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緊急事態宣言下でも健全な呼吸を保つために〜紫の炎を呼吸する

 

コロナウィルス感染拡大による緊急事態宣言が出てから、ほぼ1ヶ月経ちました。皆さん元気にお過ごしでしょうか?

この1ヶ月の間、ご連絡を下さったクライアントさん達とやり取りをする中で、少しずつお伝えして来たことがあります。それは、「呼吸」についてです。

ウィルスと言う姿の見えないものが、会話や触れ合いによって人から人へと伝わって行く。感染の媒介となるのは私達の唾液であり、呼吸だとされています。

人に感染さないように、感染されないように、私達はマスクや眼鏡を付けて、除菌するためのものを持って日常を過ごしています。

そうやって意識しながら身を守るのは、今は大切なことです。でも、人とすれ違う時に無意識に息を詰めていたり、呼吸を小さくしている自分がいることにふと気付きました。

これは私だけでなく、感染に対して気を配っている多くの人にとっても起きていることかも知れない。そう思いました。

では、「感染」が頭の片隅にあることで、抑えがちで重々しいものになっている呼吸を、健全なものに変えるにはどうしたら良いか?

問題は「呼吸」にあるのではなく、吸っている空気にあります。それなら、空気に対する意識を変えれば良い訳です。

そこで浮かんだのが、紫の炎を呼吸すること。

感染するかも知れないと言う意識は、具体的にはウィルスを含んだ空気や飛沫を吸ってしまうかも知れないと言うイメージに対する恐れです。こうした恐れを持っていると、そうした現象を自分の元に呼び込み易くもなります。

吸い込む空気そのものへのイメージを良い方向に変えると、それは同時に感染への恐れを手放して行くこと、感染を自ら呼び込むことを防ぐことにも繋がると思います。

では、紫の炎の呼吸の説明をしますね!

 

紫の炎とダイヤモンドの光の呼吸

 

まず自分の周りを大きく紫の炎で包み、その紫の炎を呼吸の際に吸う様にしてみて下さい。

紫の炎は、御焚き上げの炎の様に、ゴオゴオバチバチ言うような勢いのものをイメージします。

(もし、映像として紫の色や炎の形が浮かばなくても大丈夫です。紫の炎で自分を包んでいると意図すれば、エネルギーのレベルではその様になっています。)

吸い込んだ紫の炎は身体の内側に行き渡り、細胞の一つ一つ、身体の隅々まで満たします。

身体の隅々まで行き渡って一つ一つの細胞をクリアにした紫の炎を、吐く息で一つ一つの細胞、一つ一つの毛穴から、身体の外へ放ちます。

もう一つイメージを加えられるようなら、紫の炎と共にダイヤモンドダストの様なキラキラした光の粒子も一緒に吸い込むと、より良いと思います。

一度、普通に空気を吸うのと、紫の炎を吸うのと、ダイヤモンドの光も加えて吸うのとを、それぞれ試して感覚を比べてみて下さい。

通常の呼吸よりも、紫の炎やダイヤモンドの光をイメージして呼吸する方が、呼吸が軽く楽なものに感じられると思います。

これは、単なるイメージではなく、実際に軽く明るいエネルギーを身体の中に意識的に取り入れることになります。

今は、地球と言う大きな規模で、私達みんなが奥底に抱えている様々な恐怖や不安の感情(病気や死や困窮などへの。)が動いていると思います。それが集合意識を通して各個人に働きかけるため、訳もなく不安や恐怖や心配を感じることがあると思います。

そうした状況下にあっても、紫の炎で自分を大きく包み、炎を呼吸し続けるすることで、気持ちを楽な状態に保ち易くなると思います。

最後に、紫の炎とダイヤモンドの光の呼吸を一日中続けるのに、ずっとイメージし続ける必要はありません。

紫の炎の呼吸を行いながら、「この呼吸を今日一日し続ける。」と意図すると、そうなります。あとは、そうなっていると信頼して下さいね!()

 

時間と感情 / 2月の営業とキャンセル等の規定変更のご案内

 

目次

時間感覚を生み出す感情
電子に生じる歪み
恐れを現実化する電子の歪み
歪みが自分を本質から遠ざける
感情と時間をつなぐ、電子の回転
電子の共鳴
自分と一致して生きるには
2月の営業予定
各種の料金・時間設定に関するご変更

 

 

 

年が明けてから丸ひと月。

(と言うか、もう2月(^^; )

 

今年はお正月から

の~んびりしたペースだったせいか、

1か月の経過もゆっくりだった気がします。

 

大急ぎで頑張って

間に合わせの大掃除をするのではなく、

無理のない範囲で本当にやりたい事だけをしよう。

 

そう年末に決めたことで、

その後の流れも穏やかだった気がします。

 

 

 

時間感覚を生み出す感情

 

時間の感覚は、

その時々で違った印象を

私たちにもたらします。

 

急いでいる時には

あっという間に時間も過ぎて行き、

下手をすると

時間に追われている感じさえします。

 

ゆったりした気持ちでいる時は

時の流れもゆっくりしていて、

全てが穏やかに感じられます。

 

またあるいは、

退屈なことや面白くないことに

関わっている時には、

時間が経つのは嫌と言う程遅く感じ、

 

何かに夢中になって

時計を見るのも忘れて

取り組んでいる時には、

時間は飛ぶように過ぎていたりもします。

 

 

 

このように挙げてみると、

時間の感覚と言うのは

私たちの気持ちや感情の状態に

直結していることが分かります。

 

では感情と時間とは、

どのように関わっているのでしょうか?

 

 

 

電子に生じる歪み

 

最近、ある本の中に

面白い記述を見つけました。

 

それは数年前から

持っている本でしたが、

そうした記述があったことには

今頃になって初めて気付きました。

 

情報と言うのは、求める本人が

それを理解できる段階に至るまでは、

目の前に現れて来ないものなのだな

と思います。

 

 

 

その中には

『生命の最小の現れ』としての

電子について触れており、

こんな風な説明がありました。

 

 

(以下、読みやすい形になるよう、

元の文章を抜粋・要約しています。

『』内は、元のまま引用しています。)

 

 

 

電子は『純粋な宇宙の光の物質』で、

神と人が発揮する創造的な力(※1)に

稲妻のように反応すると、

(※1:具体的には、意図や意思を指していると考えられます。)

 

 

その力の働きに応じて形を変え、

物理的な世界を作る素である原子を

作り出すのだそうです。

 

 

そして、

 

 

『原子を構成する電子の数は

意識的な「思考」の結果であり、

意識的な「思考」で決まります。

 

 

それらが中心核のまわりを回る速度は

「感情」の結果であり、

「感情」で決まります。

 

 

中心核内部で激しく旋回する動きは

「神の息」です。

 

 

…中略…

 

 

電子のエネルギーはとても中立的で、

完全に生命に尽くすものです。

 

 

電子は、生命のほかの意識部分によって

条件付けされるときにのみ、

形となって現われます。

 

 

どのように条件付けされるかに応じて、

さまざまな形、姿、濃度を取ります。

 

 

…恐れや怒りや貪欲で創造するとき、

あなたは電子を誤用していて、

いのちに捧げる(電子の)原初の目的を

歪めて創造しています。』

 

 

(オレリア・ルイーズ・ジョーンズ著/『新しいレムリア』)
>p.283~285:復活の炎の章

 

 

 

恐れを現実化する電子の歪み

 

ここでの大前提として、

私たちの意識や意思、意図が

現実を創造している、

という理解があります。

 

その理解の上に立って

ここで言われているのは、

 

私たちがどの様な意識に基づき、

どの様な現実を作り出すことを

望むかによって、

 

現実を実際に作り出す

素材としての電子が

「条件付け」されることになる、

と言うわけです。

 

仮に、何らかの恐れを持って

現実を生み出した場合、

その思考に動員された電子や

おそらくは電子が描く軌道も、

恐れにより歪みを帯びることになります。

(歪みという条件付け=パターン化が起きます。)

 

そのため、自分の自覚としては

理想的な現実を思い描いていたはずなのに、

 

実際には

電子に付与された歪みによって

隠れていた恐れが反映されるため、

「現実」は恐れていたことが

形となって現れることになります。

 

例えば、

ヤマが外れたらどうしようと思いながら

試験勉強をしていたら、

ちょうど確認を省いたところが

出題されていたというように。

 

(もし、この人物に

どんなことを考えながら勉強していたの?

と質問をしたら、

「ヤマが当たると良いなぁと思って」

と答えるかも知れません。

 

そこで、本当にそういう言葉だった?

と更に詳しく聞いてみると、きっと

「ヤマが外れたらどうしよう、だった。」

と答えるでしょう。

 

つまり、私たちは無自覚の内に

恐れを含む言葉を心の中で使いながら、

それを意識していないことが多いのです。)

 

 

 

歪みが自分を本質から遠ざける

 

ここで言われている「歪み」は、

臨床を通して触れる身体の中に

私自身が観て取っているものと、

とても近いものだと感じました。

 

身体が帯びている歪みは、

単に肉体だけではなく

感情や意識なども含めた

あらゆるレベルにおける「歪み」を

反映しています。

 

こうした「歪み」こそ、

私たちの構造のまとまりや機能を

物理的に低下させるだけでなく、

 

私たちを自分の本質から遠ざけている力が

目に見える形で表現されたものだと、

経験を重ねる中で確信するようになりました。

 

肉体・感情・意識・エネルギーなどの

あらゆる階層で生じている「歪み」は、

全て同期してもいます。

 

ですが、「歪み」が電子のレベルから

起きているものならば、

それも当然のことだと納得できます。

 

 

 

…だいぶ脱線してしまいましたが(#^.^#)

 

以上のようなわけで、

この本の記述は

感覚的に信頼できると、

私自身は感じたわけです。

 

 

 

感情と時間をつなぐ、電子の回転

 

さて!

