桜の時期があっという間に終わり、気が付けば花粉症も終盤となって、すっかり辺りは新緑の季節!
…すでに新緑も深まって来てるかな?
大変お久しぶりの記事となりました!皆さん、お元気に過ごされているでしょうか?
ブログをアップしようしようと思いつつ…。
花粉症に関連した記事を書いていたのですが、季節に追い越されてしまいました(;^ω^)
そうこうしている内に、4月下旬。実は、neMu no ki は4月の中旬に誕生しました。
2009年のことでしたので、今年で丸9年。10年目に突入、という計算になります。
ここまでの道のり、ずっと前を見ながら歩み、少しずつでも確実に成長して来れたなぁと、自分のことながら感じています。
初期の頃から変わらずに来院して下さっているお客様もおり、お客様に育てて頂きながらここまで来られたことに、深い感慨と感謝を覚えています。
皆さん、本当にありがとうございます。
そして、本当によく頑張って来たなぁ~。
…と言うわけでして、予定変更。
今回のテーマは10周年に寄せて、改めて「身体」というものと私自身との関わりについて、自由に書いてみようと思います。
私たちは「身体」そのものではない
先日のこと。
施術が終わった後、クライアントさんに身体の説明をしていました。
何か日常的に気を付けることはありますか?と聞かれたので、意識的にやるべきことは特にありません。ただひたすら、身体がどの様に変化するかを見守り、観察してあげて下さい。と答えました。
クライアントさんは笑いながら、「まるで身体が自分と一体じゃないみたいですね。」と言いました。
その通りです。私たちは身体そのものではありません。
自分の中では当然のことになっていましたが、クライアントさんの意外そうな声を聞いて、「私たちが身体そのものではない」と言う事柄について改めて考えてみたくなりました。
意識の働きである「私」
「自分」が身体と一致していない、自分と身体は別物だと感じたのは、幼稚園の頃だったでしょうか。
家のすぐ近くには公園があって、そこへは坂道を下って行きます。
車の滑り止めなのでしょう、坂道には大きなドーナツ型の凹みが幾つもあり、公園に向かって駆け出そうとすると、必ずと言って良いほど足を取られました。
自分で思っている程、足が上がっていなかったのでしょう。バターンと派手に転倒すると膝小僧には大きな擦り傷が出来、ジクジクする痛みと思うように遊べないもどかしさで、悲しい気持ちになりました。
小さい頃、歌を歌うことも好きでした。
小学校に入る前からピアノを習っていたので、音程はちゃんと取ることが出来ました。
でも、ある一定の高音域になると、頭の中では音をイメージ出来ているのに、声は上がらなくなります。
理由はわからないけれど、喉が締め付けられる感じがして、潰れた声になるのです。
こうした体験を通して、身体は自分の思い通りにならない、身体は私を裏切っている。そんな風に思うようになっていました。
やりたいことを妨げ、自分を裏切っている身体は、自分と異なる異質なもの。
身体なんていらない。心だけで良いのに。
今となっては懐かしいです。当時はそんな捉え方をしていました。
この頃は、「自分は身体そのものではない」という表現にはなりませんでしたが、「自分」は心や意識と言う目に見えない「働き」であって、目には見えなくても、「私」という意識として存在している「自分」は、物質的な身体とは別物だ。ということを、体験的に知っていたと思います。
そして、小学校の中学年か高学年の頃になると、体育の時間、思ったように逆上がりが出来ない自分を前にして、こんな考えが浮かびました。今でもよく覚えています。
―
同じように手足を持ち、同じように全てに神経が通っているのに、運動が得意の人もいれば、自分のように苦手な人もいる。
身体を作っているものに差があるわけではない。私も健全な身体を持っている。それならこの能力の差は、一体どこから生まれるんだろう?と。
