どんな施術?どんな施術者?が分かる記事」カテゴリーアーカイブ

「身体の声を聴く施術」が出来るまで / 年末年始までの営業予定

目次


知性ある身体

身体を信頼する
揺らぐ自己信頼
コントロールを手放す
パターン化した緊張
変化しない自由
善悪のジャッジを超えて
年末年始までの営業予定

すっかりブログの更新が

のんびりになっておりまして、

10月の営業のお知らせをしないまま

11月に入り、しかも

11月も中旬となりましたが(^^;

皆様お元気でしょうか?

今年は、

neMu no ki にとっては

開業10年目の年。

施術は、この10年の間に

大きく変化して来たなぁと

改めて思います。

施術の方法は、

基本的には変わりません。

ですが、

相手にしている「身体」そのものが

その現れをどんどん変えて行きました。

知性ある身体

初めの頃は、

物理的な肉体の「質感」を頼りに、

施術を行っていました。

この時期、

私が向き合っている「身体」は、

あくまで観察されて施術を施される

受動的な「客体」でした。

それはやがて、

望む変化を自ら選んで

その方法を能動的に示す、

施術の「主体」となって行きます。

身体は

単純な物理的な肉体ではなく、

能動性と知性を持つものとして、

その本来の姿を現し始めたと感じました。

10年経た今、

施術の中での身体は、

自らの中に蓄積して来た体験を

まるで地図のように、

体表というキャンバスに描き出します。

地図は、

「音」によって描かれます。

身体の声とでも言うべき、

身体から響いて来る

音なき音を施術者が聴き、

様々な方向へ自由に移動する

その音を追いかけて行く内に、

それは地図となります。

この10年で起きた変化は、

施術における身体と施術者との

関係性の変化ももたらしました。

「施術者が行う施術」から、

身体が主体となって展開する

「身体が行う施術」へ。

こうした変化が生じたのは、

施術者としての私自身が

自らの意識を大きく切り替える事を

望んだことが始まりでした。

身体を信頼する

「自然治癒力」と言う

言葉があります。

もし、身体が本当に

自然治癒力を持つのなら、

当事者ではない治療者や施術者が

経験則やデータを元にして

方針を決めて治療や施術を行った後、

そこから先だけ

本人の身体の回復力に任せる様な

従来の治療や施術の在り方は、

治療者や施術者にとって

都合が良いだけだと思いました。

身体の回復力、

その治癒力を本当に信頼するなら、

どのように治癒を進めていくか

その方針を決める事自体も

身体に任せるべきだし、

身体にはそれを決められる力が

あるはずだと思ったのです。

身体の持っている力が

どのようなものか

まだ全く分からないけれど、

とにかく信頼して委ねてみよう。

身体を信頼して、

施術の全てを身体に委ねよう。

そう意図したのが始まりです。

そうした意識を持って

向き合う内に、

身体は最良の方向へ向かうために

必要なことを全て知っており、

またそれを表現するための

叡智も持っている、

つまり「知性」ある生命だ

ということが、

明確になって行ったのでした。

このようにして

変化して行く身体と

向き合うことは、

私自身にも大きな変化を

もたらしました。

今回は、

そんな風にして起こった

私自身の内側の変化の一つを、

お話しようと思います。

揺らぐ自己信頼

スピリチュアリズムや

精神世界に興味のある方は、

リーディングやチャネリング

と言う言葉を

聞いたことがあると思います。

霊的な存在とコンタクトを取り、

あるいは彼らに自らの身体を

一時貸すことによって、

彼らの言葉をこの世界に

もたらすことを表します。

リーディングやチャネリングを行う

能力者にとっては、

自分が本当にそうした存在と

繋がることが出来ているか、

また彼らの言葉をちゃんと

聴くことが出来ているかなど、

多くの人からは目に視えない存在を

媒介しているがために、

責任を持ってその役割を

担おうとすればするほど、

自分を疑う要素が出て来ます。

霊的な存在の姿を見たり

声を聴くことが出来れば、

行き先を迷うこともなく

生きるのは楽なように思えますが、

そうした役割を確かに担うには、

他の人が視たり聴いたり

することのないもの、

つまり

その存在の根拠を

自分以外の人間に求めることが

出来ないもの、

そうした性質のものを

感じ取っている自分自身への、

丸ごとの信頼が必要となります。

「身体の声」を聴くことへと

施術が変化し始めた時、

これと同じ事情により

私の中でも自分への信頼が

ぐらつき出しました。

身体の声をちゃんと

聴き取れているかどうかは、

施術が終了すれば分かります。

身体の変化の仕方と

そこに描かれる地図とが、

それを示すからです。

ですが、

施術を行っている間は、

身体がどこへ進もうとしているのか、

どこにどのような変化を

もたらそうとしているのか、

行き先の読めない状態で

身体に耳を澄ませることになります。

コントロールを手放す

このような時、

「こうかも知れない」という

見立てを立てれば

少しは安心できるかも知れません。

ですが、「見立て」は

施術者が身体の変化を

方向づけする意識なのです。

そうした意識を持つと、

実は身体はそのように反応します。

身体は、身体の持ち主だけでなく

周囲の人の意識の動きにも

敏感に反応しています。

そして、その意識が

誰からもたらされたものなのかを

区別しません。

身体自身が望むような変化を

現実化させて行くサポートをするなら、

施術者が身体の変化の方向を

決めるような意図を持つことは、

身体にとって邪魔になります。

予断、判断はすべて手放して、

身体の望むことだけを

聴き取る意識が必要なのです。

予断も判断もしないで

臨床に立つと言うのは、

丸腰で戦いの場に

赴くようなもので、

恐さを伴います。

最初の内は、

今回も最後に決着するだろうか、

