今回は、最近体験したことを
物語風に書いてみました。
純粋に読み物として、楽しんで頂けると良いなぁ(^^)
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開店準備のため、看板を外へと運び出す。
ふと見ると、看板の上のヘリに蝶の死骸が乗っている。
あ、シジミ蝶…。
いつもプランターに遊びに来てた子だ。
看板は腰ぐらいの高さで、いつも道路沿いに立てている。
看板の横には大きな木製のプランターがあって、
四季を問わずに花が見られるように、手を入れている。
そのプランターのまわりを、
シジミ蝶が飛んでいるのをよく見かけた。
そこに植えてあるカモミールが気に入っていたのか、
本当に、よく。
看板にはレインカバーが被せてある。
たまに、カバーの裾から中に入ってしまって
出られなくなった虫が死んでいる事があった。
シジミ蝶も、きっと知らずに潜りこんでしまったんだろう。
虫は基本的に苦手だけれど、
私の所を気に入って遊びに来てくれていたシジミ蝶は
特別な気がしていた。
そう言えば、ここを気に入って住み着いていた小さなヤモリを、
誤って殺してしまったこともあった。
死んでから数日経ったと思われる干からびた姿を見つけた時は、
思わぬショックを受けた。
シジミ蝶も、潜っているのを気づかずに
私が潰してしまったのかも知れない。
ヤモリの時はひどい姿で触れなかったけれど、
今回はちゃんと自分の手から土に葬ろう。
せめて大好きだった場所に、帰してあげたい。
手の平にシジミ蝶を乗せると、
プランターの方へ歩いて行った。
手に乗せているのは、死骸。
そう思うと手の平がムズムズしてくる。
異物を乗せている、変な感じ。
もう動き出すわけでもない、
イタズラされるわけでも噛まれるわけでもないのに、
何で怖がる必要があるだろう?
シジミ蝶の姿をまじまじと眺めた。
あれ?
意外と可愛いかも。
オレンジ色の複眼に、
周りはふさふさの白い毛で覆われた顔。
ストローだったかどうか分からないけど、
そのとても小さな頭には口もちゃんとあった。
2本の触角は、きれいにピンと立っている。
そのカーブの形が美しくて、
生きている虫ではないけれど、ただの死骸でもないような、
不思議な気がして来る。
標本が好きな人って、こんな感覚なんだろうか?
頭も触角も立体的なままだったという事は、
潰れたわけではなかったんだ。良かった。
手の平に乗せている蝶が、
可愛く思えて来た。
これで私の虫嫌いも、ちょっと緩和するかも知れない。
そんなことを考えていたら、
手の平がぼんわりと温かくなって来た。
手の平をちょうど覆う大きさで、熱のドームがあるみたい。
熱はシジミ蝶から出ているはずはなかったけれど、
シジミ蝶の存在自体がこの時に変容した、となぜだか思えた。
私の中で「得体の知れない虫類」に近かったシジミ蝶が、
「美しく尊い生き物」へと変わったのと一緒に。
そう思ったのと同時に、
シジミ蝶やヤモリが好きな場所でわざわざ死んだ理由も
急に分かった気がした。
彼らは「形」を脱いで、
ここを、あるいは私の仕事を、
見守ろうとしてくれてるのかも知れないな、と。
その晩、帰りの電車の中で読んでいた本には、
こんなことが書いてあった。
(参照:ジュディス・カーペンター『トワイライト』)
恐怖にも、恐怖固有のバイブレーション(周波数)があること。
恐怖を克服して、
愛や思いやりという恐怖よりも高いバイブレーションで
恐怖の対象だった存在に触れる事が出来た時、
相手のバイブレーションも変わる、と。
シジミ蝶に対する私の認識の変化は、
例え死骸という形になっていても
ちゃんとシジミ蝶に伝わっている、
そう言われた気がした。
翌日、
出勤するとすぐに、プランターを覗き込んだ。
植物の葉や茎が繁っているのを掻き分けて、
その根元にふわりと置いたはずのシジミ蝶の姿は、
プランターの中にも、その周りを見回しても、
どこにも見当たらなかった。
帰るべきところへ、きっと帰れたんだろう。
この一連の出来事を文章にしようと考えながら、
植物に水をあげ始めた。
その横を、
ふわりふわりと
黄色い蝶が舞って行った。
おわり