わったように
ぎゅっと詰まった状態があったことも 分かります。

 

小さい頃、
私は大型の遊具から落ちて
背部を地面に打ちつけたことがありました。

 

その時に取っていた
右足を胸に軽く引き寄せ、
上半身を右に捻った姿勢が、
腹腔の右側に圧縮を作った
原因として思い当たります。

 

 

 

後腹壁の変化が、
次の変化への準備となったのでしょう。
翌日のメンテナンスでは
子宮と卵巣に変化が生じました。

 

まず子宮の右壁から右の卵巣にかけて
緊張が緩み始め、
しばらくして何かがす~っと
下に下がるような感覚が生じました。

 

この感覚から、今までは
子宮の右壁から右卵巣にかけて、
それらを上に引き上げるような
緊張があったことが分かりました。

 

子宮や右卵巣にしてみれば、
これまでずっと
引きつれた様な感覚の中にいたのを
想像することが出来ます。

 

でもこれで本当に、
子宮は、引きつれた不快感から
解放されたのでしょうか?

 

 

子宮の変化

 

まもなくして生理がやって来ると、
確かに子宮に変化が起きていたことが
分かりました。

 

前の月までは、経血は
暗赤色をした何かの残渣物といった感じで、
生命感が乏しい状態でした。
それが今は驚くほど鮮やかな赤色で、
水のようにサラッとしています。

 

そうか、経血は血液なんだ~!と
この歳になって恥ずかしながら…、
初めて実感!ヽ(^。^)ノ

 

私は小さい頃からお腹が弱く、
経血にも比較的早い内から
半流動的な塊が混ざっていたように
記憶しています。

 

今考えれば、恐らくは
背中を強打した影響によって、
後腹壁がよれ、
腹腔内の臓器が不安定な状態を
小さい頃から抱えていたのだと思います。

 

それがウン十年経って
急に健康な経血に変化したのですから、
おぉ~っ!?凄い!
となりますよね(^o^)

 

この変化は、私だけでなく
身体自体にとっても驚きだったはずです。

 

子宮にしてみれば、 今までは
持ってる力の3割ほどしか使えず、
常に徐行運転でいたのが、
急に全力を使えるようになったから、
高速走行しましょう!と
ムチャ振りをされた様な感じかも知れません 。

 

子宮は第1チャクラと繋がっていますから、
生命力そのものでもあります。

 

子宮が元気を回復したなら、
身体全体で使えるエネルギーの量も、
以前より大きくなると思われます。

 

でも、慣れていない力と言うのは、
扱うのが難しいものです。
身体もそれに慣れるためには
時間が必要になります。

 

しかも、生命力を支える
根本的な部分の変化であれば、
身体全体のエネルギーバランスを
足元から組み直す必要があります。

 

身体の中では、思っている以上に
時間のかかる大変な作業が
進行していたのではないか。
それは、実感としてもそう思います。

 

第1チャクラは、創造力の源でもあります。
活動力の増した子宮=第1チャクラに
まずは慣れるために、
縫い物で試運転をしていたのではないか、
と思うのです。

 

子宮は、ゆっくりとした
自然のリズムの中にあって、
「今」という時と共にいます。

 

一方の脳は、
過去へも未来へも自在で行くことが出来、
早い流れの中にあります。 そしてまた、
エネルギーの消費量も大きい…。

 

自然としての身体にとっては、
身体を再編成する間は
自分たちのペースを守ることが必要です。

 

その間、かしましやの脳には
ちょっと(いや、強制的に)
活動を控えてもらう…。
と言う様なことが 起きていたのかも知れません。

 

 

 

私たちは時に、自分が
自分でもよくわからない状況に陥っている
と気づくことがあります。

 

自分でも理由は分からないけど、
妙に何かが気になってそこに囚われたり、
あるいは熱中してしまったり、

 

逆に、いつも出来ていたのに
やりたくないと感じる様な事は、
きっと誰にでもあると思います。

 

そうした、自然発生的に生じる状態は、
意識下からの身体の働きかけによるものであり、
その背後にはそれが生じる理由や意味があります。

 

身体は、いつでも私たちの味方です。
私たちの知らない所で、
良い方向へ変化して行けるように、
自分への理解を深められる様にと、
いつも協力してくれています。

 

時にはそれが、思考停止や痛みなどの
嬉しくない現れ方をするので、
協力してくれている事に
私たちが気付かない場合も多いのですが(^▽^;) 、
そこには必ず、それが生じる意味があるのです。

 

 

結びにかえて~感覚との付き合い方

 

ここまで読んで頂いて、もしかすると
感覚ってそんなに信頼できるものなの?
と思われた方もいるかも知れないなぁ、
と思います。

 

感覚は、必然性を持って
自分の内側に生起してくるものです。
自分の意識によって、
恣意的に作り出しているものとは違います。

 

感覚的な情報を扱う上で
問題が生じるとすれば、それは、
感覚に対して解釈を加える際に起こります。

 

私たちは、自分が普段見ているものや
既に知っているものの中に、
起きてきた感覚を当てはめて
理解しようとしがちです。

 

感覚はおのずと生じるものです。
外部からの刺激や、内部での何らかの変化が、
感覚と言う形で意識にのぼって来ます。

 

感覚が何を表しているのか、
私たちに何を伝えようとしているのか。

 

それは、既存の、
形の決まっている考えに
力づくで当てはめようとすると、
その途端に見えなくなってしまうものです。

 

感覚を通して立ち現れてくるものを、
内側から自由に羽ばたかせる事、
その内なる意味が自ずと形を成すのを、
じっと見守ること。

 

これが感覚と付き合う上で
とても大切な姿勢だと、
私は考えています。

 

 

 

年末の慌ただしさを越えると、
新しい年は ゆったり流れる
穏やかな空気で始まります。

 

そんなゆっくりした時間の中で、
身体に静かに意識を向けると言う時間を、
ぜひ持って頂けたらいいなぁと思います。

 

整体院に足を運んで下さっている
クライアントの皆さん、
文章の長さにめげずに
ここまでブログを読んで下さった皆さん、

 

今年も一年、
心から ありがとうございました。
そしてどうぞ、
良いお年をお迎えくださいね~!

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