ちゃんと全ての辻褄が合う形で

結果が出るだろうかと、

施術の度に不安がよぎりました。

あるいは、

微細な音なき音を

聴き取れなかったらどうしようと

思う時もありました。

施術者という役割を支え、

施術者であることに

価値と保証を与えてくれるのが、

施術で生じる「結果」だと

思っていたため、

結果をコントロールしたくなる誘惑、

分かりやすい大きな変化を

身体に生じさせたいと思う気持ちは、

幾度も執拗に現れました。

こうした誘惑を手放して、

結果にこだわる意識から

自分を解放しないと、

目指している施術には

手が届かないことは感じていました。

誘惑を手放すには、

背後にある自分の感情と

それを生み出している思考に

向き合うことが不可欠です。

施術者として結果を出さないと

という責任感や、

結果が伴わなければ

お客様が離れていくかも知れない

という恐れ、

明確な結果を出すことで

認めてもらいたいと思う気持ちや、

自分がやっていることは

本当に正しいのだろうかという

自分への信頼の欠如…。

驚くほど沢山、

手放すべきものが見つかりました。

そうした感情や思考を

一つ一つ丁寧に拾い出し、

手放す作業を行う内に、

コントロールを欲する気持ちの

背後に隠れていた大きなものに

気付きました。

それは、身体の声として

感じ取っていることは、

自分が勝手に作った

思い込みではないのかという

自己不信でした。

そのため、

確実な証明や保証を

「結果」という形で

求めようとしていたのです。

ですが、

本当は外側から

保証されることではなく、

自分が感じたことと自分自身を

掛け値なく「信頼」することが

重要だったのです。

ただひたすら

身体を信頼してみよう。

施術の初期の頃に

そう決めた自分が、

自分を信頼出来ていなかったことに

気付けたのでした。

パターン化した緊張

自分の内側が

整理されて行くと、

結果をコントロールしたい

という意識は

自分のハートの周囲を

ぎゅっと押さえ込み、

そこに絶え間ない緊張を

生み出していたことも、

感覚としてはっきりと

捉えられるようになりました。

徐々に軽減してはいましたが、

施術の度に感じていた

ハートの周囲の緊張は、

放っておくと

施術すること自体を苦痛にし、

施術に臨む気持ちを

萎えさせる可能性のあるものでした。

施術の間に感じる緊張は、

いかなるものであれ

施術者に疲労を残します。

長い時間の施術や

集中力を要する施術では、

一回一回の施術は

本当に楽に行えることが重要です。

とりわけ、

人と人との関係性を司り、

施術の際には

最も活躍するチャクラが位置する

ハートの周囲に緊張があると、

施術は必要以上に疲労を生む

辛く苦しいものとなります。

更に問題なのは、

コントロールの欲求と

結びついた形で

ハートに緊張があることで、

意識の上ではコントロールを

手放しているにも関わらず、

施術の際にはその緊張が、

コントロールしようと

自動的に反応を起こす、

言わばプログラムのような形で

作動することでした。

結果へのコントロールを

完全に手放すためにも、

何としてもハートの緊張を

手放す必要がありました。

変化しない自由

思いに反して、

コントロール意識と癒着して

パターン化してしまっていた

ハートの緊張は、

容易には解けませんでした。

何とかしようと

四苦八苦していた

ある日の施術中、

ふと

「変化しようがしまいが、

身体の自由。

どっちでも良いんだ!」

と気付きました。

それはハートの緊張の話ではなく、

クライアントの身体のことです。

施術者なのに、

クライアントの身体が

変化してもしなくても

どっちでも良いなんて、

それまでの自分なら

何て無責任な、あり得ない!

と思ったはずです。

でもその時は、

急にそう閃きました。

そう思った途端に、

ハートの周囲が

フワッとゆるむと、

何の緊張も感じることなく

臨床に臨んでいる自分がいることに

気付いたのです。

コントロールしようとする意識を、

ついにやっと、本当に

手放せたのだと分かりました。

手放したと言うより、

今まで握りしめていたものを

ぽ~んと気持ちよく

放り捨てたと言った方が、

その時の実感に近いかも知れません。

当のクライアントさんの

身体はと言うと、

どっちでもどうぞと言われて

変化をやめるどころか、

自由にエネルギーを吸収して

大きく素早く変化を起こしました。

まるで、全ての枷が外れて

やっと自由に変化が出来る、

とでも言う様に。

変化する・しないも含めて

全てを身体の意思に委ねること。

それが身体にとっては

何よりも望ましいサポートなのだと、

心底理解した瞬間でした。

善悪のジャッジを超えて

変化するもしないも、

身体の自由。

そう思えた時に、

実はもう一つ

手放していたものがありました。

それは、

変化することは良い事、

変化しないのはダメな事、

と無意識の内に決め付けていた

思考のパターンです。

これは、

物事を善悪の両極に分断させる

ジャッジの意識でした。

ジャッジの意識を持つと、

一旦ダメだと判断したものは

その全てが「ダメ」に見え、

そこに含まれている

豊かな価値や意味に

気付くことを妨げます。

これを手放せたことで、

「変化しない」という現象にも、

身体にとっては必然性と理由が

ちゃんとあること、

変化する時はもちろんのこと、

期待したようには

身体が変化しない時にも、

どちらにも同じように

重要な意味があるのだと、

信頼できるようになりました。

そして、

それは身体だけでなく、

全ての物事に関しても

そうなのだと。

身体の声を聴いて行う施術は、

こうしてやっと、

一切を身体に委ねて

行う施術になりました。

確実な結果(変化)を出す

責任から解放されて、

施術者は、身体の変化を

クライアントと共に見守る

オブザーバーとなりました。

施術は楽ちんだし、

どんどん楽しくなっています!

