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感覚を通して、自己の内なる変化を読み解く 。〜思考する感覚

 

ここのところ、
春のように温かい日が続いていますね~!

DSC_0002_18

 

肌で感じる季節感が乏しいせいか、
年末という実感がなかなか湧かず。

 

とは言え、
もうすぐそこまで
新年が来ているんですよね~!(^▽^;)

 

 

今回は、2015年度最後のブログです。
一年の総まとめを…と思ったのですが、
そんなに簡単にまとまらないので(;^ω^)

 

最後の2か月、
11月~12月に私自身が体験した
ちょっと面白い出来事をお話したいと思います。

 

この2か月間、なぜだか
物事を深く考えることが出来ませんでした。

 

普段、当たり前の様に出来ていた「思考」。
それが出来なくなったことで、
「思考する」とはどういう事かを、
思いがけない視点から見つめ直すことになりました。

 

 

思考する時に、
私たちにはどんな感覚が生じているのでしょうか?
今回はそんなお話を軸に、

 

思考に頼るのではなく、
感覚を通して理解することの面白さを
お伝え出来たら良いなと思います。

 

 

思考は、外からやってくる

 

この2か月の間、ほぼずっと
思考が止まっているなぁ~、
考える事に頭を使いたくないんだな、
と感じていました。

 

それが特に顕著に感じられるのは、
困ったことに施術中です。

 

当院の施術では、
クライアントさんの身体の状態を
全体的に把握する事が必要になります。
自分で言うのも何なんですが(;^ω^) 、
かなり思考力を使います。

 

ところが、頭を使いたくても
頭の方が考えるのを拒否すると来ているので、
他の方法で補うしかありません。

 

今までよりも意識的に、
かつ見落としが無いように、
身体を細かく観察しながら施術を行い、

 

そこから得た情報を元に
頭の中の計算機で一生懸命演算をして、
クライアントさんの身体に何が起きているか、
その答えを弾き出します。

 

我ながら、ガンバッタナァァ〜( ;∀;)

 

それに比べると、
頭がしっかり巡っていた時には、

 

身体の色んな部位で生じている
緊張や歪み、クセや症状が、
互いにどんな風につながりあっているかを
自ずと把握している実感がありました。

 

「自ずと把握している」
と感じられるのは、

 

自分の身体を通して
相手の身体の状態を感覚的に理解していて、
それが思考による理解と自然に合致する時です。

 

そうした状態にある時には、
施術を行っている最中にピカッと
閃きのように理解が生じることが多く、
無理に考えて答えを捻り出す必要は
ありませんでした。

 

…こうやって書いてみて気付くのは、
思考できないと感じていた時でも、
情報を集め、それをまとめることは出来た、
と言う事です。
本を読んだりするのも、
読むだけなら苦痛ではありませんでした。

 

一方で、思考出来ていた時に
「思考」だと感じていたものは、
集めた情報を一段違ったものへと展開させるような、
一種の「飛躍」を含んだものだと言えそうです。

 

 

 

 

少し話は変わりますが、
「思考場」という概念を
聞いたことがあるでしょうか?

 

そう質問している私も、
どこで学んだ言葉だか忘れてしまったので、
ウロ覚え、かつ自分なりの理解ですけれど…(;^ω^)

 

誰かとコミュニケーションをする際、
私とあなたの思考の間には、
共有する「場」が生じます。

 

その共有する場の中から、
私たちは無意識かつ自動的に
お互いの情報を得て、対話を行う。
そういう情報の保存された場を、
思考場と表現するようです。

 

例えば、
この人と話をしていると
すごくスムーズに話が出来るとか、
いつもより思考のまとまりが良い!
と言う事や

 

逆に、 この人の時にはどうも、
考えがごちゃごちゃして言葉が出にくくなったり、
自分でも何を言っているかわからなくなるなぁ~、
なんて感じること、ないでしょうか?