それでは時間の話に戻りましょう。

 

引用文の中程に、

電子が中心核を回る速度が

感情によって決まる、

という説明がありました。

 

電子の数を左右するのが思考で、

電子の回転速度が感情。

 

回転速度と言うことは、

電子の軌道とも関係があると

考えて良さそうです。

 

感情の状態に応じて、

電子の回転速度だけでなく

電子が描く軌道の形にも

変化が生じると仮定してみます。

 

 

感情によって決められる

電子の回転運動ですが、

 

その回転は、

回転の中心に位置する中心核と

呼応しているはずです。

 

中心核の中で生じている動きは

「神の息」でした。

 

『激しく旋回する動き』と

記述がありましたから、

非常に速い速度で旋回しているのでしょう。

 

ですが、

そこはあくまで「神の息」ですから、

どんなに目まぐるしい速度の中でも

永遠不変の秩序と調和が

保たれているはずです。

 

 

 

電子の共鳴

 

ここからは、

想像力を働かせてみます。

 

楽しさや幸福感の中に居る時、

感情は軽やかです。

 

この時、

感情のエネルギーは

心地よくスムーズに流れているので、

電子の回転も一定の速度を保ち、

軌道も美しく整っていると想像できます。

 

「神の息」の速い回転に対しては、

回転数(周波数)は異なっているでしょうが

共鳴の形で気持ち良くリズムが合います。

 

意識や感情は、いわば

「神の息」のリズムの内側にいますが、

そこから見える周りの世界は

感情自身のリズムを反映するため、

ゆったりした気持ちでいる時には

世界もゆっくり流れているように見えます。

 

 

一方、

やらねばならないことで

意識がいっぱいになっている時は、

感情的には焦りや不安を感じています。

 

こうした時、私たちの内側は

雑音が鳴り続けているような感覚です。

 

雑音を回転に置き換えてみると、

不安定で荒い軌道に、

不揃いでリズムを持たない回転

というイメージが浮かびます。

 

例えば、

なかなか眠れずに焦っている時、

一定のリズムで時を刻む

秒針の音を聞いてしまうと、

余計に焦りを感じるようになりますが、

 

自分が不安定な状態でいる時に

何かが一定不変のリズムで動いていると、

 

その揺るがない安定感との間に

大きなギャップを感じ、

自分の不安定さをより鮮明に

自覚するようになります。

 

焦りや不安によって

速度も軌道も乱れている

電子の気持ちになってみると、

 

「神の息」は残酷なほど

一定不変のリズムを奏でているように

感じることでしょう。

 

そのリズムに追い立てられている状態が、

つまりは私たちが時間に追われている感覚を

作り出していると想像できます。

 

 

…面白いですね~!(#^.^#)

 

 

 

同じように、

退屈な時には時間の経つのが遅く

楽しい時にはあっという間に過ぎるのも、

 

感情による電子の回転のリズムと

神の息による中心核の回転とが

共鳴しているかいないか、

と言う観点で理解できそうです。

 

 

 

自分と一致して生きるには

 

心地よい、楽しい、ゆったり、

寛いでいる、夢中になっている。

 

こうした状態でいる時、

私たちは自分の本質と共にいる、

と言うことが出来ます。

 

自分の本質と一致しているから

楽しく感じ、寛いでいられるわけです。

 

一方、焦ったり不安な気持ちでいる時、

私たちはどこかで無理をしていたり、

自分を信頼できていなかったりします。

 

つまり、

自分自身に対して正直ではなく、

強い言葉で言えば

自分と乖離しているとも言えます。

 

こうした状態にいる時、

実は私たちは

電子という最小単位から、

狂ったリズムで存在している

ということになるのですね。

 

おぉ~…。

 

想像しただけでも、

大変そうです。

 

 

 

自分自身に正直に生きる。

自分と一致して生きる。

 

こうした生き方は、

本当に行おうとすると

時に様々な困難に

出会ったりします。

 

ですがそれは、私たちがまだ

歪みを抱えているせいなんですね。

 

歪みを手放そうと意識し始めた時

私たちの電子は共鳴へと向かい始め、

 

その共鳴によって、

私たちが自分と一致して

生きようとする試みもまた、

大きな追い風を受けるように

なるのではないかと思うのです。

 

 

 

2月の営業のお知らせ

 

まずは、2月の営業日について

お知らせ致しますね!

 

12日の月曜日が臨時休業となる他は、

通常通りの営業を予定しています。

 

定休日は毎週水・日曜日、

営業時間は11時から20時となります。

現在の施術の最終受付時間は、

15時半とさせて頂いております。

 

また、

繰り返し利用して下さっている

クライアント様で

ご事情のある場合に限りますが、

水・日曜日の定休日も

ご予約を承っております。

 

水日ならば都合がつくのになぁ!

と思っていらっしゃる方は

どうぞ一度ご相談下さいね。

 

 

 

各種の料金・時間設定に関するご変更

 

最後になりましたが、この度

従来のneMu no ki のシステムの中で

二つほど変更・改善を行いましたので、

皆様にご案内申し上げます。

 

1つ目は、キャンセル料についてです。

 

ご予約間近での日程変更やキャンセルについて

今まで一括したキャンセル料を設けていましたが、

条件に応じてのより詳細な形に改善致しました。

詳しくは、こちらからご覧下さい。

https://inemurino-ki.com/prior-agreement/#cancel

 

 

 

二つ目は、施術前後でのお話の時間と

メールでのサポートに関してです。

 

当院では、施術の前と後に

お話の時間を設けています。

 

この時間は、

施術を単なる施術で終わらせることなく

良きセラピーとして機能させる上で、

実はとても大切な要素になっています。

 

そのため、これまでは

お客様に好きなだけ自由に

お話をして頂けるようにと考え、

そのように環境を設定して参りました。

 

ですが、

セラピーをより豊かなものとするために、

今後はお話の時間に敢えて

区切りを設けさせて頂くことに致しました。
また、

メールを通してのご相談やご質問も

これまでは自由にご利用頂いておりましたが、

 

セラピー後のフォローアップ以外は

有料の形で承らせて頂くこととなりました。

 

お話の時間とメールサポートに関する詳細は、

こちらにてご案内しております。

https://inemurino-ki.com/duration-and-charge/#charge

 

 

 

この度のシステムの変更を通して、

クライアントの皆様には

今まで以上に気兼ねなく安心して、

公平な形で利用して頂くことが出来、

 

更に、このように

これまで曖昧であったものに

明確な形を与えることによって、

 

皆様との関わりはより健やかで

かつ質の高いものになるのではないか、

私自身はそのように

期待を寄せています。

 

ご利用下さっている皆様にも

どうぞご理解頂けますように、

お願い申し上げます!

 

 

幽玄の笛の音~10月の営業のお知らせ

 

 

 

またまた前回の投稿から、
一カ月が経ちました~!(^▽^;)
9月も、今日で最終日になっちゃいましたね~!

 

実は、馬と仕事をしていた時の話を
今回のブログ記事として書いているんですが、
今日中にはとても書き終わりそうもなく…(^▽^;)

 

9月はまだ記事をアップしていない状態なので、
急遽、本編に先行して
来月の営業の予定をアップしたいと思います。

 

と、その前に少し別のお話を。

 

この間の9月最後の週末は、
谷保天満宮のお祭りでした。
大学通りには屋台がずらりと立ち並び、
外からは太鼓の音が聞こえていました。

 

夕方、外に用足しに出たら、
山車と言うのか祭屋台と言うのか、
駅前でちょうどお囃子と舞いを披露していましたよ!

 

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何とも言えず、懐かしい空気。
日本の文化ってやっぱり良いなぁ、なんて
一人でニヤニヤしちゃったりして。

 

なぜニヤニヤかって?
いえね、タイムリーだったんです。
大きな声ではとても言えないんですけど、
(ひそひそ)実は今、能管の練習を日々行っていまして…。

 

 

総合芸術としての能楽

 

能管と言うのは、 お能の舞囃子で用いる笛です。

 

もうねぇ、吹いてます、なんて
とても言えない位 わずかな経験なので、
本当はこんな話を書く予定じゃなかったんですけど(;^ω^)

 

30代の始め頃、少しだけ謡を学んでいた事がありました。
勤めていた山梨の牧場から実家に戻り、
整体などの勉強を始めていた頃だったと思います。

 

牧場では流鏑馬をやったり、
馬上で長刀を使って演舞したりした時もあったので、
日本の伝統的な文化には興味が向きやすい環境でした。

 

実家に戻って来て、そうしたものと
触れ合う機会がなくなったことを寂しく感じ、

 

武家の文化の中でも最も理解しにくく思えるけれど
その簡素化された動作に見える様式美に惹かれていたこともあって、
(興味を持つ所は、ものが何であれ
やはり身体の動きとその美しさなんです。)
仕舞を学びたいと思ったんですね。

 

ところが、能は総合芸術で、
その基本は「謡」だと言われました。
謡が出来ないと、舞う事もできないと。

 

と言う訳で、まずは謡曲からはじめて、
…で、やがて、どういう訳か仕舞ではなくて
太鼓や笛の練習も少しさせてもらうようになったんですね。

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笛を一曲吹けるようになって間もなく、
独立して仕事をし始めたのをきっかけに、
謡も能管も、お稽古はやめてしまいました。

 

それから8年ぶりになる今年の春の事。
当時お世話になっていた先生から
秋の市民文化祭で笛を吹かない~?
という電話を受けました。

 

いつも笛を吹いている先生が仕舞を舞いたいので、
笛を吹く人を探しているとの事でした。

 

長い年月の間、 ほぼ全く吹いていなかった笛を
急遽練習する事になりました。

 