また、施術者の役割が変わると、

こんなことも分かって来ました。

それは、施術は身体に

変化を起こすためのものではなく、

施術を受ける前に

その時に必要な変化を

身体はすでに起こしていること、

そして、施術はその変化が

肉体にはっきりとした形で

現実に現れるよう、

変化を確定し、

その現実化を助ける為の

ものであると言うことを。

年末年始までの営業予定

あっという間に

季節が過ぎて、

今年も残すところ1ヶ月半。

わ~、そう書いて

ちょっとビックリ!

少し気が早いですが、

年末年始までの営業予定を

お知らせしますね。

11月はすでに

ご予約がいっぱいですが、

キャンセルやご変更が

出る場合もありますので、

ご希望の方は遠慮なく

お問合せ下さい。

12月は以下の日程が

臨時休業となります。

10(月)、17(月)、

18(火)、25(火)

これらの代替日として、

通常は定休日の水・日を

以下の日程で開院します。

12(水)、19(水)

23(日)26(水)

年末年始の休業は、

12月28日~1月2日です。

年始は3(木)~5(土)を

開院致しますが、

7(月)~11(金)まで

再度お休みとなります。

年末年始のご予約をお考えの方は、

お早めにお問合せ頂ければと思います。

今年は秋に入ってからも

暖かさ(暑さ?)を感じる日が

多くありましたが、

だんだんと気温が下がって、

やっと秋らしくなって来た気がします。

晴れた日には

本当に青空が美しいですし、

隣家の柿の木も

豊かな彩を見せてくれていて、

勝手ながら借景を

楽しませて頂いています!(笑)

皆さんも、どうぞこの季節を

目いっぱい楽しんで下さいね~!

身体の錬金術 ~ neMu no ki 10年目に寄せて/6月までの営業予定

 

 

桜の時期があっという間に終わり、気が付けば花粉症も終盤となって、すっかり辺りは新緑の季節!

…すでに新緑も深まって来てるかな?

大変お久しぶりの記事となりました!皆さん、お元気に過ごされているでしょうか?

    ブログをアップしようしようと思いつつ…。

  花粉症に関連した記事を書いていたのですが、季節に追い越されてしまいました(;^ω^)

そうこうしている内に、4月下旬。実は、neMu no ki は4月の中旬に誕生しました。

2009年のことでしたので、今年で丸9年。10年目に突入、という計算になります。

ここまでの道のり、ずっと前を見ながら歩み、少しずつでも確実に成長して来れたなぁと、自分のことながら感じています。

初期の頃から変わらずに来院して下さっているお客様もおり、お客様に育てて頂きながらここまで来られたことに、深い感慨と感謝を覚えています。

皆さん、本当にありがとうございます。

そして、本当によく頑張って来たなぁ~。

    …と言うわけでして、予定変更。

今回のテーマは10周年に寄せて、改めて「身体」というものと私自身との関わりについて、自由に書いてみようと思います。

 

私たちは「身体」そのものではない

先日のこと。

施術が終わった後、クライアントさんに身体の説明をしていました。

何か日常的に気を付けることはありますか?と聞かれたので、意識的にやるべきことは特にありません。ただひたすら、身体がどの様に変化するかを見守り、観察してあげて下さい。と答えました。

クライアントさんは笑いながら、「まるで身体が自分と一体じゃないみたいですね。」と言いました。

その通りです。私たちは身体そのものではありません。

自分の中では当然のことになっていましたが、クライアントさんの意外そうな声を聞いて、「私たちが身体そのものではない」と言う事柄について改めて考えてみたくなりました。

 

意識の働きである「私」

「自分」が身体と一致していない、自分と身体は別物だと感じたのは、幼稚園の頃だったでしょうか。

家のすぐ近くには公園があって、そこへは坂道を下って行きます。

車の滑り止めなのでしょう、坂道には大きなドーナツ型の凹みが幾つもあり、公園に向かって駆け出そうとすると、必ずと言って良いほど足を取られました。

自分で思っている程、足が上がっていなかったのでしょう。バターンと派手に転倒すると膝小僧には大きな擦り傷が出来、ジクジクする痛みと思うように遊べないもどかしさで、悲しい気持ちになりました。

 

小さい頃、歌を歌うことも好きでした。

小学校に入る前からピアノを習っていたので、音程はちゃんと取ることが出来ました。

でも、ある一定の高音域になると、頭の中では音をイメージ出来ているのに、声は上がらなくなります。

理由はわからないけれど、喉が締め付けられる感じがして、潰れた声になるのです。

 

こうした体験を通して、身体は自分の思い通りにならない、身体は私を裏切っている。そんな風に思うようになっていました。

やりたいことを妨げ、自分を裏切っている身体は、自分と異なる異質なもの。

身体なんていらない。心だけで良いのに。

今となっては懐かしいです。当時はそんな捉え方をしていました。

この頃は、「自分は身体そのものではない」という表現にはなりませんでしたが、「自分」は心や意識と言う目に見えない「働き」であって、目には見えなくても、「私」という意識として存在している「自分」は、物質的な身体とは別物だ。ということを、体験的に知っていたと思います。

