耳は、外からの音を集めると言うだけではなくて、
集めた音を全身に効率よく広めるための、
拡散のための器官でもあるようだ。
耳の奥深くにある「蝸牛」。
振動として伝わって来た音の高低を区別し、
それを電気信号へと変換して脳へ伝える役割を持つこの小さな器官は、
自然界のリズムを表すフィボナッチ数列に基づいた、
美しい曲線を描く。
脳神経学者の中田力氏は、
その著書『脳の方程式 ぶらす・あるふぁ』の中で
こんな主旨のことを記している。
ドレミファソラシドの12音階をその波長の長さに従って並べると、
音階は螺旋を描き、その螺旋が、
すなわち蝸牛の形と合致していると。
宇宙の始まりは、一つの音と
その振動が描き出す「形」によって始まったとされる。
蝸牛は、そうした音の描き出す形を
そのまま実体化したものだとも言えるかも知れない。
耳には計り知れない神秘性があるように思える。
耳に音叉を近づけて行くと、
耳から入ったその振動が
身体全体に伝わるのを感じ取ることが出来る。
(音叉には肉体用とエーテル用があるが、
肉体用の場合には特に振動が体の中に広がり、
エーテル用のものは体の外を覆う様に感じ取れるように思う。)
身体の全ての細胞が、同じ微細な振動に浴している感覚だ。
もちろん、皮膚からだって振動は伝わっている。
だが、一旦は集音器である耳介から耳孔に取り入れた振動を
耳では更に増幅して、あるいは抑制して脳や身体に伝達する。
鼓膜の奥にある中耳腔を通って蝸牛のある内耳に音が到達するまでの間に、
その振動は20倍ほどの大きさに変化するのだそうだ。
(大きすぎる音の場合には、
耳小骨をつなぐ耳小骨筋の収縮力によって
耳小骨の振動幅が抑えられる。)
こうして適正で、かつ十分な大きさになった振動は、
一方で電気信号として脳へ届き、
一方では振動のまま全身へ伝わっていくことになる。
これの意味するところは一体何だろうか?
単なる外側からの情報の収集と言うだけに止まらない、
音を自分の内的な空間へと広げていき、むしろ
そこに自分を浸透させていくことを促す器官だと言えるのではないか。
霊的な知覚能力の開発は、
まず耳から行われると言う話を聞いたことがある。
耳を通して様々な音を体験することが、
同時に高い次元を実際に体感することにつながり、
自らの思考や精神と言った霊的な部分の成長を
効果的に促すことが出来るということなのだろう。
だとすれば。
耳の成り立ちについて、
こんな疑問を抱かずにはいられない。
そもそも耳は、危険を察知するためのツールとして
生じてきたのだろうか?
耳だけではない。
その他の様々な器官・機能の発生に関しても、
私たちは今までこんな風に教わって来ている。
すなわち、生命としての生き残りや種族の保存という動機に基づいて、
生物の進化が起こって来たのだと。
もしかしたら、
食物連鎖や種の保存と言う考えを基盤にして
生命や生物を理解する事自体が、
何か間違っているのではないだろうか?
何かもっと違った基盤、違った叡智に基づいて、
私たちは変化・成長を遂げて来ているのではないのだろうか?
(そもそも、他の種よりも秀でて唯一生き延びるのが目的ならば、なぜ、色彩や香り、音といった、異種同士であっても共通して感じ取ることの出来るサインを伝達の媒介とする必要があるのだろうか?
危険察知や食糧の獲得に際して異種生物を理解していることの必要性を理由の一つとして挙げることは出来る。だが、時には獰猛な虎やワニでさえも私たちに柔らかな愛情を見せてくれる時、私たちの認識が彼らを獰猛な存在に仕立てあげている可能性を考えずにはいられない。)
植物でさえ、音楽を聴くと生育の仕方に変化が生じると言う。
宇宙の成り立ちは一つの音と、その振動が描き出す図形によって始まった。
だからこそ、いかなる生命も音に対する感受性を持っており、
また、音に対応する形への感受性も持っている。
確かに、地球上を見渡せば、
そこには生命を奪い奪われる関係性が成り立っている。
でも、そこに私たち自身の意識がフォーカスしているからこそ、
生物同士の関わりの中にそうした側面ばかりが見えて来るのではないだろうか?
視点を変えれば、そこにはもっと
生命そのものを与え受け取るといったような、
偉大なる関係性が見えてくるのではないか?
例えば、アイヌの人々と熊の関わりのように。
私たちはきっと、最も根本的なところで、
私たち人間を含む生命というものに対する大きな誤解をしている。
錯誤する様に仕組まれた壮大なる目眩ましの中にいる事に、
気付かずにいるのだ。
そうして曇らされた私たちの目には、知らぬ間に、
私たち自身が根底的に自己保存を最大の欲求として持つ
エゴイスティックな存在として映るようになる。
そして、搾取し合うことあるいは殺し合うことすら
私たちの自然の一部だから致し方ないのだと、
是認させられているかも知れないと言うのに。