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筋膜を媒体とする施術の可能性

 

筋膜を媒介にしながら、

クライアントさんの身体のバランスを調整すること。

 

 

この仕事の中に、

ただ単に物理的な肉体を整えているだけではない・・・

という直感をずっと持ち続けていた。

 

 

なぜなら、筋膜を通しての施術を続けるうちに、

自分が相手にしているのは単なる肉体ではなく、

どうやらエネルギーの流れそのものであるらしい、

ということを感じ始めたからだ。

 

 

つい先日、王由衣さんのメルマガ

『エネルギーの海 スピリット通信 (第25号 2009年5月30日発行)』http://archive.mag2html.com/200905302051070000145857000.html

を読んでいて、

私自身が筋膜を扱っていることの本当の意味が分かった気がした。

 

 

メルマガによれば、

筋膜は第5チャクラと関わりが深いと言う。

 

 

その第5チャクラは、いわば肉体の鋳型であり、

その鋳型から滑り落ちてずれている箇所を戻すことで

本来の自分の肉体的なバランスを取り戻すだけでなく、

自分が持って生まれてきた計画(役目)に沿って

生きられるようになる・・・ということであった。

 

 

私はこれを読んで、一種の衝撃を感じた。

「肉体の鋳型=生きる意味を含めた、

生そのものの鋳型(有体に言えば、人生の青写真)」だということか。

 

 

つまり、身体のバランスの在り方が、

自分のあるべき生き方を出来ているかどうかを

示していることになる。

 

 

以前から、身体が整うと

きっといろんな意味で生き易くなる、

ということは分かっていたし、

それが私自身の信念にもなって来た。

 

 

実際、10年来日々の柔軟体操はほぼ欠かしたことがない。

身体の柔軟性は心の柔軟性でもあり、

身体が楽で余裕があると気持ちにも余裕が出来、

今まですごく大きく思えていた事柄が

何のことはないちっぽけなものに思えたりするからだ。

 

 

そして、実際に身体を整える方法論として、

理論的にも感覚的にも納得の行く筋膜療法を学んできた。

 

 

でも、手の感覚が育って

段々とエネルギーの世界に触れ始めるに従って、

自分のやっていることに確信を持てなくなる時が度々あった。

(この迷いは、その日の自分の精神状態にも左右されていたと思う。)

 

 

これは、私の単なる独善的な感覚で、

客観的な事実ではないのではないか、と。

 

 

しかし、筋膜と関わりの深い第5チャクラについての

非常に現象学的な記述を読んでいて、

筋膜自体の手触りと似ていることが分かった。

「滑り落ちる」感覚は筋膜も同じなのである。

 

 

本来あるべき状態でない、

または本来あるべき所からずれている筋膜は、

特徴的な滑り感を持っている。

 

 

筋膜療法は、まさしく

その滑り感を指標にして症状の原因を探すのだ。

 

 

私たち施術者が筋膜という物体の

感覚として知覚しているものが、

エネルギーの視点から見ても

同じ状態であると記述されているということは、

この現象が客観的に実際に起きていることの

証左だと言える。

 

 

またそれ以上に重要なことは、

筋膜を整えるということが、

本来のその人の鋳型・本来の生き方に

その人を戻すことにもつながっているという事。

 

 

これを読んだ時に、私は

本当に自分が取り組もうとしていることは

これなのだ、と分かった。

自分について迷う必要は、これ以上あるまい。

 

 

そして、一つ気づいたことがある。

よく、人は

「(自分の中心や宇宙そのものと)つながっている感覚」

と比喩するが、

実はつながっているのではなく

「はまっている感覚」なのではないか。

 

 

自分の人生の青写真たる鋳型にはまっていれば、

守られている感覚になり、安心して歩いて行ける。

 

 

そして、鋳型からずれてしまった時。

 

 

そうした時に、宗教をはじめとする

自分の行く先を決めてくれそうな組織や、

あるいは人から与えられる役割や仮面の中に

自分をはめてみたくなるのではないだろうか?