 

そして、小学校の中学年か高学年の頃になると、体育の時間、思ったように逆上がりが出来ない自分を前にして、こんな考えが浮かびました。今でもよく覚えています。

同じように手足を持ち、同じように全てに神経が通っているのに、運動が得意の人もいれば、自分のように苦手な人もいる。

身体を作っているものに差があるわけではない。私も健全な身体を持っている。それならこの能力の差は、一体どこから生まれるんだろう?と。

今にして思えば、これが「身体」と言うものへの私なりの探求の入口になっていたのだなと思います。

 

自己変容の夢

大学生の時、「錬金術」という言葉と出会いました。

選択必修科目に比較宗教学という授業があり、そこで初めて神秘主義的な世界を知りました。

中でも「錬金術」は特に興味を惹かれるものでしたが、それは卑金属が貴金属に変わる疑似科学としてではなく、純粋に形而上学的なものとして魅力を感じました。

二つの極にあるものを統合し、それによって「高く純粋なエッセンス」が物質の中に現れ出ると、鉛のように卑しい性質のものですら、金のように貴いものへと変容する。

 

ただ、それには大前提があって、それが可能となるのは、術者自身の変容が伴った時である。

錬金術は、私の中にそう響きました。

当時の私にとって卑しくて不要なものと言えば、何といっても「身体」でした。

10代の多感な時代、体験していた心理的な困難さもすべて含めて、あらゆる苦しみの原因は身体という物理的な姿形を持っていることにある、と考えるようになっていました。

自分の一部でありながら、嫌い疎んじていた身体ですが、その中からもし「高く純粋なエッセンス」を引き出すことが本当に出来れば、身体は尊いものへと変わり、自分という存在そのものが大きく変化するに違いない

 

錬金術と出会ったことで、自分でありながらコントロールの利かない身体と、それに苦しむ自分自身とが変容する可能性を、見つめるようになりました。

 

2つの原体験 ~ 弓と馬がくれた贈り物

錬金術と出会った前後の時期、2つの不思議な体験がありました。一つ目は、弓道場での出来事でした。

当時、弓道は習い始めてから1年経ったかどうかの初心者でしたが、私には一つのこだわりがありました。

それは、的を射ようと意図しないこと。

和弓には、動作の「型」があります。「型」に即して的確に身体を使うと、弓は驚くほど軽やかに、大きく開きます。

弓が楽に大きく開けば開くほど、矢は勢いよく真っすぐブレることなく飛んで行きます。

矢が的を射抜くかどうかは、弓を引く姿勢と動作の中にどれだけ調和と秩序を体現できたか、その結果でしかありません。

まず的を射ようと思わなければ的に矢は当たらないよ、とアドバイスをくれる方もいましたが、的を射るために弓を引くつもりはないという気持ちはどんな言葉にも勝り、決してブレることはありませんでした。

 

逆転した的と矢

ある日、弓を引き分け始めると、自分の身体の軸が真っすぐに立ち上がり、右半身と左半身のバランスがそれまでになく整っているのを感じました。

弓の張力も驚くほど軽く感じ、簡単に大きく広がります。

弓を最後まで引き分けると、矢は口の横に吸い付くようにピタリと添い、スッと静止しました。

全てが収まるべきところにある。

そんな感覚を感じながら、的を狙うでもなく息を詰めるのでもなく、ただ身体のバランスに確かな秩序があるのを感じながら、なおも弓を引き続けました。

 

矢は弓から離れた瞬間に、的に当たると分かりました。

矢は、放たれたと同時に的の中心と重なると、一つの点になりました。その点はまるで静止しているように見え、今は動かぬ点となったその矢に向かって、的が近づいてくるのが見えました。

的は次第に大きくなると、自らの中心に寸分の狂いもなく矢を真っ直ぐ受け入れました。

 

全ては滞りなく、当然のように流れて行きました。

全てはゆっくりと見え、一部始終がはっきりとしていました。

 

馬の気持ちに寄り添う

二つ目は、馬場での出来事でした。

当時所属していた大学の馬術部では、暑さを苦手とする馬達を連れて夏休みの間は長野で合宿をしていましたが、その年、合宿先の馬場が改築して、屋根付きの覆い馬場へと姿を変えていました。

普段乗せてもらっていた馬はチャウと呼ばれる雌馬で、落ち着いた大人しい性格でした。

合宿所に着いてほどなく、先発組の先輩がチャウに騎乗しているのが見えました。

…あれ?

馬場の中にいるチャウは落ち着かない様子です。

 

乗り手の言うことがまったく耳に入らないようで、神経質に足踏みをし続けています。その動きは、何かがすごく気になっていてこの場から逃げ出したいけど、何とか我慢して自制している。けどとても怖い!と言っているように見えました。

そんなチャウを見ていて、ふと気付きました。

そうか、屋根が付いたことで知らない場所に来たと思って、不安に感じているんだ。ゆっくり歩かせればきっと落ち着くのに、と。

鞍上にいた先輩はこちらに気付くと、まるで私の心の声が聞こえたかのように、不意に乗り替わるように言いました。当時の私はほぼド素人でしたから、通常ならあり得ない危険な提案です。

でも、私には確信がありました。

上手く御すことはそもそも出来ないんだから、とにかくチャウを落ち着かせよう。きっと出来る。

 