 

これは、私たちの意識していない所で
お互いがお互いの思考の場にアクセスして、
場の力を借りながら話している為だと考えると、
あ~なるほど~、と
すんなり理解できるのではないでしょうか。

 

 

 

思考が回転しない状態を、
意識的に体感したのは
初めてのことでした。

 

どんな体感だったかを 表現すると、

 

思考が巡っている通常の状態から
自分が抜け落ちた、と言う感じであり、

 

それこそ、いつも居た思考の場から
何らかの理由で意識が離脱してしまって、
そこへ自力で戻れない、
と言う感覚でもありました。

 

 

 

今までは、理解する事や考える事は
自力でやっていると思っていました。

 

視野が広がって、 徐々に多くのものを
理解できるようになることも、
自分の努力によるものだと。

 

それが、この時の感覚からすると、
考えることは自力ではないのかも知れない
と思えました。

 

思考の場の様な所に
無意識の内にアクセスしていることで、
思考の方が私たちの中に
生起してくるのではないか、と。

 

そう考えると、
思考力や理解力を磨く努力は
考える力を生み出すためではなく、

 

自分の求める情報が存在している「場」に、
的確にアクセスする道を
自分で少しずつ切り拓いて行く、
そんな作業なのかも知れませんね。

 

 

思考する感覚

 

またある時には、
こんな面白い感覚を経験しました。

 

物事を考え始めると、
頭の中の一点に向けて
何かが集まって来る気配が生じるのです。

 

ところが、
もう少しでそれが一点に凝集する
その肝心な瞬間の手前まで来て、
気配はしゅんと煙のように消えてしまいました。
考えていた事も、一緒に散ってしまいました。

 

考えるためには、脳の機能が
考えるテーマに向かって焦点化すると共に、
脳自体にも物理的な力の凝集が生じることが
必要なんですね。

 

一生懸命に何かを考えようとする時、
ついつい眉間に縦ジワを寄せたり、
頭を前に少し傾けて額に重さを集めたり、
その額を指で支えたりすることが
あると思います。

 

あれは、脳の中で
一点への集中が滞りなく生じるように、
身体が手助けをしてくれているのかも知れません。

 

 

 

思考停止の背後で。

 

それにしても、一体どんな理由で
今までの様に考えることが
難しくなっているのだろう?

DSC_0002_26

 

自分の身に起きた異変は、
身体や心、意識の仕組みを知るには
またとない機会。
自分に何が起きているのか、
色んな方面から見直してみました。

 

すると、この期間、
暇さえあれば熱中して
やっている事があると気付きました。
縫い物です。

 

まずは、
作ったものをお披露目~(#^.^#)

 

これは、
施術衣として使うブラウス。

hand made blouse

 

こちらは、
裏地を付けはじめたものの、
難しさに嫌気がさして
去年から作業を中断していたコート。

hand made coat-1

 

2年越しで、やっとのこと
完成を迎えようとしています~!
…ボタンホールを作る、
手強い作業が残ってマスガ(^▽^;)

 

 

 

縫い物は、一枚の布から
形あるものを作って行きます。
二次元的なものから、
三次元のものを作り出します。

 

また、同じ型紙を使っても、
使用する布の風合いや
縫う作業の丁寧さによって、
出来上がりの印象が変わります。

 

手縫いだけでなく
ミシンという器械を使っても、
針目には今の自分の状態が映し出されます。

 

縫い上がったものは
自分の在り方を表現した作品とも言え、
様々な意味で創造力を必要とする作業です。

 

 

 

縫い物→創造性と来て 、
次に連想したのは
「第1チャクラ」です。

 

チャクラとは、
身体に7つ存在する
エネルギーの中枢とされますが、
単に概念だけのものではありません。

Sapta_Chakra,_1899 PublicDomain-1

 

各チャクラには、
脊髄神経の神経叢や
内分泌腺との対応関係があり、

 

人によっては
チャクラが位置するとされる場所に
螺旋の流れを体感する事もある、
エネルギー的な構造体です。

 

第1チャクラは
生殖腺と対応しています。
女性なら、子宮と卵巣です。
7つのチャクラの中では最も下に位置し、
私たちの生命力を支える土台でもあります。

 

生殖器は、
新しい生命を生み出す力を持ちます。
第1チャクラが帯びる力は、
新しいものを創出する創造力です。

 

 

 

あ~、そう言えば…。
11月に、腹腔と子宮の状態に
大きな変化があったんだった。
やっと思い出した~!

 

それがきっと、
思考が停止したことと
何か関係しているに違いない!

DSC_0002_10

 

 

幼少時からの歪みが…?

 

私は普段、
クライアントさんに行う施術を用いて、
自分にもメンテナンスをしています。

 

11月の初め頃、
そのメンテナンスの最中に
腹腔内が大きく変化しました。

 

腹腔には、腹膜腔後壁、
もしくは後腹壁と呼ばれ、
お腹の中の空間を前後に隔てている
膜があります。

 

この膜が非常に重要なので、
少し詳しく説明しますね。

 

後腹壁には、
大腸や小腸が緩やかながら
固定されています。
どのような構造かと言うと…

 

まず、一枚の布に、
ひだのたっぷりあるドレープを
縫い付けてあるとします。
そのドレープの端には縁取りがしてあります。

 

布が後腹壁、ドレープが腸間膜、
縁取りは、小腸や結腸(大腸)の管です。
ドレープを縫い付けてある部分は、
下図の中で 「腸間膜(根)」と
記載されている所です。

後腹壁ープロメテウス-4

 

布を縦に広げると、
縁取りしたドレープの重さで布は引っ張られ、
よじれが生じます。
ひだは潰れてしまいます。

 

この時、布の張りが
ドレープの重さに耐えられる位強ければ、
ドレープは美しく整い、かつ
ふんわりと余裕のある形状になります。

 

これは、後腹壁や腸に置き換えても、
同じ事が言えます。

 

小腸の長さは、弛緩時で
(解剖下で計測して)6~7メートル、
生体内で筋肉が活動している時でも、
2~3メートルあります。

 

これだけの長い物体がお互いにからまらず、
ある程度安定して納まっていられるのは、
後腹壁によるしっかりとした裏支えがある為
と言えます。

 

後腹壁はまた、その最下部では
子宮と直腸・肛門とを隔てています。
先ほどの図では「直腸膀胱窩」と書いてありますが、
女性の場合は「直腸子宮窩」と呼ばれます。

 

これもまた、子宮や直腸にとっては
後腹壁が位置の安定性を与えてくれる
支えの一つとして機能していることを
示しています。

 

身体構造にとって、
後腹壁がとても重要な役割を
担っている事が分かります。

 

 

 

メンテナンスの中で起きた変化とは、
その後腹壁の右側半分で
すぅ~っと膜が上下に伸び広がり、
それが同時に引き締まって強さを回復して行く、
というものでした。

 

例えるなら、
たるんでいた船の帆が、
ぴんと張り直された様な感じです。

 

後腹壁だと判断したのは、
変化する感覚が生じた位置と(深さ)と
広がりの大きさ、
腹腔内の冠状面で生じている
という特徴からでした。

冠状面 矢状面  Human_anatomy_planes-JA CC3_0

 

少し前の所で、
一枚の布とドレープを例に説明しましたが、

 

私のお腹の中でも、
今までは後腹壁がたるんでおり、
腸が腹腔内で潰れている
とまではいかないまでも、
腸にとって快適な状態ではなかったことが
想像できます。

 

また、後腹壁が
上下に伸び広がるように変化した点から、
今まで腹腔の右側には、
上下方向から圧縮が加わったように
ぎゅっと詰まった状態があったことも 分かります。

 

小さい頃、
私は大型の遊具から落ちて
背部を地面に打ちつけたことがありました。

 

その時に取っていた
右足を胸に軽く引き寄せ、
上半身を右に捻った姿勢が、
腹腔の右側に圧縮を作った
原因として思い当たります。

 

 

 

後腹壁の変化が、
次の変化への準備となったのでしょう。
翌日のメンテナンスでは
子宮と卵巣に変化が生じました。

 

まず子宮の右壁から右の卵巣にかけて
緊張が緩み始め、
しばらくして何かがす~っと
下に下がるような感覚が生じました。

 

この感覚から、今までは
子宮の右壁から右卵巣にかけて、
それらを上に引き上げるような
緊張があったことが分かりました。

 

子宮や右卵巣にしてみれば、
これまでずっと
引きつれた様な感覚の中にいたのを
想像することが出来ます。

 

でもこれで本当に、
子宮は、引きつれた不快感から
解放されたのでしょうか?

 

 

子宮の変化

 

まもなくして生理がやって来ると、
確かに子宮に変化が起きていたことが
分かりました。

 

前の月までは、経血は
暗赤色をした何かの残渣物といった感じで、
生命感が乏しい状態でした。
それが今は驚くほど鮮やかな赤色で、
水のようにサラッとしています。

 

そうか、経血は血液なんだ~!と
この歳になって恥ずかしながら…、
初めて実感!ヽ(^。^)ノ

 

私は小さい頃からお腹が弱く、
経血にも比較的早い内から
半流動的な塊が混ざっていたように
記憶しています。

 

今考えれば、恐らくは
背中を強打した影響によって、
後腹壁がよれ、
腹腔内の臓器が不安定な状態を
小さい頃から抱えていたのだと思います。

 

それがウン十年経って
急に健康な経血に変化したのですから、
おぉ~っ!?凄い!
となりますよね(^o^)

 

この変化は、私だけでなく
身体自体にとっても驚きだったはずです。

 

子宮にしてみれば、 今までは
持ってる力の3割ほどしか使えず、
常に徐行運転でいたのが、
急に全力を使えるようになったから、
高速走行しましょう!と
ムチャ振りをされた様な感じかも知れません 。

 

子宮は第1チャクラと繋がっていますから、
生命力そのものでもあります。

 

子宮が元気を回復したなら、
身体全体で使えるエネルギーの量も、
以前より大きくなると思われます。

 

でも、慣れていない力と言うのは、
扱うのが難しいものです。
身体もそれに慣れるためには
時間が必要になります。

 

しかも、生命力を支える
根本的な部分の変化であれば、
身体全体のエネルギーバランスを
足元から組み直す必要があります。

 

身体の中では、思っている以上に
時間のかかる大変な作業が
進行していたのではないか。
それは、実感としてもそう思います。

 

第1チャクラは、創造力の源でもあります。
活動力の増した子宮=第1チャクラに
まずは慣れるために、
縫い物で試運転をしていたのではないか、
と思うのです。

 

子宮は、ゆっくりとした
自然のリズムの中にあって、
「今」という時と共にいます。

 

一方の脳は、
過去へも未来へも自在で行くことが出来、
早い流れの中にあります。 そしてまた、
エネルギーの消費量も大きい…。

 

自然としての身体にとっては、
身体を再編成する間は
自分たちのペースを守ることが必要です。

 

その間、かしましやの脳には
ちょっと(いや、強制的に)
活動を控えてもらう…。
と言う様なことが 起きていたのかも知れません。

 

 

 

私たちは時に、自分が
自分でもよくわからない状況に陥っている
と気づくことがあります。

 

自分でも理由は分からないけど、
妙に何かが気になってそこに囚われたり、
あるいは熱中してしまったり、

 

逆に、いつも出来ていたのに
やりたくないと感じる様な事は、
きっと誰にでもあると思います。

 

そうした、自然発生的に生じる状態は、
意識下からの身体の働きかけによるものであり、
その背後にはそれが生じる理由や意味があります。

 

身体は、いつでも私たちの味方です。
私たちの知らない所で、
良い方向へ変化して行けるように、
自分への理解を深められる様にと、
いつも協力してくれています。

 

時にはそれが、思考停止や痛みなどの
嬉しくない現れ方をするので、
協力してくれている事に
私たちが気付かない場合も多いのですが(^▽^;) 、
そこには必ず、それが生じる意味があるのです。

 

 

結びにかえて~感覚との付き合い方

 

ここまで読んで頂いて、もしかすると
感覚ってそんなに信頼できるものなの?
と思われた方もいるかも知れないなぁ、
と思います。

 

感覚は、必然性を持って
自分の内側に生起してくるものです。
自分の意識によって、
恣意的に作り出しているものとは違います。

 

感覚的な情報を扱う上で
問題が生じるとすれば、それは、
感覚に対して解釈を加える際に起こります。

 

私たちは、自分が普段見ているものや
既に知っているものの中に、
起きてきた感覚を当てはめて
理解しようとしがちです。

 

感覚はおのずと生じるものです。
外部からの刺激や、内部での何らかの変化が、
感覚と言う形で意識にのぼって来ます。

 

感覚が何を表しているのか、
私たちに何を伝えようとしているのか。

 

それは、既存の、
形の決まっている考えに
力づくで当てはめようとすると、
その途端に見えなくなってしまうものです。

 

感覚を通して立ち現れてくるものを、
内側から自由に羽ばたかせる事、
その内なる意味が自ずと形を成すのを、
じっと見守ること。

 

これが感覚と付き合う上で
とても大切な姿勢だと、
私は考えています。

 

 

 

年末の慌ただしさを越えると、
新しい年は ゆったり流れる
穏やかな空気で始まります。

 

そんなゆっくりした時間の中で、
身体に静かに意識を向けると言う時間を、
ぜひ持って頂けたらいいなぁと思います。

 

整体院に足を運んで下さっている
クライアントの皆さん、
文章の長さにめげずに
ここまでブログを読んで下さった皆さん、

 

今年も一年、
心から ありがとうございました。
そしてどうぞ、
良いお年をお迎えくださいね~!

