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形の向こう側にあるもの/年末年始と1月の営業予定

 

 

目次

「形」とは何か?
形態と形成
形態は過去のもの
形の背後にあるカラクリ
形を見ることから抜け出す
「形成」を捉える
今、ここにある。
年末年始と1月の営業予定

 

 

「形」とは何か?

 

私達はなぜ、

「形」を持っているのか。

 

これは私にとっては

長い間の疑問になっていて、

今も答えを探しながらいます。

 

物理的な身体を持っていることの

理由についてもですが、

 

例えば一つ一つの臓器は

なぜあのような姿形をしているのか、

なぜあの形でなくてはいけなかったのか、

と言った点にも興味は尽きません。

 

なぜ、私たちは

形や形態を持っているのか。

これは正面から取り扱うにはまだ難しい題目ですが、

 

形とは一体何なのか、

形は私たちに

何をもたらしているのかについて、

今回はお話してみたいと思います。

 

 

 

形態と形成

 

「ゲシュタルト」と言う言葉があります。

 

ゲーテによれば、

「形態」を表すゲシュタルトという言葉は

何らかの姿形を伴って現れるあらゆる存在を

まとめて指し示すものなのですが、

 

彼はこの言葉に

ある問題が含まれていることを

指摘しています。

 

それは、

この言葉を用いることによって

生動し変化するものが捨象

される点です。

 

つまり、

あらゆる存在が持っている

生き生きとした活動性を、

この言葉は切り捨ててしまう、

というわけです。

 

彼はまたこの言葉によって

相互に作用しあって

全体を形成するそれぞれが固定され、

他とのつながりを断って

一定の性格を示すことになる

とも説明しています。

(註:「」内の太字はゲーテの表現。)

 

本来は、

すべての存在は「全体」の中にあり、

豊かな関係性やつながりの中で

互いに影響を与えたり受け取ったりしています。

 

例えば、対話している相手によって

自分の異なる面が出ることを

誰しも体験したことがあると思いますが、

 

「私」が示している姿も、

その時々の状況や関係性の中で

豊かに自由に変化しているわけです。

 

ところが、ひとたび

「ゲシュタルト/形態」という

表現を用いると、

 

豊かな「全体」の中から

特定の瞬間や部分が

バラバラに切り取られます。

 

そして、それ単独で示す姿を

固定的に捉えることになる、

というわけです。

 

たまたまムスッと機嫌の悪い時に

ぱちりと写真を撮られて、

「あなたって本当に愛想ないわよね~!」

と決めつけられてしまう感じ、

と言ったら良いでしょうか。

 

 

もし、

私たちが直観的に理解しているような

自然のありのままの姿に近づこうとするなら、

形態ではなく「形成」を大切にする必要がある、

とゲーテは続けます。

 

例えば肉体について考えてみると、

肉体は一瞬たりとも

静止したり固定化することはないので、

本質的には「形態」ではありません。

 

仮に意識的にすべての動きを止めても、

呼吸や心臓の拍動によって

身体の活動は維持され、

全身の細胞は振動し続けます。

 

目で見て分からなくても、

そうした運動によって私たちの姿形は

毎瞬ごとに様相を変え続けているわけです。

 

このように、変化し続けて

運動してやむことがない」ものに対して、

ドイツ語ではゲシュタルトという表現と分けて

形成(ビルドゥング)と呼ぶことを、

ゲーテは理に適っていると考えていました。

(参照:潮出版社『ゲーテ全集14/自然科学論』p.43~44)

 

 

 

形態は過去のもの

 

「形態」と「形成」と言う言葉に対する

ゲーテのこうした考え方に触れた時、

 

彼の頭の中にあった理解は、

量子力学でいうところの粒子と波動に

とても近かったのではないかと感じました。

 

量子は、粒子と波動の両方の性質を

同時に持ちます。

 

波動は、

粒子が常に運動し続けている状態であり、

その運動全体が波動です。

 

波動は動き続けているので、

それがある特定の時に

空間のどの位置を占めるかは不確定です。

 

すなわち、

時空間の中で明確な座標を示すことができない

という特徴を持ちます。

 

一方の粒子は、

時空間の中で静止している点なので、

座標を持ちます。

 

 

 