信頼がもたらした奇跡の調和

チャウの背中からは、状況が呑み込めない事への不安が伝わってきました。彼女の焦りに巻き込まれないように、自分の意識と呼吸を鎮めます。やるべきことが、はっきり分かりました。

3~4歩進んだら、ゆっくり止まる。再び歩き出す時には出来る限りそっと指示を出して、チャウが安定した気持ちのままゆっくり歩き出せるようにする。これを、落ち着いたと感じるまでひたすら繰り返そう。

馬場を半周する頃、チャウの歩様がゆっくりになり、動きが自覚的になりました。

もう大丈夫。自分の置かれている状況が理解できたみたい。それなら今度は少し速歩(はやあし)をしよう。更に環境に慣れるように。

そう考えて、先ほどより少し素早く脚で指示を出しました。

すると、

ふわ…っ

チャウが足を前に踏み出すと、まるで雲に乗っているような浮遊感を感じました。

 

馬の速歩は上下動が大きく、リズムに合わせて乗るのはいつも一苦労だったのに。

言葉では表現し尽くせない、心地良く滑らかで軽やかな乗り心地、そして一体感。馬に乗ることが、こんなに気持ちよく楽しいことだったなんて!

今は馬の方がこちらの動きに合わせてくれていることは、明らかでした。寸分違わぬ完全なタイミングで、チャウがリズムを支えてくれています。

 

運動をしている間、私の手と馬の口とを繋ぐ手綱も、ロックされているかのように同じ長さに保たれていました。いつもは気付くと手綱がゆるんでいて、「ちゃんと握れ!」って怒られてばかりだったのに。

その手綱の張力を使って、チャウはきれいに首を丸めています。まるで、それが彼女にとって最も自然で楽な姿勢だと言わんばかりに、自ら屈撓していました。

チャウの信頼が伝わって来ます。

 

私の手が手綱を引いているのでもなく、チャウの口が手綱を引っ張っているのでもなく。

どこからか「調和」が降って来たかのように、私たちの間には完全に釣り合いの取れた「調和した拮抗」が存在していました。

 

体験の意味を求めて

これら2つの体験は、互いによく似ていました。

今思えば、あれは「高く純粋なエッセンス」が何なのかを知りたいという、私の願いに対する答えだったと分かります。

でも当時は、そこに通底しているものが何なのか、幾ら考えても分かりませんでした。

錬金術では、実践的・実験的であることが大切にされていましたから、錬金術的な世界観に大いに影響されていた私は、あの体験の意味を理解するために何か行動をする必要があると考えました。

そこで選んだのが、流鏑馬をやっている牧場で働くこと。

弓と馬という2つの原体験のど真ん中に、飛び込むことに決めたのでした。

 
 
 

中心軸を乱す力の発見

馬たちとの生活の中で何よりも大きく変化したのは、身体感覚の感受性でした。

馬たちの身体は、全身センサーとでも言えるような敏感さと繊細さを持っています。

彼らと肌を接して触れ合う内に、彼らが肉体を通して感じ取っていることを、共振的に感じるようになって行きました。

そうした彼らにとって騎乗されることがストレスとならないよう、毎日の乗り運動においては自分のバランスに細心の注意を払いました。

左右のバランスが崩れて馬の身体に歪みが生じないよう、自分の中心軸を通すことだけに意識を注ぎました。

中心軸に意識を合わせ続けている内に、身体の中にその軸を乱そうとする無駄な力が働いていることに気付き始めました。

例えば、一部の筋肉は意識が通いにくくなっていて、それが「思った通りに身体が動かない」という状況を作り出していたり、

またその逆に、使わない様に意識をしても勝手に作動してしまう箇所もあって、それが本来働くべき筋肉を制して先んじて動いてしまうことで、動きののびやかさや美しさが阻害される、ということが生じていました。

~同じ仕組みの身体なのに、なぜ能力に違いが生まれるのか?~

幼い頃に抱いた問いへの糸口が、見つかったと感じました。

 
 
 

筋膜的な感覚の世界

身体について理論と実践を交えて本格的に学び始めて1年を経た頃、「筋膜」という組織を扱う施術に出会いました。

筋膜には、身体の各部で生じている歪みや緊張がつぶさに投射されると知り、ここに求めている答えがある、と思いました。

とは言え、目には見えない体内の組織です。

実際に自分の手が触れているのが筋膜であることを信じながら、毎日、暇さえあれば筋膜を意識しながら自分の身体に触れては手の感覚を育て、また筋膜の中に歪みや緊張の兆候を探してはそれを整え直して、施術の練習を重ねました。

電車の中でも、テレビを観ている時でも、とにかく四六時中でした。

そうした中で、筋膜に生じている歪みの感覚は、ストッキングを捻じれて履いた時の何とも収まりの悪い気持ち悪さに似ている、と感じることが幾度か重なりました。

そして、たまたま目にしたロルフィングのwebサイトで、「筋膜はストッキングのようなもの」という記述を見つけます。

感じていたことは合っていた。

感じ取っていたのは確かに筋膜の感覚だと思わぬ形で太鼓判をもらい、自信を持って進みなさいと言われたような気がしました。

それ以降、筋膜に映し出される緊張や歪みの情報を正確に拾うことと、それらの背後にはどのような姿勢や動きの影響があったのかを丁寧に分析・洞察することに、一層力を注ぎました。

 
 
 