全く吹けなかったら
丁重にお断りしようと考えていたのですが、
記憶の良い内に身体で覚えた事は、
ちゃんと覚えてるんですよね~。

 

吹きはじめたら、指が勝手に動きました。
秋までなら、何とかなるかも知れないと
お引き受けする事にしました。

 

 

プロは空気を作る

 

さて。 実は本番はもうすぐ。
それに先駆けて、先日、
みんなで揃って合せ稽古をしました。

 

能の囃子は四拍子(しびょうし)と言って、
太鼓(二本の撥で打つ)、小鼓、大鼓(おおかわ)、能管の
4種類の楽器を用います。

 

大鼓は、本職の能楽師の囃子方の先生で、
その日はその先生が稽古もつけて下さいました。

 

大鼓は、それこそ大振りの鼓なんですが、
練習の時には楽器は持たず、
文机を扇で叩きながら拍を打つんですね。
ところが、その文机を打つ音が非常~にデカくて
鋭いんです。

 

こちらは別に怒られてないんですけど、
何となく怒られた気分になっちゃうくらい、
迷いなく鋭い。

 

この音で、稽古に参加していたみんなの
気持ちと集中力が一気に高まって、
稽古場の空気が一変したのが印象的でした。

 

そうなんです。
真剣な稽古場の空気って
どこか神社に似ている感じがあって、

 

ピーンと張りつめた
一線が通っている感じと言おうか、
おふざけなんかとても場違いで出来ない、
そういう神聖な空気感があるんですよね。

 

伝統文化に限らず、
本格的なお稽古の場を味わうのは久しぶりだったので、
本物の文化の担い手が持っている空気感や、
そうした人が持つ「場の空気」を確実に変える力に、
これがプロなのだなとハッとさせられました。

 

 

日常を裂き、異界を開く

 

詳細を書くとエラク長くなるので省きますが、
この稽古によって、
笛をもっと早く吹かなきゃいけなかったのが
判明しました。

 

イメージ的には2倍速。
肝心の笛からは音が出ずに、
私がヒーヒー言ってました(;・∀・)

 

これはマズい!と、やっとこさ自覚したので、
そこからは毎日、笛を吹いてます。

 

一度、自分の音を録ってみました。
そうしたら、笛の音がヒヨヒヨしていて、
頼りないし芯がない。
聞いている人達に 「大丈夫かな~」と
心配されそうな音です。

 

プロの演奏をネットで探して聞いてみると、
当たり前と言えば当たり前なのですが、
お能の笛は、お能らしい音をしています。

 

節回し、音の勢い、音の帯びる情感。
和笛には、能管の他にも篠笛や
雅楽で用いる竜笛がありますが、

 

和笛はこういう音だと思わせる
特徴的で共通したニュアンスがあるのだなと、
その時気づきました。

 

一方で、私の音は平板で表情がありません。
音は出るけれど、曲になっていない。

 

曲は、一つ一つの「音を紡ぐ」ことで生まれるわけで、
音を拾う事に一生懸命の内は、曲にはならないんですね。
そう気づきはしたものの、
具体的にどうしたら良いかが分からない。

 

限られた短い時間の中で情報を調べて、
音の聞き比べをした結果、息の強さが違う事と、
一音一音にゆらぎ(ビブラートのような)があって、
それが音に豊かな色彩を与えていると 分かりました。

 

 

お能の場合は、
登場する主人公は鬼神や亡者の魂です。
超自然的な存在がこの世に姿を現す、
そのきっかけを作るのが能管の音の役割のようなんですね。

 

能管には、管の内側に「のど」と呼ばれる構造があり、
空気をわざと対流させて
音が出にくい形に作られています。

 

それが、素人に取っては吹くのを困難にさせている反面、
その音色に独特の鋭さを与えています。

 

本来はここにないはずの存在が
この世に顕在化することを可能にする特殊な場。
日常を切り裂き、その「場」を生み出すのが、
音の出にくい能管から生み出される音。

 

雷

 

能舞台の主人公たちも能管も、
両者ともパラドックスな存在です。
何とも、象徴的に繋がっている様な気がします。

 

うむ~、なるほど~。
こんなにも重要な意味合いがあったんだなぁと、
自分で書きながら改めて気づいてみたりして(*’▽’)

 

それでもって、
笛を吹く責任の重大さにも
気付いてしまったぁぁ…。

 

 

とは言え、もう日にちはありません。
音のゆらぎに関しては短時間ではどうにもならないので、
息の強さだけは何とかしたいところです。

 

今必要なのは、笛を吹き続けるのに必要な筋肉と、
間違えても動じることなく先へ進む度胸とをつける、
実戦向きの練習です。

 

自分の笛のかすれた音を聞いていると
気持ちの面で苦しくなって来て
吹き続けるのが難しくなります。

 

そこで、同じ曲目の演奏をネットで探しました。
それに合わせて休まず吹き続けることで、
曲の速さへの適応と、
吹き続ける筋力・耐久力とをつける作戦を立てました。
そして、現在も遂行中~(^▽^;)

 

ちなみに、とにかく吹き続ける事で、
間違えた時だって平気の平左、
冷静に素早く曲に戻れるようになりましたよ!

 

さてさて、
本番の日取りはナイショではありますが(;^ω^)
このにわか仕込みの作戦が功を奏すことを、
どうか皆さんも祈っていてくださいね~!

 

 

10月のお知らせ

 

ちょびっとのつもりが、
またしても、長~い前置きになりました!

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10月の営業のお知らせをお伝えいたします!

 

臨時のお休み:10月12日(月)

定休日 : 毎週水・日

営業時間 : 11時~20時(施術の最終受付は17:30)

 

9月末から、急に気温が下がると共に
空気の乾燥も強くなって来ました。

 

あっという間に、
手がカサカサする感じや、
足先が冷えやすい感じが出て来始めました。

 

こういう時期には、特に
ノドの乾燥に要注意ですよね。

風邪を引きやすくなるので、
外出時にはのど飴やマスクを持ち歩くことを
お勧めします!ヽ(^。^)ノ

 

今日の日本では、残念ながら
周りの人への気配りのない方も見受けられます。

電車の中でも人へ向けて
平気でクシャミをする方もいたりするので、
困ったものだなと思います。
(正直を言えば、許せん!と思います(^▽^;))

 

自分が人へ感染させない気遣いと共に、
人から感染源をもらってしまわないように、
自分で出来る最小限の防衛は
心がけたいですよね!

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時空の織物としての筋膜

 

▼重力は、歪みである。

 

筋膜に対する施術をしていると、

身体の変化の仕方が

単純に物質的なものではなく、

エネルギーや気といったものと

深く関連している事に気付きます。

 

そうしたことは、臨床の中で

現象として頻繁に体験する為、

そこで起きている事の意味を把握するために

物理学の概念を援用して考える必要があると、

ずっと感じながらいます。

 

先日(この記事は、2014年12月草稿)、

「美しい宇宙~統一理論への道」を観て

ひも理論の勉強をした際に、

 

アインシュタインの重力に関する理論、

すなわち、一般相対性理論が描き出す

時空の織物と、その織物に生じる

歪みや曲がりが重力であるとする理論は、

筋膜の性質にそのまま

当てはまる事に気付きました。

 

筋膜には緊張や膠着が生じますが、

それは、大きな質量の組織を

小さな空間に凝縮する現象として

捉えることが出来ます。

 

緊張や膠着の周辺では

組織の凝縮によって重量が増え、

筋膜がよじれ、歪みます。

 

今までは、こうした歪みが

重力の影響を受けることで

より身体を歪ませていく

と考えていましたが、

 

筋膜を時空の織物と考えれば、

筋膜上の歪みそのものが重力ですから、

歪みが更なる歪みを生む仕組みになっている

と考えられます。

 

また、重力の伝播は

光の速度と同じ速さで生じるとのことです。

 

これは、筋膜上の歪みを解除すると

それが瞬く間に

身体全体の浅層の歪みを解除することを、

矛盾なく説明してくれる様に思います。

 

 

 

ここで一つ問題に思うのは、

体内では、重力を惹起する歪みは

非常に多くの異なる箇所で

形成されているという事です。

 

異なる歪み同士が結びついた時には、

時空の織物にはどんな現象が起きると

想定されるのでしょうか。

 

時空の歪みは波となって

周りに波及します。

 

2つの歪みがあれば、

歪み同士を結ぶ直線上で

その波は最も高くなり、

大きな衝撃をもって

干渉し合うことになるでしょう。

 

 

Wikipedia「一般相対性理論」の中には

・重力による赤方偏移

強い重力場から放出される光の波長は

元の波長より引き延ばされる現象。

 

・時間の遅れ

強い重力場中で測る時間の進み(固有時間)が、

弱い重力場中で測る時間の進みより遅いこと。」

 

という記述があり、

強い重力場(限られた空間の中に

大きな質量が凝縮されている状態)では

色や時間に変化が生じると説明しています。

 

これは、筋膜上に

痛みの感覚(赤いエネルギー)や

過去の記憶・情報が残存する仕組みと

関連している様に思われます。

 

 

 

▼一年を短く感じるメカニズム

 

また「時間の遅れ」に関しては、

私達が年を経るごとに

一年を短く感じるようになることとも

相通じていそうです。

 

通常は歳を経ると、

体内の緊張は蓄積し、

歪みも複層化して行きます。

 

体内の歪みとは

いわば体内空間を歪める力であり、

体内に作用する重力です。

 

「時間の遅れ」の性質から考えれば、

重力が生じている周囲では、

時間の流れも遅くなります。

 

歪力を沢山抱えていると、

その体内空間では

時間の流れがゆっくりになるため、

 

相対的に外界の流れを

速く感じるようになる、と考えられます。

 

 

 

▼年を取る≠弱くなる

 

また、歪みのある所では、

光も直進せず、回避して行きます。

だとすれば、歪みの多い身体では

外から受け取る光エネルギーの量が

少ないと考えられます。

 

年を経ると元気でいるのが難しいのは、

細胞の活性が衰えて

生命体全体としての力を

失っていくからではなく、

 

年を経る事で

歪みが蓄積されることにより、

体腔内の時間がゆっくりになって

代謝の速度が落ちるためと、

 

光エネルギーが歪みを回避するために、

歪みの蓄積した身体では

吸収される光エネルギーの量が

減少するためではないでしょうか。

 

ちなみに人間の体感覚は、

体内における重力=時空の歪みを

適切に捉えられる感覚として

発達して来ているのかも知れない、

と思います。

 

 

 

▼なぜ家族は影響し合うか。

 

同じ屋根の下に住んでいると、

私たちは無意識の内に

家族の状態に影響を受けます。

 

例えば、誰かの機嫌が悪かったり

体調が悪かったりすると、

何となく自分もそういう感じに

なって来たりします。

 

これは、家族の成員の間で

エネルギーのやり取りが

無意識の内に行われている事を示しています。

 

 

そこで、もし

同じ家の中に住んでいる誰かが

身体の歪みを解除して行ったならば、

 

その人の歪みから生じていた重力波から

他の人達も解放されることになり、

家族全体で歪みの影響が

減少して行くことになります。

 

一方で、

自分の内側に

曲率(ゆがみ)を抱えていると、

他者の歪みから生じた重力波に

影響されやすくなります。

 

そうした歪みを

自分の内側から解除して行けば、

他者から受ける影響も小さくなるわけです。

 

これはまるで、

自分のメンタリティーが変われば

まわりの人間も変化し始める、

まわりを変えるにはまず自分から、

という言葉の説明にも

なっている様に思います。

 

 

 

▼筋膜がみせる、特異な現象

 

「重力を量子化するためのよい現象として

ブラックホールが挙げられる。

 

ブラックホールの内部では

一般相対性理論が

破綻をきたすと考えられており、

そこでは時空を

量子化した理論が有効である。

 

この方向による最近の発展では

ホログラフィック原理が挙げられる。

 

これはブラックホールの内部の

情報量の保存限界はその体積ではなく

表面積に依存するというものである。

 

これはひも理論の

メンブレインに通じるものがある。」

(参照:Wikipedia「量子重力理論」参照日2014年12月18日)

 

筋膜に緊張や膠着の

蓄積が形成される際には、

 

膜や膜に形成された線条が

折り畳まれるかの様に凝縮して行き、

 

膜は襞(ひだ)となり、

線条の凝縮は毛糸玉のような

しこりを形成します。

 

また、折り畳まれて

奥の方に押し込まれたものは、

まるで乾燥して鞣(なめ)されたかの様に

平たくなり、質量を失います。

 

これらの現象が示しているのは

まさしく、情報はいつも

最浅層の平面に書き込まれる

と言う事です。

 

そこからはみ出した分は

奥へ仕舞われて行き、

情報としての活性を失って

休眠状態に入るのです。

 

 

 

▼おまけ

 

重力波はまだ

直接的には検出されていないのですが、

重力波が持っていると予測される性質に、

 

「重力波によってある軸が伸びた場合、

そこに直角に交わる軸は短くなる。」

という性質があるそうです。

(参照:サイエンスZERO「重力波をとらえよ(2014年11月17日放送)」重力波望遠鏡KAGRAの説明)

 

筋膜には、面としての広がりと、

中に折り畳まれてしまわれている

身体の時間の経過を伴う記憶としての

奥行きがあります。

 

この広がりと奥行きの概念は

ヌーソロジーから学んだものですが、

重力波の性質との近似が、

何か新しい気づきを与えてくれそうな

気がします。

 

 

 

草稿:2014年12月18日

公開:2015年8月21日

重力=時空の歪みに関する試論

『フィールド  響き合う生命・意識・宇宙』や『動的平衡  』の中には、量子力学を身体に当てはめるのは難しい、と
書かれている。

先日、「美しい宇宙~統一理論への道」を観
てひも理論の勉強をした際、アインシュタインの重力に関する理論、すなわち一般相対性理論の描き出す
時空の織物と、そこに生じる歪みや曲がりが
重力とする理論は、筋膜の性質にそのまま当てはまる事が理解できた。

筋膜は時空の織物そのものであり、そこに生じる緊張や膠着は、大きな質量の組織を小さな空間に凝縮するものであり、
その為に緊張の周辺では重量が増え、筋膜が
歪む。

これが重力の影響を受けるためにより身体を
ゆがませると考えていたけれど、
筋膜の歪みそのものが重力であり、
身体全体を歪ませていく力だと考えられる。

重力の伝播は光の速度と同じと言うのも、筋
膜上の歪みの解除が瞬く間に身体全体に広が
ることへの筋の通った説明を与えてくれる。

問題は、体内では重力を惹起する歪みは非常
に多くの異なる箇所で形成されているという
事であり、その歪み同士が結びついた時に
は、一般相対性理論においては時空の織物に
はどんな現象が起きると想定されているか、
と言う点だ。

時空の歪みは波となって周りに波及するが、
2つの歪みを結ぶ直線上で波は最も高く、大
きな衝撃をもって干渉し合うことになるだろ
う。

一つ注目したいのは、『重力波は、物体が加
速度運動をすることにより放出される。ただ
し、完全な球対称な運動(星の崩壊など)ま
たは円筒対称な運動(円盤状物体の回転な
ど)からは(キャンセルされて)放出されな
い。』
Wikipedia-「重力波」参照:2014年12月18日

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D
%E5%8A%9B%E6%B3%A2_(%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E
8%AB%96))
という性質で、円筒対象=トーラス型で行わ
れる加速度運動も重力波(一般相対性理論に
おいて予測されている波動で、時空(重力
場)の曲率(ゆがみ)が光速で伝播する現
象。―wikipedia「一般相対性理論」よ
り。)を生み出すことがない、とする点。

円盤やマカバの回転運動は、時空の織物を歪
ませることがない、と言う事になる。
すなわち、重力から自由であるとも言えるだ
ろう。

他にも注目したい性質があり、Wikipedia
「一般相対性理論」の中には
「重力による赤方偏移
強い重力場から放出される光の波長は元の波
長より引き延ばされる現象。
時間の遅れ
強い重力場中で測る時間の進み(固有時間)
が、弱い重力場中で測る時間の進みより遅い
こと。」
と言うように、強い重力場(限られた空間の
中に大きな質量が凝縮されている状態)では
色や時間に関する影響も生じており、これは
筋膜上に残される痛みの感覚(赤いエネル
ギー)や過去の記憶や情報が残存する仕組み
とリンクしている様に思われる。

また、時間に関する性質については、私達が
年を経るごとに一年を短く感じるようになる
こととも相通じているように思われる。すな
わち、通常は歳を経るとそれだけ体内に歪み
の蓄積が生じることになるが、空間歪力(私
の造語)としての重力が生じている周囲では
時間の速さも遅くなる。歪力を沢山抱えてい
れば、体内空間では時間の流れが時空の歪み
によってゆっくりになるため、外の流れを速
く感じるようになる、と考えられる。また光
も直進せず歪みを回避して行く為、歪みの多
い身体は外から受け取る光エネルギーの量が
減ることになる事も考えられる。

年を経るとただ単に細胞の活性が衰えて生命
体全体としての力を失っていくのではなく、
年を経る事で歪みが蓄積されることにより、
体腔内の時間がゆっくりになって代謝速度が
落ち、さらに身体に吸収される光エネルギー
の量が時空の歪みによって減少するために、
取り込まれるエネルギー量そのものが大きく
減少するのではないだろうか。

そうなると、家族間でのエネルギーのやり取
りについても説明がつく。

同じ家の中に住んでいる者の内の誰かが身体
の歪みを解除して行ったならば、他の人たち
もそこから受け取っていた重力波から解放さ
れる、歪みの影響が減少して行くことにな
る。一方で、他者の歪みから生じた重力波に
干渉されるような曲率(ゆがみ)を自分の内
側からできるだけ解除して行けば、やがて他
者と共有される空間の中で生じるゆがみも小
さくなって行く。

これはすなわち、自分のメンタリティーが変
わればまわりの人間も変化し始めるとした、
いわば心理力学と言ったような現象の説明に
もなる。
人間の体感覚は、この体内における重力=時
空の歪みを適切に捉える事の出来る感覚なの
ではないか、とも思える。

「重力を量子化するためのよい現象としてブ
ラックホールが挙げられる。ブラックホール
の内部では一般相対性理論が破綻をきたすと
考えられており、そこでは時空を量子化した
理論が有効である。この方向による最近の発
展ではホログラフィック原理が挙げられる。
これはブラックホールの内部の情報量の保存
限界はその体積ではなく表面積に依存すると
いうものである。これはひも理論のメンブレ
インに通じるものがある。」
Wikipedia―「量子重力理論」 2014年12月
18日参照
この記述からは、筋膜に緊張や膠着の蓄積が
形成される際には、膜や膜に形成されたひも
が折りたたまれるかの様に凝縮して行き、奥
に入ったものは乾燥し鞣されていく様に平た
く質量を失っていく現象が思い起こされる。
まさしく、情報は平面状に書き込まれてい
き、それが襞を形成したり毛糸玉のような塊
を形成して蓄積されていく。

重力波はまだ実際に検証されていないが、予
測されている性質の内、
「重力波によってある軸が伸びた場合、そこ
に直角に交わる軸は短くなる。」という性質
があるらしい。(サイエンスZERO「重力波を
とらえよ(2014年11月17日放送)」重力波望
遠鏡KAGRAの説明の中で。
https://www.youtube.com/watch?v=rZQMYIAj
0JY)
筋膜による身体の変化・反応をみる際に、こ
れを気にして感じ取る様にしてみると面白い
のではないか。