波動を粒子に変え

粒子を波動に変えるのは、

観察者の存在です。

 

外側から私たちが「見る」と、

その見られた瞬間において、

波動であった量子は

時空間の特定の位置に貼り付けられ、

固定されて粒子となります。

 

 

 

観察者の目が離れると、

粒子は波動に戻ります。

 

 

 

形を生み出し、さらに

変化していく過程である「形成」は、

固定することのできない波動と同じです。

 

一方、形成の中から

一瞬間を切り出したものが

「形態」ですから、

これは粒子と同じです。

 

そして形態は、

切り出した瞬間に過去になります。

形成は一瞬も止まることなく、

常に前へと進んでいるからです。

 

そうだとすると、

形や形態を見ながら生活している時、

私達は「今ここ」ではなく、

過去を生きていることに

なるのかも知れません。

 

 

 

 

形の背後にあるカラクリ

 

こんなことに思いを巡らした数日後、

近所の丘陵公園へと散歩に行きました。

 

この日はとても陽の光が美しく、

木々は紅葉していて、

全てが本当に美しい日でした。

 

リラックスした気持ちで森の中を歩き、

ちょっと知らない小道に入ってみたり…。

 

そんなことをしながら歩いている時に、

ふと頭に浮かびました。

 

今まで私は植物を見る時に、

「形」で捉えようとしていたのだと。

 

そして、

形態で見ているということは

定義づけをしているということであり、

ジャッジでもあるのだと。

 

 

 

普段何気なく使っている

自分のものの見方は、

物事を流動して変化していく

ありのままの姿を捉えるものではなく、

 

それをある特定の視点で切り取り、

そこで「これはこういうものだ」と

定義を決定づけしようとするものだ、

と気づいたのです。

 

そしてまた、

その一瞬間の印象によって

存在を固定されてしまう側からすると、

これはジャッジに他なりません。

 

「形態を見る」ことの

背後にあるカラクリが、

不意に見えた気がしました。

 

 

 

形を見ることから抜け出す

 

形から物事を捉える目を持って、

私達は生きています。

 

と言うことは、

あらゆる瞬間において、

変化し続ける周囲の情景や環境から

ある一面を選択して切り取り、

それを「形態」として認識し続けている、

ということになります。

 

これは例えるなら、

身体と言う全体性を把握するために

まずはバラバラに細部を切り出して、

部分の描写をしていく、

そんな解剖学的な作業と

似ているかも知れません。

 

分解された身体は、

精巧に組み立て直しても

生きた身体には戻らないように、

 

切り出した「形態」を

どれだけ積み重ねてみても、

自分を取り巻く環境や状況の

本質に辿り着くことは難しそうです。

 

形を見るというのは、

私たちが生まれてから

ずっと使い続けて来た、

現実を把握する方法です。

 

そこから抜け出すには、

どうしたら良いのでしょうか。

 

 

 

「形成」を捉える

 

ゲーテは

自然の生きた直観に到達しようとすれば、

われわれ自身が、この生きた自然の示す

実例そのままに形成を行えるような、

 

動的で伸びやかな状態に

身を置いていなければならない。

と言っていました。

 

それなら、

「形成する力」につながろう。

 

シンプル過ぎる試みのようですが、

私たちの意識の力は現実に働きかけ、

変化を生み出します。

 

意図を定め、信頼し、

改めて葉っぱを眺めました。

 

まもなく

自分の内的な感覚に

かすかな動きが生じ、

葉っぱの中のエネルギーの流れと

自分の感覚がつながった、

と感じました。

 

自分の視野に意識を向けると、

目が捉える景色も

少し変わっています。

 

今までは、例えば植物なら

葉っぱの形や幹の形と言う具合に

植物の部分部分が目に入りがちでした。

 

それが、木全体であったり

山の中でその植物が

どう在るかと言うような、

「全体性」がおのずと映り込んできます。

 

 

また、それまでは

観察する私と観察される植物の間には

「あなたと私」という

越えられない壁がありました。

 

それが今は、

植物の中のエネルギーが

自分を通り抜けて行きます。

 

自分もここの一部なのだ、

一体だという実感がありました。

 

歩き進むと、

森が力を与えてくれるのを

感じます。

 

