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ちょっとだけオムニバス


目次

文字との対話
前置きを少し
純粋なるカマキリの祈り

 


文字との対話



文章を書くのは何のためか?

これは、
こうしてホームページに投稿する記事を書く度に、
この10年自分に投げかけ続けて来た問いです。

前回記事を書いたのは
去年の11月のこと。

本当に書きたい、と感じるまで
無理に書くのは止めよう。

そう考えて
記事を書くのをストップしてから、
早1年と1ヶ月。

いや~、さすがに
そろそろ書かないと!
…と浮かぶ焦りを手放しつつ、

でもそろそろ書いても良いのかなぁ、
書きたい気もするなぁと感じ始めたつい最近のこと。

ふと、こんなことに気付きました。



今まで、文章は一人で書いていると思っていた。
でも、違った!

文章は何よりも、文字との対話なんだ、
と。

文章を書くことは、
自分の思考や意識を文字にすること。

そうやって一つ一つ丁寧に拾い出して
選択的に並べた文字を見ながら、
自分の内なる世界の真実がどんなものであるか、
それを自分で気づいて行く。

自分の内なる世界に気付く作業には、
文字の協力が欠かせない。

文字達は鏡となって、私自身の意識を反射する。

そう言う働きをしてくれるから、
私の意識は自分で選び記した文字から
自分を知ることが出来る。

一人じゃなかった!
一人でやっていたのではなかった!

 文字達との協働作業無くしては、
そうした自分を解き明かす鍵としての文章は
生まれて来ないんだ!



誰かのために書くこと、
ましてやお店に人を呼び込むために
文章を書くようなことは、

私と言う人間の生き方の方向性、
もっと言えば私の魂にはそぐわない、
私にとっては意味を感じられない事だと言うのは
以前から分かっていました。

それでも文章を書いている。
これは一体何のためなのだろう。
どうして自分は文章を書くのだろう?

ず~っと探し続けて来たその答えは、
「何のため?」という問いかけに対して
想定していたものとは全く違う方角から
不意にやって来たわけです。



目からウロコ。
晴天の霹靂。
そうか~、そうだったのか~。

文字を通して自分を知るため。
文字を通して、自分の意識の在り処や
意識の行こうとしている所を知る為。

今、
文字そのものと対話するために、
こうして文章を綴っています。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像



前置きを少し…。



順序が逆になりましたが、
皆様、大変ご無沙汰していました。

1年という時間が経つ間に、
平成が31年で幕を閉じて令和が始まり、

沢山の台風が日本を訪れて、
多くの場所が姿を変え、

消費税が8%から10%へと変わり、
それを待たずして
neMu no ki も料金設定が変更になり、

色んなお店のレジ打ちのお姉さん方が
様々な決済方法にスムーズに対応できるように
なって来た頃に
天皇陛下の即位式やパレードがあり、
日本中がラグビーで熱狂し…。

今は12月中旬。
日中19度という破格の暖かさの中、
遅い紅葉・黄葉が青空に美しく映えています。

目まぐるしく新旧が入れ替わり、
更には何とも風変わりな一年でもありました。

そんな2019年の出来事の中で、
強く印象に残っていて
どうしても書きたいことがあります。

その中の一つが、
次に紹介する
「カマキリの祈り」です。


純粋なるカマキリの祈り



わ~!
驚いた!

何がって?
花を摘みに庭に出たら、
こんな姿のカマキリがいたの。


花はムクゲ。

次の日に見た時には萎んでいたから、
この日がムクゲにとって
最も美しくきれいに開いた、
晴れの日。

全ての花びらを大きく目いっぱい広げた
そのムクゲの花芯に向かって、 
カマキリがまっすぐに立っている。



顔は花芯の少し下の高さにあって、
少し上目遣いに見上げる位置関係。

後ろ足は左右で高さの違う葉に乗せ、
前足は花びらの縁にそっと触れている。

決してバランスを取りやすいようには
見えないのだけれど、
風がそよいで葉がそよりと揺れても 
カマキリはぴくりとも動かない。



「珍しいものが観られるよ~!」 
私の声で母が庭に降りて来たのと
同時くらいだったかな。

それまでは、 周りをウロチョロしながら
様子を覗き込んでいた私を気にしてか、
カマキリもキョロキョロと目線を
動かしていたのだけれど、

急に覚悟を決めたみたいに
頭をすっと下げると、
静止したの。

きちんと合わせた両の鎌の上に
顔を近づけて、
それはまるで花芯に向かって
こうべを垂れるかのよう。

まさに、祈りの姿。


お尻から胸まで
す~っと美しく立ち上がっている、
その力みのない自然な姿勢を観ていたら、
何だろう。

広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩を観ている様な、
神妙な気持ちになっちゃった。

Public Domain(菩薩半跏思惟像 像高131.2cm 中宮寺/朝日新聞社、昭和17年 小川晴暘)


母の目にも、これはやっぱり
祈りに見えたそうで。

― こんなに真剣に、何を祈ってるんだろうね?
― 世界平和かなぁ。



摘み終わった花を片手に
出勤する時にも
カマキリは祈り続けていて、

後で母に聞いてみたところ、
20分以上はそのままの形だったそう。

祈りの姿勢を解いた後は、
鎌を片方ずつきれいに舐めて
丁寧にゆっくり
身体のお手入れをしていたんだって。



この日は8月22日。
ようやっと文章にまとめたのはその2か月後。
更に2か月を経て、今。

この4か月の間に、
本当に色々な事があったと思う。

記事のURLを決めるために、
カマキリを英語でなんて言うのか
調べてみた。

それでもって、



わ~!
またまた驚いた!

何がって?
カマキリは英語でpraying mantiseって言うのだと
初めて知ったから!

prayingは、祈り。

うわっ、
祈りって言葉が入ってた!

一体語源は何だろう?

調べてみたら、
mantiseという言葉自体も
ラテン語で僧侶や預言者という意味だと言う。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412539149

英語圏の人たちにとっては、
カマキリってそんなに尊いイメージの
存在だったのか~。



祈る僧侶。

最初に名付けた人も、
弥勒菩薩みたいなあの姿を
見たのだろうか?

あの気高いカマキリの姿を。