「揺らぎ」から、一瞬を切り取る。

知人に、プロのカメラマンではないけれども、

とても印象的で美しい写真を撮る人がいます。

この記事の冒頭のシャボン玉を吹く少女の写真

『野焼きの合間に』をはじめ、

文中に出て来る写真も、

今回掲載しているものはすべて、

彼女の珠玉の作品です。

デザイナーを本職とする彼女の作品は、

その対象が人物であっても風景であっても

それ自体とは違う何かを、観る側に語り掛けてきます。

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

沢山の人から彼女の写真に寄せられるSNSのコメントを見ていると、

そう感じているのは決して私だけではない様です。

ず~っと、

彼女の写真の帯びている不思議な空気や

語り掛ける力が一体どこから来ているのか、

私自身が写真の何を通してそう感じているのかを、

理解したいなぁと思っていました。

先日のこと。

それが、やっと分かりました。

そしてその分かったことが、

ここ数か月、私の意識の中で

印象的に引っかかっていた事とも

繋がっていたことに気付きました。

彼女は、写す対象が彼女に働きかけてくる「何か」を

敏感に感じ取ります。

そうした働き掛けを受け取ることが、

写真を撮るきっかけになっているとも言えます。

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi 

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi

私も含め、写真を撮る多くの人は、

自分が目にしているものそのものを写そうとすると思います。

彼女の場合は、

「働きかけられる私」の存在が、写真の中に息づいているのです。

写す行為を通して記録されるものは、彼女自身の世界であり、

心象風景なのだと思います。

この記事へ彼女の作品を転載したい

という旨のご連絡を差し上げた時に、

彼女はこんな風な表現をしていました。

「『まばゆい何か』が気になって仕方が無くて、

写真を撮っています。」と。

写真を観た人は、彼女の観る世界の中に入り込み、

彼女の「視点」にスッと重なる体験をします。

例えば、この写真のように。

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

ああぁ、おいしそうだ…。

美味しそう過ぎて、もう、切ないくらい。

観ているこっちまで、

口の中が酸っぱくなって来ます。

つまり、普段の自分とは異なる視野で

ものを見、感じる経験を

写真を通して実際にしているのだと思うのです。

単に写真を見ていると思っている私たちは、

写真を見る瞬間に「異なる視野の中に入る」という自覚を

持つことは、通常ありませんよね。

その為、何とも言えない不思議な気持ちになるわけです。

こうした感覚を体験させてくれる作品と言うのは、

そう沢山はないだろうと思います。

こうしたことを可能にしているのは、彼女が

現実世界を切り取る彼女らしい「平面」を

鮮明に持っている為だろうと思います。

この、現実世界をどういう平面で切り取るか、

その切り取り方が安定的で鮮明であるかどうかが、

その人がプロと名乗っているかどうかに関わらず、

「本物」と「素人」の仕事を分けているのかも知れません。

私たちが目にしているこの世界は、

常に揺らぎ続けています。

これは刻一刻と情勢が変化して行く様な

社会的な側面について言っているのではなく、

私たち人間を含む全ての存在が、

波として動き続ける粒子から成っていることを

念頭に置いています。

分子生物学者の福岡伸一氏は、

著書『動的平衡』の中でこう述べています。

(『動的平衡』p231)

「個体は、感覚としては

外界と隔てられた実体として存在するように思える。

しかし、ミクロのレベルでは、

たまたまそこに密度が高まっている

分子のゆるい「淀み」でしかないのである。」

波打ち、流れ続ける分子の海、

その中に出来た「淀み」が、

三次元の肉体を持つ私たちという存在。

存在は粒子から成るものだけれど、

そこに時間の概念を加えた時に

粒子は波としての性質を現します。

そして、それぞれの存在、

例えば臓器の一つ一つにも、

それ固有の波の大きさやリズムがあり、

様々な波の入り混じった複雑な倍音の総体として、

私たち一人一人は存在しています。

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

少し話が脱線気味になって来ましたが、(;^ω^)

人間に限らず、この世界を彩る全ての存在は、

常に揺らぎ続ける流動体なのです。

これを私の専門である身体に引きつけて考えるなら、

身体もまた、変化し続けることが常です。

留まり、固定化することはもちろん、

それが固定化することを私たちが望むことさえ、

例えそれが理想的な状態に思えるものであったとしても

身体の本質に添った在り方ではないのです。

自然も、建物も、生命も。

私たちが目にする対象の全ても、

それを観る私たちの目も。

揺らぐ目が、

揺らいでいる道具を使って

揺らぎの中にある対象の姿を切り取る。

自分の内なる心象風景を

カメラを用いて瞬間の中に切り取るという事は、

いわば、

揺らぎの合間のわずかな瞬間にのみ生じる

全てが符合するまばゆい閃き、それを捉える、

非常に繊細な「チューニング」のような作業だと

言えるかも知れません。

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi

龍神さまの思いやり

 

今回は、20代の頃に出会った

ちょっと面白い体験のお話を。

 

 

 

もう、何年も前の事。

友人と伊勢詣りに行きました。

 

当時はまだ、

山梨の牧場に住み込みで勤務していた頃。

一番近くのコンビニだって

車で5分と言う距離でしたから、

どこへ行くにも、足はとにかく車でした。

 

今は体力的にも根気からしても無理ですが、

あの頃は3時間程度なら

一人で平気で運転しましたし、

10時間の距離だって

交替できる人がいれば楽勝でした。

 

という訳で、

10時間程度の距離の伊勢にも、

もちろん車で行きました。

 

 

倭姫宮へ

 

お伊勢さまは

離れた場所に点在する小さなお宮を

沢山抱えています。

そのどの辺りを

どんなスケジュールで回ったのか、

もう遠い出来事なので忘れましたが、

 

最後の最後に行ったのが、

ヤマトトトヒモモソヒメの祀られた

倭姫宮でした。

 

図引用:三重県明和町HP<斎王<倭姫命 http://www.town.meiwa.mie.jp/romantic/saio/saio2.html

図引用:三重県明和町HP<斎王<倭姫命http://www.town.meiwa.mie.jp/romantic/saio/saio2.html

 

 

ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命。以下、倭姫)は

やたらとすごい伝承を色々持っているのですが、

簡単に要点を挙げてみますと、

 

ヤマト王権の開祖とされる崇神天皇の皇女で、

ヤマトタケルの叔母として草薙剣をタケルに与えており、

天皇家の守護である天照大御神と対立していた

大物主神と神婚をしています。

 

天照大御神が鎮座すべき場所を探す役目を任され、

伊勢の地を選定した才能ある巫女でもあります。

 

 

 

その倭姫が祀られた神社は、

高速のインターチェンジのすぐ近く。

 

せっかくだから

帰る道々に寄って行こうという話になりましたが、

立ち寄った頃にはすでに

黄昏時が迫っていました。

 

神社の入口横の駐車スペースに車を止め、

鳥居をくぐります。

 

画像参照:神宮巡々2 http://www2.jingu125.info/2014/12/14/20141214_13373420183/

画像参照:神宮巡々2 http://www2.jingu125.info/2014/12/14/20141214_13373420183/

 

 

黄昏の境内

 

原始林をそのまま保存しているせいなのか、

薄暗がりの境内は妙に鬱蒼として見えました。

 

参道には、灯篭がありません。

どこまで続くか分からない参道を

灯りもないままに歩いて行くのはちょっと…、

この時、お互いに無言ながら感じていたようです。

 

今考えると、この時

林の持つ存在感とそこに息づく気配に

気圧されていたのかも知れません。

 

「参道は長そうだし、

あんまり遅くなっちゃうと東京まで帰るの大変だから、

ここで失礼して行こうか~?」

 

「うん、途中まで来てごめんなさいだけど、

ここで失礼して帰ろう。」

 

ちょうど参道がL字型に折れ曲がる所だったので、

そこで二人並んで深々と頭を下げ、

「ここで失礼いたします。」と一言断ると、

そのまま入口の方へと踵を返しました。

 

傾きかけた太陽の弱々しい光は

林の奥までは届かず、

かえって樹々の影を深く見せていました。

 

 

後ろの気配は…

 

しばらく歩いていると、

背後にはっきりと

違和感を感じ始めました。

 

後ろに、大きな塊がいます。

私の頭よりも高い位置に居て、

後ろには5メートルほどの距離でしょうか。

 

どっしりとしたものが浮かんでいて、

一定の距離を保ちながら私たちに付いて来るのを、

はっきりとした体感として感じました。

 

参道の幅からはみ出すほどではないですが、

かなりの大きさがあります。

そして、相当に重量があるのも感じられました。

 

 

 

…なんじゃこれ?

感じてるのは私だけ?

 

右を歩いていた友人をそっと横目で見遣ると、

薄暗がりでもはっきり分かるくらいに青ざめており、

少しうつむき加減になった首が

カチンと固まっている様子が分かりました。

 

ははぁ、

同じものを感じているらしい。

 

 

 

当時働いていた牧場は

富士の樹海の一角にありました。

 

樹海で強烈な気配に出会ってヤバイと感じ

気合で追い返したという話や、

夜中に目が覚めたら目の前に巨大な目玉があった、

なんて話を日頃から聞いていた事もあったのか、

(私自身は、その手の体験は悲しい位にサッパリでしたが。)

 

自分の後ろにいる大きな気配にも

この時あまり怖さは感じていませんでした。

友人と一緒と言うのも、心強く感じていました。

 

そして、後ろからついて来る

得体の知れない存在と、

横で青ざめている友人と。

そんな状況なのに、

なぜだか分からないけど面白い感じがして、

私の頬は弛みかけました。

 

 

一方の友人は、今までに

霊的な体験で何度か怖い思いをしていました。

体験者の彼女が青ざめているのだから、

これはマズイのかも知れない。

後ろを振り向かずに進んで

とりあえず鳥居をくぐった方が良いのかもと思いました。

 

二人して一言も発することなく、

足早に鳥居をくぐりました。

 

そこまで来ると、

気配は消えてしまいました。

 

 

 

鳥居の外で再びお辞儀をして、

車に乗り込みました。

 

「感じた?」

 

「うん、怖かった~!