DSC_0002_27

 

 

 

筋膜を媒体とする施術の可能性

 

筋膜を媒介にしながら、

クライアントさんの身体のバランスを調整すること。

 

 

この仕事の中に、

ただ単に物理的な肉体を整えているだけではない・・・

という直感をずっと持ち続けていた。

 

 

なぜなら、筋膜を通しての施術を続けるうちに、

自分が相手にしているのは単なる肉体ではなく、

どうやらエネルギーの流れそのものであるらしい、

ということを感じ始めたからだ。

 

 

つい先日、王由衣さんのメルマガ

『エネルギーの海 スピリット通信 (第25号 2009年5月30日発行)』http://archive.mag2html.com/200905302051070000145857000.html

を読んでいて、

私自身が筋膜を扱っていることの本当の意味が分かった気がした。

 

 

メルマガによれば、

筋膜は第5チャクラと関わりが深いと言う。

 

 

その第5チャクラは、いわば肉体の鋳型であり、

その鋳型から滑り落ちてずれている箇所を戻すことで

本来の自分の肉体的なバランスを取り戻すだけでなく、

自分が持って生まれてきた計画(役目)に沿って

生きられるようになる・・・ということであった。

 

 

私はこれを読んで、一種の衝撃を感じた。

「肉体の鋳型=生きる意味を含めた、

生そのものの鋳型(有体に言えば、人生の青写真)」だということか。

 

 

つまり、身体のバランスの在り方が、

自分のあるべき生き方を出来ているかどうかを

示していることになる。

 

 

以前から、身体が整うと

きっといろんな意味で生き易くなる、

ということは分かっていたし、

それが私自身の信念にもなって来た。

 

 

実際、10年来日々の柔軟体操はほぼ欠かしたことがない。

身体の柔軟性は心の柔軟性でもあり、

身体が楽で余裕があると気持ちにも余裕が出来、

今まですごく大きく思えていた事柄が

何のことはないちっぽけなものに思えたりするからだ。

 

 

そして、実際に身体を整える方法論として、

理論的にも感覚的にも納得の行く筋膜療法を学んできた。

 

 

でも、手の感覚が育って

段々とエネルギーの世界に触れ始めるに従って、

自分のやっていることに確信を持てなくなる時が度々あった。

(この迷いは、その日の自分の精神状態にも左右されていたと思う。)

 

 

これは、私の単なる独善的な感覚で、

客観的な事実ではないのではないか、と。

 

 

しかし、筋膜と関わりの深い第5チャクラについての

非常に現象学的な記述を読んでいて、

筋膜自体の手触りと似ていることが分かった。

「滑り落ちる」感覚は筋膜も同じなのである。

 

 

本来あるべき状態でない、

または本来あるべき所からずれている筋膜は、

特徴的な滑り感を持っている。

 

 

筋膜療法は、まさしく

その滑り感を指標にして症状の原因を探すのだ。

 

 

私たち施術者が筋膜という物体の

感覚として知覚しているものが、

エネルギーの視点から見ても

同じ状態であると記述されているということは、

この現象が客観的に実際に起きていることの

証左だと言える。

 

 

またそれ以上に重要なことは、

筋膜を整えるということが、

本来のその人の鋳型・本来の生き方に

その人を戻すことにもつながっているという事。

 

 

これを読んだ時に、私は

本当に自分が取り組もうとしていることは

これなのだ、と分かった。

自分について迷う必要は、これ以上あるまい。

 

 

そして、一つ気づいたことがある。

よく、人は

「(自分の中心や宇宙そのものと)つながっている感覚」

と比喩するが、

実はつながっているのではなく

「はまっている感覚」なのではないか。

 

 

自分の人生の青写真たる鋳型にはまっていれば、

守られている感覚になり、安心して歩いて行ける。

 

 

そして、鋳型からずれてしまった時。

 

 

そうした時に、宗教をはじめとする

自分の行く先を決めてくれそうな組織や、

あるいは人から与えられる役割や仮面の中に

自分をはめてみたくなるのではないだろうか?