身体のブループリント

筋膜を通して身体と繋がり、身体が伝えてくれる感覚への信頼が深まると、身体は多くのことを教えてくれるようになりました。

感覚と感情は実は同じものであって、それを異なる入口から取り出しているだけであることや、

身体は自分が本来あるべき姿形を知っており、いつでもそこに向かって戻って行こうとしていること…。

そうなのです。

つまり身体は、本来のあるべき姿のイメージを自分の内側に青写真もしくは鋳型として持ち続けています

筋膜に生じている歪みや緊張が解けると、身体は秩序と調和のとれた形へと自ずと戻って行きます

無理に力を加えたりしなくても、身体自身の中で変化して行くべき方向性をちゃんと知っており、それを私たちに示すことも出来るのです。

身体の中に知性があると知った時、身体への敬意が生まれました。

そして、施術が施術者の判断によるのではなく、身体自身の意思と判断を尊重し、そこに純粋に寄り添うものになれたなら、身体にとっての「高く純粋なエッセンス」に他ならない身体本来の姿=ブループリントが、現実の身体として体現されるだろう。

そう思うようになりました。

 
 
 

6月末までの営業予定

最後になりましたが、ここから6月末までの営業予定をお知らせ致します!

臨時でお休みとなる日は、5月21日(月)、6月18日(月)となります。

(もし他にもお休みとなる日が出て来た場合には、ここに随時追加して行きますので、ご確認下さい。)

ゴールデンウイーク中も、通常通りの営業を致します。祝祭日に関わりなく、毎週水・日曜が定休日となります。

営業は11時から20時まで、最終の施術受付時間は15時半とさせて頂いております。

リピートで来て下さっているお客様は、ご事情がおありの場合は定休日でもご予約を承ることが可能ですので、必要な場合には遠慮なくお問合せ下さいませ。

それでは、皆様のお越しを心よりお待ちしています。

今後とも、neMu no ki をどうぞよろしくお願い申し上げます!      

はじめに

 
このブログについて、少しご説明を。
内容は、主に以下の3つに分かれます
 
 
①neMu no ki の営業上のお知らせ、
②店主イイジマの、身体に対する考察・洞察。
③その他(山登りや旅行、自然などへの雑感)
 
 
②については重要なので、詳しく説明させて下さいね^^
 
 
ブログでお伝えするのは、
店主が筋膜によるバランス調整を通して、
臨床でクライアントさんの身体の変化のプロセスを観察したり、
あるいは日々の自分のメンテナンスによって
変化していく身体感覚や身体の物理的な状態といった生の情報を元に、
店主の中で時間をかけて組み上がってきた身体観とでも言うようなものです。
 
 
店主の言わば体験談ですし、
まだ実証を加えていない仮説のものが沢山あります。
そうしたものを検証しない内に表に出すのは無責任なことではないのか、と悩みました。
が、私達は身体について、あるいは生命について、まだまだ未知の事柄を沢山抱えているのです。
その中には、
例えば治療においてもっと効率的で有効な、
そして汎用性の高い知識や知恵も含まれているかも知れない。
店主が臨床の中で出会う身体は、おそらく一般的な解剖学や生理学の中では出会う事のない、
有機的で、それ自体が独自の目的をもって統合性を維持しようとする、
厳然たる複合的な生命体なのです。 
 
 
 これを通して、読んで下さる皆さんに、
筋膜と言う媒体が人間の構造維持にどれほど大きく貢献しているか、
また身体構造というハードなものが、精神や感情、臓器の機能などのソフトとどのように関わっているのか、
それを理解する手がかりを少しでも提供できれば、
そんな気持ちと願いを持って、これから記して行きたいと思います。
 
 
感覚的な事柄を伝えるため、
時には文章が長くなることがありますが、ご容赦下さいますよう、
そして「こんな考えもあるんだ~^^」という程度に、
楽しんで読んで頂けましたら幸いです。
 
 

体表から内臓を観る

『ヒーラーのための解剖学』は、全12回シリーズの講習会。
neMu no ki をお休みにして参加した2月の4日と、翌日の5日は消化器がテーマでした。
 
 
ヒーラーのための、というだけあって、
体表から体内の組織や器官の、形や状態を手で現実的に感じ取るための実習を多く含みました。
 
 
・・・と、さらっと言ってみましたが、「身体の外から内臓の状態なんて本当に分かるの?」
ですよね~^^
 
 
人間の手って、感覚器官としては超優秀なんです。
私は普段、neMu no ki でのバランス調整で、ケガや捻れなどの身体のクセの痕跡を体表から探していきます。
これは非常に微細な痕跡で、恐らくミリ単位にも満たないだろうな、と感じる箇所も沢山あります。
 
 
訓練を始めたばかりの頃は、そうしたポイントを触覚で捉えることがまず大変。
皮膚を触っている内に、かえって区別がつかなくなったり、頭が混乱してぐちゃぐちゃになったり・・・
まぁ、かなりの困難な時間を過ごします。
何が困難って、自分が触っているものが現実なのか、それとも自分の思い込みなのかの区別もつけられない。
それにその感覚が、一体全体、本当にモノになるのかどうかも保障がないわけですから。
気持ちは揺らぎっぱなしのまま、ひたすらそれでも練習するわけです。
 
 
 
で、かれこれ5~6年ほど経ち、今はクライアントさんとおしゃべりに興じていても、
ちょっと眠くて半分目が閉じていても^^;、
指は慣れた感触のポイントを自動的に探し続けます。
(自分の名誉のために弁解しますと、意識はいつも向き合ってるクライアントさんの身体にありますケドね!^^)
 