ちゃんとお詣りしなかったから、

怒られちゃったのかな?」

 

「そうだよね~、

引き返しちゃったもんね。」

 

この時の出来事は

お互いの中に鮮明な記憶として残りました。

 

友人は数年後、

「ごめんなさい」の気持ちを伝えに

改めてお詣りに行ったそうです。

 

一人で抜け駆け、ずる~い!

と文句を言ったのは、ご想像の通り(*^^)

 

 

意外な真相

 

ある時、

高野山の僧侶の方と

お話をする機会がありました。

 

霊視の能力がある方で、

お話を色々と聴かせて頂いていたのですが、

ふと倭姫宮での出来事を思い出しました。

 

あの気配は何だったんでしょう?

失礼な事をしてしまったんでしょうか?

と聞くと、

わずかに私の背後の空間を見つめ、

 

「あ~(笑)

それはね、龍が見送りに来てくれたんだよ。

ここまでご苦労様だったね、

気を付けて帰ってねって。」

 

「え~!そうなんですか!?

(って言うか、そんなことあるの!?)」

 

「怖くなかったでしょ?」

 

「はぁ~、確かに…。」

 

 

わ~、龍が見送ってくれたの!?( ;∀;)

何てアリガタイ…。

あの頃は友人も私も

馬とどっぷり一緒に生活していたから、

親近感を持ってくれたのかしらん?

しかも和種馬だったし。

(馬は、龍の化身とも言われます。)

ウルッと込み上げて来るものが…。

 

それはまぁともかく、

龍だったかどうかの真偽は一度置いて、

当時の記憶を検証してみましょう。

 

思い返してみると、

気配は大きかったし重量もあったけど、

こちらを押すようなことは

決してありませんでした。

 

と言う事は、

こちらの小さな歩幅に合わせて

一定の距離を保ちながら、

巨体をゆっくりゆっくり進めて

付いて来た、ということになります。

 

かなりの重量感でしたから、

少しでもあちらのペースが早ければ、

後ろから「追いかけられている」とか

「押されている」と感じたはずです。

 

これには、

こちらへの怒りどころか、

思いやりすら感じられるではありませんか。

 

私たちが鳥居をくぐり

お宮の境界の外へ出たのと共に

気配が消えたことも、

見送ってくれる為だったのなら合点が行きます。

 

あの時に、何となく

面白いような可笑しいような感じがしたのは、

相手の中に悪意がないことを

無意識に感じ取っていたからかも知れません。

 

 

 

幅のある巨体でしたが、

長さがあったかどうかは分かりません。

ですが重力に反して安定して浮いていましたし、

検証を総合してみて僧侶のお話は信頼できそうなので

龍だったと受け止めました。

 

さて、この龍神さま。

なぜに倭姫宮に?

倭姫とは一体どんな関係が?

調べてみました。

 

倭姫が天照大御神の遷宮場所を決めるために

方々を行脚している間、ずっと

守護として付き添っていた龍がいたとか。

 

その時と同一の個体かは分からないけれど、

倭姫宮に関する他の方のブログ記事なんかをみると、

龍が写真に写っちゃったりもしてるようで。

(下の画像の出展は、

http://wajo.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/1_d75b.html。

左の光の中に、龍らしき顔が見えますよね。)

画像参照:http://wajo.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/1_d75b.html

画像参照:http://wajo.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/1_d75b.html

 

気を付けてね、って

見送りもしてくれたりする訳ですし。

意外と、ホイホイ色んな所に顔を出すのが好きだったりして?

う~ん、アリガタミが… (;・∀・)

 

…もしや、こんな感じか?

画像参照:http://www.yoshie.bz/sampl/animaru/tatu/05/06/01.png

画像参照:http://www.yoshie.bz/sampl/animaru/tatu/05/06/01.png

 

少なくとも、人間が大好きであることは

間違いないかも知れませんねぇ。

 

 

 

存在の仕方が違う何者か(異次元の存在と言いますか)に出会うと

未知ゆえに怖いと感じるのは

当たり前のことだと思います。

ですが、本当にマズイ相手なのかどうかは、

冷静に自分の内的に目を向けてみると

きっと分かるものなんだろうと思います。

 

相手が自分にどんな働きかけをしようとしているか、

それを余裕を持って感じ取れている場合には、

そのこと自体が

相手が善意の存在だという証拠かも知れませんよね。

(本当にマズイ場合は、そんな余裕はないでしょうから。)

 

どんな時でも、

自分の内側の感覚をまず信頼したい。

これは私の施術の姿勢でもあるんですが、

思い返せば、

背後の大きな気配を何となく面白く感じたこの体験も、

自分の感覚を心底信頼できる様になる

きっかけの一つだったんだなぁと思います。

 

 

 

 

ボルネオ報告③(全4編): 食物は光を持っている。

ボルネオに行ったのも

もう2ヵ月前のことになりました。

つくづく、時間の過ぎる感覚は

東京にいると速いなぁと感じます。

 

日々、これをやらないとあれを終わらせないと、と

常に視線は遠くの前方を見て

やるべきことを鵜の目鷹の目で探す傾向にあるようで、

 

今この時に、

自分の感じている事や気になっている事に対して

十分に意識をとどめておくだけの余裕を持つことを

社会の流れが許容しにくいからなのかな、

と思ったりもします。

 

さてさて、ボルネオに話を移しましょう!DSC_0002_30

 

熱帯性気候のマレーシアは、

何と言っても植物の元気さが日本とは違いました。

市場で売られている葉物野菜はバカでかいですし、

見たことも無い種類の果物も、実に豊富にありました。

 

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左の写真はスネークフルーツ、右はタラップ。

次の記事で、植物や果物の詳細をご紹介する予定ですので、

しばしお待ちくださいね!

 

 

そう言えば、こんなことを教えてくれた人がいました。

熱帯地方では、歩いていれば

どこかしらで食べられる物が生っているから、

あまり頑張って働こうという気にならないらしいよ!と。

…なるほど、それはそうかも知れないですねぇ(^▽^;)

 

 

そうそう!

食べ物は全般的に美味しかったですよ~!

 

料理は辛いし酸っぱいしで、味がはっきりしていて、

飲み物は概して甘すぎるくらい甘いんですけど、

味のバランスが取れているんですよね。

日本人の舌には馴染みやすいと思いました。

 

それに、とにかく安い!

 

大きなショッピングモールの中にはフードコートもあって、

マレーシアの人達が普通に食べる一般的な料理を食べられます。

ランチの時間には、地元の人達も大勢食べに来ています。

 

白いご飯の入った発泡スチロールの容器に、

好きなおかずを選んで自分で盛りつけて、

それをテイクアウトできたりもします。

 

おかずは量ではなくて品数で値段が決まる形式なので、

3品選んで、ご飯におかずの汁をたっぷりかけて行っても

レジで払うのはわずか5リンギット(約170円)!

感動的な安さなのに、どれもハズレなしの美味しさ!

 

他にも、海の近くには屋台街があって、

エビやら魚やらが山の様に積まれています。

食べたいものと調理法を選んでオーダーすると、

その場で大皿の料理を作ってくれます。

 

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これは伊勢海老みたいなものだったかな?

見た目の鮮やかさで食欲が盛り上がって、

非常に美味しかったのです~!

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数あるレストランの中には

東京と同じ相場のところもありましたけど、

何と言っても日本と違うと感じたのは、

食材そのものの力強さでした。

だから、たとえ安いものであっても美味しいし、

食べると本当に満たされて、元気が湧いて来ます。

 

今までは、身体の状態が良ければ

食べ物の良し悪しははさほど問題ではない、

と思っていた所があったのですが(身体バカですね~(^▽^;))、

 

毎日食べている食材の力がこうも違うと、

根本的な「生きる力」の強さが

かなり変わって来るだろうと思います。

それは、何かを生み出したり、

想いを形にする事に情熱を注ぎ続けられる力でもあると思います。

そうした力を支える源の一つが、食事なのだと実感しました。

 

 

少し話は変わりますが、

滝を訪れた自然ツアーでは、

緑の木立が作り出す空気が本当に心地よかったのですが、

その空気を吸うことで

肺が柔らかくなったような感覚を感じました。

 

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美しいマフア滝。

流れの後ろ側に回って

滝を見上げることが出来る。

 

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私たちが日頃接触する環境によって

例えば、リラックスし易いとか、いつも緊張しているとか言った、

いわば身体が帯びているムードみたいなものが

無意識的に左右されているのだと気づかされた体験でした。

 

食べ物にしても空気にしても

生きる上で最も基本的な栄養素ですが、

私たちの心身の状態は

思いのほかこれらの要素によって

大きく規定されてしまうのだと言えそうです。

 

 

ボルネオでの豊かな食体験のお陰で、

「こんなに元気のない食材なのに、

こんなに高いなんて!」と

東京で外食をする度に理不尽さを感じては

ひとり憤慨しております(;^ω^)

 

食事は「元気」とか「活力」を得るために

摂るもののはずです。

だとしたら、食事に払う対価は当然

食事で得られる元気に比例していないとおかしい!

