ちょっとだけオムニバス


目次

文字との対話
前置きを少し
純粋なるカマキリの祈り

 


文字との対話



文章を書くのは何のためか?

これは、
こうしてホームページに投稿する記事を書く度に、
この10年自分に投げかけ続けて来た問いです。

前回記事を書いたのは
去年の11月のこと。

本当に書きたい、と感じるまで
無理に書くのは止めよう。

そう考えて
記事を書くのをストップしてから、
早1年と1ヶ月。

いや~、さすがに
そろそろ書かないと!
…と浮かぶ焦りを手放しつつ、

でもそろそろ書いても良いのかなぁ、
書きたい気もするなぁと感じ始めたつい最近のこと。

ふと、こんなことに気付きました。



今まで、文章は一人で書いていると思っていた。
でも、違った!

文章は何よりも、文字との対話なんだ、
と。

文章を書くことは、
自分の思考や意識を文字にすること。

そうやって一つ一つ丁寧に拾い出して
選択的に並べた文字を見ながら、
自分の内なる世界の真実がどんなものであるか、
それを自分で気づいて行く。

自分の内なる世界に気付く作業には、
文字の協力が欠かせない。

文字達は鏡となって、私自身の意識を反射する。

そう言う働きをしてくれるから、
私の意識は自分で選び記した文字から
自分を知ることが出来る。

一人じゃなかった!
一人でやっていたのではなかった!

 文字達との協働作業無くしては、
そうした自分を解き明かす鍵としての文章は
生まれて来ないんだ!



誰かのために書くこと、
ましてやお店に人を呼び込むために
文章を書くようなことは、

私と言う人間の生き方の方向性、
もっと言えば私の魂にはそぐわない、
私にとっては意味を感じられない事だと言うのは
以前から分かっていました。

それでも文章を書いている。
これは一体何のためなのだろう。
どうして自分は文章を書くのだろう?

ず~っと探し続けて来たその答えは、
「何のため?」という問いかけに対して
想定していたものとは全く違う方角から
不意にやって来たわけです。



目からウロコ。
晴天の霹靂。
そうか~、そうだったのか~。

文字を通して自分を知るため。
文字を通して、自分の意識の在り処や
意識の行こうとしている所を知る為。

今、
文字そのものと対話するために、
こうして文章を綴っています。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像



前置きを少し…。



順序が逆になりましたが、
皆様、大変ご無沙汰していました。

1年という時間が経つ間に、
平成が31年で幕を閉じて令和が始まり、

沢山の台風が日本を訪れて、
多くの場所が姿を変え、

消費税が8%から10%へと変わり、
それを待たずして
neMu no ki も料金設定が変更になり、

色んなお店のレジ打ちのお姉さん方が
様々な決済方法にスムーズに対応できるように
なって来た頃に
天皇陛下の即位式やパレードがあり、
日本中がラグビーで熱狂し…。

今は12月中旬。
日中19度という破格の暖かさの中、
遅い紅葉・黄葉が青空に美しく映えています。

目まぐるしく新旧が入れ替わり、
更には何とも風変わりな一年でもありました。

そんな2019年の出来事の中で、
強く印象に残っていて
どうしても書きたいことがあります。

その中の一つが、
次に紹介する
「カマキリの祈り」です。


純粋なるカマキリの祈り



わ~!
驚いた!

何がって?
花を摘みに庭に出たら、
こんな姿のカマキリがいたの。


花はムクゲ。

次の日に見た時には萎んでいたから、
この日がムクゲにとって
最も美しくきれいに開いた、
晴れの日。

全ての花びらを大きく目いっぱい広げた
そのムクゲの花芯に向かって、 
カマキリがまっすぐに立っている。



顔は花芯の少し下の高さにあって、
少し上目遣いに見上げる位置関係。

後ろ足は左右で高さの違う葉に乗せ、
前足は花びらの縁にそっと触れている。

決してバランスを取りやすいようには
見えないのだけれど、
風がそよいで葉がそよりと揺れても 
カマキリはぴくりとも動かない。



「珍しいものが観られるよ~!」 
私の声で母が庭に降りて来たのと
同時くらいだったかな。

それまでは、 周りをウロチョロしながら
様子を覗き込んでいた私を気にしてか、
カマキリもキョロキョロと目線を
動かしていたのだけれど、

急に覚悟を決めたみたいに
頭をすっと下げると、
静止したの。

きちんと合わせた両の鎌の上に
顔を近づけて、
それはまるで花芯に向かって
こうべを垂れるかのよう。

まさに、祈りの姿。


お尻から胸まで
す~っと美しく立ち上がっている、
その力みのない自然な姿勢を観ていたら、
何だろう。

広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩を観ている様な、
神妙な気持ちになっちゃった。

Public Domain(菩薩半跏思惟像 像高131.2cm 中宮寺/朝日新聞社、昭和17年 小川晴暘)


母の目にも、これはやっぱり
祈りに見えたそうで。

― こんなに真剣に、何を祈ってるんだろうね?
― 世界平和かなぁ。



摘み終わった花を片手に
出勤する時にも
カマキリは祈り続けていて、

後で母に聞いてみたところ、
20分以上はそのままの形だったそう。

祈りの姿勢を解いた後は、
鎌を片方ずつきれいに舐めて
丁寧にゆっくり
身体のお手入れをしていたんだって。



この日は8月22日。
ようやっと文章にまとめたのはその2か月後。
更に2か月を経て、今。

この4か月の間に、
本当に色々な事があったと思う。

記事のURLを決めるために、
カマキリを英語でなんて言うのか
調べてみた。

それでもって、



わ~!
またまた驚いた!

何がって?
カマキリは英語でpraying mantiseって言うのだと
初めて知ったから!

prayingは、祈り。

うわっ、
祈りって言葉が入ってた!

一体語源は何だろう?

調べてみたら、
mantiseという言葉自体も
ラテン語で僧侶や預言者という意味だと言う。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412539149

英語圏の人たちにとっては、
カマキリってそんなに尊いイメージの
存在だったのか~。



祈る僧侶。

最初に名付けた人も、
弥勒菩薩みたいなあの姿を
見たのだろうか?

あの気高いカマキリの姿を。




「身体の声を聴く施術」が出来るまで / 年末年始までの営業予定

 

目次


知性ある身体

身体を信頼する
揺らぐ自己信頼
コントロールを手放す
パターン化した緊張
変化しない自由
善悪のジャッジを超えて
年末年始までの営業予定

 

すっかりブログの更新が

のんびりになっておりまして、

 

10月の営業のお知らせをしないまま

11月に入り、しかも

11月も中旬となりましたが(^^;

皆様お元気でしょうか?

 

 

今年は、

neMu no ki にとっては

開業10年目の年。

 

施術は、この10年の間に

大きく変化して来たなぁと

改めて思います。

 

施術の方法は、

基本的には変わりません。

 

ですが、

相手にしている「身体」そのものが

その現れをどんどん変えて行きました。

 

 

 

 

知性ある身体

 

初めの頃は、

物理的な肉体の「質感」を頼りに、

施術を行っていました。

 

この時期、

私が向き合っている「身体」は、

あくまで観察されて施術を施される

受動的な「客体」でした。

 

それはやがて、

望む変化を自ら選んで

その方法を能動的に示す、

施術の「主体」となって行きます。

 

身体は

単純な物理的な肉体ではなく、

能動性と知性を持つものとして、

その本来の姿を現し始めたと感じました。

 

 

10年経た今、

施術の中での身体は、

自らの中に蓄積して来た体験を

まるで地図のように、

体表というキャンバスに描き出します。

 

地図は、

「音」によって描かれます。

 

身体の声とでも言うべき、

身体から響いて来る

音なき音を施術者が聴き、

 

様々な方向へ自由に移動する

その音を追いかけて行く内に、

それは地図となります。

 

 

 

 

この10年で起きた変化は、

施術における身体と施術者との

関係性の変化ももたらしました。

 

「施術者が行う施術」から、

身体が主体となって展開する

「身体が行う施術」へ。

 

こうした変化が生じたのは、

施術者としての私自身が

自らの意識を大きく切り替える事を

望んだことが始まりでした。

 

 

 

身体を信頼する

 

「自然治癒力」と言う

言葉があります。

 

もし、身体が本当に

自然治癒力を持つのなら、

 

当事者ではない治療者や施術者が

経験則やデータを元にして

方針を決めて治療や施術を行った後、

 

そこから先だけ

本人の身体の回復力に任せる様な

従来の治療や施術の在り方は、

 

治療者や施術者にとって

都合が良いだけだと思いました。

 

身体の回復力、

その治癒力を本当に信頼するなら、

 

どのように治癒を進めていくか

その方針を決める事自体も

身体に任せるべきだし、

 

身体にはそれを決められる力が

あるはずだと思ったのです。

 

身体の持っている力が

どのようなものか

まだ全く分からないけれど、

とにかく信頼して委ねてみよう。

 

身体を信頼して、

施術の全てを身体に委ねよう。

 

そう意図したのが始まりです。

 

 

 

そうした意識を持って

向き合う内に、

 

身体は最良の方向へ向かうために

必要なことを全て知っており、

またそれを表現するための

叡智も持っている、

 

つまり「知性」ある生命だ

ということが、

明確になって行ったのでした。

 

このようにして

変化して行く身体と

向き合うことは、

私自身にも大きな変化を

もたらしました。

 

今回は、

そんな風にして起こった

私自身の内側の変化の一つを、

お話しようと思います。

 

 

 

揺らぐ自己信頼

 

スピリチュアリズムや

精神世界に興味のある方は、

リーディングやチャネリング

と言う言葉を

聞いたことがあると思います。

 

霊的な存在とコンタクトを取り、

あるいは彼らに自らの身体を

一時貸すことによって、

彼らの言葉をこの世界に

もたらすことを表します。

 

リーディングやチャネリングを行う

能力者にとっては、

自分が本当にそうした存在と

繋がることが出来ているか、

また彼らの言葉をちゃんと

聴くことが出来ているかなど、

 

多くの人からは目に視えない存在を

媒介しているがために、

責任を持ってその役割を

担おうとすればするほど、

自分を疑う要素が出て来ます。

 

霊的な存在の姿を見たり

声を聴くことが出来れば、

行き先を迷うこともなく

生きるのは楽なように思えますが、

 

そうした役割を確かに担うには、

他の人が視たり聴いたり

することのないもの、

 

つまり

その存在の根拠を

自分以外の人間に求めることが

出来ないもの、

 

そうした性質のものを

感じ取っている自分自身への、

丸ごとの信頼が必要となります。

 

 

「身体の声」を聴くことへと

施術が変化し始めた時、

これと同じ事情により

私の中でも自分への信頼が

ぐらつき出しました。

 

身体の声をちゃんと

聴き取れているかどうかは、

施術が終了すれば分かります。

 

身体の変化の仕方と

そこに描かれる地図とが、

それを示すからです。

 

ですが、

施術を行っている間は、

身体がどこへ進もうとしているのか、

どこにどのような変化を

もたらそうとしているのか、

 

行き先の読めない状態で

身体に耳を澄ませることになります。

 

 

 

コントロールを手放す

 

このような時、

「こうかも知れない」という

見立てを立てれば

少しは安心できるかも知れません。

 

ですが、「見立て」は

施術者が身体の変化を

方向づけする意識なのです。

 

そうした意識を持つと、

実は身体はそのように反応します。

 

身体は、身体の持ち主だけでなく

周囲の人の意識の動きにも

敏感に反応しています。

 

そして、その意識が

誰からもたらされたものなのかを

区別しません。

 

身体自身が望むような変化を

現実化させて行くサポートをするなら、

 

施術者が身体の変化の方向を

決めるような意図を持つことは、

身体にとって邪魔になります。

 

予断、判断はすべて手放して、

身体の望むことだけを

聴き取る意識が必要なのです。

 

 

 

予断も判断もしないで

臨床に立つと言うのは、

丸腰で戦いの場に

赴くようなもので、

恐さを伴います。

 

最初の内は、

今回も最後に決着するだろうか、

ちゃんと全ての辻褄が合う形で

結果が出るだろうかと、

施術の度に不安がよぎりました。

 

あるいは、

微細な音なき音を

聴き取れなかったらどうしようと

思う時もありました。

 

施術者という役割を支え、

施術者であることに

価値と保証を与えてくれるのが、

施術で生じる「結果」だと

思っていたため、

 

結果をコントロールしたくなる誘惑、

分かりやすい大きな変化を

身体に生じさせたいと思う気持ちは、

幾度も執拗に現れました。

 

 

 

こうした誘惑を手放して、

結果にこだわる意識から

自分を解放しないと、

目指している施術には

手が届かないことは感じていました。

 

誘惑を手放すには、

背後にある自分の感情と

それを生み出している思考に

向き合うことが不可欠です。

 

施術者として結果を出さないと

という責任感や、

結果が伴わなければ

お客様が離れていくかも知れない

という恐れ、

 

明確な結果を出すことで

認めてもらいたいと思う気持ちや、

自分がやっていることは

本当に正しいのだろうかという

自分への信頼の欠如…。

 

驚くほど沢山、

手放すべきものが見つかりました。

 

 

 

そうした感情や思考を

一つ一つ丁寧に拾い出し、

手放す作業を行う内に、

 

コントロールを欲する気持ちの

背後に隠れていた大きなものに

気付きました。

 

それは、身体の声として

感じ取っていることは、

自分が勝手に作った

思い込みではないのかという

自己不信でした。

 

そのため、

確実な証明や保証を

「結果」という形で

求めようとしていたのです。

 

ですが、

本当は外側から

保証されることではなく、

 

自分が感じたことと自分自身を

掛け値なく「信頼」することが

重要だったのです。

 

ただひたすら

身体を信頼してみよう。

 

施術の初期の頃に

そう決めた自分が、

自分を信頼出来ていなかったことに

気付けたのでした。

 

 

 

パターン化した緊張

 

自分の内側が

整理されて行くと、

 

結果をコントロールしたい

という意識は

自分のハートの周囲を

ぎゅっと押さえ込み、

 

そこに絶え間ない緊張を

生み出していたことも、

 

感覚としてはっきりと

捉えられるようになりました。

 

徐々に軽減してはいましたが、

施術の度に感じていた

ハートの周囲の緊張は、

 

放っておくと

施術すること自体を苦痛にし、

施術に臨む気持ちを

萎えさせる可能性のあるものでした。

 

 

 

施術の間に感じる緊張は、

いかなるものであれ

施術者に疲労を残します。

 

長い時間の施術や

集中力を要する施術では、

一回一回の施術は

本当に楽に行えることが重要です。

 

とりわけ、

人と人との関係性を司り、

施術の際には

最も活躍するチャクラが位置する

ハートの周囲に緊張があると、

 

施術は必要以上に疲労を生む

辛く苦しいものとなります。

 

 

 

更に問題なのは、

コントロールの欲求と

結びついた形で

ハートに緊張があることで、

 

意識の上ではコントロールを

手放しているにも関わらず、

 

施術の際にはその緊張が、

コントロールしようと

自動的に反応を起こす、

言わばプログラムのような形で

作動することでした。

 

結果へのコントロールを

完全に手放すためにも、

何としてもハートの緊張を

手放す必要がありました。

 

 

 

変化しない自由

 

思いに反して、

コントロール意識と癒着して

パターン化してしまっていた

ハートの緊張は、

容易には解けませんでした。

 

何とかしようと

四苦八苦していた

ある日の施術中、

 

ふと

「変化しようがしまいが、

身体の自由。

どっちでも良いんだ!」

と気付きました。

 

それはハートの緊張の話ではなく、

クライアントの身体のことです。

 

施術者なのに、

クライアントの身体が

変化してもしなくても

どっちでも良いなんて、

 

それまでの自分なら

何て無責任な、あり得ない!

と思ったはずです。

 

でもその時は、

急にそう閃きました。

 

そう思った途端に、

ハートの周囲が

フワッとゆるむと、

 

何の緊張も感じることなく

臨床に臨んでいる自分がいることに

気付いたのです。

 

コントロールしようとする意識を、

ついにやっと、本当に

手放せたのだと分かりました。

 

手放したと言うより、

今まで握りしめていたものを

ぽ~んと気持ちよく

放り捨てたと言った方が、

その時の実感に近いかも知れません。

 

 

当のクライアントさんの

身体はと言うと、

 

どっちでもどうぞと言われて

変化をやめるどころか、

自由にエネルギーを吸収して

大きく素早く変化を起こしました。

 

まるで、全ての枷が外れて

やっと自由に変化が出来る、

とでも言う様に。

 

変化する・しないも含めて

全てを身体の意思に委ねること。

 

それが身体にとっては

何よりも望ましいサポートなのだと、

心底理解した瞬間でした。

 

 

 

善悪のジャッジを超えて

 

変化するもしないも、

身体の自由。

 

そう思えた時に、

実はもう一つ

手放していたものがありました。

 

それは、

変化することは良い事、

変化しないのはダメな事、

と無意識の内に決め付けていた

思考のパターンです。

 

これは、

物事を善悪の両極に分断させる

ジャッジの意識でした。

 

ジャッジの意識を持つと、

一旦ダメだと判断したものは

その全てが「ダメ」に見え、

 

そこに含まれている

豊かな価値や意味に

気付くことを妨げます。

 

これを手放せたことで、

「変化しない」という現象にも、

身体にとっては必然性と理由が

ちゃんとあること、

 

変化する時はもちろんのこと、

期待したようには

身体が変化しない時にも、

 

どちらにも同じように

重要な意味があるのだと、

信頼できるようになりました。

 

そして、

それは身体だけでなく、

全ての物事に関しても

そうなのだと。

 

 

 

身体の声を聴いて行う施術は、

こうしてやっと、

一切を身体に委ねて

行う施術になりました。

 

確実な結果(変化)を出す

責任から解放されて、

 

施術者は、身体の変化を

クライアントと共に見守る

オブザーバーとなりました。

 

施術は楽ちんだし、

どんどん楽しくなっています!