 
さて、内臓を手で観て取る実習の話に戻りましょう。
参加者の中には、そうした経験はほとんど初めて、という方も、もちろんいました。
そういう方の場合、まず「そんなこと出来るわけない」と思いがちで、それが最初の壁になります。
「出来ない」とか「難しい」と思うと、脳はそれが出来ない、あるいは難しくするための理由や状況をいっぱい探し出します。
 
 
これは、脳の性質なんですね。
脳は、忠実に私達の意識の要求に答えます。
ただし、その要求の良し悪しを判断したりはしません。
ネガティブであろうとポジティブであろうと、どんな要求であれ意識が望むものには答えようとします。
時には何年かかっても。
 
 
脳がこういう性質なのだと分かったら、逆に上手く活用することが出来ます。
いずれは感じられるようになると信じてトレーニングをしていれば、
本当に感じられるように、脳がいろんな情報や状況をお膳立てしてくれるわけです。
 
 
お膳立てには時間はかかるかも知れません。
今までそれに関わる情報を集めてきているなら、それを援用すれば良いだけですが、
全くゼロから集める必要があるのなら、それ相応の時間はかかります。
 
 
感じられると本当に信じていても、実際に感じられるようになるまでの時間は、長く不安に感じるもの。
でも実は、最初から手はすべての情報をちゃんと感じ取っていると、私は確信しています。
例えば、この人の皮膚は弾力があって柔らかいな、とか、胃の上部がちょっと固いな、とか、
その奥の膵臓も少し緊張があるかな、とか。
触った瞬間に、いろんな情報を重層的に得ているはずです。
 
 
では、何で感じられない、と思うのか。
「感じる」あるいは「観じる」という行為は、何となく包括的なもの、というイメージありませんか?
ですが、実は細かな事象を分析的にとらえて、それを再統合した感覚なのだと思います。
視覚も聴覚も、同じ。
 
 
例えば、音楽を聴いている時、曲を一つの全体として聴くことも、
メロディーやリズムという細かく分解された単位として認識することも可能です。
 意識を切り替えれば、全体性と細分化された個別性のあいだを自由に行ったり来たり出来ます。
五感で 感じる情報には、全てそうした細分化と再統合の過程が含まれているのだと思います。
 
 
情報をどう細分化するか、その人の個性が現れるのもそこでしょう。
細分化の箱、情報をなんていう名目の引き出しにしまうか、その整理の仕方を脳が組み上げていきます。
 
 
知識的な事柄なら、すでに学ぶときに分析された情報が与えられるので、習得は簡単。
その一方で感覚的なことを習得するのに時間がかかるのは、
感覚から入ってくるのはいつでも全体的な情報で、細分化がされていないから、
そして、今ある細分化の箱や引き出しはあくまで自分の経験したものを土台にして出来ているため、
新しい経験に対してはそのまま適応できないから。
 
 
この手触りが「胃の表皮」なんだな、この柔らかさが「膵臓」なんだな。
一つ一つの感覚を丁寧に分解して認識して、
それによって初めて、重層的な情報の中から必要なものが拾える自由さを獲得できるわけです。
 
 
経験や感覚をどう仕分けしたらよいか、
脳の中では腕の良い仕分け人たちが時間をかけて検討を加えて、誠実に仕事しているわけです^^
彼らを信じて、
私達ができるのは、ひたすら練習=感覚に基づく情報を脳にひたすら送り続けること!
なんですネ
 私もまだまだ、いっぱい練習しなくちゃ~!

neMu no ki という名前に託すもの

  
 
 
アロマと整体のお店neMu no ki へお立ち寄り頂き、ありがとう御座います!わたし店主のイイジマが、皆様にお店を紹介させて頂きますね。
 ネムノキという木をご存知でしょうか? 
 
ふわふわとした羽毛のように繊細な花をつける、思わず手を伸ばして触りたくなる様な可愛らしい木です。(と言っても、成長すると5~6メートルもの高さになりますが・・・) 
 
人の話にちゃんと耳を傾ける植物としては、サボテンの次に名高いそうです。
 けなげな植物ですよね。(^^)
 
ネムノキの語源は、そのままズバリ 「眠りの木」 です。夜になると柔らかい葉をす~っと静かに閉じていく姿を見て名付けられたということです。
 
眠りは、私たち生き物にとって回復のための大切な時間です。眠りの間に大脳や身体の細胞たちがエネルギーを蓄え直し、傷付いたところを修復することで、私達は毎日同じ感覚の中で生きることが出来ます。
 
話は変わりますが、マッサージなどの施術を受けている間についつい眠ってしまった!
 もったいなかった~(T_T) ・・・という経験はありませんか?
 
身体の中ではエネルギーの足りない部分と余っている部分とが生じ、バランスを崩していることがよくあります。
 
エネルギー不足のところは、冷えて血流も悪くなりがちです。血流が悪いと、酸素や栄養素も足りません。いわば飢餓状態で、コチコチに固まって慢性的に緊張していたり、冷えて重くなったりしています。
 
こういう部分は、エネルギーを欲しています。そこに人の手が触れると、手の熱と物理刺激とが細胞にとってエネルギーとなり、細胞が自ら反応し始めて元気を回復していきます。
 
小さな部分が元気になると全体の流れも良くなり、全身が温かさを取り戻して緊張がゆるみます。それによって、急にとろんと眠くなったりするのです。
 
細胞の一つ一つが安心している状態での眠りは、たとえ数分であっても非常に深く気持ちの良い眠りになります。 こうした深い眠りの時間をお客様に味わって頂けたら・・・。
 
こんな店主の願いも込めての「 neMu no ki 」 です。
 
 
 