と思う訳なのです。

 

生きる事に最低限必要な「食べる」という事にさえ

こんなに費用がかかり、

しかもそれに見合ったエネルギーを持たない物を

食べることになっているだなんて。

 

日本は豊かな国だと言われていて、

私も以前は特に疑問も無く

そうなんだろうナと思っていたけれど、

一体豊かさとは何が基準なのかと

今は首を捻らずにはいられません。

 

 

憤慨しているだけでは成長しないので、

自分なりに出来る方法で、

食べ物に元気を取り戻してもらう方法を考えてみました!

 

ちょっとアヤシイ方法だなぁと

思う方もいらっしゃるかも知れませんが、

そのご意見もそれはそれで有りとしつつ、

ご紹介してみますねヽ(^。^)ノ

 

先日ある書籍を読んでいた時の事。

消化についての面白い一節を見つけました。

それは、

食物は光を持っていて、

真っ暗な消化管を通る時に

私たちはその食物の光を吸収する、

というものでした。

 

光とは、マナとか気とかエネルギーという様な概念に

置き換えられると思います。

消化管が真っ暗闇であることにも理由があったのかと、

妙に納得。

 

身体を物理的に構成する栄養素としてだけではなく、

食物が持つ光のエネルギーも

私たちは分け与えてもらってる事になります。

 

そう考えると、加工された食品よりは、

生に近いものの方が光を多く含んでいそうです。

 

ローフードやリビングフードには賛否両論ありますが、

良い面に関しては

食物の持っている生きた酵素をそのまま摂れるから

という理由をよく耳にします。

ですがもしかすると、食物の持っている光を

最大限吸収し易かったりするからかも知れませんよね。

 

一方で、生の野菜であれ果物であれ、

私たちの口に入るものの多くは

色んな薬剤をかけられて

育った地から遠く離れた所へ運ばれてきています。

 

彼らの身になって想像してみると…

店頭に並ぶ頃には頭は朦朧とし、

半ば冬眠した様な状態で、

自分がどこの誰だったのかも

分からなくなっている…かも知れません。

 

口に入れてしまう前に彼らの目を覚ませれば、

食材としての元気=光を取り戻せるのではないか、

なんていう発想が浮かびました。

 

で、実際に何をするかと言いますと。

いわば食材へのヒーリングです(*^^)

手で食材に触れながら、

彼らがまだ土に根を張っていた頃のイメージを

出来るだけ詳細に想像して伝えます。

 

土や空気の匂い、

風のそよぎ、陽の光の暖かさ、

そういったものを実感を伴う様にイメージして、

自分は本当は湿った香りの土から生まれた人参だったとか、

陽を浴びて輝いていたトマトだったとか言うことを、

ちゃんと思い出してもらいます。

 

そうするとどうなるか?

 

さぁて。

その効果のほどについては、

是非ご自身で試して

確かめてみて下さいね!(*’▽’)

 

 

そうそう、ボルネオの食事と言えば、

伝統的なバナナリーフでの食事もして来ましたよ!

 

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大きなバナナの葉の上に、

ライスを中心に色んな種類のおかずを盛りつけます。

 

ちなみに、

一緒に出て来た魚の頭の料理は定番らしいんですが、

こちらはいささかコワモテ。

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伝統食を食べる時には手を使うのですが、

これがなかなか難しい。

 

インドで正式な食べ方を教わった友人の説明によれば、

使う指は右手の3本。親指、示指、中指。

 

おかずとライスを混ぜて一口大にまとめ、

3本の指で掬いあげます。

示指と中指に乗せた食べ物を、

最後に親指で押し出すようにして口の中へ。

 

むむ、

知らぬ間に指4本汚れている。

なぜだ…。

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とまぁ、かような感じで、

意外にも技術が必要です。

 

でも、手で食べるのは、

思っていた以上に

良い風習だと思いました。

 

ご飯やおかずなどの

ぐちゃぐちゃとしたものを手で混ぜるのは

気持ち悪そうだなぁと思っていたのですが、

 

実際にやってみて気づいたのは、

これから食べる物を

口に入れる前に手で確認する事になるんですね。

それが、非常に健全だと思ったんです。

 

日頃、テレビを見ながら食事をするのが

当たり前の習慣になっていましたが、

そのせいで自分が何を食べているのか、

ちゃんと意識せずに食べていました。

 

食べ物に対して失礼という以上に、

自分自身に対して失礼なことをしていたな、と。

これから体内に入って

自分を構成してくれるはずの物を

その都度、認識せずにいたのですから。

 

手で混ぜる工程が入れば、おのずと

何を食べるのかに意識が行きます。

 

何が自分を形作ってくれるのかを

ちゃんと把握しながら食べる事は、

 

自分という存在の土台をしっかり認識し、

自己の同一性を安定させる事にも

繋がっているような気がします。

 

 

 

 

 

 

ボルネオ報告②(全4編):-獅子舞と華人の力

 

今回のボルネオ行は、

2月13日~23日の日程でした。

これはもうズバリ、

中国の春節に重なる時期。

 

日本の正月とは異なるマレーシアの年末年始の空気を、

思いがけず味わってきました!

 

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(サンデーマーケットの開かれる

市街中心部のGayaストリート。)

 

 

春節のお話の前に、

マレーシアやボルネオと言う地域について

少し説明させて下さいね。

 

ボルネオ島は日本からほぼ直線的に南へ、

飛行機で5時間ほど行った所にあります。

 

北端の小さな範囲にブルネイ王国があり、

上の5分の2ほどの範囲はマレーシア、

下の5分の3はインドネシアが領有しています。

 

ボルネオ島全図

 

今回行ったのは、

そのマレーシア側の最大の都市、

コタキナバルでした。

(地図の中では、島の北端の少し左にあります。)

 

 

マレーシアは、イスラム教を国教とする国。

マレー人はムスリムで国民の約6割を占めます。

他には、3割が中華系の人々、1割がインド系です。

首狩り族として知られる部族を始めとして、

多くの先住系の部族も存在しています。

 

多民族の多文化、

モスクも道教寺院もキリスト教会もあって、

多宗教が共存しています。

 

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(リカスタウンにある石造りの教会。

この日は、地元のマレーシア人が沢山集まってのミサの日。

教会の前には、実は物凄い数の車が

ぎゅうぎゅう詰めに停まっていて、大変な事になっていました。)

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単に混在していると言うよりは、

それぞれが独自性を保ちながら上手く棲み分けをし、

違うもの同士が共生するのを可能にしている。

そんな、柔軟性を持つ社会の様に見えます。

 

 

 

それを示唆する象徴的なお話を、

現地で聞きました。

 

ボルネオは19世紀にイギリスの植民地となっており、

先住部族の中では

キリスト教徒が多いそうなのですね。

 

マレーシア全体としてはマレー人が多いけれど、

ボルネオでは、実は先住部族が

住民の半数以上を占めるのだそうです。

信徒の多くが部族民なため、

教会ではマレーシア語を使って説教が行われます。

 

ところが、マレーシア本島では

これはあり得ない事だそうなんです。

マレーシア語は国教であるイスラム教のモスクで使われ、

キリスト教会では英語を用いる。

ちゃんと、宗教に応じて

言語の使い分けが決められているそうなのです。

 

 

言語をない混ぜにして用いれば、

互いの教義に影響を及ぼし合うことは

想像に難くありません。

それを避けるために、

システムとしてちゃんと枠組みが決められている、

と言う事の様なんですね。

 

 

もちろん、現地の方にとっては、こうした仕組みも

良い面ばかりではないのかも知れませんが、

単一民族の(異論はあるでしょうが)日本に住む人間からすると、

「異なる文化や宗教を尊重する」には、

それだけ具体的な形が伴う必要がある、と言う現実に

なるほどな~…と深く感心させられたのでした。

 

 

ちなみに、マレーシアは

元々はシンガポールと一つの国だったって、

知っていますか?

今まで東南アジアに興味のなかったワタクシ(ゴメンナサイ)、

今回初めて知りました!

 

シンガポールは、マレーシアに比べて

華人の割合が多いそうです。

 

マレーシア半島にある11州(マラヤ連邦)と、

ボルネオ島の2州、シンガポールとが統合されて

マレーシア連邦になったのは1963年のこと。

結構、最近です。

 

マレー系の人々を中心に政策が展開される中で

中国系の人々が反発し、紛争にまで発展した結果、

シンガポールはマレーシアから追放される形で別々の国となったそうです。

統合してから、わずか2年後でした。

 

以降、

追放された一方は華人の力で経済大国に、

一方はまだ発展の途上に。

 

歴史の皮肉を感じなくもないですが、

でも私が感じた限りでは、マレーシアは

ムリなく歩みを進めている感じで良いなぁと思います。

とにかく、時間がゆったりと自然に流れている、

そのことが何よりも素晴らしいと思います。

 

 

 

さてさて、春節。

これは、言わずと知れた中国の正月のお祝いです。

 

コタキナバルに着いた時に驚いたのは、

大きなショッピングセンターの壁に

大きな金貨(!)の飾り物が沢山下げられていたり、

道沿いに赤い提灯がぶら下げられていたりと、

まぁ~とにかく賑やかなんですね。

でも南国のせいなのか、その賑やかさが

うるさく感じたりはしないんです。

 

春節の年末は日本の年末と同じで、

どのお店も夜遅くまで営業していました。

結構、早い時間帯から遅くまで開いている所が多いんですね。

南国の人達はのんびりしているイメージが勝手にあったので、

マレーシアの人達は働き者だなぁ~と感心してしまいました。

 

 

 

春節の元旦は2月の19日。

その日、研修の会場になっていたホテルに

獅子舞の一行がやって来ました。

ピンクに白に黄色に赤、

色とりどりの獅子が太鼓に合わせて派手に舞います。

 

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ホテルやレストランなどでは、

個別に獅子舞を呼ぶのだそうです。

獅子舞の規模は、支払う金額によって変わるそうで。

 

4頭現れたこのホテルでは、

一番良いランクのものをお願いしたのではないか、

とのこと。

 

獅子舞は、

場のエネルギーを活性化させる舞いなのだそうです。

今回の研修の講師の説明をお借りして、各場面の解説を少々…

 

まず、赤い獅子はホテルに入って来ると、

そのまま太鼓を従えて最上階へ。

5階あるホテルの全てのフロアを経巡りに行きます。

これによって、ホテルの中の全てのエネルギーが

くまなく振るい動かされます。

 

 

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ホテルのフロント前では、

残りの獅子たちがホテルの中の方へと向けて舞いを行い、

外からのエネルギーをホテルの中へ取り込みます。

 

時には観客の足をかじったり、

頭をかじったりしながら(これは厄払いですよね)、

躍動的な舞いを続けます。

 

かじる仕草が

何とも可愛いんですよ~。

 

 

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↑ 躍動感のすごさは、ほらこの通り!!