 

また、施術者の役割が変わると、

こんなことも分かって来ました。

 

それは、施術は身体に

変化を起こすためのものではなく、

 

施術を受ける前に

その時に必要な変化を

身体はすでに起こしていること、

 

そして、施術はその変化が

肉体にはっきりとした形で

現実に現れるよう、

 

変化を確定し、

その現実化を助ける為の

ものであると言うことを。

 

 

 

年末年始までの営業予定

 

あっという間に

季節が過ぎて、

今年も残すところ1ヶ月半。

 

わ~、そう書いて

ちょっとビックリ!

 

少し気が早いですが、

年末年始までの営業予定を

お知らせしますね。

 

 

 

11月はすでに

ご予約がいっぱいですが、

 

 

キャンセルやご変更が

出る場合もありますので、

ご希望の方は遠慮なく

お問合せ下さい。

 

12月は以下の日程が

臨時休業となります。

10(月)、17(月)、

18(火)、25(火)

 

これらの代替日として、

通常は定休日の水・日を

以下の日程で開院します。

12(水)、19(水)

23(日)26(水)

 

年末年始の休業は、

12月28日~1月2日です。

 

年始は3(木)~5(土)を

開院致しますが、

7(月)~11(金)まで

再度お休みとなります。

 

年末年始のご予約をお考えの方は、

お早めにお問合せ頂ければと思います。

 

 

 

今年は秋に入ってからも

暖かさ(暑さ?)を感じる日が

多くありましたが、

 

だんだんと気温が下がって、

やっと秋らしくなって来た気がします。

 

晴れた日には

本当に青空が美しいですし、

 

隣家の柿の木も

豊かな彩を見せてくれていて、

勝手ながら借景を

楽しませて頂いています!(笑)

 

皆さんも、どうぞこの季節を

目いっぱい楽しんで下さいね~!

 

 

ハートの中心に居る感覚 / 9月までの営業予定

 

目次


9月までの営業予定

意識の在り処
聖なるハートの中心
中心に居ることの難しさ
現実世界の体験を変える体内感覚
自他の境界を見失わせる「前のめり」
「受け取る」ことを阻む体内感覚
中心からズラす力の正体

 

 

9月までの営業予定

 

またまた、ブログをアップするのに

時間が掛かってしまいました!

 

あまりにも間が開くと

「営業してるの?」なんて

密かに心配されている方も

いらっしゃるかも知れませんが、

 

大丈夫です!

neMu no ki は猛暑に負けず

元気に営業しておりますよ~!

 

 

今回は、まずはじめに

今後の営業予定について

お知らせさせて頂きますね。

 

neMu no ki は

9月の3日から1週間、

営業をお休み致します。

 

定期的に通って下さっている方には

早めにお伝えしていましたので、

8月はほぼご予約がいっぱいです。

 

残すところ25日(土)の

一枠のみとなっています。

 

また、同じ理由により、

9月も中旬までいっぱいです。

 

施術をご希望される方は、

出来るだけお早めにお問合せ下さいね!

 

 

 

意識の在り処

 

さて。

今回の記事の本題です。

 

あなたの意識は

どこにいますか?

 

そう聞かれた時に、

すんなり自分の内側に

意識を向けられる人もいれば、

ちょっと戸惑う人もいると思います。

 

意識は、私たちの身体の中に

力が集中しているような、

「焦点化」している感覚を

生み出します。

 

先を読み進める前に、

少し自分の身体の内側に

意識を向けてみて下さい。

 

あなたの意識はどこにいますか?

頭の中でしょうか、

胸の辺りでしょうか?

 

頭と感じた人は、

その焦点を一旦

胸へ下ろしてみて下さい。

 

そして、胸の中心へと

その力の焦点を移してみて下さい。

 

頭の中に居た時と

胸に移ってみた後では、

感覚は変わりますか?

 

胸の中心ではどうでしょう。

 

自分の中の静けさや

寛ぎの感覚などには、

違いを感じられるでしょうか?

 

 

 

聖なるハートの中心

 

少し前の、まだ涼やかだった

初夏の頃のこと。

 

私には、

お気に入りの散歩道が

幾つかあります。

 

その中の一つ、

緑濃く繁るアカシヤや

豊かに実をつけた桑の木が

爽やかな風にそよぐ堤防沿いを

のんびり歩いていた時に、

 

「ハートの中心に戻る」

体験をしました。

 

自分がハートの中心にスポンと

はまったのを体感しました。

 

 

この日は、

ハートの中心の感覚を捉えようと

意識しながら歩いていました。

 

ここで言うハートとは

エネルギーセンターとしての

ハートチャクラです。

 

心臓が正中よりも

少し左寄りであるのに対して、

ハートは正中に位置します。

 

つまり、ハートチャクラは

胸のど真ん中にあります。

 

そして更にその中心には、

聖なるハートの空間

もしくは聖心と呼ばれる「場」があり、

 

私たちはここを通じて、

自分という存在の根源と

他のすべての生命の中心とも

繋がっているそうです。

 

 

この日は、周囲の光景も

ひときわ心地よく、

美しく感じました。

 

「きれいだな~。

気持ち良いな~!」

 

自然の美しさに感激しながら

歩いていたことで、

普段より呼吸も

深くなっていた気がします。

 

ふと、

心臓の周囲の緊張が

解け始めたのを感じました。

 

心臓の外壁がふわ~っと緩み、

それに伴って内部の空間も

大きく広がって行きます。

 

心臓の中で空間が広がる感覚は、

私たちが安心や寛ぎを感じる時の感覚と

とても良く似ています。

同じものと言って良いと思います。

 

 

 

まもなくして、

先程の広がって行く動きとは逆に、

今度はハートの中心に向けて

何かがひゅ~っと集まり始める

感覚が生じました。

 

流れは勢いよく中心に集まると、

最後にスポンという感覚と共に

ハートの中央部で留まりました。

 

 

 

その中央部には、

まるで小さな球形の鋳型が

密かに設置されていたかのようで、

 

流れは球の天辺から流れ込むと

鋳型の内部に満ちて行きました。

 

ちなみに、

球形(もしくは宝珠型)と感じたのは

流れが鋳型を満たし切った時でした。

 

鋳型が満ちた瞬間に

スポッとハマった感覚が生じ、

 

それと共に、

流れによって満たされた空間の形が

分かったのでした。

 

 

 

スポンと

ハマるべきところに

ハマった感覚を感じた時に、

 

自分の意識が

「自分」という存在の中心に

ピタリと収まったのだと分かりました。

 

 

中心に居ることの難しさ

 

こうして、

自分の中心と一致している状態と

そこから来る絶対的な安心感は、

しばらくの間続きました。

 

でも、一度体験したことが

そのまま定着するという具合には

なかなか行かないのですね。

 

やがて、

一体化していた中心から

意識が離れて行こうとして、

身動きし始めました。

 

 

 

意識は中心から前へと

ズレて行こうとします。

 

それを引き戻して、

中心に収め直します。

 

それでもやはり

落ち着かない様子で

また勝手に前に動くので、

また引き戻します。

 

身体の中で

こんなやり取りを

繰り返している内に、

気付きました。

 

前にズレて行くと、

心臓の前面にモヤモヤ

ビリビリするような

苦しく不快な感覚が現れます。

 

中心に戻ると、

寛いだ感覚がふわ~っと全身に広がり

心だけでなく思考も落ち着きます。

 

ハートの中心が

自分の意識にとって

本来居るべき場所であるのは、

こうした感覚からも

確かなようです。

 

それにもかかわらず、

放っておくと意識は中心から離れて

勝手に前にズレて行こうとします。

 

一体何が、

起きているのでしょうか?

 

 

 

現実世界の体験を変える体内感覚

 

前にいる感覚と

中心に居る感覚とを

交互に体感している内に、

 

それぞれの感覚の違いが

こんなことを教えてくれました。

 

自分の意識が

ハートの中心よりも前にいる時は、

 

本来の自分の在り方よりも

前のめりになっている状態であること、

 

そして、本来の自分の前に

自分で立ちはだがっているような

状態でもあること。

 

 

 

身体の中で生じ、

私たちが意識的・無意識的に

味わっている体内感覚は、

単なる感覚というだけの

ものではありません。

 

実はこうした体内感覚は、

自分の外側に見ている現実世界を

どのようなものとして体験するか、

それを左右します。

 

(より正確に言うなら、

私たちが外側の世界を

どのような現実として体験しているか、

体内感覚はそれを映し出す

鏡でしかありません。

 

ですが、この鏡が一たび

固定的な形で据えられると、

自分で作り出したこの鏡に

今度は私たち自身が

左右されるようになり、

 

外側の世界を

パターン化した形で

体験し続けることになります。)

 

例えば、

今まで見て来たように、

 

ハートの中心に居る時は

安定感や確実性、

居るべき場所に居ると言った、

肯定的な感覚・感情と共に

私たちはいます。

 

こうした感覚・感情にある時、

普段なら腹が立つ様な事も

大して気にならず、

「あら、そう?」と言うように

サラッと受け流すことが出来るなど、

 

外側の世界の中に見出す刺激にも

容易に左右されることはありません。

 

では、もう一方の

ハートの中心から前にズレた

前のめりの体内感覚の時には、

私たちは外側の世界をどんな風に

体験するのでしょうか?

 

 

 

自他の境界を見失わせる「前のめり」

 

前のめりは、

何かあった時にはいつでも

すぐに現場に駆けつけて対応しようと、

アクセルをふかしている状態と言えます。

 

この時、

私たちは自分と他者の間の

境界を飛び越えて、

相手の領域へ踏み込みがちになります。

 

前のめりであるがゆえに、

互いの境界がどこにあるのかを

見失いやすいのです。

 

また、これは相手の領域に

自分から寄って行っている状態でもあるため、

 

相手の領域で起きている事柄でも、

まるで自分の身に起きていることの様に

はっきりした体内感覚を伴って

体験し易くなります。

 

その結果として、

必要以上に他者の問題に

首を突っ込んでしまったり、

 

相手の気持ちを確かめずに

自分の勝手な判断で

(と言う意識は本人にはないのですが)

相手の領域の問題を結論付けてしまう、

というようなことが起き易くなります。

 

 

 

「受け取る」ことを阻む体内感覚

 

更にもう一つ、

ハートの中心から前にズレて

自分で自分の前に

立ちはだかっている時には、

 

他者が与えてくれるものを

無意識に弾き返し、

自分が受け取ることを

自分で阻止し易くなります。

 

と言うのも、

本来の自分の前に

自分で立ち塞がっている状態とは、

 

外から来る刺激に対して

自己防衛をする構えであり、

すぐに応戦するための

臨戦姿勢であるからです。

 

そのため、

外側からやって来るものは、

 

それが情報であれ

他者の思いやりであれ、

自分に有益なものであれ

そうでないものであれ、

 

その種類や性質を

見極める暇もなく、

反射的に打ち返す反応が

自動的に起きてしまうわけです。

 

 

 

と言うことは、

 

自分が思ったように

他者から認められていないと

感じたり、

 

自分が与えている程には

他者や社会から多くのものを

与えてもらえていないと

感じるような場合も、

 

それは

外側の世界のせいではなく、

 

自分の体内感覚の不安定さから

現実をそのように

感じているだけなのかも知れません。

 

 

 

中心からズラす力の正体

 

散歩の時のお話に

少し戻ります。

 

前にズレると、心臓の前面に

モヤモヤ・ビリビリするような

苦しく不快な感覚が現れたと、

前述しました。

 

この不快感は、

自分を中心からズラそうとする力の

性質を物語っていました。

 

それは、

不安や焦り、恐れや疑いと言った

否定的な思考や感情です。

 

 

否定的な感情や思考を抱く時、

私たちの中には必ず

何らかの緊張が生じています。

 

この緊張は概念的なものではなく、

物理的なレベル、つまり肉体に生じます。

 

どの感情・思考に対して

どこにどの様に緊張が現れるかは、

 

私たちがそれぞれ経て来た

体験や経験によって

少しずつ異なります。

 

ですが、例えば

人との関わりの中で

痛みを感じる体験をすると、

 

愛情のやり取りを司る

ハートチャクラの表面には、

自分を守るための防壁が築かれます。

 

エネルギーの動きが凝集し、

硬い殻のように固まっているのを

イメージしてもらえば良いと思います。

 

外側からの様々な刺激を

その殻によって遮断して、

対処しようとするわけです。

 

エネルギーにこうした変化が

生じるのと同様に、

 

心臓そのものの表面にも、

緊張によって組織を固めたり

厚みを持たせることで、

外の世界から自分を守るために

変化が生じます。

 

 

 

こうして形成された複層的な防壁は、

「凝集」や「緊張」という

活動的な力を帯びた、

言わば生きている能動的な盾です。

 

そして厄介なことに、

私たちを守っているこの忠実な力と、

私たちは多くの場合「一体化」しています。

 

そのため、

私たちが本来の自分に戻ろう、

ハートの中心に戻ろうとした時に、

 

この生きている盾は

私たちが多くの恐れや不安を

抱えていたことを思い出させ、

 

ハートの中心から

防衛のための前線へと、

私たちを引き戻す力として

作用することになります。

 

 

 

本来の自分に還るために

根本から変化しようとする時、

 

それは肉体の変化だけでも

心理・思考面の変化だけでも

為すことは出来ません。

 

肉体の変化は、

パターン化した体内感覚から

抜け出すことで、

現実をより歪みのない形で

体験することを助けてくれます。

 

そうした肉体の変化に加えて、

 

これまで自分自身が

同一化して来た「盾」を、

自分から良い意味で分離して行く

必要があります。

 

盾を形成していた感情や思考は

どのようなものか、

それを一つ一つ意識的に見つけ直し、

それら全てを手放す作業を行います。

 

自分を防衛へと引き戻す

感情や思考のパターンから、

自分自身の力によって

自分を解き放って行くことが、

とても大切になるのです。

 

 

(感情や思考のパターンを手放す方法について知りたい方は、

当サイト内のブログ記事より

『天使に願いを~ネガティブな思考や感情を楽しんで手放す方法』

をご参照ください。)

 

 

身体の錬金術 ~ neMu no ki 10年目に寄せて/6月までの営業予定

 

目次

私たちは「身体」ではない
意識の働きである「私」
自己変容の夢
2つの原体験~弓と馬
逆転した的と矢
馬の気持ちに寄り添う
信頼がもたらした奇跡の調和
体験の意味を求めて
中心軸を乱す力
筋膜的な感覚の世界
身体のブループリント
6月末までの営業予定

 

 

桜の時期があっという間に終わり、

気が付けば花粉症も終盤となって、

すっかり辺りは新緑の季節!

 

…すでに新緑も深まって来てるかな?

 

大変お久しぶりの記事となりました!

皆さん、お元気に過ごされているでしょうか?

ブログをアップしようしようと思いつつ…。

 

花粉症に関連した記事を書いていたのですが、

季節に追い越されてしまいました(;^ω^)

 

そうこうしている内に、4月下旬。

 

実は、neMu no ki は

4月の中旬に誕生しました。

 

2009年のことでしたので、

今年で丸9年。

10年目に突入、という計算になります。

 

ここまでの道のり、

ずっと前を見ながら歩み、

少しずつでも確実に成長して来れたなぁと、

自分のことながら感じています。

 

初期の頃から変わらずに

来院して下さっているお客様もおり、

 

お客様に育てて頂きながら

ここまで来られたことに、

深い感慨と感謝を覚えています。

 

皆さん、本当にありがとうございます。

そして、

本当によく頑張って来たなぁ~。

 

 

…と言うわけでして、予定変更。

 

今回のテーマは10周年に寄せて、

改めて「身体」というものと

私自身との関わりについて、

自由に書いてみようと思います。

 

 

 

私たちは「身体」ではない

 

先日のこと。

 

施術が終わった後、

クライアントさんに身体の説明をしていました。

 

何か日常的に気を付けることはありますか?

と聞かれたので、

 

意識的にやるべきことは特にありません。

ただひたすら、

身体がどの様に変化するかを見守り、

観察してあげて下さい。

と答えました。

 

クライアントさんは笑いながら、

「まるで身体が

自分と一体じゃないみたいですね。」

と言いました。

 

その通りです。

私たちは身体そのものではありません。

 

自分の中では

当然のことになっていましたが、

クライアントさんの意外そうな声を聞いて、

「私たちが身体そのものではない」

と言う事柄について

改めて考えてみたくなりました。

 

 

 

意識の働きである「私」

 

「自分」が身体と一致していない、

自分と身体は別物だと感じたのは、

幼稚園の頃だったでしょうか。

 

家のすぐ近くには公園があって、

そこへは坂道を下って行きます。

 

車の滑り止めなのでしょう、

坂道には大きなドーナツ型の凹みが

幾つもあり、

 

公園に向かって

駆け出そうとすると、

必ずと言って良いほど

足を取られました。

 

自分で思っている程、

足が上がっていなかったのでしょう。

 

バターンと派手に転倒すると

膝小僧には大きな擦り傷が出来、

 

ジクジクする痛みと

思うように遊べないもどかしさで、

悲しい気持ちになりました。

 

 

 

小さい頃、

歌を歌うことも好きでした。

 

小学校に入る前から

ピアノを習っていたので、

音程はちゃんと取ることが出来ました。

 

でも、ある一定の高音域になると、

頭の中では音をイメージ出来ているのに、

声は上がらなくなります。

 

理由はわからないけれど、

喉が締め付けられる感じがして、

潰れた声になるのです。

 

 

 

こうした体験を通して、

 

身体は自分の思い通りにならない、

身体は私を裏切っている。

 

そんな風に思うようになっていました。

 

やりたいことを妨げ、

自分を裏切っている身体は、

自分と異なる異質なもの。

 

身体なんていらない。

心だけで良いのに。

 

今となっては懐かしいです。

当時はそんな捉え方をしていました。

 

 

 

この頃は、

「自分は身体そのものではない」

という表現にはなりませんでしたが、

 

「自分」は心や意識と言う

目に見えない「働き」であって、

 

目には見えなくても、

「私」という意識として

存在している「自分」は、

物質的な身体とは別物だ。

 

ということを、

体験的に知っていたと思います。

 

そして、

小学校の中学年か

高学年の頃になると、

 

体育の時間、

思ったように逆上がりが

出来ない自分を前にして、

こんな考えが浮かびました。

 

今でもよく覚えています。

 

同じように手足を持ち、

同じように全てに

神経が通っているのに、

 

運動が得意の人もいれば、

自分のように苦手な人もいる。

 

身体を作っているものに

差があるわけではない。

私も健全な身体を持っている。

 

それならこの能力の差は、

一体どこから生まれるんだろう?

と。

 

今にして思えば、

これが「身体」と言うものへの

私なりの探求の入口に

なっていたのだなと思います。

 

 

 

 

自己変容の夢

 

大学生の時、

「錬金術」という言葉と出会いました。

 

選択必修科目に

比較宗教学という授業があり、

そこで初めて

神秘主義的な世界を知りました。

 

中でも「錬金術」は

特に興味を惹かれるものでしたが、

 

それは

卑金属が貴金属に変わる

疑似科学としてではなく、

 

純粋に形而上学的なものとして

魅力を感じました。

 

二つの極にあるものを統合し、

それによって

「高く純粋なエッセンス」が

物質の中に現れ出ると、

 

鉛のように卑しい性質のものですら、

金のように貴いものへと変容する。

 

 

ただ、それには大前提があって、

それが可能となるのは、

術者自身の変容が伴った時である。

 

錬金術は、

私の中にそう響きました。

 

 

 

当時の私にとって

卑しくて不要なものと言えば、

何といっても「身体」でした。

 

10代の多感な時代、

体験していた心理的な困難さも

すべて含めて、

 

あらゆる苦しみの原因は

身体や姿形を持っていることにある、

と考えるようになっていました。

 

自分の一部でありながら、

嫌い疎んじていた身体ですが、

 

その中からもし

「高く純粋なエッセンス」を

引き出すことが本当に出来れば、

 

身体は尊いものへと変わり、

自分という存在そのものが

大きく変化するに違いない。

 

 

錬金術と出会ったことで、

 

自分でありながら

コントロールの利かない身体と、

自分自身とが変容する可能性を、

見つめるようになりました。

 

 

 

2つの原体験 ~ 弓と馬がくれた贈り物

 

錬金術と出会った前後の時期、

2つの不思議な体験がありました。

 

 

 

一つ目は、弓道場での出来事でした。

 

当時、弓道は習い始めてから

1年経ったかどうかの初心者でしたが、

私には一つのこだわりがありました。

 

それは、

的を射ようと意図しないこと。

 

 

 

和弓には、

動作の「型」があります。

 

「型」に即して的確に身体を使うと、

弓は驚くほど軽やかに、大きく開きます。

 

弓が楽に大きく開けば開くほど、

矢は勢いよく真っすぐ

ブレることなく飛んで行きます。

 

矢が的を射抜くかどうかは、

弓を引く姿勢と動作の中に

どれだけ調和と秩序を体現できたか、

その結果でしかありません。

 

まず的を射ようと思わなければ

的に矢は当たらないよ、と

アドバイスをくれる方もいましたが、

 

的を射るために弓を引くつもりはない

という気持ちは、

どんな言葉にも勝りました。

 

 

 

逆転した的と矢

 

ある日、

弓を引き分け始めると、

 

自分の身体の軸が

真っすぐに立ち上がり、

右半身と左半身のバランスが

それまでになく整っているのを

感じました。

 

弓の張力も

驚くほど軽く感じ、

簡単に大きく広がります。

 

弓を最後まで引き分けると、

矢は口の横にピタリと添い、

スッと静止しました。

 

全てが収まるべきところにある。

そんな感覚を感じながら、

 

的を狙うでもなく

息を詰めるのでもなく、

 

ただ身体のバランスに

確かな秩序があるのを感じながら、

なおも弓を引き続けました。

 

 

 

矢は、

弓から離れた瞬間に

的に当たると分かりました。

 

矢はすぐに一つの点となり、

進んでいるのか静止しているのか

判別できませんでしたが、

 

今は点となった矢に、

的が近づいてくるのが見えました。

 

的は次第に大きくなると、

自らの中心に寸分の狂いもなく

矢を真っ直ぐ受け止めました。

 

 

全ては滞りなく、

当然のように流れて行きました。

 

全てはゆっくりと見え、

一部始終がはっきりとしていました。

 

 

 

馬の気持ちに寄り添う

 

二つ目は、馬場での出来事でした。

 

大学の馬術部は夏休みの間、

暑さを苦手とする馬達を連れて

長野で合宿をするのが、

恒例となっていました。

 

その年、

合宿先の馬場は改築して、

屋根付きの覆い馬場となっていました。

 

 

 

普段乗せてもらっていた馬は

チャウと呼ばれる雌馬で、

落ち着いた大人しい性格でした。

 

合宿所に着くと、先発組の先輩が

チャウに騎乗しているのが見えました。

 

…あれ?

 

馬場の中にいるチャウは

落ち着かない様子です。

 

 

 

乗り手の言うことが

まるで耳に入らないようで、

神経質に足踏みをし続けています。

 

何かがすごく気になって

この場から逃げ出したい、

とでもいう様な動き。

 

そんなチャウを見ていて、

ふと気付きました。

 

そうか、屋根が付いたことで

知らない場所に来たと思って、

不安に感じているんだ。

 

ゆっくり歩かせれば

きっと落ち着くのに、と。

 

 

 

鞍上にいた先輩はこちらに気付くと、

不意に乗り替わるように言いました。

 

当時の私はほぼド素人でしたから、

通常ならあり得ない危険な提案です。

 

でも、私には確信がありました。

 

上手く御すことは

そもそも出来ないんだから、

とにかくチャウを落ち着かせよう。

きっと出来る。

 

 

 

信頼がもたらした奇跡の調和

 

チャウの背中からは、

状況が呑み込めない事への

不安が伝わってきました。

 

彼女の焦りに

巻き込まれないように、

自分の意識と呼吸を鎮めます。

 

やるべきことが

はっきり分かりました。

 

3~4歩進んだら、

ゆっくり止まる。

 

再び歩き出す時には

出来る限りそっと指示を出して、

チャウが安定した気持ちのまま

ゆっくり歩き出せるようにする。

 

これを、

落ち着いたと感じるまで

ひたすら繰り返そう。

 

 

 

馬場を半周する頃、

チャウの歩様がゆっくりになり、

動きが自覚的になりました。

 

もう大丈夫。

 

自分の置かれている状況が

理解できたようです。

 

それなら

今度は少し速歩(はやあし)をしよう。

更に環境に慣れるように。

 

そう考えて、

先ほどより少し素早く

脚で指示を出しました。

すると、

 

ふわっ…

 

チャウが足を前に踏み出すと、

まるで雲に乗っているような

浮遊感を感じました。

 

 

馬の速歩は上下動が大きく、

リズムに合わせて乗るのは

いつも一苦労だったのに。

 

今は馬の方が

こちらの動きに合わせてくれているのは、

明らかでした。

 

寸分違わぬ完全なタイミングで、

チャウがリズムを支えてくれています。

 

言葉では表現し尽くせない

心地良く軽やかな乗り心地、

そして一体感。

 

馬に乗ることが、こんなに気持ちよく

楽しいことだったなんて!

 

 

 

運動をしている間、

私の手と馬の口とを繋ぐ手綱も、

ロックされているかのように

同じ長さに保たれていました。

 

いつも手綱がすぐに緩むので、

「ちゃんと握れ!」って

怒られてばかりだったのに。

 

その手綱の張力を使って、

チャウはきれいに首を丸めています。

 

まるで、それが彼女にとって

最も自然で楽な姿勢であるかのように、

自ら屈撓していました。

 

チャウの信頼が伝わって来ます。

 

 

 

私の手が

手綱を引いているのでもなく、

チャウの口が

手綱を引っ張っているのでもなく。

 

どこからか「調和」が

降って来たかのように、

 

私たちの間には

完全に釣り合いの取れた

「拮抗」が存在していました。

 

 

 

体験の意味を求めて

 

これら2つの体験は、

互いによく似ていました。

 

今思えば、あれは

「高く純粋なエッセンス」が

何なのかを知りたいという、

私の願いに対する答えだったと分かります。

 

でも当時は、

そこに通底しているものが何なのか、

幾ら考えても分かりませんでした。

 

 

 

錬金術では、

実践的・実験的であることが

大切にされていましたから、

 

錬金術的な世界観に

大いに影響されていた私は、

あの体験の意味を理解するために

何か行動をする必要があると

考えました。

 

そこで選んだのが、

流鏑馬をやっている牧場で働くこと。

 

弓と馬という

2つの原体験のど真ん中に、

飛び込むことに決めたのでした。

 

 

 

中心軸を乱す力の発見

 

馬たちとの生活の中で

何よりも大きく変化したのは、

身体感覚の感受性でした。

 

馬たちの身体は、

全身センサーとでも言えるような

敏感さと繊細さを持っています。

 

彼らと肌を接して触れ合う内に、

彼らが肉体を通して感じ取っていることを、

共振的に感じるようになって行きました。

 

 

 

そうした彼らにとって

騎乗されることがストレスとならないよう、

 

毎日の乗り運動においては

自分のバランスに細心の注意を払いました。

 

左右のバランスが崩れて

馬の身体に歪みが生じないよう、

自分の中心軸を通すことだけに

意識を注ぎました。

 

中心軸に意識を合わせ続けている内に、

身体の中にその軸を乱そうとする

無駄な力が働いていることに

気付き始めました。

 

例えば、一部の筋肉は

意識が通いにくくなっていて、

それが「思った通りに身体が動かない」

という状況を作り出していたり、

 

またその逆に、

使わない様に意識をしても

勝手に作動してしまう箇所もあって、

 

それが本来働くべき筋肉を制して

先んじて動いてしまうことで、

 

動きののびやかさや美しさが

阻害される、ということが生じていました。

 

~同じ仕組みの身体なのに、

なぜ能力に違いが生まれるのか?~

 

幼い頃に抱いた問いへの糸口が、

見つかったと感じました。

 

 

 

筋膜的な感覚の世界

 

様々な施術方法を学び始めて1年を経た頃、

「筋膜」という組織を扱う施術に

出会いました。

 

筋膜には、

身体の各部で生じている

歪みや緊張がつぶさに投射されると知り、

 

ここに求めている答えがある、

と思いました。

 

とは言え、

目には見えない体内の組織です。

 

実際に自分の手が触れているのが

筋膜であることを信じながら、

 

毎日、暇さえあれば

筋膜を意識しながら身体に触れて

手の感覚を育て、

 

また、筋膜の中に

歪みや緊張の兆候を探しては

それを整え直して、

施術の練習を重ねました。

 

電車の中でも

テレビを観ている時でも、

とにかく四六時中でした。

 

 

 

そうした中で、

 

筋膜に生じている歪みの感覚は、

ストッキングを捻じれて履いた時の

何とも収まりの悪い気持ち悪さに似ている、

と感じることが幾度か重なりました。

 

そして、たまたま目にした

ロルフィングのwebサイトで、

「筋膜はストッキングのようなもの」

という記述を見つけます。

 

感じていたことは

合っていた。

 

感じ取っていたのは

確かに筋膜の感覚だと

思わぬ形で太鼓判をもらい、

 

自信を持って進みなさいと

言われたような気がしました。

 

それ以降、

筋膜に映し出される

緊張や歪みの情報を

正確に拾うことと、

 

それらの背後には

どのような姿勢や動きの

影響があったのかを

丁寧に分析・洞察することに、

一層力を注ぎました。

 

 

 

身体のブループリント

 

筋膜を通して身体と繋がり、

身体が伝えてくれる感覚への

信頼が深まると、

 

身体は多くのことを

教えてくれるようになりました。

 

感覚と感情は実は同じものであって、

それを異なる入口から

取り出しているだけであることや、

 

身体は自分が本来あるべき姿形を

知っており、

いつでもそこに向かって

戻って行こうとしていること…。

 

そうなのです。

 

つまり身体は、

本来のあるべき姿のイメージを

自分の内側に青写真もしくは鋳型として

持ち続けています。

 

筋膜に生じている

歪みや緊張が解けると、

身体は秩序と調和のとれた形へと

自ずと戻って行きます。

 

無理に力を加えたりしなくても、

身体自身の中で

変化して行くべき方向性を

ちゃんと知っており、

それを私たちに示すことも出来るのです。

 

身体の中に知性があると知った時、

身体への敬意が生まれました。

 

そして、施術が

施術者の判断によるのではなく、

 

身体自身の意思と判断を尊重し、

そこに純粋に寄り添うものになれたなら、

 

身体にとっての

「高く純粋なエッセンス」に他ならない

身体本来の姿=ブループリントが、

現実の身体として体現されるだろう。

 

そう思うようになりました。

 

 

 

6月末までの営業予定

 

最後になりましたが、

ここから6月末までの営業予定をお知らせ致します!

 

臨時でお休みとなる日は、

5月21日(月)、6月18日(月)となります。

(もし他にもお休みとなる日が出て来た場合には、ここに随時追加して行きますので、ご確認下さい。)

 

ゴールデンウイーク中も、通常通りの営業を致します。

祝祭日に関わりなく、毎週水・日曜が定休日となります。

営業は11時から20時まで、最終の施術受付時間は15時半とさせて頂いております。

 

リピートで来て下さっているお客様は、

ご事情がおありの場合は定休日でもご予約を承ることが可能ですので、

必要な場合には遠慮なくお問合せ下さいませ。

 

それでは、皆様のお越しを心よりお待ちしています。

今後とも、neMu no ki をどうぞよろしくお願い申し上げます!

 

 

時間と感情 / 2月の営業とキャンセル等の規定変更のご案内

 

目次

時間感覚を生み出す感情
電子に生じる歪み
恐れを現実化する電子の歪み
歪みが自分を本質から遠ざける
感情と時間をつなぐ、電子の回転
電子の共鳴
自分と一致して生きるには
2月の営業予定
各種の料金・時間設定に関するご変更

 

 

 

年が明けてから丸ひと月。

(と言うか、もう2月(^^; )

 

今年はお正月から

の~んびりしたペースだったせいか、

1か月の経過もゆっくりだった気がします。

 

大急ぎで頑張って

間に合わせの大掃除をするのではなく、

無理のない範囲で本当にやりたい事だけをしよう。

 

そう年末に決めたことで、

その後の流れも穏やかだった気がします。

 

 

 

時間感覚を生み出す感情

 

時間の感覚は、

その時々で違った印象を

私たちにもたらします。

 

急いでいる時には

あっという間に時間も過ぎて行き、

下手をすると

時間に追われている感じさえします。

 

ゆったりした気持ちでいる時は

時の流れもゆっくりしていて、

全てが穏やかに感じられます。

 

またあるいは、

退屈なことや面白くないことに

関わっている時には、

時間が経つのは嫌と言う程遅く感じ、

 

何かに夢中になって

時計を見るのも忘れて

取り組んでいる時には、

時間は飛ぶように過ぎていたりもします。

 

 

 

このように挙げてみると、

時間の感覚と言うのは

私たちの気持ちや感情の状態に

直結していることが分かります。

 

では感情と時間とは、

どのように関わっているのでしょうか?

 

 

 

電子に生じる歪み

 

最近、ある本の中に

面白い記述を見つけました。

 

それは数年前から

持っている本でしたが、

そうした記述があったことには

今頃になって初めて気付きました。

 

情報と言うのは、求める本人が

それを理解できる段階に至るまでは、

目の前に現れて来ないものなのだな

と思います。

 

 

 

その中には

『生命の最小の現れ』としての

電子について触れており、

こんな風な説明がありました。

 

 

(以下、読みやすい形になるよう、

元の文章を抜粋・要約しています。

『』内は、元のまま引用しています。)

 

 

 

電子は『純粋な宇宙の光の物質』で、

神と人が発揮する創造的な力(※1)に

稲妻のように反応すると、

(※1:具体的には、意図や意思を指していると考えられます。)

 

 

その力の働きに応じて形を変え、

物理的な世界を作る素である原子を

作り出すのだそうです。

 

 

そして、

 

 

『原子を構成する電子の数は

意識的な「思考」の結果であり、

意識的な「思考」で決まります。

 

 

それらが中心核のまわりを回る速度は

「感情」の結果であり、

「感情」で決まります。

 

 

中心核内部で激しく旋回する動きは

「神の息」です。

 

 

…中略…

 

 

電子のエネルギーはとても中立的で、

完全に生命に尽くすものです。

 

 

電子は、生命のほかの意識部分によって

条件付けされるときにのみ、

形となって現われます。

 

 

どのように条件付けされるかに応じて、

さまざまな形、姿、濃度を取ります。

 

 

…恐れや怒りや貪欲で創造するとき、

あなたは電子を誤用していて、

いのちに捧げる(電子の)原初の目的を

歪めて創造しています。』

 

 

(オレリア・ルイーズ・ジョーンズ著/『新しいレムリア』)
>p.283~285:復活の炎の章

 

 

 

恐れを現実化する電子の歪み

 

ここでの大前提として、

私たちの意識や意思、意図が

現実を創造している、

という理解があります。

 

その理解の上に立って

ここで言われているのは、

 

私たちがどの様な意識に基づき、

どの様な現実を作り出すことを

望むかによって、

 

現実を実際に作り出す

素材としての電子が

「条件付け」されることになる、

と言うわけです。

 

仮に、何らかの恐れを持って

現実を生み出した場合、

その思考に動員された電子や

おそらくは電子が描く軌道も、

恐れにより歪みを帯びることになります。

(歪みという条件付け=パターン化が起きます。)

 

そのため、自分の自覚としては

理想的な現実を思い描いていたはずなのに、

 

実際には

電子に付与された歪みによって

隠れていた恐れが反映されるため、

「現実」は恐れていたことが

形となって現れることになります。

 

例えば、

ヤマが外れたらどうしようと思いながら

試験勉強をしていたら、

ちょうど確認を省いたところが

出題されていたというように。

 

(もし、この人物に

どんなことを考えながら勉強していたの?