福ちゃん、またね。

「福ちゃん」とは馬の名前です。
食い意地が張っていてワガママ、
傍若無人だけどどこかヒョウキンで愛らしい、
そんな雌馬でした。
 
 
殺しても死にそうもないタマだと思っていたのに、
先日、あっけなく旅立ちました。
福ちゃんに寄せて、今日は少し思い出話を・・・。
 
 
私は、整体の仕事を始める前は
馬専門の牧場にて7年ほど働いていました。
馬と言ってもサラブレッドのような
スマートな外来種ではなく、
日本に昔からいる種の血脈を引き継いでいる、
小振りだけれど重量感のある馬たちです。
 
 
在来和種と呼ばれていますが、私が勤めていたところは
その中でも木曽馬を中心に、
生産・育成・調教・営業、馬に関する事業全般を
手掛けているところでした。
 
 
同じ土壌で育っているためか、
木曽馬の気質は非常に日本人と近いと思います。
たとえば、何か遠くで不審な物音がした場合、
サラブレッドは考える間もなく反射的に駆け出します。
 
 
一方で木曽馬は一瞬、う~ん・・・と考えます。
音がどの方角からして、果たして怪しい音なのかどうかを、
動く前に考える様です。
で、驚く必要がないと判断すれば、
慌てず騒がず、動じません。
 
 
この動く前の「間」が、
人間がものごとを判断する間合いと、同じなんです。
乗っている人間にとっては、この間に
馬の反応に対処する心の準備ができるので、
乗っていて安心感があります。
 
 
福ちゃんは、そんな木曽馬の中でも
ひときわ肝っ玉の据わった馬でした。
年齢を経ていたこともありますが、
福ちゃんが先頭を歩いていると
後ろからくる馬達も安心して歩くんです。
 
 
馬は群れの動物ですが、群れの先頭は
もっとも賢い雌馬が勤めます。
牡馬は、群れを守るように
最後尾から付いていきます。
 
 
牧場のクラブハウス(と言ってもコンテナハウスですが・・・)で
人間がお菓子を食べつつ談笑していると、
窓から、ぬ~っと長くて大きな黒い顔が中をのぞきます。
「何おいしそうなもの食べてるの~。ずるい~。」
とでも言いたげな顔です。
 
 
少しすると、入口からゴトンゴトンと大きな音がして、
中にまで入ってきちゃったり。
それを、「福ちゃん、床が抜けるから入っちゃダメだって~!!」
と慌てて、みんなで巨体を押し戻したりして。
 
 
自然体で自分らしくあることが、
その存在にとっての一番輝く姿、
可愛らしい姿であるというのが、
今の私自身と、私の仕事を支えている信念の一つです。
それに気づかせてくれたのは、
そんな福ちゃんだったように思います。
 
 
福ちゃん、ありがとうね。また会おうね!

店主からご挨拶を。

わたくし、イイジマチエと申します。

 国立駅から徒歩4分、
アロマと整体のお店 neMu no ki
(現 筋膜バランス整体neMu no ki)の
店主兼唯一の従業員です。 

あ、この似顔絵はデスネ、
友人が作ってくれました。


美化されてるんじゃないかって? 
いやいや、それはどうでしょう^^ 
結構、いいカオしてますよ~。
年齢は、まぁ・・・よしとして^^;
 
 
整体という仕事を始めるようになるとは、
7年ほど前までは想像もしていませんでした。


当時は山梨にある外乗牧場で、
毎日すがすがしい富士山を見ながら、
馬と暮らしていました。
完全に自然児でしたねぇ!


馬って可愛いわよね~! って、
みなさん思うでしょう?


奴らは可愛いだけでは済まされない、
なかなか侮れないスルドさ(たまにズルさも・・・)を
持った生き物なんです。


自分の背中の上に乗っている人間のバランスに、
乗った瞬間にスッと体勢を合わせてくる。
非常に優れた感性を持っています。
人間のバランスの乱れは、すぐにバレちゃいます。

彼らと一緒に暮らしたのは7年間、
その間に、人間が自分の身体のバランスに無頓着では、
馬を痛めつけてしまうだけだ、 と真剣に悩みました。


馬のお荷物になるようでは、
良い関係だって築けません。


日々、柔軟体操に励み、
軸を整えた(つもり^^;)で馬に乗る。


→ 馬に乗ると、どこかがちぐはぐな感じだよ、と
馬からフィードバックが返ってくる。
(馬の背骨がまっすぐにならなかったり・・・という形で。)


→ 意識ではコントロールしきれない
アンバランスな部分が身体にあることを自覚する。


これを長~い間繰り返した結果、
自分の身体に「意識の力だけではどうにもならない、
指令の届かない箇所がある」
という現実があることを認識しました。


不可解なことに出会うと、
その理解なしには先に進めないのが私の性分なんです。


そこで当然の如く、
身体の勉強をしなくちゃ!という結論に至りました。


バランス調整(筋・筋膜療法)」は、
わたしが neMu no ki の施術の中で最も大切にし、
力を入れて行っているものです。


自分自身の不可思議な
アンバランスな感覚を理論的に説明し、
実際に解消できると確信させてくれる、
唯一の施術法です。


人は幾つになっても、
本来のその人らしい、
自然でのびやかな身体に戻ることが出来る。


わたしは今、心からそう確信し、
そのためのお手伝いをさせて頂ける喜びを感じながら
施術をしています。