今にして思えば、これが「身体」と言うものへの私なりの探求の入口になっていたのだなと思います。
自己変容の夢
大学生の時、「錬金術」という言葉と出会いました。
選択必修科目に比較宗教学という授業があり、そこで初めて神秘主義的な世界を知りました。
中でも「錬金術」は特に興味を惹かれるものでしたが、それは卑金属が貴金属に変わる疑似科学としてではなく、純粋に形而上学的なものとして魅力を感じました。
二つの極にあるものを統合し、それによって「高く純粋なエッセンス」が物質の中に現れ出ると、鉛のように卑しい性質のものですら、金のように貴いものへと変容する。
ただ、それには大前提があって、それが可能となるのは、術者自身の変容が伴った時である。
錬金術は、私の中にそう響きました。
当時の私にとって卑しくて不要なものと言えば、何といっても「身体」でした。
10代の多感な時代、体験していた心理的な困難さもすべて含めて、あらゆる苦しみの原因は身体という物理的な姿形を持っていることにある、と考えるようになっていました。
自分の一部でありながら、嫌い疎んじていた身体ですが、その中からもし「高く純粋なエッセンス」を引き出すことが本当に出来れば、身体は尊いものへと変わり、自分という存在そのものが大きく変化するに違いない。
錬金術と出会ったことで、自分でありながらコントロールの利かない身体と、それに苦しむ自分自身とが変容する可能性を、見つめるようになりました。
2つの原体験 ~ 弓と馬がくれた贈り物
錬金術と出会った前後の時期、2つの不思議な体験がありました。一つ目は、弓道場での出来事でした。
当時、弓道は習い始めてから1年経ったかどうかの初心者でしたが、私には一つのこだわりがありました。
それは、的を射ようと意図しないこと。
和弓には、動作の「型」があります。「型」に即して的確に身体を使うと、弓は驚くほど軽やかに、大きく開きます。
弓が楽に大きく開けば開くほど、矢は勢いよく真っすぐブレることなく飛んで行きます。
矢が的を射抜くかどうかは、弓を引く姿勢と動作の中にどれだけ調和と秩序を体現できたか、その結果でしかありません。
まず的を射ようと思わなければ的に矢は当たらないよ、とアドバイスをくれる方もいましたが、的を射るために弓を引くつもりはないという気持ちはどんな言葉にも勝り、決してブレることはありませんでした。
逆転した的と矢
ある日、弓を引き分け始めると、自分の身体の軸が真っすぐに立ち上がり、右半身と左半身のバランスがそれまでになく整っているのを感じました。
弓の張力も驚くほど軽く感じ、簡単に大きく広がります。
弓を最後まで引き分けると、矢は口の横に吸い付くようにピタリと添い、スッと静止しました。
全てが収まるべきところにある。
そんな感覚を感じながら、的を狙うでもなく息を詰めるのでもなく、ただ身体のバランスに確かな秩序があるのを感じながら、なおも弓を引き続けました。
矢は弓から離れた瞬間に、的に当たると分かりました。
矢は、放たれたと同時に的の中心と重なると、一つの点になりました。その点はまるで静止しているように見え、今は動かぬ点となったその矢に向かって、的が近づいてくるのが見えました。
的は次第に大きくなると、自らの中心に寸分の狂いもなく矢を真っ直ぐ受け入れました。
全ては滞りなく、当然のように流れて行きました。
全てはゆっくりと見え、一部始終がはっきりとしていました。
馬の気持ちに寄り添う
二つ目は、馬場での出来事でした。
当時所属していた大学の馬術部では、暑さを苦手とする馬達を連れて夏休みの間は長野で合宿をしていましたが、その年、合宿先の馬場が改築して、屋根付きの覆い馬場へと姿を変えていました。
普段乗せてもらっていた馬はチャウと呼ばれる雌馬で、落ち着いた大人しい性格でした。
合宿所に着いてほどなく、先発組の先輩がチャウに騎乗しているのが見えました。
…あれ?
馬場の中にいるチャウは落ち着かない様子です。
乗り手の言うことがまったく耳に入らないようで、神経質に足踏みをし続けています。その動きは、何かがすごく気になっていてこの場から逃げ出したいけど、何とか我慢して自制している。けどとても怖い!と言っているように見えました。
そんなチャウを見ていて、ふと気付きました。
そうか、屋根が付いたことで知らない場所に来たと思って、不安に感じているんだ。ゆっくり歩かせればきっと落ち着くのに、と。
鞍上にいた先輩はこちらに気付くと、まるで私の心の声が聞こえたかのように、不意に乗り替わるように言いました。当時の私はほぼド素人でしたから、通常ならあり得ない危険な提案です。
でも、私には確信がありました。
上手く御すことはそもそも出来ないんだから、とにかくチャウを落ち着かせよう。きっと出来る。
信頼がもたらした奇跡の調和
チャウの背中からは、状況が呑み込めない事への不安が伝わってきました。彼女の焦りに巻き込まれないように、自分の意識と呼吸を鎮めます。やるべきことが、はっきり分かりました。
3~4歩進んだら、ゆっくり止まる。再び歩き出す時には出来る限りそっと指示を出して、チャウが安定した気持ちのままゆっくり歩き出せるようにする。これを、落ち着いたと感じるまでひたすら繰り返そう。
馬場を半周する頃、チャウの歩様がゆっくりになり、動きが自覚的になりました。
もう大丈夫。自分の置かれている状況が理解できたみたい。それなら今度は少し速歩(はやあし)をしよう。更に環境に慣れるように。
そう考えて、先ほどより少し素早く脚で指示を出しました。
すると、
ふわ…っ
チャウが足を前に踏み出すと、まるで雲に乗っているような浮遊感を感じました。
馬の速歩は上下動が大きく、リズムに合わせて乗るのはいつも一苦労だったのに。
言葉では表現し尽くせない、心地良く滑らかで軽やかな乗り心地、そして一体感。馬に乗ることが、こんなに気持ちよく楽しいことだったなんて!
今は馬の方がこちらの動きに合わせてくれていることは、明らかでした。寸分違わぬ完全なタイミングで、チャウがリズムを支えてくれています。
運動をしている間、私の手と馬の口とを繋ぐ手綱も、ロックされているかのように同じ長さに保たれていました。いつもは気付くと手綱がゆるんでいて、「ちゃんと握れ!」って怒られてばかりだったのに。
その手綱の張力を使って、チャウはきれいに首を丸めています。まるで、それが彼女にとって最も自然で楽な姿勢だと言わんばかりに、自ら屈撓していました。
チャウの信頼が伝わって来ます。
私の手が手綱を引いているのでもなく、チャウの口が手綱を引っ張っているのでもなく。
どこからか「調和」が降って来たかのように、私たちの間には完全に釣り合いの取れた「調和した拮抗」が存在していました。
体験の意味を求めて
これら2つの体験は、互いによく似ていました。
今思えば、あれは「高く純粋なエッセンス」が何なのかを知りたいという、私の願いに対する答えだったと分かります。
でも当時は、そこに通底しているものが何なのか、幾ら考えても分かりませんでした。
錬金術では、実践的・実験的であることが大切にされていましたから、錬金術的な世界観に大いに影響されていた私は、あの体験の意味を理解するために何か行動をする必要があると考えました。
そこで選んだのが、流鏑馬をやっている牧場で働くこと。
弓と馬という2つの原体験のど真ん中に、飛び込むことに決めたのでした。
中心軸を乱す力の発見
馬たちとの生活の中で何よりも大きく変化したのは、身体感覚の感受性でした。
馬たちの身体は、全身センサーとでも言えるような敏感さと繊細さを持っています。
彼らと肌を接して触れ合う内に、彼らが肉体を通して感じ取っていることを、共振的に感じるようになって行きました。
そうした彼らにとって騎乗されることがストレスとならないよう、毎日の乗り運動においては自分のバランスに細心の注意を払いました。
左右のバランスが崩れて馬の身体に歪みが生じないよう、自分の中心軸を通すことだけに意識を注ぎました。
中心軸に意識を合わせ続けている内に、身体の中にその軸を乱そうとする無駄な力が働いていることに気付き始めました。
例えば、一部の筋肉は意識が通いにくくなっていて、それが「思った通りに身体が動かない」という状況を作り出していたり、
またその逆に、使わない様に意識をしても勝手に作動してしまう箇所もあって、それが本来働くべき筋肉を制して先んじて動いてしまうことで、動きののびやかさや美しさが阻害される、ということが生じていました。
~同じ仕組みの身体なのに、なぜ能力に違いが生まれるのか?~
幼い頃に抱いた問いへの糸口が、見つかったと感じました。
筋膜的な感覚の世界
身体について理論と実践を交えて本格的に学び始めて1年を経た頃、「筋膜」という組織を扱う施術に出会いました。
筋膜には、身体の各部で生じている歪みや緊張がつぶさに投射されると知り、ここに求めている答えがある、と思いました。
とは言え、目には見えない体内の組織です。
実際に自分の手が触れているのが筋膜であることを信じながら、毎日、暇さえあれば筋膜を意識しながら自分の身体に触れては手の感覚を育て、また筋膜の中に歪みや緊張の兆候を探してはそれを整え直して、施術の練習を重ねました。
電車の中でも、テレビを観ている時でも、とにかく四六時中でした。
そうした中で、筋膜に生じている歪みの感覚は、ストッキングを捻じれて履いた時の何とも収まりの悪い気持ち悪さに似ている、と感じることが幾度か重なりました。
そして、たまたま目にしたロルフィングのwebサイトで、「筋膜はストッキングのようなもの」という記述を見つけます。
感じていたことは合っていた。
感じ取っていたのは確かに筋膜の感覚だと思わぬ形で太鼓判をもらい、自信を持って進みなさいと言われたような気がしました。
それ以降、筋膜に映し出される緊張や歪みの情報を正確に拾うことと、それらの背後にはどのような姿勢や動きの影響があったのかを丁寧に分析・洞察することに、一層力を注ぎました。
身体のブループリント
筋膜を通して身体と繋がり、身体が伝えてくれる感覚への信頼が深まると、身体は多くのことを教えてくれるようになりました。
感覚と感情は実は同じものであって、それを異なる入口から取り出しているだけであることや、
身体は自分が本来あるべき姿形を知っており、いつでもそこに向かって戻って行こうとしていること…。
そうなのです。
つまり身体は、本来のあるべき姿のイメージを自分の内側に青写真もしくは鋳型として持ち続けています。
筋膜に生じている歪みや緊張が解けると、身体は秩序と調和のとれた形へと自ずと戻って行きます。
無理に力を加えたりしなくても、身体自身の中で変化して行くべき方向性をちゃんと知っており、それを私たちに示すことも出来るのです。
身体の中に知性があると知った時、身体への敬意が生まれました。
そして、施術が施術者の判断によるのではなく、身体自身の意思と判断を尊重し、そこに純粋に寄り添うものになれたなら、身体にとっての「高く純粋なエッセンス」に他ならない身体本来の姿=ブループリントが、現実の身体として体現されるだろう。
そう思うようになりました。
6月末までの営業予定
最後になりましたが、ここから6月末までの営業予定をお知らせ致します!
臨時でお休みとなる日は、5月21日(月)、6月18日(月)となります。
(もし他にもお休みとなる日が出て来た場合には、ここに随時追加して行きますので、ご確認下さい。)
ゴールデンウイーク中も、通常通りの営業を致します。祝祭日に関わりなく、毎週水・日曜が定休日となります。
営業は11時から20時まで、最終の施術受付時間は15時半とさせて頂いております。
リピートで来て下さっているお客様は、ご事情がおありの場合は定休日でもご予約を承ることが可能ですので、必要な場合には遠慮なくお問合せ下さいませ。
それでは、皆様のお越しを心よりお待ちしています。
今後とも、neMu no ki をどうぞよろしくお願い申し上げます!