お能の世界

不肖わたくしイイジマ、20代前半の頃にほ~んの少しだけ謡曲を習っておりました。
練習ぎらいの弟子だったので、習っていたなんて言うのもお恥ずかしや。
 
 
先日、かつての師匠からのお誘いで、本当に10年振り位で能の舞台を観て来ました。
と言っても、素人の方がメインの発表会的な舞台ですが。
 
 
伝統芸能の世界は全般的に高齢化が進んでいるようですが、能も例外ではありません。
 歌舞伎や狂言は表現が大きく、観ていて華やかさもあるしわかりやすいので、若い方たちも強く惹かれると思いますが、
能は、・・・まぁ難しい。
 
 
 
動きは無駄が一切省かれ、声明から発達したとも聞いた謡(うたい)は、現代の歌に比べると抑揚が少ないし。
なんの知識もなくて観ていると、全く何の話なのか内容の見当すらつかないことが、ままあります。
 
 
 かくいう私も、その難解さには閉口し、かと言って食らいついて勉強を深めるような気合いもなく、
忙しさにかまけて稽古からはすっかり遠のいてしまいました。
 
 
 で、実に久方ぶりに観たお能。
こんな仕事をし始めて、目には見えないエネルギーの世界のことにも少し感覚が働くようになったせいでしょうか。
以前とは異なった意味合いを持つ芸能として、お能の奥深さ、面白さみたいなものがちょっと分かる気がしました。
 
 
それでもって、何を感じたかというと。
能の最小限の動きや抑揚を抑えた謡は、能役者が場の中のエネルギーに生み出す変化を、
より明確に鮮明に表出させるための装置なのではないか、ということ。
 
 
動き=仕舞や、声=謡の抑揚の中には、感情の変化がさざ波のように現れる。
目や耳で感じ取れる謡や仕舞などの物理的な刺激が単調である分、
その奥から、役者という存在の内側から表出してくるエネルギーの強弱や色味の違いが浮き彫りになる。
 
 
能の舞台は、きっとその「場のエネルギー」とそこに役者が作り出す変化の波を、
わかりやすく感じるための空間だったのではないか。
そんな風に思ったのです。
観阿弥・世阿弥は、そういう空気感を作り出すのが非常に巧みだったのではないかと。
 
 
ひとりの人間の体から発せられる、乙女の空気、天女の空気、鬼の気配、弱った老人の気配。
その変化がぴりぴりと肌を通して感じられたとしたら、きっと私たちは人間の心が何なのかについて、
深く体感出来そうな気がしませんか。