 

 

フロントでは、ピンク獅子の独演が始まりました。

愛想をふりまいて激しく舞いながら、

差し出された皿に盛った果物をパクリ。

果物は皿ごと、獅子の中に消えてしまいました。

 

 

やがて、ピンク獅子は

身体を長々と伸ばして地面に伏せました。

おや~?寝ちゃったのかな?

 

寝息を立てているみたいに、

お腹の辺りが動いています。

おぉ!繊細な演技~(*’▽’)

 

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今度は、ホテルの入口の外で

黄色い獅子が階段を使って舞い始めました。

 

階段と言っても柱が並んでいる形で、

足場は恐らく直径30センチ程度だと思います。

もし踏み外しでもしたら、

1メートルじゃきかない高所からの転落です。

 

 

 

ホテルの外に出ると、

抜ける様な美しい青空と、

まばゆいばかりの陽の光でした。

 

(伝統的に大事に継承されている儀礼だったからか、

天界と言っていいのか、

異なる次元からのお祝いの光の粉が降っていたのだとか~。

ひときわまぶしかったのは、

そのせいだったのでしょうか~(*’▽’) )

 

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舞いはアクロバティックで、

柱の上を飛び跳ね、

立ち上がり、

時には上半身が足場から飛び出します。

 

そんな動きの中で、

耳をパタパタ、まぶたをパチパチと

可愛らしく動かします。

 

あ!

獅子が食べてた果物の皮を

こっちに投げてよこした~!

これに当たるのはメデタイのかな?

 

(↓ 当日の獅子舞の動画。3分程度です。)

 

 

舞い手を見ると、

獅子の上半身の子は小さく、

下半身を担当している男の子は大柄で

がっしりと筋肉がついていましたよ!

 

舞いを舞うのは10代の若者たちです。

生命力の最も盛んな時期の若者たちが舞うという所も、

エネルギーの活性という目的に適っているのですね~。

 

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外での黄色い獅子の舞いが終わるころに、

再びホテルのフロントの方で歓声がしました。

寝ていたピンクの獅子が起き上がった様です。

ホテルの外へ出てくると、

お客さん達との写真撮影に応じます。

 

フロントの台の上を見てみると、

細工の施された果物が!

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獅子が伏せて眠ったと見せて、

実は中で細工をしていたんですね~!

 

 

 

私が宿泊していたのは別のホテルだったのですが、

そこでもやはり獅子舞を呼んだようでした。

部屋に入ると、机の上に

二つのミカンとお年玉袋みたいな小袋がありましたヨ。

小袋の中身は、金貨チョコ。

 

こうやって、みんなに福のお裾分けをするんですね。

マレーシアの春節に参加できたんだなぁって、

妙に嬉しかったのです~(#^.^#)

 

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日本に戻ったのは、ちょうど春節が明けた頃。

ニュースを見ると、中国人の爆買いの話で持ち切り。

 

以前なら、節操がないなぁと不愉快に感じたと思うんですけど、

ボルネオで中華系の文化に触れたせいでしょうか、

いいんじゃない、と思ったんです。

それが、自分でも意外でした(*^^)

 

中華系の人々は、

物質世界を動かす力を本当に持っているんだなぁと、

ボルネオで感じたんですね。

 

現実を動かす為にどうやってエネルギーを活性化させたら良いかとか、

どういう土地ならエネルギーを呼び込みやすいかとか、

そういう知恵を現実社会とリンクさせて上手く使っている。

 

例えば、風水だって

面白おかしい古い迷信などでは決してなくて、

建築の世界などでも未だに活用されたりする

活きた知恵として残っている訳です。

 

彼らが世界中を飛び回っていることで、

世界でモノが動いているし、

世界に活力が与えられている。

そうした側面はあるんだろうなぁ、って思います。

 

異なる文化を尊重し合うマレーシアの社会だからこそ、

文化の特徴みたいなものが

より見えやすかったのかも知れない、とも思います。

 

その反面で日本を省みてみると。

日本の伝統的な信念体系や知恵を、

生活の一部として活きた形で

大切に継承していると言えるのかどうか。

形骸化して骨抜きになっているものが、

ほとんどなのではないか。

 

そうしたものをちゃんと活かすことが出来た時に、

世界の中で日本が果たせる役割も見えて来るのかなぁ、

なんて思ったりするのです。

 

 

 

 

 

シジミ蝶の追憶

今回は、最近体験したことを

物語風に書いてみました。

純粋に読み物として、楽しんで頂けると良いなぁ(^^)

 

・・・。。・・・。。・・・。。・・・。。・・・。。・・・。。・・・

 

開店準備のため、看板を外へと運び出す。

ふと見ると、看板の上のヘリに蝶の死骸が乗っている。

 

あ、シジミ蝶…。

いつもプランターに遊びに来てた子だ。

 

看板は腰ぐらいの高さで、いつも道路沿いに立てている。

看板の横には大きな木製のプランターがあって、

四季を問わずに花が見られるように、手を入れている。

 

そのプランターのまわりを、

シジミ蝶が飛んでいるのをよく見かけた。

そこに植えてあるカモミールが気に入っていたのか、

本当に、よく。

 

看板にはレインカバーが被せてある。

たまに、カバーの裾から中に入ってしまって

出られなくなった虫が死んでいる事があった。

シジミ蝶も、きっと知らずに潜りこんでしまったんだろう。

 

虫は基本的に苦手だけれど、

私の所を気に入って遊びに来てくれていたシジミ蝶は

特別な気がしていた。

 

そう言えば、ここを気に入って住み着いていた小さなヤモリを、

誤って殺してしまったこともあった。

死んでから数日経ったと思われる干からびた姿を見つけた時は、

思わぬショックを受けた。

 

シジミ蝶も、潜っているのを気づかずに

私が潰してしまったのかも知れない。

ヤモリの時はひどい姿で触れなかったけれど、

今回はちゃんと自分の手から土に葬ろう。

せめて大好きだった場所に、帰してあげたい。

 

手の平にシジミ蝶を乗せると、

プランターの方へ歩いて行った。

 

手に乗せているのは、死骸。

そう思うと手の平がムズムズしてくる。

異物を乗せている、変な感じ。

 

もう動き出すわけでもない、

イタズラされるわけでも噛まれるわけでもないのに、

何で怖がる必要があるだろう?

シジミ蝶の姿をまじまじと眺めた。

 

あれ?

意外と可愛いかも。

ヤマトシジミ-Pale_Grass_Blue(パブリックドメイン)

 

オレンジ色の複眼に、

周りはふさふさの白い毛で覆われた顔。

ストローだったかどうか分からないけど、

そのとても小さな頭には口もちゃんとあった。

 

2本の触角は、きれいにピンと立っている。

そのカーブの形が美しくて、

生きている虫ではないけれど、ただの死骸でもないような、

不思議な気がして来る。

標本が好きな人って、こんな感覚なんだろうか?

 

頭も触角も立体的なままだったという事は、

潰れたわけではなかったんだ。良かった。

 

手の平に乗せている蝶が、

可愛く思えて来た。

これで私の虫嫌いも、ちょっと緩和するかも知れない。

 

そんなことを考えていたら、

手の平がぼんわりと温かくなって来た。

手の平をちょうど覆う大きさで、熱のドームがあるみたい。

 

熱はシジミ蝶から出ているはずはなかったけれど、

シジミ蝶の存在自体がこの時に変容した、となぜだか思えた。

私の中で「得体の知れない虫類」に近かったシジミ蝶が、

「美しく尊い生き物」へと変わったのと一緒に。

 

そう思ったのと同時に、

シジミ蝶やヤモリが好きな場所でわざわざ死んだ理由も

急に分かった気がした。

彼らは「形」を脱いで、

ここを、あるいは私の仕事を、

見守ろうとしてくれてるのかも知れないな、と。

 

 

その晩、帰りの電車の中で読んでいた本には、

こんなことが書いてあった。

(参照:ジュディス・カーペンター『トワイライト』)

 

恐怖にも、恐怖固有のバイブレーション(周波数)があること。

恐怖を克服して、

愛や思いやりという恐怖よりも高いバイブレーションで

恐怖の対象だった存在に触れる事が出来た時、

相手のバイブレーションも変わる、と。

 

シジミ蝶に対する私の認識の変化は、

例え死骸という形になっていても

ちゃんとシジミ蝶に伝わっている、

そう言われた気がした。

 

翌日、

出勤するとすぐに、プランターを覗き込んだ。

 

植物の葉や茎が繁っているのを掻き分けて、

その根元にふわりと置いたはずのシジミ蝶の姿は、

プランターの中にも、その周りを見回しても、

どこにも見当たらなかった。

帰るべきところへ、きっと帰れたんだろう。

 

 

この一連の出来事を文章にしようと考えながら、

植物に水をあげ始めた。

その横を、

ふわりふわりと

黄色い蝶が舞って行った。

 

 

 

おわり