森の中をそよぎ渡るように

大きな生命力が動いています。

 

その中を歩いて行くと、

歩く毎にその生命力が

流れ込んで来る、

そんな感覚でした。

 

 

 

今、ここにある。

 

もしかすると

森の精霊たちの力だったのしょうか、

大切な体験をさせてもらえたことに

感謝をしながら、

帰路に着きました。

 

途中、

橋に差し掛かった時に、

立ち止まって川を眺めました。

 

少し前に台風があったので、

川はとても澄んでいます。

 

川は台風によって

浄化されていました。

 

青色を湛えた美しい水面を見ている内に、

自分の内側を川が通り過ぎていくように

感じました。

 

川の上に立っていることで、

私も川と一緒に浄化されているのだ、

と分かりました。

 

 

 

きっとこういうことが、

「つながっている」

と言うことなのかも知れない。

 

形の奥にある流れと繋がった時、

そこには観察者も

観察されるものもなく、

すべてが共に変化して行くものの

一部としてあり、同時に全体としてある。

 

…そんなことを思っていると、

小さな川が注ぎ込んでいる合流地点に

アオサギが佇んでいるのが

目に入りました。

 

合流地点に重なるように

鎮座している大きな石の上に、

長い首をスッと伸ばして

微動だにせず立っています。

 

 

静かな、大きな存在感。

 

このアオサギは今、

居るべき場所にいるのだと

感じました。

 

そしてその姿は、

私が理解したことは合っている、

というサインのように思えました。

 

そう感じた瞬間、私の胸の中心から

大きな空間がふわ~っと

広がり始めました。

 

その大きく寛いだ感覚は、

深い安堵感と穏やかさに

変わって行きます。

 

身体のあらゆる感覚が

軽やかになると、

私は自分が子供の様に

自由になったのを感じました。

 

 

 

年末年始と1月の営業予定

 

ここのところ、朝晩の冷え込みも厳しさを増してきて、寒い日が続いていますが、みなさんお元気でいらっしゃいますか~?

 

本当に寒いですけれど、その一方で、今年は例年になく青空も陽の光も美しい日が多いように感じます。空気も澄んでいますよね。

 

…なんて、季節の移ろいを見守りながら楽しんでいる内に、年末が目前!

年末年始の営業予定のお知らせがすっかり遅くなってしまいましたが、お伝えさせて下さいね!

 

年末は29日までの営業で、年始は1月7日(通常は定休日の日曜日に当たっていますが、営業を予定しています。)から開始致します。

 

年内はご予約をお受けすることの出来る空枠がございませんので、これからご予約をお考えの方は、新年に入ってからのお日にちでご検討頂けましたら幸いです。

 

1月は、臨時でのお休みの予定はありません。

 

定休日は毎週水・日曜日となります。

リピートで来て下さっているお客様に限ってのお話ではありますが、ご事情があって水曜日や日曜日でとお考えの場合には承ることも可能ですので、その際にはどうぞご相談下さい。

 

営業時間は11時から20時まで、最終の受付時間は16時となります。

 

ご予約のない日は、急遽休みとさせて頂くことがあります。また、当日のご連絡ですと施術のための準備が間に合わないこともありますので、ご予約の際には前日までにご連絡を下さいますよう、ご理解とご協力をお願い致します。

 

 

少し早いご挨拶ではありますが、今年も一年間ネムノキを応援して下さった皆様に、心より御礼を申し上げます。皆様にとって、来年が今年よりもさらに豊かな一年となりますように。

 

それでは!

どうぞ良いお年をお迎え下さいね~!!