と質問をしたら、

「ヤマが当たると良いなぁと思って」

と答えるかも知れません。

 

そこで、本当にそういう言葉だった?

と更に詳しく聞いてみると、きっと

「ヤマが外れたらどうしよう、だった。」

と答えるでしょう。

 

つまり、私たちは無自覚の内に

恐れを含む言葉を心の中で使いながら、

それを意識していないことが多いのです。)

 

 

 

歪みが自分を本質から遠ざける

 

ここで言われている「歪み」は、

臨床を通して触れる身体の中に

私自身が観て取っているものと、

とても近いものだと感じました。

 

身体が帯びている歪みは、

単に肉体だけではなく

感情や意識なども含めた

あらゆるレベルにおける「歪み」を

反映しています。

 

こうした「歪み」こそ、

私たちの構造のまとまりや機能を

物理的に低下させるだけでなく、

 

私たちを自分の本質から遠ざけている力が

目に見える形で表現されたものだと、

経験を重ねる中で確信するようになりました。

 

肉体・感情・意識・エネルギーなどの

あらゆる階層で生じている「歪み」は、

全て同期してもいます。

 

ですが、「歪み」が電子のレベルから

起きているものならば、

それも当然のことだと納得できます。

 

 

 

…だいぶ脱線してしまいましたが(#^.^#)

 

以上のようなわけで、

この本の記述は

感覚的に信頼できると、

私自身は感じたわけです。

 

 

 

感情と時間をつなぐ、電子の回転

 

さて!

それでは時間の話に戻りましょう。

 

引用文の中程に、

電子が中心核を回る速度が

感情によって決まる、

という説明がありました。

 

電子の数を左右するのが思考で、

電子の回転速度が感情。

 

回転速度と言うことは、

電子の軌道とも関係があると

考えて良さそうです。

 

感情の状態に応じて、

電子の回転速度だけでなく

電子が描く軌道の形にも

変化が生じると仮定してみます。

 

 

感情によって決められる

電子の回転運動ですが、

 

その回転は、

回転の中心に位置する中心核と

呼応しているはずです。

 

中心核の中で生じている動きは

「神の息」でした。

 

『激しく旋回する動き』と

記述がありましたから、

非常に速い速度で旋回しているのでしょう。

 

ですが、

そこはあくまで「神の息」ですから、

どんなに目まぐるしい速度の中でも

永遠不変の秩序と調和が

保たれているはずです。

 

 

 

電子の共鳴

 

ここからは、

想像力を働かせてみます。

 

楽しさや幸福感の中に居る時、

感情は軽やかです。

 

この時、

感情のエネルギーは

心地よくスムーズに流れているので、

電子の回転も一定の速度を保ち、

軌道も美しく整っていると想像できます。

 

「神の息」の速い回転に対しては、

回転数(周波数)は異なっているでしょうが

共鳴の形で気持ち良くリズムが合います。

 

意識や感情は、いわば

「神の息」のリズムの内側にいますが、

そこから見える周りの世界は

感情自身のリズムを反映するため、

ゆったりした気持ちでいる時には

世界もゆっくり流れているように見えます。

 

 

一方、

やらねばならないことで

意識がいっぱいになっている時は、

感情的には焦りや不安を感じています。

 

こうした時、私たちの内側は

雑音が鳴り続けているような感覚です。

 

雑音を回転に置き換えてみると、

不安定で荒い軌道に、

不揃いでリズムを持たない回転

というイメージが浮かびます。

 

例えば、

なかなか眠れずに焦っている時、

一定のリズムで時を刻む

秒針の音を聞いてしまうと、

余計に焦りを感じるようになりますが、

 

自分が不安定な状態でいる時に

何かが一定不変のリズムで動いていると、

 

その揺るがない安定感との間に

大きなギャップを感じ、

自分の不安定さをより鮮明に

自覚するようになります。

 

焦りや不安によって

速度も軌道も乱れている

電子の気持ちになってみると、

 

「神の息」は残酷なほど

一定不変のリズムを奏でているように

感じることでしょう。

 

そのリズムに追い立てられている状態が、

つまりは私たちが時間に追われている感覚を

作り出していると想像できます。

 

 

…面白いですね~!(#^.^#)

 

 

 

同じように、

退屈な時には時間の経つのが遅く

楽しい時にはあっという間に過ぎるのも、

 

感情による電子の回転のリズムと

神の息による中心核の回転とが

共鳴しているかいないか、

と言う観点で理解できそうです。

 

 

 

自分と一致して生きるには

 

心地よい、楽しい、ゆったり、

寛いでいる、夢中になっている。

 

こうした状態でいる時、

私たちは自分の本質と共にいる、

と言うことが出来ます。

 

自分の本質と一致しているから

楽しく感じ、寛いでいられるわけです。

 

一方、焦ったり不安な気持ちでいる時、

私たちはどこかで無理をしていたり、

自分を信頼できていなかったりします。

 

つまり、

自分自身に対して正直ではなく、

強い言葉で言えば

自分と乖離しているとも言えます。

 

こうした状態にいる時、

実は私たちは

電子という最小単位から、

狂ったリズムで存在している

ということになるのですね。

 

おぉ~…。

 

想像しただけでも、

大変そうです。

 

 

 

自分自身に正直に生きる。

自分と一致して生きる。

 

こうした生き方は、

本当に行おうとすると

時に様々な困難に

出会ったりします。

 

ですがそれは、私たちがまだ

歪みを抱えているせいなんですね。

 

歪みを手放そうと意識し始めた時

私たちの電子は共鳴へと向かい始め、

 

その共鳴によって、

私たちが自分と一致して

生きようとする試みもまた、

大きな追い風を受けるように

なるのではないかと思うのです。

 

 

 

2月の営業のお知らせ

 

まずは、2月の営業日について

お知らせ致しますね!

 

12日の月曜日が臨時休業となる他は、

通常通りの営業を予定しています。

 

定休日は毎週水・日曜日、

営業時間は11時から20時となります。

現在の施術の最終受付時間は、

15時半とさせて頂いております。

 

また、

繰り返し利用して下さっている

クライアント様で

ご事情のある場合に限りますが、

水・日曜日の定休日も

ご予約を承っております。

 

水日ならば都合がつくのになぁ!

と思っていらっしゃる方は

どうぞ一度ご相談下さいね。

 

 

 

各種の料金・時間設定に関するご変更

 

最後になりましたが、この度

従来のneMu no ki のシステムの中で

二つほど変更・改善を行いましたので、

皆様にご案内申し上げます。

 

1つ目は、キャンセル料についてです。

 

ご予約間近での日程変更やキャンセルについて

今まで一括したキャンセル料を設けていましたが、

条件に応じてのより詳細な形に改善致しました。

詳しくは、こちらからご覧下さい。

http://inemurino-ki.com/prior-agreement/#cancel

 

 

 

二つ目は、施術前後でのお話の時間と

メールでのサポートに関してです。

 

当院では、施術の前と後に

お話の時間を設けています。

 

この時間は、

施術を単なる施術で終わらせることなく

良きセラピーとして機能させる上で、

実はとても大切な要素になっています。

 

そのため、これまでは

お客様に好きなだけ自由に

お話をして頂けるようにと考え、

そのように環境を設定して参りました。

 

ですが、

セラピーをより豊かなものとするために、

今後はお話の時間に敢えて

区切りを設けさせて頂くことに致しました。
また、

メールを通してのご相談やご質問も

これまでは自由にご利用頂いておりましたが、

 

セラピー後のフォローアップ以外は

有料の形で承らせて頂くこととなりました。

 

お話の時間とメールサポートに関する詳細は、

こちらにてご案内しております。

http://inemurino-ki.com/duration-and-charge/#charge

 

 

 

この度のシステムの変更を通して、

クライアントの皆様には

今まで以上に気兼ねなく安心して、

公平な形で利用して頂くことが出来、

 

更に、このように

これまで曖昧であったものに

明確な形を与えることによって、

 

皆様との関わりはより健やかで

かつ質の高いものになるのではないか、

私自身はそのように

期待を寄せています。

 

ご利用下さっている皆様にも

どうぞご理解頂けますように、

お願い申し上げます!

 

 

形の向こう側にあるもの/年末年始と1月の営業予定

 

 

目次

「形」とは何か?
形態と形成
形態は過去のもの
形の背後にあるカラクリ
形を見ることから抜け出す
「形成」を捉える
今、ここにある。
年末年始と1月の営業予定

 

 

「形」とは何か?

 

私達はなぜ、

「形」を持っているのか。

 

これは私にとっては

長い間の疑問になっていて、

今も答えを探しながらいます。

 

物理的な身体を持っていることの

理由についてもですが、

 

例えば一つ一つの臓器は

なぜあのような姿形をしているのか、

なぜあの形でなくてはいけなかったのか、

と言った点にも興味は尽きません。

 

なぜ、私たちは

形や形態を持っているのか。

これは正面から取り扱うにはまだ難しい題目ですが、

 

形とは一体何なのか、

形は私たちに

何をもたらしているのかについて、

今回はお話してみたいと思います。

 

 

 

形態と形成

 

「ゲシュタルト」と言う言葉があります。

 

ゲーテによれば、

「形態」を表すゲシュタルトという言葉は

何らかの姿形を伴って現れるあらゆる存在を

まとめて指し示すものなのですが、

 

彼はこの言葉に

ある問題が含まれていることを

指摘しています。

 

それは、

この言葉を用いることによって

生動し変化するものが捨象

される点です。

 

つまり、

あらゆる存在が持っている

生き生きとした活動性を、

この言葉は切り捨ててしまう、

というわけです。

 

彼はまたこの言葉によって

相互に作用しあって

全体を形成するそれぞれが固定され、

他とのつながりを断って

一定の性格を示すことになる

とも説明しています。

(註:「」内の太字はゲーテの表現。)

 

本来は、

すべての存在は「全体」の中にあり、

豊かな関係性やつながりの中で

互いに影響を与えたり受け取ったりしています。

 

例えば、対話している相手によって

自分の異なる面が出ることを

誰しも体験したことがあると思いますが、

 

「私」が示している姿も、

その時々の状況や関係性の中で

豊かに自由に変化しているわけです。

 

ところが、ひとたび

「ゲシュタルト/形態」という

表現を用いると、

 

豊かな「全体」の中から

特定の瞬間や部分が

バラバラに切り取られます。

 

そして、それ単独で示す姿を

固定的に捉えることになる、

というわけです。

 

たまたまムスッと機嫌の悪い時に

ぱちりと写真を撮られて、

「あなたって本当に愛想ないわよね~!」

と決めつけられてしまう感じ、

と言ったら良いでしょうか。

 

 

もし、

私たちが直観的に理解しているような

自然のありのままの姿に近づこうとするなら、

形態ではなく「形成」を大切にする必要がある、

とゲーテは続けます。

 

例えば肉体について考えてみると、

肉体は一瞬たりとも

静止したり固定化することはないので、

本質的には「形態」ではありません。

 

仮に意識的にすべての動きを止めても、

呼吸や心臓の拍動によって

身体の活動は維持され、

全身の細胞は振動し続けます。

 

目で見て分からなくても、

そうした運動によって私たちの姿形は

毎瞬ごとに様相を変え続けているわけです。

 

このように、変化し続けて

運動してやむことがない」ものに対して、

ドイツ語ではゲシュタルトという表現と分けて

形成(ビルドゥング)と呼ぶことを、

ゲーテは理に適っていると考えていました。

(参照:潮出版社『ゲーテ全集14/自然科学論』p.43~44)

 

 

 

形態は過去のもの

 

「形態」と「形成」と言う言葉に対する

ゲーテのこうした考え方に触れた時、

 

彼の頭の中にあった理解は、

量子力学でいうところの粒子と波動に

とても近かったのではないかと感じました。

 

量子は、粒子と波動の両方の性質を

同時に持ちます。

 

波動は、

粒子が常に運動し続けている状態であり、

その運動全体が波動です。

 

波動は動き続けているので、

それがある特定の時に

空間のどの位置を占めるかは不確定です。

 

すなわち、

時空間の中で明確な座標を示すことができない

という特徴を持ちます。

 

一方の粒子は、

時空間の中で静止している点なので、

座標を持ちます。

 

 

 

波動を粒子に変え

粒子を波動に変えるのは、

観察者の存在です。

 

外側から私たちが「見る」と、

その見られた瞬間において、

波動であった量子は

時空間の特定の位置に貼り付けられ、

固定されて粒子となります。

 

 

 

観察者の目が離れると、

粒子は波動に戻ります。

 

 

 

形を生み出し、さらに

変化していく過程である「形成」は、

固定することのできない波動と同じです。

 

一方、形成の中から

一瞬間を切り出したものが

「形態」ですから、

これは粒子と同じです。

 

そして形態は、

切り出した瞬間に過去になります。

形成は一瞬も止まることなく、

常に前へと進んでいるからです。

 

そうだとすると、

形や形態を見ながら生活している時、

私達は「今ここ」ではなく、

過去を生きていることに

なるのかも知れません。

 

 

 

 

形の背後にあるカラクリ

 

こんなことに思いを巡らした数日後、

近所の丘陵公園へと散歩に行きました。

 

この日はとても陽の光が美しく、

木々は紅葉していて、

全てが本当に美しい日でした。

 

リラックスした気持ちで森の中を歩き、

ちょっと知らない小道に入ってみたり…。

 

そんなことをしながら歩いている時に、

ふと頭に浮かびました。

 

今まで私は植物を見る時に、

「形」で捉えようとしていたのだと。

 

そして、

形態で見ているということは

定義づけをしているということであり、

ジャッジでもあるのだと。

 

 

 

普段何気なく使っている

自分のものの見方は、

物事を流動して変化していく

ありのままの姿を捉えるものではなく、

 

それをある特定の視点で切り取り、

そこで「これはこういうものだ」と

定義を決定づけしようとするものだ、

と気づいたのです。

 

そしてまた、

その一瞬間の印象によって

存在を固定されてしまう側からすると、

これはジャッジに他なりません。

 

「形態を見る」ことの

背後にあるカラクリが、

不意に見えた気がしました。

 

 

 

形を見ることから抜け出す

 

形から物事を捉える目を持って、

私達は生きています。

 

と言うことは、

あらゆる瞬間において、

変化し続ける周囲の情景や環境から

ある一面を選択して切り取り、

それを「形態」として認識し続けている、

ということになります。

 

これは例えるなら、

身体と言う全体性を把握するために

まずはバラバラに細部を切り出して、

部分の描写をしていく、

そんな解剖学的な作業と

似ているかも知れません。

 

分解された身体は、

精巧に組み立て直しても

生きた身体には戻らないように、

 

切り出した「形態」を

どれだけ積み重ねてみても、

自分を取り巻く環境や状況の

本質に辿り着くことは難しそうです。

 

形を見るというのは、

私たちが生まれてから

ずっと使い続けて来た、

現実を把握する方法です。

 

そこから抜け出すには、

どうしたら良いのでしょうか。

 

 

 

「形成」を捉える

 

ゲーテは

自然の生きた直観に到達しようとすれば、

われわれ自身が、この生きた自然の示す

実例そのままに形成を行えるような、

 

動的で伸びやかな状態に

身を置いていなければならない。

と言っていました。

 

それなら、

「形成する力」につながろう。

 

シンプル過ぎる試みのようですが、

私たちの意識の力は現実に働きかけ、

変化を生み出します。

 

意図を定め、信頼し、

改めて葉っぱを眺めました。

 

まもなく

自分の内的な感覚に

かすかな動きが生じ、

葉っぱの中のエネルギーの流れと

自分の感覚がつながった、

と感じました。

 

自分の視野に意識を向けると、

目が捉える景色も

少し変わっています。

 

今までは、例えば植物なら

葉っぱの形や幹の形と言う具合に

植物の部分部分が目に入りがちでした。

 

それが、木全体であったり

山の中でその植物が

どう在るかと言うような、

「全体性」がおのずと映り込んできます。

 

 

また、それまでは

観察する私と観察される植物の間には

「あなたと私」という

越えられない壁がありました。

 

それが今は、

植物の中のエネルギーが

自分を通り抜けて行きます。

 

自分もここの一部なのだ、

一体だという実感がありました。

 

歩き進むと、

森が力を与えてくれるのを

感じます。

 

森の中をそよぎ渡るように

大きな生命力が動いています。

 

その中を歩いて行くと、

歩く毎にその生命力が

流れ込んで来る、

そんな感覚でした。

 

 

 

今、ここにある。

 

もしかすると

森の精霊たちの力だったのしょうか、

大切な体験をさせてもらえたことに

感謝をしながら、

帰路に着きました。

 

途中、

橋に差し掛かった時に、

立ち止まって川を眺めました。

 

少し前に台風があったので、

川はとても澄んでいます。

 

川は台風によって

浄化されていました。

 

青色を湛えた美しい水面を見ている内に、

自分の内側を川が通り過ぎていくように

感じました。

 

川の上に立っていることで、

私も川と一緒に浄化されているのだ、

と分かりました。

 

 

 

きっとこういうことが、

「つながっている」

と言うことなのかも知れない。

 

形の奥にある流れと繋がった時、

そこには観察者も

観察されるものもなく、

すべてが共に変化して行くものの

一部としてあり、同時に全体としてある。

 

…そんなことを思っていると、

小さな川が注ぎ込んでいる合流地点に

アオサギが佇んでいるのが

目に入りました。

 

合流地点に重なるように

鎮座している大きな石の上に、

長い首をスッと伸ばして

微動だにせず立っています。

 

 

静かな、大きな存在感。

 

このアオサギは今、

居るべき場所にいるのだと

感じました。

 

そしてその姿は、

私が理解したことは合っている、

というサインのように思えました。

 

そう感じた瞬間、私の胸の中心から

大きな空間がふわ~っと

広がり始めました。

 

その大きく寛いだ感覚は、

深い安堵感と穏やかさに

変わって行きます。

 

身体のあらゆる感覚が

軽やかになると、

私は自分が子供の様に

自由になったのを感じました。

 

 

 

年末年始と1月の営業予定

 

ここのところ、朝晩の冷え込みも厳しさを増してきて、寒い日が続いていますが、みなさんお元気でいらっしゃいますか~?

 

本当に寒いですけれど、その一方で、今年は例年になく青空も陽の光も美しい日が多いように感じます。空気も澄んでいますよね。

 

…なんて、季節の移ろいを見守りながら楽しんでいる内に、年末が目前!

年末年始の営業予定のお知らせがすっかり遅くなってしまいましたが、お伝えさせて下さいね!

 

年末は29日までの営業で、年始は1月7日(通常は定休日の日曜日に当たっていますが、営業を予定しています。)から開始致します。

 

年内はご予約をお受けすることの出来る空枠がございませんので、これからご予約をお考えの方は、新年に入ってからのお日にちでご検討頂けましたら幸いです。

 

1月は、臨時でのお休みの予定はありません。

 

定休日は毎週水・日曜日となります。

リピートで来て下さっているお客様に限ってのお話ではありますが、ご事情があって水曜日や日曜日でとお考えの場合には承ることも可能ですので、その際にはどうぞご相談下さい。

 

営業時間は11時から20時まで、最終の受付時間は16時となります。

 

ご予約のない日は、急遽休みとさせて頂くことがあります。また、当日のご連絡ですと施術のための準備が間に合わないこともありますので、ご予約の際には前日までにご連絡を下さいますよう、ご理解とご協力をお願い致します。

 

 

少し早いご挨拶ではありますが、今年も一年間ネムノキを応援して下さった皆様に、心より御礼を申し上げます。皆様にとって、来年が今年よりもさらに豊かな一年となりますように。

 

それでは!

どうぞ良いお年をお迎え下さいね~!!

嵐のあとで~新生する自然 / 11月の営業予定

** 台風の被害に遭われ、復興の途上にある地域の皆様が、一日も早く日常に戻ることが出来ますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

目次

 

 

自然の驚異的な力

 

10月下旬、大きな台風が関東を直撃しました。

 

数日間続いた大雨がようやくあがり、

久しぶりにお日様の出た朝。

いつも散歩に行く浅川へと、足を向けました。

 

浅川は陣馬山を源流とする川で、

市街地では川幅が100m以上あります。

日野市と国立市の境に近いあたりで

多摩川に合流しています。

 

川の両岸には堤防を利用した遊歩道があり、

穏やかな川面や多摩丘陵を眺めながら

のんびり歩くには最高の場所です。

 

川には所々に大きな中洲があって、

季節になると美しい菜の花畑になったり

名前は分からないけれど

可愛らしい紫の小花を沢山咲かせたり、

 

折々で表情を豊かに変えて、

私たちの目を楽しませてくれていました。

 

 

この日の浅川は、

今まで見たことがないほどの水量。

水の流れの勢いも音も、迫力が違います。

 

私の住んでいる辺りは

台風らしい大雨はほんの一時でしたが、

上流の地域では随分と

雨が降ったのでしょう。

 

それにしても、

何だか川の様子が違います。

意識して川を見てみると…。

 

あれ!?

川の形が違う!

 

中洲がごっそり

無くなってる!

 

わずかに川面から

土が顔を出しているところも

あるにはありますが、

中洲が元々あった位置とは違います。

 

ついこの間まで

あんなに繁茂していた植物も、

中洲と共に流れ去ったのでしょう。

影も形もありません。

 

川の淵の一番深かったところも、

以前は川幅の真ん中辺りだったはず。

それが、向こう岸になっています。

 

 

 

今までにも雨量が多くて

増水したことはありましたが、

川の形がはっきり分かるほどの変化は

初めて見ました。

 

例年なら

10月の1か月分に当たる量の雨が、

この時の台風で降ったそうです。

 

雨の降り方はモザイク式で、

降りが強いところもあれば

弱いところもあったりしましたが、

 

この川の上流域は、局地的に

雨量の多い所だったのかも知れません。

 

しかも短時間の内に、

一気に降ったのではないでしょうか。

 

大量の水流が一気呵成に下って来なければ、

川の様相があれほど変化したりは

しないはずです。

 

大きな中洲一面に菜の花が広がる

あの見事な景色は、

もう見られないんだな~。

 

失った美しい景色。

寂しさがよぎりました。

 

 

 

新生する大地

 

川の様子を近くでよく見ようと、

川岸に降りていきました。

 

水辺には階段が5段あったのですが、

下3段は土砂で埋まっています。

 

菜の花の咲く中洲は

向こう岸にあったのですが、

今やこちら側が中洲になりつつあるようです。

 

押し流されて来た土砂が堆積して

にわかに出来た浅瀬。

そのきれいに洗われた砂利の上を

清らかな水が流れていきます。

 

 

 

初めて見る景色。

 

慣れ親しんだ川なのに、

初めて見る景色。

 

初めてなのだけれど、

やっぱり見慣れた川。

 

日常の中に

異世界の入り口が開いたような、

何とも言えない不思議な感覚です。

 

 

中洲になりつつある砂地の、

かろうじて乾いている所に

腰を下ろしました。

 

近くに転がっているのは

ザリガニの殻のようです。

激しい水流に呑まれて

砕けてしまったのかも知れません。

 

ちぎれた根っこや、

掘り返されて

どこからか流れ着いた球根も

転がっています。

 

一見、

傷だらけの痛々しい残骸

のようにも見えましたが、

それとは異なる印象が

ふと脳裏に浮かびました。

 

あぁ、そうか!

 

こうして流されてきた根や球根が、

今度は根付いて

新しい野を形成していくんだ。

 

大地も川も、こうやって

新陳代謝をしているのか!と。

 

エジプトはナイルの賜物、

という言葉も浮かんで来ました。

 

ナイルの氾濫によって

土壌は地力を回復し、

それがエジプトに恵みをもたらす。

 

それを今、

目の当たりにしているのだと

思いました。

 

 

現実は意識の鏡

 

そう気づくと、

失った景色への悲しさは溶け、

 

新しく生まれ変わった川が

これからどんな美しい景色を

作り出していくのか、

そちらの方が楽しみに思えてきました。

 

そしてそんな風に目線が変わると、

新生した川の美しさが

どんどん意識の中に流れ込んで来ました。

 

川の水は台風前よりも澄んでいて、

以前あった川特有の不快な匂いも

すっかり消えています。

 

不思議なことに、

これだけ激しい流れでありながら

濁流にもなっていません。

 

深い淵では青味を湛えて流れる、

その様子は

厳かでさえあります。

 

都下とは言え、

人口の多い東京の

市街地を流れる浅川。

 

その浅川が

澄んだ青味を帯びているのは、

初めて見ました。

 

空気も水も、

清々しく澄んでいる。

 

この川はきっと、

浄化されたに違いありません。

 

 

「クプクプクプ」

 

浅瀬を流れていく水が、

小気味よい音を立てています。

 

今、川自身は

どんなことを感じているんだろう?

 

音に意識を向けながら

軽く目を閉じ、

流れていく水に

意識をつなげました。

 

 

ごくわずかに、

音の響き方が

変化して行きます。

 

クプクプなんだけど、

コロコロと転がるような…。

 

あぁ、笑ってるんだ。

 

彼らが立てていたのは

笑い声でした。

 

クスクスと軽やかな

笑い声をあげながら、

彼らは嬉しそうに

通り過ぎて行きました。

 

 

 

11月の営業予定

 

もう11月!

11月になると、急に「年末」と言う感じが出て来ますね~。

 

今年の秋は台風も多いですが、比較的過ごしやすい気温で、青空の美しい日も多いような気がします。いつもの年に増して、自然の中を歩きに行きたい!と感じることが多いです。

 

最後になりましたが、11月の営業予定をお伝え致しますね。

 

臨時でお休みとなるのは、16日(木)です。それ以外の日は、通常通り営業致します。

 

定休日は毎週水・日曜日、営業時間は11時~20時、施術の最終受付は17時(予約は前日までにお願い致します。)となります。

 

また、従来は男性のお客様は女性のお客様のご紹介がある方のみとさせて頂いていましたが、当院でご提供する施術の繊細さをご理解下さる方でしたら、男性の方でもご予約をお受けさせて頂く運びとなりましたことを、ここでお伝えさせて下さい。

 

 

 

すでに忙しい時期に入っている方もいらっしゃると思いますが、師走に入る前にご自身のメンテナンスの機会を持たれてはいかがでしょうか?

 

皆様のご来院を心よりお待ちしています!

 

現実を作り出す「意図」の力とそのメカニズム

 

目次

 

 

 

 

無意識にやっている、「恐れ」に基づく選択

 

私たちは日常の中で、

様々な形で判断したり選択したりする場面に出会います。

 

もう9年ほど前になるのですが、

セッションルームの開店準備を行っていた時期のことです。

 

どんな部屋を借りるかから始まって、

壁紙の色、床材の質感、施術ベッドはどうするか…。

 

とにかく、自分で決めなくては行けないことが

次から次に出て来ます。

 

最初の内は、

あんな風にしたい、こんな風にしようか、と

色々と想像しながら選ぶのが楽しかったのですが、

 

次第に、「選んで決める」と言うことに対して

苦痛を感じるようになったことを覚えています。

 

 

 

選んで決めることが大変だと感じたのは、

「失敗してはいけない」という思いが

生じ始めたためでした。

 

沢山のものを選び、購入する中で、

「ありゃ~」と感じるような事が起きると、

同じ失敗を繰り返すまいとして慎重になります。

 

同じ轍を踏まないために、

様々なリスクを洗いざらい計算して検討します。

 

しまいには、

購入するのがどんな小さな物であっても、

 

セッションルームの雰囲気に

どんな風に影響を与えるだろうか、とか、

もっと手頃で良いものがあったりするのではないか、

いや、ここは金額よりも質を優先すべきか…。

 

なんていう迷いが、いちいち

頭の中をグルグル巡るようになり、

決断するまでに時間を要するようになりました。

 

 

 

こんな風に、私たちは日頃、

「失敗しないように」「損をしないように」

「出来るだけ適切なものを」

というような意識を持って

選択や判断に当たっていることが多いと思います。

 

それは買い物だけに限りません。

 

カフェに入って何を頼むかとか、

週末は自分の趣味と友人からの誘いの

どちらを優先したら良いのかとか、

 

彼女の言い分に賛成できないけれど、

果たして正直に言った方が良いのかとか、

 

あるいはもっと大きく、

人生の岐路に立っていて、

自分がどの道へ進んだら良いか

悩んでいる時など、

ありとあらゆる場面に当てはまります。

 

 

 

「失敗しないように」

「間違った選択をしないように」

と考えている時、

私たちの中にあるのは「恐れ」の感情です。

 

本当は、私たちには望ましい理想があり、

いつだってそれに従って

良い選択をしたいと考えているはずです。

 

でも、それに反して実際には、

私たちが選択に際して持つ「意図」は

恐れを反映している場合が多いようなのです。

 

 

 

望みに基づく前向きな意図と、

失敗を避けようとする、恐れに基づく意図。

 

(「意図」と言う言葉がピンと来ない方は、

動機や目的、ヴィジョンなど、

ニュアンスが重なる他の言葉に

適宜置き換えて読んでくださいね。)

 

意図の持ち方が異なれば、

生み出される結果にも違いが現れます。

 

その例を見てみましょう。

 

 

 

「恐れ」が現実になるメカニズム~うつ症状との関連

 

脳と言うのは、

私たちの心や意識の中にあるものを

現実化しようとして働きます。

(これは主に大脳の役割ですが、

それについてはまた書く機会がある時に。)

 

ただし、これは必ずしも

私たちが望むような形で現実化が成される

とは限らないところがミソです。

 

例えば、

こんな話をよく耳にすると思います。

 

小さい頃、母親に理不尽な怒られ方をして、

自分が母親になったら絶対にあんな風には

子供を怒らないゾ!と心に決めていたのに、

自分が母親になってみたら、

 

嫌だったその怒り方と

そっくり同じことをやっていた…。

 

 

 

脳は、私たちが「こういうのは嫌だな~。」

と思っているものも、現実化します。

 

どういうことかと言うと、

脳は私たちの意識が何かにフォーカスしていると、

それに関連する情報を収集し、分析し始め、

現実化へ向けて準備を進めます。

 

嫌だな、嫌だな、と思いながら

繰り返し同じ情景に焦点を当てて見ていると、

意識はそこで展開している事柄を鮮明に記憶します。

 

「嫌だな~」の気持ちが強ければ強いほど、

強い感情と結びついて記憶は克明になり、

より強く刻まれます。

 

「嫌だと意識する→記憶する」

という内的な作業が繰り返される内に、

思考の中にはその記憶に対応した「回路」が

出来上がって行くのです。

 

ある日、母親になった自分が、

幼少だった自分が怒られた時と

同じような状況に出くわします。

 

「同じような状況」をきっかけとして、

思考の中に出来上がっている回路は

自動的に作動し始めます。

 

そして、嫌がっていた母親の言葉が

今度は自分自身の口から飛び出る、

と言う現象が起きます。

 

つまり、望まない言動のパターンが、

知らないうちに脳の中の自動反応式の

回路として組み上がっていたわけで、

 

(厳密には、

この回路は身体の動きや感情も

要素として組み込んでいるので、

脳や思考の中だけで

形成されているわけではありません。

ここでは説明をシンプルにするために、

こうした表現を用いています。)

 

言ってしまった後で

「え~っ!?」と気付いて、

自分で愕然となったりするわけです。

 

(こうした回路も

変えることが出来るものなので、

これを読んで不安に感じた方も、

どうぞ安心してくださいね。)

 

つまり、脳と言うのは、

意識が集中しているものを

現実世界の中で何らかの形を取らせて

現出させる、

 

あるいは

意識の作用に物理的な形を用意する、

と言う役割を担っているのであって、

 

意識が集中しているその対象のものが、

私たちの良心や願望に照らし合わせて

好ましいか好ましくないか、

正しい方向性かどうか、

と識別するようなことはしてくれません。

 

もし、脳みそに

こうした自動識別装置が付いていたら、

選択することや判断することは

どんなに簡単だろう!と思いますが、

 

そうなると、今度は

私たちが持っている自由意思が

機能しないことになります。

 

自由意思を持っていることによって、

私たちは選択や判断の困難さとも

向き合うことになっているわけです。

 

 

 

上述したような、

「嫌だな~」と思っていた母親の行動を

そのまま無意識に踏襲してしまった例は、

「こうはなりたくない」という

「恐れ」に基づく意図を持っていたために、

それが現実化した一例です。

 

恐れや不信に基づいて

選択や判断が成された時、

現れる結果は自分の望んだものとは

異なっているもののように感じます。

 

この場合、

意図・選択は無意識になされているので、

現れた結果(母親の行動の踏襲)を

自分の選んだものだと認識することが

困難なためです。

 

でも、実はすべての結果=現実は

自分で選んでいるものなんですね。

 

もし、「ああいうのは嫌だな~」

と思いながら母親を見るのではなく、

「私はこういう風にありたいな。」

と理想的な姿を思い描けていたなら、

母親の行動を再現することはなかったでしょう。

 

前者は恐れに基づく意図、

後者は前向きなヴィジョンに基づく意図です。

 

 

 

私たちが選択や判断をする機会は

一日の間に何十回となくあります。

 

恐れや不信から選択することが

パターン化していると、

そのすべての機会において

様々なリスクを頭の中に並べ立て、

計算をして…

というプロセスが繰り返されることになります。

 

この思考を毎日毎日繰り返すことは

トレーニングを重ねているようなものなので、

本人としては望んでいないのに

このパターンはどんどん強化されます。

 

やがて、些細なことでも迷うようになり、

次第に自分一人では何も判断できなくなったりします。

 

これは私自身

体験があるので言えるのですが、

 

こうした思考のパターン化こそが、

現代社会においてうつ症状を作り出す

大きな原因となっていると思います。

 

では、こうしたパターンを手放して

現実を望ましいものにするには、

どのように自分の意識と

取り組んでいったら良いのでしょうか?

 

「意図」の使い方を

変えて行く必要があります。

 

 

 

 

結果を決めるのは、意図(動機)

 

意識の在り方に応じて、

私たちの目の前の現実の中に

それが結果と言う形を伴って

現れてくる。

 

こうした言説は、

成功哲学や精神世界系の分野では、

比較的よく目にします。

 

少し話が飛躍するようですが、

アメリカに心理学者でありながら

有名なサイキックヒーラーでもある

ドリーン・バーチュー女史と言う方がいます。

 

彼女は天使を見ることが出来、

対話することも出来るのですが、

その彼女の著作の中に、

 

「天使に頼んだり祈ったりする時は、

どうなりたいかだけを伝えるように。」と

いう意味合いのことを

天使から告げられたと言う記述が出て来ます。

(『新版・女神の魔法』ドリーン・バーチュー著 島津公美訳/p.209)

 

これは、望んでいる結果を思い描けば、

それを実現する方法は天使が選ぶ。

だから、私たち人間がやるべきことは

望みを明確に意図するだけということでもあり、

 

(むしろ、私たち人間の狭い視野の中で

実現に至る方法まで考えてしまうと、

かえって望みの実現を遠ざけることも

文意から汲み取れます。)

 

結果=現実を生み出す因子として

選択・行動以上に意図が重要であると言うことを、

この記述からも読み取ることが出来ます。

 

 

 

とは言っても、現実には

結果を出すには選択・行動が必要だもの。

それなら、選択・行動だって

結果に影響するよね?

と思いますよね。

 

意図や意識の在り方によって、

選択や行動は左右され、自ずと決まって来ます。

 

これも、例を見てみましょう。

 

 

 

例えば、アパートのお隣に

新しい人が引っ越してきて、

ドアの開け閉めなどの

騒音が気になるな…と思った場合。

 

音に少し気を付けてもらえるよう、

直接話しをしに行ったとします。

 

ここでの最大の目的=意図は、

静かにしてもらうことです。

 

聞いてもらう立場なので、

少し下出になるかも知れません。

 

「この建物は思ったよりも

音が響きやすいようなんです。

私も出来るだけ気を付けますので、

少し気にかけて頂けたらと思いまして。」

 

ところが、

「先住者に対する配慮が足りない」

なんて気持ちがちょっとでもあったりすると、

 

こちらの希望を聞いてもらう

という意識はうっかり消え去り、

相手を責める気配が出て来ます。

 

「音がうるさいので、

少し静かにしてもらえますか?」

 

…ありゃ~(;^ω^)

 

意図の持ち方・意識の在り方は、

選択や行動(言動)に

目に見えぬ形で影響を与え、

それらを自ずと決定づけます。

 

 

 

恐れによって、現実化の過程はゆがむ

 

と言うようなわけで、

何らかの結果が生まれてくる

現実化のプロセスを考えると、

 

まず、

それをやることで自分が何を得たいのか、

その意図(目的・ヴィジョン・動機)を決めて、

それに従って選択・行動が成されることで

そこに結果が自ずと生じてくる。

 

意図→選択・行動→結果、

こういう順序になる訳です。

 

ここで、もし意図の中に

「恐れ」が紛れ込んでいる時には、

前向きで自発的であるべき

意識的な意図の代わりに、

恐れが作り出す言わば「妄想」が

結果を生み出す因子として作用し始めます。

 

 

 

先ほど、選択・行動は

意図や意識の在り方に

影響を受ける、と書きました。

 

前向きな意図の場合、

選択・行動も前向きになるので、

方向性は同じです。

 

一方、

恐れによる妄想の場合は、

 

現実がその妄想通りになるのを

避けようとして

選択・行動がなされるため、

 

意図(この場合は妄想)と

選択・行動の示す方向性は、

逆の向きになります。

 

意図と選択・行動の関係性が、

ここでは歪んでしまっています。

 

 

 

さらに、これらの結果として

現れる現実を比べてみると、

 

前向きで意識的な意図の場合は

選択・行動も前向きでしたから、

結果もそれに準じて現れます。

 

仮に思ったような結果ではなくても、

因果関係がすっきりしているので

次に取るべき行動がすぐ分かり、

がっかりしたり凹んだりすることも

あまりないかも知れません。

 

一方、

恐れによる妄想の場合、

選択・行動は妄想とは逆方向でしたが、

「現れる結果は意図に従う」わけなので、

結果・現実は妄想に則したものになります。

 

ここにもまた、歪みが生じています。

 

このようにして、

意図、選択・行動、結果の間の

関係性が歪み、

それぞれの方向性に混乱が生じた時、

 

私たちの目の前に現れる「現実」は、

私たちの手には負えない

コントロール不能のもののように

見えて来るのです。

 

 

 

 

現実化の過程を正常化するには

 

では、私たちが

「意図→行動→結果」の間に

健全な関係性を取り戻すには、

どうしたら良いのでしょうか?

 

この関係性に秩序を取り戻すには、

日々の努力が必要になります。

 

そもそもの原因は、

日々の選択・判断の際に

無意識に「恐れ」と

繋がっていたことにあります。

 

と言うことは、

すべての選択・判断を

前向きな意図から行うように

変えて行くことが出来れば、

「意図→(選択・判断)行動→結果」の間には

秩序が戻るはずです。

 

(意図を明確にする際に、

そこにどうしても恐れが入る

ということもあると思います。

 

意図そのものをクリアにする為には、

恐れと向き合う取り組みも大切です。

恐れの感情を手放す方法については、

以下の記事を参考にしてくださいね。)

天使に願いを~ネガティブな思考や感情を楽しんで手放す方法/1~2月の営業予定

 

 

取り組むのは、

どんな些細なことでも構いません。

 

例えば、

この仕事を今日中に仕上げないと、

と言うようなシチュエーション。

 

今までは

「できなきゃ上司に叱られる」

と思っていた(無意識の妄想)所を、

 

思い通りに仕上がって

満足している自分の姿を

思い描いてみる(意識的な意図)、

というような具合です。

 

あるいは、

それを受け取ったお客様が

満面の笑顔になっているのを意図する、

というのも良いですよね。

 

 

 

日常的に行っている

ちょっとしたストレッチだって、

 

「ここが固いんだよな~。

やっぱり伸びないな~。」

と思いながら(無意識の妄想)やるのと、

 

「これをやると、流れが良くなって

身体が柔らかくなるはず。」と信頼して、

それを意識的な意図として行うのとでは、

実際に身体の反応も異なります。

 

どんな些細なものであっても、

行動する際にはそれに先立って

こうした前向きな「意図」を

自分の中で思い描く、

 

それを徹底して行うことが出来れば、

意図→行動→結果のプロセスが

秩序を取り戻すだけでなく、

 

先の例で挙げたような

母親の負のパターンを再現するような

自動反復の思考の回路も、

健全な形で書き換えられて

行くだろうと思います。

 

 

 

起きる現実に、信頼を持つ

 

ちなみに、

自分が本当に望んでいることを

まず意図する習慣が出来ると、

結果にも頓着しなくなります。

 

なぜかと言うと、例えば

望まない結果が出てきた場合でも、

それを見て

「なぜ失敗したのか?」と

後ろを向いて考えるのではなく、

 

自分は本当はどうしたかったのか、

本当に望んでいたものは何だったのか、

ということが自分の中でより明確になり、

結果を飛び越えたさらに先へと

目線が行くからです。

 

現れてくる結果は、

自分がいかに失敗したかを

責める材料ではなく、

 

目的を再確認するため、あるいは、

自分の本当の望みが何かを、

より深く理解するために

存在するようになります。

 

 

 

また、望ましい結果を意図することは、

その結果が起きることを

結果に先んじて信頼することでもあります。

 

つまりこの取り組みをすることは、

まず信頼の気持ちを持つこと、

そして結果の如何に関わらず、

その信頼の中にいられるようになる、

と言うことを目指すことにもなるのです。

 

 

 

 

「意図」の持つ本当の重要性:バウンダリ―の強化と、本質的な自己との一体化

 

実は、「意図」の重要性は

意図自体にあるのではなく、

 

意図をするということを通して

2つの重要なことが

可能になる点にあると思います。

 

その一つ目は、

自分自身への信頼を回復し、

自分と他者の世界の間に

健全な線引きをすることが出来る点です。

つまり、自己のバウンダリ―の強化です。

 

自分への信頼を失い

自己不信を深めて行く時、

 

私たちは無意識的に、

自分の取った選択や行動が

間違っていたのではないかと、

自問を繰り返します。

 

そして、

もしかしたらその選択や行動に

利己的な気持ちや自己防衛、あるいは

邪な考えが入り込んでいたのではないか、

と自分の心の中を疑い始めると、

 

自分自身に対する信頼は急速に、

根本から揺らいで行きます。

 

ですがもし、選択・行動をする前に

自分の意図を意識的に把握する習慣を

身につけることが出来れば、

このような形で自分自身を疑うことはなくなり、

自分への信頼が増して行きます。

 

また、自分が前向きな良き意図から

選択・行動したことを自覚していれば、

仮に他の人がそれを否定的に見たとしても、

それはその人なりの受け止め方として

割り切って考えることが出来ます。

 

こうして自分と他者の世界の間に

適切な線引きをすることが出来るので、

他者の世界の中にある

本来は他者自身が向き合うべき問題を、

不必要に抱え込んでしまう様なことから

自分を守ることも可能になります。

 

 

 

二つ目は、

意図をするということを通して、

私たちが一日の内に何度も

高い次元の自己と繋がる機会を

持つことが出来る点です。

 

前の章の最後に述べた、

「結果を見る前に

まず結果を信頼する。」

 

これは高い次元の意識の在り方であり、

全ては調和の中に現れてくる、

ということに対する信頼でもあります。

 

 

 

私たちが何か選択をする時、

そこで考えられる選択肢は

大抵の場合、複数あります。

 

その選択肢の一つ一つには、

その選択を行った「私」がいます。

またその「私」の数だけ、世界もあります。

 

つまり、選択肢の数だけ

幾人もの「私」が同時に存在し、

また幾つもの並行世界が存在していると

考えてみて下さい。

 

もし、恐れに屈して

選択肢Aを選んだ時、「私」は

恐れの中に住み、視野の狭まっている「私A」と、

 

結果を信頼する前向きな意図で

選択肢Bを選ぶ時は、「私」は

今の自分よりも開けた視野を持つ

高い次元にいる「私B」と、

 

それぞれの機会の中で

一体化することになります。

 

 

 

一日の中で何度も行う「選択」において、

すでに高い次元の並行世界にいる

自分自身と繋がることを

繰り返し意図することが出来たなら、

 

私たちは日常の地道(地味(;^ω^))な

取り組みを通して、

高い次元の自己であり本質的な自己である

ハイヤーセルフへと、

私たち自身を近づけて行くことが

出来ると思うのです。

 

 

 

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過去を生きる細胞~古傷の臨床 /3月の営業予定

 

3月の営業予定

 

街中を歩いていると、

沈丁花や梅の香りが

時折ふわっと

鼻をくすぐる様に

なりましたね。

 

それに、

暖かい日差しと風に…

マスク姿の人たち!

 

あ~、いよいよ

春が来たんだなぁと

色んな意味で思います( ^ω^ )

 

私自身も

馬の仕事をしていた頃に

花粉症を発症して、

かなり長い付き合いになります。

 

でもこれは

私にとっては

恰好の教材でもあって、

 

自分の身体で色々と試しながら、

本当のところ

花粉症とは一体

どんな原因で出て来るのか、

どうしたら状態を

緩和させることが出来るのかと、

 

毎年この時期になると

原因究明のための取り組みを

自分を実験台にしつつ

細々としています。

 

そんな中で、今年は少し

花粉症のメカニズムについて

理解が深まったところがあり、

もしかしたら次回の記事で

お伝え出来ることが

あるかも知れません。

 

 

 

さてさて。

 

今回の記事では、

古傷の細胞たちは

傷を受けた時点の状態を

今もなお生き続けている、

 

ということを

分かりやすく示してくれた

症例のお話をして行きます。

 

その前にまずは、

3月の営業のお知らせを簡単に。

 

3月の臨時休業は

16日の木曜日のみです。

 

それ以外の日は

通常通りの営業で、

定休日は水・日曜日、

営業は11時から20時まで

となります。

 

施術の最終受付は

17時とさせて頂いております。

 

(ご予約・お問い合わせはこちらへ。)

 

 

 

過去を生きる細胞~古傷の臨床

 

「身体の方も、

これで一段落したんですね。」

 

施術が終わり、

身体がどんな変化を生じたかの

説明をしていた際に、

Mさんはそう言いました。

 

も?

と言うことは他にも何か?

 

そう問い返す前に、

Mさんが言葉を継ぎました。

 

 

 

衝撃的な事故

 

Mさんは3年前、

バイクに乗っていて

軽自動車にぶつかられ、

バイクごと横倒しになりました。

 

よそ見をしていたのか、

相手の運転手は

それに全く気づいておらず、

 

車に引っ掛けられたまま

Mさんは5メートルほど

地面を引きずられたのだそうです。

 

対向から来た他の車が

事態に気づいてくれたことで、

軽自動車はやっと止まりました。

 

 

 

慌てて駆けつけて来た

近隣の人たちに助け起こされ、

何とか救急車に乗ったMさん。

 

バイクの

下敷きになっていた左足は、

 

内股の上部が深く切り裂け、

地面に擦りつけられた

大腿外側部では皮膚が削れており、

後日皮膚移植を行ったそうです。

 

救急車の車内で

内股の傷口を確認した隊員は、

 

「大きな神経や血管は

無事ですよ!

良かったですね~。」

 

と声を掛けてくれたそうですが、

 

それが目視できるほど

傷が深いのかと、

Mさんはかえって

ショックを受けました。

 

 

 

古傷をたどって

 

Mさんが当院を訪れたのは

先月のある日のこと。

 

その目的は決して、

大きな痛みを伴う事故の古傷を

癒すことではありませんでした。

 

それにもかかわらず、

施術を進めて行く内に

アプローチは自ずと、

事故の時の傷跡に向けて

集約して行きました。

 

 

 

最初は、

左足の踵から小趾へと

アプローチが生じました。

 

足の形状と

アプローチの過程から見ると、

左足はどうしても

外側に頼って荷重せざるを

得なかった様子で、

 

 

踵は外側に傾き、

小趾は地面に向かって

押し付けるようにして

踏ん張っていたことを、

身体が教えてくれます。

 

この施術は、

身体の声を聴きながら行います。

 

身体がどこに触れて欲しいか、

どこにアプローチして欲しいかは、

身体が示してくれます。

 

それは物理的なサインを伴って

体表に現れます。)

 

 

 

外側荷重のパターンが

左足に生じた原因は、

内股に受けた深い傷のように

思われました。

 

内股にケガをすれば、

足の内側には

力が入りにくくなり、

外側の筋肉の力に

頼らざるを得なくなります。

 

 

 

小趾の踏ん張りを支えていた

緊張を解いていくと、

ぎゅっと閉じていた小趾の根元が

外へ開きました。

 

 

 

 

 

この変化によって、

足指の付け根全体を

広く使えるようになれば、

外側荷重のパターンは

緩和するはずです。

 

そう考えて

左大腿外側の傷跡の

硬くしこっていた組織に

触れてみると、

ここにも

変化が生じ始めていました。

 

組織が柔らかくなり、

しこりの緩む気配が兆しています。

 

この様子を観察したことで、

最初の踵~小趾へのアプローチは

古傷と繋がっているのではないか

と感じたのです。

 

 

 

これらの変化は、

次に起きるべき変化の

下準備だったようです。

 

今度は、

左大腿部の外側の傷跡と

内股の傷跡とをつなぐように

アプローチが生じました。

 

同時に傷を負ったとは言え、

別々の2つの傷です。

 

ですが身体は、

それらを結び付ける

「ライン」があることを

示し始めました。

 

 

 

大腿の外側の傷跡から

腸脛靭帯沿いを上へ。

 

車に引きずられた際に

大腿の外側部、

すなわち腸脛靭帯の

下部では皮膚が削れ、

上部は強い擦過のためでしょう

血が溜まったのだそうです。

 

傷は塞がっても、

傷口だった箇所や

血が溜まって伸びた箇所では

組織の膠着や緊張が残存します。

 

身体が体表に映し出すサインを

追いかけていくと、

まさしくその腸脛靭帯を

辿って行きました。

 

サインを追いかけて

先へ進んで行くのに伴って、

組織の緊張や膠着は

おのずと解けて行きます。

 

 

 

身体からのサインは、

音の響きに似ています。

 

次に触れて欲しいところを

身体が「トーン」と

音で示してくれる感じです。

 

どんどん移動して行く

その音を追いかけて行くと、

その間に身体は

自分自身がどんな風に

緊張していたのかを

把握し直せるようなのです。

 

そして、

自分はどこがどんな風に

緊張していたのかを

身体自身が再確認出来れば、

身体はそこから抜け出すことが

可能になるようです。

 

 

 

腸脛靭帯に沿って

上にのぼり、

大転子にたどり着くと、

ラインはそこから内へ曲がって

股関節頭へと向かいました。

 

 

 

大転子も股関節頭も、

上縁が詰まったように

固まっていましたが、

それは受傷時に

股関節が曲がっていたことと

現象的に合致します。

 

その固まっている状態を

解きほぐそうとするように、

しばらくの間

サインは小さな範囲に

細かく現れ続けました。

 

やがて、

そこに硬さを残したまま

移動し始めたサインは、

内股の方を目指し始めました。

 

 

 

古傷からの回復

 

Mさんの内股上部の傷は

水平方向に切り裂け、

幅10センチほどもありました。

 

股関節頭から辿って来た

サインは、今度は

その傷を縫い合わせた縫合痕を

辿るかの様に、移動を続けます。

 

サインの描き出したラインは、

ジグザグというか

網の目というか…。

 

あたかももう一度

傷を縫い直しているかのように、

繊細な移動を繰り返しました。

 

 

 

深い傷によって

筋組織が大きく切断された傷口は、

傷が治ったはずの今でも

表面からふれると凹んでいました。

 

傷口を縫い直すように

サインを追いかける内に、

凹みに変化が生じ始めました。

 

筋肉が奥の方から

ふ~っと膨らんで来ます。

凹みも、浅くなって行きます。

 

傷口を挟んで

分断されていた筋肉にも、

今までとは違った感触が

生じてきました。

 

それは、

傷口の上下の筋肉を

結び付ける力が、

回復して行く感触です。

 

 

 

エネルギーの疎通の重要性

 

これはどういう事かと言うと、

 

物質的な意味では

傷口は治って閉じたとしても、

エネルギー的な面では

健全さを回復できていなかった

ということです。

 

エネルギーと言うと

単なる概念的なもののように

感じる向きもあるかも知れませんが、

 

エネルギーの流れが

全身の細胞をまとめ、

一つの生命体として

活動することを可能にしています。

 

ケガなどによって

組織同士のつながりが

一旦切断されると、

物質的な肉体だけでなく

身体を巡るエネルギーも

その部分で遮断が生じます。

 

傷口に緊張や膠着などの

「状態の異常」が残ることで、

エネルギーの流れは

遮断されたままになります。

 

 

 

傷口を縫い直すように

サインを辿るうちに、

傷跡の細胞たちの緊張は

解けて行きました。

 

それに伴って、

傷口の上下の細胞たちの

エネルギーの疎通も回復したのです。

 

分断されていた細胞たちが

お互いの繋がりを回復し、

内股がしっかりとして来ました。

 

内股の筋肉に

力が戻ったからでしょう、

外側の腸脛靭帯もさらに

緩んで行きます。

 

 

 

サインは

移動を始めました。

 

水平の傷跡を外へと辿って

大腿直筋の上部へ出ると、

そこから上へと向きを変えて

ふたたび股関節頭へ。

 

バイクに乗った状態での

事故だったため、

受傷時に股関節と膝は

屈曲していました。

 

これら2つの関節を

またいで働く大腿直筋は、

この影響で強い緊張を抱え、

粘土のような無機質さのある

硬い手触りになっていました。

 

上手く機能できていなかったのは

内股だけではなかったことが

分かります。

 

内股も大腿の前面も

力が入りにくかったとあれば、

 

皮膚が削れるほどの

ケガをした箇所であっても、

どうしても大腿の外側に

荷重を頼らざるを得なかったわけです。

 

この部位の傷跡は

硬くしこった状態になっており、

Mさんも気になっていたそうですが、

 

傷を受けた衝撃と緊張を抱えつつ

身体の荷重を一手に引き受けていた

この箇所の細胞にとっては、

なかなか解けない

硬いしこりと思われるほどの

強い防御が必要だったとも言えます。

 

 

 

股関節頭へアプローチが始まると、

大腿直筋は徐々に緩み始め、

膝の方へ向かって伸びて行きました。

 

これは裏を返せば、

大腿直筋は今まで

股関節頭の方へ向かって

引き上がっていたのであり、

 

例えば歩行中などで

股関節を伸ばす動きの時でも、

内在的には股関節が曲がっている

と言う状態にあったことが分かります。

 

 

 

大腿直筋は柔らかさを回復し、

粘土から本来の筋肉へと

戻って行くようでした。

 

緩みながら

伸びやかさを取り戻して行く筋肉が、

「は~、良かった~…。」

 

と、安堵の溜息をついたように感じました。

この日の施術は、ここで終了になりました。

 

 

 

身体は、私たちと共に歩んでいる。

 

施術後のお茶の時間に、

施術の総括をお伝えしました。

 

身体の細胞は

事故の時の状態を

ずっと生きていたこと、

 

それを今日

身体は手放すつもりで

ここに来たのだろう、

 

という風な

お話しをすると、

 

Mさんは冒頭の様に

「これで身体も一段落したんですね。」

と。

 

 

 

事故によって思いがけず

示談金を得たMさんは、

それを元手に

勉強を始めたのだそうです。

 

仕事に活かせる内容で、

資格試験もありました。

 

事故では

大怪我をしただけでなく、

長年連れ添って来て

自分の一部のように感じていた

大切なバイクも失ったそうです。

 

辛い経験だったけれど、

それを出来るだけ

ポジティブなものに変えたい、

そういう気持ちも手伝っての

決意でした。

 

ですが、

忙しい時間を縫って

全ての科目を修了するのは

かなりの努力が必要だったそうで、

 

仕事で疲れて帰ってから

勉強する気力を起こす際には、

事故の時の衝撃と悔しさを思い出して

励みとしていたのだそうです。

 

3年前の事故を

きっかけにして始まった勉強は、

奇しくも今からひと月ほど前に

修了したばかりとのことでした。

 

 

 

この話を聞いたときに、

こんな風に感じました。

 

事故の時の痛みは、

Mさんが勉強を完遂できるよう

助けてくれていたのだな、

 

身体にとっては、

今だからやっと

事故の時の緊張を

手放せるのだな、と。

 

そして、身体はこんなにも

私たちを助けてくれて

いるのだな、と。

 

 

 

過去の時間の中に

踏み止まっていた細胞たちは

きっと、

 

「今」の時間の感覚を

Mさんと共に、

これからゆっくり

取り戻して行くのだろうと思います。

 

 

 

 

結びにかえて ~ 痛みを役割から解き放つ

 

楽になりたいと思って

施術を受けているのに、

思ったように変わらない時、

 

その痛みには、

私たちそれぞれを支える為の

何らかの役割が

あるのかも知れません。

 

痛みを手放すことは、

痛みが担ってくれている役割から

痛みを解放する事でもあります。

 

そう理解をしたうえで、

痛みを本当に手放したいと

思っているか、

手放す準備は出来ているかと、

自分に問いかけてみて下さい。

 

もし、

そう問いかける中で

痛みを抱え続けていた理由や

必要性に気づけたなら、

 

その時

身体はおのずと

痛みを手放し始めます。

 

 

 

おわり

 

 

馬の臨床① 馬の施術の過程と、その変化:乗用ポニー・ダンディ編 ~3月の営業予定

 

前回の記事では、

馬の施術に先立って、

 

馬体の構造について

詳しくお話ししました。

http://inemurino-ki.com/2016/01/31/space-structure-and-horse/

 

さて、いよいよ今回は

施術そのもののお話です!ヽ(^。^)ノ

 

 

と、その前に、

3月の営業のお知らせを

ちょっと挟ませてくださいね~!

 

 

 

3月の営業予定

 

3月は、21日(月・祝)、26日(土)

臨時でお休みとなります。

それ以外は、通常通り営業いたします。

 

開院時間 : 11時~20時

定休日 : 毎週水・日曜日(祝日も開院します。)

 

施術の最終受付は17:00

とさせて頂いております。

ご事情のある場合には、

17:30まで対応可能です。

ご相談くださいませ。

 

ご予約のない時間帯に関しては、

臨時でお休みとなる場合があります。

ご予約の際には、なるべくお早めに

ご連絡を頂けますと幸いです。

 

 

 

乗用ポニー:ダンディへの施術と、その変化

 

年末から年始にかけて

春のような暖かさが続き、

施術の当日も、風のない

穏やかな天気に恵まれました。

 

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昼過ぎ、

早々と梅の花が咲き始めていた

谷保天満宮へ立ち寄り、

その足で2頭のポニーが待つ

「馬飼舎」へ。

 

馬飼舎(まかいしゃ)は、

谷保の天神さまから

歩いて5分ほど。

 

国立市の中にありながら

美しい水路や

田畑の残る谷保地区は、

懐かしい日本の風景そのまま。

 

訪れるたびに、

ほっとした気持ちになります。

 

 

 

ポニーの異変

 

施術に入る前に、

ポニーたちの様子を

詳しく伺いました。

 

 

馬飼舎には、

ポニーが2頭います。

 

彼らは、おもに

国立市と日野市の幼稚園や保育園、

障害児施設などを巡って、

子供たちと交流する仕事をしています。

 

2頭の内、

1頭は黒毛のポニーで、

名前はジャック。

 

もう1頭は白毛で、

名前はダンディ。

 

20140102_024044085_iOS-1

 

2頭は、それぞれ

受け持つ仕事が違います。

 

乗り馬として

子供たちを乗せるのはダンディ。

 

走ったり

ジャンプする姿を見せるなど、

自然の生態としての馬の在り方を

子供たちに知ってもらうのが、

ジャックの役割。

 

 

2頭への施術は、

彼らの役割の違いを

反映したものであり、

 

それぞれ施術の意味の

異なるものだったと思います。

 

そこで今回はまず、

ダンディの臨床について

お話したいと思います。

 

 

 

孤高の仕事人

 

オーストラリアの

ショーホースの血筋にある

ダンディは、

おっとりしていて、とっても真面目。

 

身体は小さいですが、

少し大きな体格の子供や

怖がっている子供だって、

背中に乗せて静かに歩きます。

 

ちょっとムッツリした感じは

あるけれど(^▽^;)、

我慢強い馬なんです。

 

人からの指示によく耳を傾け、

文句も言わずに

黙々と仕事をします。

 

 

とは言え、人との距離は

あまり近い方ではありません。

(ムッツリなだけに…)

 

ダンディとは

何度か会っていますが、

自分から人間に

ベタベタと近寄るタイプではなく、

 

触ろうとすれば触らせるものの

仕方ないな…、といった空気を

分かりやすく出している様な…(^▽^;)

 

あたかも、孤高の仕事人

と言ったところでしょうか。

 

 

 

いつもは、我慢出来るのに…。

 

施術のご依頼を頂いた時、

私はてっきり、

問題を起こしたのは

ジャックだろうと思いました。

 

役割の上からも

自由気ままでいられる

ジャックなら、

 

人間の意に沿わない行動を

起こす事も当然あるだろうと

思ったからです。

 

ところが、

問題が生じたのは、

我慢強いはずの

ダンディの方でした。

(ゴメンネ、ジャック(^▽^;) )

 

 

 

今から3か月ほど前の

2015年11月初旬。

 

何度も行っている幼稚園で、

ダンディはいつものように

子供たちを乗せていました。

 

怖がりの子が

乗る順番を迎え、

ダンディの横に置かれた

台の上に立ちます。

 

こわごわと、

何度も何度もためらいます。

 

それでも、

どうにかこうにか

ダンディの背中に

腰を下ろしかけました。

 

そのお尻が

鞍に触ったかどうかの、

まさに一瞬のこと。

 

ダンディは急に、

ワッとばかりに

前に飛び出しました。

 

パニックだったのか、

そのまま園庭も

走り回りました。

 

(怖がりのお子さんは、

飼育員さんが横から

サッと抱き上げたので、

ケガもなく無事でした。)

 

 

逃げっ放しにしておくと、

馬には逃げ癖が

つく可能性があります。

 

乗れなかった子供も、

恐怖心を持ったままに

なってしまいます。

 

再び、同じように

乗ろうと頑張ったけれど、

あえなく失敗。

 

3度目。

台は使わずに、飼育員さんが

その子を抱えて鞍に乗せ、

何とか成功。

 

 

2頭のポニーと

2人の女性飼育員とで行う活動は

10年に及びますが、

こんなダンディを見るのは

初めてのこと。

 

当のダンディはと言うと、

飛び出してしまったことに

自分でも驚いている様に

見えたそうです。

 

 

 

背景をさぐる

 

この時の様子について、

お二人から

より詳しい話を伺いました。

 

 

馬体の横にいて

子供を抱き上げた

飼育員の平島さんは、

ダンディが前に飛び出した際に、

右後肢で後ろを蹴りながら

跳ねたのを見ていました。

 

ダンディの頭方にいて

引き綱を持っていた

飼育員の緑川さんは、

ダンディが前に飛び出して

子供を怖がらせない様にと、

無口※1をグッと下に押さえました。

 

するとその瞬間、

ダンディは頭を反射的に

ビクンと挙げたそうです。

 

※1 馬を繋留したり引いて歩く時には、
引き綱と呼ばれる太くて短い綱を用います。
その引き綱は、馬の頭部~口のまわりにはめている無口【むくち】という
簡単なつくりの馬具に繋いで使用します。)

馬の無口

 

小さな動きですが、

こうして観察された動きは、

ダンディの状態を理解するための

重要な手がかりを与えてくれます。

 

一つ一つの動きには、必ず

馬がそれを行う必然性があります。

 

それがどんなに

些細なものであっても、

必ずヒントになります。

 

 

人間の施術なら、

どの部位でどんな感覚がするかを

出来るだけ詳細に聞くことで、

症状の背後に隠れた核心を

類推することが可能です。

 

その点、馬は話せないので、

動きや体調などの

馬の身体が示す現象から

類推して行くしかありません。

 

ダンディの症例では、

飼育員さん達が

日頃から細やかな視線で

ポニー達を見守っていたこともあり、

 

施術を始める前の段階で、

問題の核心が何なのかを

ある程度理解することが出来ました。

 

 

では!

実際に一つ一つの動きから

どんなことを読み取ることが

出来るのか、

 

詳しく分析して行ってみましょう!(^^♪

 

 

 

身体の動きと内的感覚

 

重要な動きは、全部で3つ

出てきました。

 

ダンディが身体を

左に回転させたことと、

 

鼻面を下に押さえられた時に

反射的に頭を挙げたこと、

 

子供を抱えて乗せた時には

我慢できた、

という点です。

 

 

身体を左に回転させたのは、

引き綱を持っている人間が

左側に立っていたため、

と考えることも出来ます。

 

馬の引き方

 

それ以外に、

馬の身体自体が、

左に回転したくなるような

歪みや緊張を持っていた可能性も

考えられます。

 

 

頭を下に押さえられて

反射的に首を挙げたのは、

どこかに痛みを感じたから

という可能性もあります。

 

他に考えられるのは、

力による制止に対して

心理的に抵抗を感じて、

拒否反応を示した可能性です。

 

ダンディは逃げる際に

お尻をはねあげていますが、

 

この動きは

「この状況は気にいらない」

という意思の表明であることが多く、

 

反射的に首を挙げた動作と

併せて、

 

気持ちの抑えや我慢が効かない

何らかの状態が、

ダンディの中にあったことを

示唆しているように思われます。

 

 

さらに、こんな話も

飛び出して来ました。

 

>そう言えば

この出来事の10日ほど前、

ダンディが馬の輸送車から

降りた時のことです。

 

見た目には分かりにくいけれど、

そこは滑りやすいように

加工された地面だったんです。

 

いつもダンディは

車から降りる時に

少し弾みをつけるせいもあって、

地面で前脚を滑らせて

横転してしまいました。

 

 

身体のどっち側を打ったか、

覚えていますか?

 

>左右どちらかは

はっきり思い出せません。

 

でも、

特に後遺症はなかったようで、

その日の障碍者を乗せる仕事は

ちゃんと出来ていました。

 

 

痛がっている様子は、

なかったんですね。

 

>はい。

 

…でも今考えてみると、

1~2年ほど前から、

少しおかしい所が

あったように思います。

 

今回のように前に飛び出る

とまでは行かないけれど、

 

引き馬をして歩いている時に、

ダンディが引き手(馬を引く人間)

を中心にして

左に回転するように

動く事がありました。

 

そう言えば、

そうやってまっすぐ歩かない時は、

ほぼ決まって、怖がりの子供を

乗せていた気もします。

 

———-

 

 

左へ馬体を回転するのは

ここ数年の間の

癖になっており、

 

それがほぼ決まって

怖がる子供が乗る場面で

起きていたという点もまた、

重要な手がかりです。

 

一方で、今回、

飼育員さんが

子供を抱えて乗せた時には、

我慢して乗せています。

 

とすると、

ダンディが緊張を感じるのは

乗られること自体ではなく、

子供が「乗る」という

動作に対してかも知れません。

 

 

怖がりの子は、

傍で見ても可哀想なくらい

緊張してコチコチです。

 

こうした緊張感を、

馬達は「はだ」を通して

感じ取ります。

 

私たち人間だって、

怒ってムス~ッとしている人が

同じ空間にいたりすると、

何だかこちらまで

ムカムカが伝染して来たり

しますよね(^▽^;)

 

その場の空気を、

「はだ」を通して

感じ取っているわけです。

 

こうした、

身体の感覚を通して

相手の状態やその場の空気を

感じ取る力に、

馬達はとても秀でています。

 

自然の中なら、草食動物の生死は

この能力に掛かって来るわけですから、

当然ですよね( ;∀;)

 

 

ちなみに、ダンディが

人間の動きの固さではなく

心理的な緊張に

反応していたと考えたのは、

 

身体を打った当日も

障碍者を乗せる仕事は

ちゃんと行えていた為です。

 

緊張している子供が、

自分の背中に乗ろうと

こわばりながら近づいてくる。

 

この時すでに、

ダンディの身体には

ピリピリとした緊張感が

生まれます。

 

このピリピリ感はまるで、

子供の一挙手一投足を

見逃さないよう、

全身が張りつめたレーダーに

なっているようなものです。

 

 

背中にまたがる瞬間、

子供の緊張は

最高潮に達します。

 

その同じ瞬間、

ダンディもまた、

「はだ」を通して

その緊張感を共有します。

 

ダンディの身体で

実際に緊張が生じるのは、

おそらく

 

子供が乗ることで

最も刺激を感じる背中か、

子供が足でつい締めがちな

お腹の横の辺りと考えられます。

 

 

…おぉっ!(゚Д゚;)

 

お腹の横の辺りと言えば、

少し前に横転して

打ったところとも重なります。

 

かなり、アヤシイですねぇ…。

 

お腹に緊張が加わることが、

重複して起きているんですね。

 

これに加えて、お腹に

もともと弱さがあったりすると、

我慢が効かずに衝動的になったのも

合点が行くんですが…。

 

 

便通の状態とかは、

普段どんな感じですか?

 

>ダンディのボロ(糞)は

水っぽくてベチャベチャか、

線維質が多くて、形がすぐに

ホロッと崩れてしまうかの

どちらかがほとんどで、

丁度いい時はあまりないんです。

 

 

…ふ~む、やっぱり。

お腹は弱かったか~。

 

どうやら、今回の問題は、

お腹の辺りの緊張が

引き金になっていた可能性が

大きそうです。

 

 

 

施術① 気持ちをほぐす

 

施術の始めに

背中やお腹などに触れて、

ダンディの反応を観察します。

 

背中や腰の方は

大人しく触らせてくれますが、

お腹の方ははっきりと

嫌がられてしまいました( ;∀;)

 

動物は、

弱い所や痛みのある所に

触られるのを嫌がります。

 

 

比較的、

馬が好むポイントである

剣状突起やおへその辺りを、

ごく軽くさすりました。

 

剣状突起は胸骨の後端で、

そのすぐ後ろがみぞおちです。

 

横隔膜が付着する部分でもあり、

緊張が生じやすい所の一つです。

 

 

剣状突起に触れると、

ダンディの表情は

わずかに緩みました。

 

鼻先も、おずおずと

伸ばし始めます。

 

 

鼻先を伸ばすのは、馬達が

気持ちの良い時に見せる仕草です。

 

馬は社会性が強い動物で、

仲間同士でグルーミングをする

習性があります。

 

この時、

お互いにキコウと呼ばれる

背骨の一番高くなっている部分を

噛み合います。

 

その為、ここを揉んだり

掻いたりされることが、

大抵の馬は大好き。

 

気持ち良く感じると、自分も

相手にグルーミングをやり返そうと

鼻先をぐ~っと伸ばしはじめ、

口をモゴモゴ動かし始めます。

 

 

…ぐ~っと「伸ばす」と言うより、

勝手に「伸びちゃう」感じの

鼻先の様子を見ていると、

 

これは「やってもらったから

やり返さなくちゃ。」

と考えて行う動作ではなく、

 

ほとんど本能に組み込まれて、

自動的にやってしまう行動に思えます。

 

ダンディの場合は、

その半本能的な反応が、

おずおずとして

ためらいがちな様子であるのが

印象的でした。

 

何代も続く

ショーホースの血筋で

よく教化された乗り馬である

と言う事は、

 

人間が出す指示に

おのずと集中するように、

訓練された意識を持っている

ということでもあります。

 

その意識の在り方が、

本能的な欲動を抑える傾向性と、

関連しているのかも知れません。

 

…おっとっと、

話が脱線しちゃった(#^.^#)

 

 

 

リラックスした気持ちを

維持しやすいように

左手は剣状突起に触れたまま、

今度は右手で背中も一緒に触り、

 

刺激の量を増やして

触られることに

慣れてもらいます。

 

右手が腰仙関節へ触れた途端、

左手が触れていた剣状突起で

ふ~っと力が抜けました。

 

左右の手で、ちょうど

腹腔を大きく包んだ状態の時に

緊張感がゆるんだ。

と言うことは…

 

馬の剣状突起と腰仙関節

 

やっぱり、問題の核心は

腹腔にあるのでしょうか。

 

 

 

施術② 身体を読み解く

 

次に、身体構造を調べると、

これを裏付ける様な状態を

ここからも見て取ることが

出来ました。

 

 

身体に生じている

歪みや不安定性(動揺)を、

細かく調べて行きます。

 

まずは、背中。

 

ダンディの頭の前に立ち、

脊柱の両脇の状態を

確かめます。

 

脊柱沿いの組織は、

後ろから前へ向かう流れを

強く示します。

 

これを便宜的に、

皮膚・筋肉・筋膜を含めた

組織全体の

前方への「変位」と表現します。

 

変位の方向性から、

骨格の歪みの状態が分かります。

 

 

下顎からお腹の下にかけても、

組織は後ろから前への変位。

 

ダンディ-背部と胸腹部のアウトライン

 

この状態から分かるのは、

ダンディが身体的には

前のめりの傾向にあった、

と言うことです。

 

身体が前のめりだと、

心理的にはいつも

追われている様な感じを伴い、

焦ったり不安になりやすい

傾向にあったと考えられます。

 

 

一方、骨盤を調べると、

骨盤は全体的に後方への変位。

 

身体全体として見ると、

腰のところで身体が前後方向に

分断されているような感じです。

 

ダンディ-骨盤の変位

 

これだと、

前のめりで焦りがちな身体に

お尻の動きが付いて来ないため、

ダンディの中では

もどかしい感じが

生じていたかも知れません。

 

心理的な焦りが

助長されやすい状態だと

考えられます。

 

 

次に、

身体の捻れも見てみましょう。

 

体幹部を調べます。

(文中では、胸郭から骨盤にかけての
胴体全体を体幹とします。)

 

体幹の上面:背中と

体幹の側面:脇腹は、

全て左へ回転しています。

 

体幹の底面は、

肋骨のある胸腔と

肋骨のない腹腔部分とを

分けて調べます。

 

胸の下では捻じれは左へ。

お腹の下では捻じれは右へ。

回転の方向が異なっています。

 

最後は、骨盤。

これも左回転でした。

 

 

体幹の後ろ半分では、

全体的に左回転です。

 

これは、左腰と左後肢に

重心が乗りやすかったことを

示しています。

 

 

一方、胸郭においては、

回転方向は複雑。

 

ちょっと整理してみると、

 

胸郭の左側面には

上下から力が集まり、

体側を圧縮する形で

力が働き、

 

他方の右側では、体側を

上下に引き伸ばすような形で

力が働いています。

 

縮まる傾向の左体側と、

引き伸ばされた右体側、

と言った状態です。

 

体幹の捻れ-ダンディ

 

これは、特に左の脇腹に

強い緊張があることを

物語っています。

 

一方の右脇腹は、

踏ん張りの効かない状態です。

 

 

全体的に見てみると、

左半身で全荷重を負うような

パターンが、

身体の構造そのものに

形成されていたことが分かります。

 

左半身の方が

支持力が強いので、

逃げる際にはおのずと

左の肢(あし)に頼ります。

 

すると、

左肢の踏み込みは深くなり、

当然、馬体は左へ回転します。

 

 

左脇腹が

縮まる傾向にあった理由として、

こんなことが考えられます。

 

馬に乗る際、

人間は馬の左側に立ちます。

 

乗り手は、左足に体重を乗せ、

右足を馬の向こう側に

よいしょっと持って行きます。

 

その為、乗った後に

意識的に体軸を正さない限り、

重心はどうしても

左に偏りがちになります。

 

怖がる子供の場合は

なおさら、

左の足に力が入りっぱなしに

なりやすいはずです。

 

こうして、左の背中には

人間の体重が

より強くかかって来ます。

 

それを、

左の前肢を踏ん張りながら

肩でグッと支え上げる…。

 

そんな風に頑張る内に、

ダンディの左脇腹は

縮まって行ったのかも知れません。

 

思っている以上に、

頑張って仕事をしている姿が

垣間見えてきます。

 

 

ところが、

こんな風にして

全身を調べて行った結果、

 

身体のバランスを乱している

根本的な原因は、

右肩関節にあることが

分かりました。

 

右肩関節には、

少しズレがあるようです。

 

 

あら~?(;・∀・)

 

問題の核心は腹腔にあると、

色んな要素が

言ってるんだけどなぁ。

しかも、右半身?

 

…推測は

間違っていたのでしょうか?

 

 

 

施術③ 原因のさらに奥へ ~身体構造の変化のプロセス

 

施術は、ここから

最も重要なプロセスに

入って行きます。

 

ダンディの身体に

何が生じていたのか。

それが、今回の問題と

どのように繋がっていたのか。

 

彼の身体自体が

その理由を解き明かしていく

プロセスです。

 

ここから先は、

ダンディの身体に

施術の進行を委ねます。

 

 

原因部分として特定した

右肩関節の、その前端にある

凹みに触れました。

ここは、上腕骨頭でもあります。

 

しばらくすると、

そのポイントから

一つの方角に向かって

流れが生じました。

 

この流れは、

肩関節に変調をおこしている

力の働きが、筋膜上に

地図の様な経路として

投影されるものです。

 

経路を辿ることで、

関節の変調の

さらに奥にある「理由」が

見えて来るはずです。

 

片手を

先ほどの凹みに置いたまま、

もう片方の手で

流れを追い掛けます。

 

右上腕骨頭前端から始まった流れは、

肩甲骨下部を横切って、

肩甲骨の後縁を辿るように

上へ向かいます。

 

辿り着いたのはキコウの

少し後方。

 

そこから今度は、

脊柱の稜線上を辿って

後方へ向かいます。

 

かなり早いペースで

移動して行きます。

 

どこまで行く気だろう?

 

腰仙関節まで一気に来ると、

ピタリと止まりました。

 

ダンディ―経路1

 

ここは、施術前に

腹腔の緊張がゆるんだ

ポイントです。

 

面白いことに、

施術前に身体に触れ

構造を調べている間に、

 

どうやら身体は自分で、

情報をある程度

整理して行くようなんです。

 

その為、こうして

最終的なプロセスに入った時には、

 

どこをどう変化させるか、

身体自身がすでにはっきりと

決めているようです。

 

施術前に触れた際に、

腰仙関節にもっと

アプローチして欲しい!と、

身体が思ったのかも知れませんねぇ。

 

 

腰仙関節で止まると、

体内で自発的な反応が

生じ始めました。

 

こうなった時には、

身体が「もういいよ」と言うまで、

変化が収束するのをひたすら

待つしかありません。

 

 

しばらくして、体幹部に

変化が現れ始めました。

 

右半身の

胸からお尻までの長さ(体長)が

縮まって行きます。

 

それと共に、体内の空間が

上へと広がって行く感触を

両手が感じ取ります。

 

腰仙関節の少し前の方で、

腰椎が上に上がって来ました。

腰のアウトラインが

変わって行きます。

 

「腰の辺りが、

上がって来た感じしますね。」

 

施術をじっと見守っていた

飼育員さんも、

変化の様子に気付いた様です。

 

…と言っても、形の変化は

普通にパッと見て分かる程、

大きなものではないんですよ!(;^ω^)

 

微妙な身体の形の変化に

気付いたと言うことは、

普段それだけ、

飼育員さん達が丁寧に

ポニー達を観察している証拠です。

 

実を言えば、10年もの間

ダンディにもジャックにも

問題が起きることなく

活動を続けているのは、

すごいことなんです。

 

それだけ彼女たちが

細やかに見守って来たからこそ

と言うことが、

観察眼の確かさからも感じられます。

 

 

 

やっと、移動再開。

背部の稜線をさらに後方へ辿り、

右の坐骨へ向かいます。

 

最初から触れていた

肩関節の前端と、

今辿り着いた坐骨とは、

胴体のちょうど端と端。

 

この2点の間で胴体全体が

一つの空間としてつながった…!

という感覚が生じました。

 

 

構造的には、もちろん

胴体は今までだって

一つに繋がっていました。

 

それが施術をしていると、

途中で流れが滞っていたり、

臓器のおさまりが悪くて

身体の中であっちこっち

向いている様な事があったりします。

 

人間の組織で例えるなら、

一つの会社組織なんだけど、

構成員たちはそれぞれ

バラバラの方向を見ていて

実はまとまっていない…。

みたいなことが、

身体の中でも起きているのですね。

 

そういった意味での「まとまり」を、

どうやらダンディの身体は

回復しようとしている様です。

 

 

2点間のちょうど真ん中の

腹部中央の奥で、

何か重たい感触があるのが

はっきりし始めました。

 

やがて、その重さは

徐々に抜けて行き、

腹腔内の空間が

軽さと明るさを回復した感覚が、

馬体に触れている手を通して

伝わって来ました。

 

 

坐骨を後にすると、

流れはさらに前へ向けて進み、

膝関節の前端まで来ると

再び止まりました。

 

膝関節の中で、

ググッと力が戻る気配が

生じます。

 

膝関節は、肘関節と

ほぼ同じ高さにあり、

肘関節と一緒になって

身体の重さを支えています。

 

膝の中で生じた変化は

体幹を持ち上げる力の

回復だったと思われ、

 

これに伴って、更に

腰のアウトラインは

上にあがりました。

 

腰仙関節のすぐ前方では

盛んに腹鳴がし始めたことから、

消化管も一緒に

変化をして行っているようです。

 

 

流れは更に前へ進むと、

右肩関節の後端へ

辿り着きました。

 

肩関節が

しっかりとし始めました。

 

膝関節とおなじように、

ここでも支持力の回復が

行われます。

 

「あぁ~、

しっかりして来ましたね。」

ふたたび、飼育員さんも

肩の変化に気付いてくれました。

 

 

いよいよ、旅も

終着点に近づいて行きます。

 

体幹をぐるりと

へめぐった流れは、

出発点の右肩関節前端へと

帰って来ました。

 

ダンディ―経路2

 

肩関節は、体幹から少し

離れた状態になっていたようです。

それが戻って行きます。

 

肩と体幹との

まとまりが回復してくると、

左の肩関節と呼応し合って

左右の肩関節の前端で

前※2を支え上げる様な変化が

生じ始めました。

 

※2 胸腔の前端で、
人間で言うところのデコルテの辺りを指します。)

 

胸の前側が

持ち上がった為でしょう、

首のアウトラインが

変わって来ました。

 

首の根元は少し下に沈み

凹んだ形になっていましたが、

 

それが持ち上がって、

首が扇形に見えるように

なって来たところで、

施術は終了になりました。

 

 

 

解題:身体の変化が意味するもの

 

ここで、少し

施術を総括してみたいと

思います。

 

身体の変化の仕方を見ると、

逆に、今まで

身体がどういう状態だったかが

見えて来ます。

 

ダンディの体幹部では、

その長さが縮まりながら

背中のラインが上へ持ち上がる、

という変化をしました。

 

ここから、

ダンディの背中は

本来よりも少し下に沈み、

 

その分、

体幹の筒型構造は

上から押されて

少しひしゃげたような状態に

なっていたと考えられます。

 

ダンディの身体が

起こしたかった変化は、

 

胸腹腔に空間的な広がりを

回復することと、

 

それに伴って

肩身の狭い思いを

していたであろう消化管に、

 

居心地の良さを

取り戻すこと、

だったのではないでしょうか。

 

施術中、

盛んにダンディのお腹が

鳴っていたのは、

 

自分が居るべき空間の

広さを取り戻した消化管が、

おもわず漏らした

安堵の声だったのではないか

と思います。

 

 

ちなみに、右肩と膝で

体幹を支える力が

弱まっていたことと、

 

右体側では

胸郭を上下に引き伸ばすように

力が働いていたのは、

 

もしかしたら

横転した際に

右半身を打ったため

だったのかも知れません。

 

 

 

むすび:ダンディに現れた変化

 

ここに、ダンディの

2枚の写真があります。

 

上は施術直前。

下は施術直後。

ダンディ 施術前-1

ダンディ 施術後ー1

 

姿勢が違うので、

形の変化などはちょっと

比べにくいところが

あるのですが、

 

首の形の違いは

分かりやすいと思います。

 

首と言うか、

タテガミですね。

 

施術前では、

タテガミのラインはわずかですが

下向きに弧を描いています。

施術後では、上に丸みを描く

扇形になっています。

 

お尻の形も

施術後ではきれいな丸で、

その分、尾の付け根も

高い位置にあるようです。

 

重心は、施術前では

肩関節の辺りにありますが、

施術後では身体の中央付近に

移っているように見えます。

 

 

何よりも注目すべきなのは、

毛並みです!(*’▽’)

 

特にブラシ掛けなどは

していないのですが、

 

施術後には毛並みに

空気が入ったように、

フワフワになっているのが

分かるでしょうか?

 

 

身体の内部空間が

広がりを取り戻して、

 

消化管などの臓器が

狭苦しい緊張から

解放されると、

 

体内の血流や

エネルギーの循環も

変化して、

身体の「元気」の

底上げが起きる。

 

毛根の細胞だって、

元気を取り戻しやすく

なるのだろうと思います。

 

それに、心も。

 

 

施術の翌日、

飼育員の平島さんから

ダンディの様子について

早速ご報告を頂きました。

 

『…昨夜から今日にかけて

ボロがツルンとしていて、

繊維質な感じのものは皆無でした。

それはもう見事なほど。

 

とても気分良さそうに穏やかで、

ジャックへの八つ当たりも

影を潜めていました。

 

もうひとつ、

餌の食べ方がゆっくりで

食べ終えて不足のない様子。

 

昨日までは、餌のかけらを探して

ずっと小屋のおが屑を

鼻先でいじっていたのが、

今日は片足を休めて

ゆっくり昼寝してました。』(メールより抜粋引用)

 

 

穏やかで、ゆったりとして、

現状に満足を感じられている。

 

毛並みがフワフワになったように、

ダンディの気持ちにも

新鮮な空気がいっぱい

吹き込んだのかも知れないなぁ。

 

きっと。