深沼海岸にて、現地のおじいちゃんと出会う。

 

仙台での一日ボランティア活動の途中で立ち寄った荒浜地区・深沼海岸。

震災前は海水浴場としてにぎわった海岸には浜に沿って松の林があり、

その海側には、今は震災の慰霊碑が立てられています。

 

 

松林は防風林だったそうで、その陸側には家屋の土台跡が沢山あります。

海に近接して、人々の暮らしがあったことが伺えます。

 

 

そこで出会ったおじいちゃんが話して下さったことを、

聞いたその時の印象を壊さないようにお伝えできたら・・・と思います。

 

 

 

大正15年生まれの子供達の5才のお祝いに、昭和5年に植えられた松の木。

(防風林として深沼海岸沿い7キロに渡ってあり、約30万本が風を通さぬ密度で植えられていたそう。)

慰霊碑のすぐ後ろに立っていた松を指して、

「あの上に海苔網が引っかかってたんだよ」と。

 

 

波は松の木を越える高さ(10メートル)で流れ込み、

深沼海水浴場付近の松を根元からへし折った。

今はまばらになった防風林の松は、その頭を海から陸の方へと傾けている。

 

 

おじいちゃんは80才、小柄で人なつこい印象の方だ。

「ボランティアで来たんですか?」と話しかけてくれた。

防波堤から、団体で荒浜の海を眺めていたからだろう。

 

 

ボランティアバスの説明をすると、

「そんなこと(取り組み)をしてるとは知らなかったなぁ…、東京から。ご苦労様です。」

遠方からのボランティアに驚いた様子で、丁寧に頭を下げてくれた。

 

 

今は若林区に住んでいるけれど、この荒浜の海岸っぺりに実家があったこと。

全て流されて、みんないなくなってしまったこと。

ご自分と長男さんは残ったこと。

 

 

津波の3日後位に荒浜を訪れると、

慰霊碑の後ろの松から数えて3軒位陸側に入った家(跡)で、

「ビニールにこう包まれて、お孫さんだべなぁ、おじいさんがタバコふかして泣いておったよ。」

 

 

ご自分のご実家は慰霊碑につながる道の左側(防風林から20メートル程)にあったそうで、

「家の畑に50人位(亡骸)溜まってて。それをきれいに洗ったり、自衛隊が運んでいったりしたんだわ。」

 

 

荒浜地区は死者は「180だか200人だったかな。本当に、あんなの見んさらなくて良かった。」と。

話す目は、赤い。

 

 

死者のお弔いをしたかったけれど、

お寺もお墓も流されて無くなってしまったこと。

遠くに見える小高い土山

(目測で、高さ5~6メートル程、海岸からは3~400メートル程の距離だろうか。)の上に、

お寺の屋根が流されて乗っていたこと。

 

 

「つまらん話聞かせて悪かったねぇ。」

「お話を聞かせて頂いて、ありがとうございました。」

経験を共有させて頂いたこと、心から感謝しています。

 

 

薄日に淡く輝く静かな海には、恐怖の影は微塵もない。

 

 

海に背を向けた時に現れて、直接お話をしたおじいちゃん。

静かに淡々と話す、丁寧な物腰のおじいちゃんを通して初めて、

悲しみの現実に触れられた気がした。

 

 

慰霊碑と、防風林の近くに整然と立っていた赤い鳥居に手を合わせ、

あの地を守る自然の大いなる存在に感謝を捧げた。

   鳥居の隣に立つのは、防風林の松。海は鳥居の向こう。