「揺らぎ」から、一瞬を切り取る。

知人に、プロのカメラマンではないけれども、

とても印象的で美しい写真を撮る人がいます。

この記事の冒頭のシャボン玉を吹く少女の写真

『野焼きの合間に』をはじめ、

文中に出て来る写真も、

今回掲載しているものはすべて、

彼女の珠玉の作品です。

デザイナーを本職とする彼女の作品は、

その対象が人物であっても風景であっても

それ自体とは違う何かを、観る側に語り掛けてきます。

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

沢山の人から彼女の写真に寄せられるSNSのコメントを見ていると、

そう感じているのは決して私だけではない様です。

ず~っと、

彼女の写真の帯びている不思議な空気や

語り掛ける力が一体どこから来ているのか、

私自身が写真の何を通してそう感じているのかを、

理解したいなぁと思っていました。

先日のこと。

それが、やっと分かりました。

そしてその分かったことが、

ここ数か月、私の意識の中で

印象的に引っかかっていた事とも

繋がっていたことに気付きました。

彼女は、写す対象が彼女に働きかけてくる「何か」を

敏感に感じ取ります。

そうした働き掛けを受け取ることが、

写真を撮るきっかけになっているとも言えます。

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi 

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi

私も含め、写真を撮る多くの人は、

自分が目にしているものそのものを写そうとすると思います。

彼女の場合は、

「働きかけられる私」の存在が、写真の中に息づいているのです。

写す行為を通して記録されるものは、彼女自身の世界であり、

心象風景なのだと思います。

この記事へ彼女の作品を転載したい

という旨のご連絡を差し上げた時に、

彼女はこんな風な表現をしていました。

「『まばゆい何か』が気になって仕方が無くて、

写真を撮っています。」と。

写真を観た人は、彼女の観る世界の中に入り込み、

彼女の「視点」にスッと重なる体験をします。

例えば、この写真のように。

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

ああぁ、おいしそうだ…。

美味しそう過ぎて、もう、切ないくらい。

観ているこっちまで、

口の中が酸っぱくなって来ます。

つまり、普段の自分とは異なる視野で

ものを見、感じる経験を

写真を通して実際にしているのだと思うのです。

単に写真を見ていると思っている私たちは、

写真を見る瞬間に「異なる視野の中に入る」という自覚を

持つことは、通常ありませんよね。

その為、何とも言えない不思議な気持ちになるわけです。

こうした感覚を体験させてくれる作品と言うのは、

そう沢山はないだろうと思います。

こうしたことを可能にしているのは、彼女が

現実世界を切り取る彼女らしい「平面」を

鮮明に持っている為だろうと思います。

この、現実世界をどういう平面で切り取るか、

その切り取り方が安定的で鮮明であるかどうかが、

その人がプロと名乗っているかどうかに関わらず、

「本物」と「素人」の仕事を分けているのかも知れません。

私たちが目にしているこの世界は、

常に揺らぎ続けています。

これは刻一刻と情勢が変化して行く様な

社会的な側面について言っているのではなく、

私たち人間を含む全ての存在が、

波として動き続ける粒子から成っていることを

念頭に置いています。

分子生物学者の福岡伸一氏は、

著書『動的平衡』の中でこう述べています。

(『動的平衡』p231)

「個体は、感覚としては

外界と隔てられた実体として存在するように思える。

しかし、ミクロのレベルでは、

たまたまそこに密度が高まっている

分子のゆるい「淀み」でしかないのである。」

波打ち、流れ続ける分子の海、

その中に出来た「淀み」が、

三次元の肉体を持つ私たちという存在。

存在は粒子から成るものだけれど、

そこに時間の概念を加えた時に

粒子は波としての性質を現します。

そして、それぞれの存在、

例えば臓器の一つ一つにも、

それ固有の波の大きさやリズムがあり、

様々な波の入り混じった複雑な倍音の総体として、

私たち一人一人は存在しています。

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

少し話が脱線気味になって来ましたが、(;^ω^)

人間に限らず、この世界を彩る全ての存在は、

常に揺らぎ続ける流動体なのです。

これを私の専門である身体に引きつけて考えるなら、

身体もまた、変化し続けることが常です。

留まり、固定化することはもちろん、

それが固定化することを私たちが望むことさえ、

例えそれが理想的な状態に思えるものであったとしても

身体の本質に添った在り方ではないのです。

自然も、建物も、生命も。

私たちが目にする対象の全ても、

それを観る私たちの目も。

揺らぐ目が、

揺らいでいる道具を使って

揺らぎの中にある対象の姿を切り取る。

自分の内なる心象風景を

カメラを用いて瞬間の中に切り取るという事は、

いわば、

揺らぎの合間のわずかな瞬間にのみ生じる

全てが符合するまばゆい閃き、それを捉える、

非常に繊細な「チューニング」のような作業だと

言えるかも知れません。

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi