~前回からの続き
岳に会いに来ていた人たちが、首元に集まって岳に触れる。
寂しい思いをさせずに、苦しませずに逝かせてあげたい。
荒い呼吸の鼻先に、
精油を塗った手のひらを差し出す。
少しでも、痛みの意識が緩和できれば。
獣医が、そろそろかなと
ゆっくりした足取りで車へ向かう。
生殺与奪の権利は、
いつだって行使するときには
迷いが生じるものなのだろう。
本当に、あそこで逝かせて良かったのだろうかと。
その判断に
唯一人で責任を負う存在だから、
あの背中は寡黙なのだろうか。
スタッフの腹を押す手は緩まない。
岳は白目を剥いたまま、次第に
全ての動きが収束していく。
しばらくの空白。
首元のまわりにいた者は、覚悟を決めた。
腹を押す場長たちは、手を止めない。
…獣医はまだだろうか?
…と、
ガバッ!!
岳が急に意識を取り戻した。
それと同時に、凄い勢いで起き上がった。
と言っても、後足が弱まり、
体重を支えられない。
頭を高く上げて
よろけながら踏んばる岳を、
場長が叱咤する。
立ち上がる気持ちが途切れないように。
木曽馬は、体重が300キロ以上ある。
横に倒れたままでは
自重で肺がダメになるらしい。
4時間が限度。それ以上は肺に水が溜まって来る。
そう、獣医が教えてくれる。
末梢循環も低下しやすい。
寝たままだと、 褥瘡も起きやすいと言う。
同じ重力下でも、
人間と馬の受けている引力の強さは
違うのかも知れない。ふと思う。
人間は立位だから、
重力の掛かる水平面の面積が狭い。
馬は、広い背中で重力を受け止める。
馬は、大地と共にあり、
大地の力の中で生きる生命なのだと
改めて思う。
かろうじて起き上った岳は、
四肢すべてがちゃんと地面についた途端、
急に足早に歩き出した。
しっかりした足取り。
今まで、じっとしていたのが
まるで冗談のよう。
腹痛に波があるのは、
誰しも経験のあることだろう。
岳は白目を剥き
気絶をするほどの激痛の波に襲われ、
そこから戻ってきた。
まわりの人間は、
この時、覚悟を決めた。
もう逝くのだろう、と。
墓穴を掘る者、
阿弥陀経を唱える者。
送る準備が整いつつあった。
それを振り切って起き上った岳は、
意外なほどにピンピンして見えた。
私たちは、 しばし呆気に取られた。
死の淵から、岳が戻った。
みんなの緊張の糸が切れた。
空気が変わりつつある。
「もうダメだと思った!
すっかり覚悟を決めたのに~」
笑いながら言うと、
一気に場に笑いが弾けた。
人間が諦めの気持ちのままでは、
踏んばる岳の足を引っ張るだけだ。
それは、避けたい。
「きっと、あっち(彼岸)にいる福ちゃんに
蹴り返されたんだよ!」
応える声があった。
みんな、楽な気持ちで
岳を見守る姿勢へと切り替わった。
死を迎えようとする深刻でかび臭い場が、
明るく風通しの良い空気へと一変した。
岳の疝痛の原因は
いまだに腹の中に納まっている。
でもこれで 、流れの先は変わったのかも知れない。
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