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熱中症?(T_T)

今朝は久しぶりに涼しい!皮膚にひんやりと空気を感じるなんて、何週間振りでしょう?今年の夏の暑さは、本当に厳しかったですね~!つい昨日、体力のありそうに見える私(見かけだけなんですけどね(^_^;)  )も、どうやら熱中症になったらしく…。

いやいや、身体を観るのを仕事にしてても、やっぱり身体が壊れることはあるんです。
動くには動けるけれど、いったん腰を下ろしたり頭を下げた状態から立ち上がる度にタチクラミがして、視野が戻るのに時間がかかる。これでは仕事にならないではないの~!!
あまりにもタチクラミの頻度が高いので、これはさすがにマズいかも…と。
たまたま、施術の交換練習の約束をしていたFさんのクラニオのおかげで何とか治まり、仕事は無事に出来ました。(このタイミングは、天の助けですよね。Fさん、ありがとうございました~!)そんなこんなで昨日はかなり厳しい状態だったし、思えばその前の日の1~2時間おきにトイレに行くという異常な頻尿も、体温の調節が狂い始めていた予兆だったかも。
これは全くもって異常なことに違いない。仕方ない、病院に行こうかな…と珍しく殊勝な気持ちになりました。(病院嫌いなんです。)
が、今日は起きたら何てサワヤカな空気!行かなくても大丈夫かも~(病院キライなんです。)…本当は行った方が良いんですよねぇ(涙)
今年の様に長くダラダラと暑さが続くと、自覚している以上に熱のストレスで身体が疲労しているんだと思います。今日の様に暑さが緩んで楽な日は、身体もホッとするのでかえって体調も乱れやすかったりします。皆さんも、「私は大丈夫!」と変な自信を持たずに(笑)、身体を十分に休めてあげて下さいね!

なぜ、身体は柔らかいほうが良いのか。

身体は、なぜ柔らかい方が良いのでしょう?

[E:upwardright]皆さんは、こんな質問をされたらどう答えますか?

身体が柔らかいと、故障しにくいから。

血流が良いから。

出来る動きが増えるから。

動きが滑らかになるから。

・・・全部正解[E:smile]  でも、chiezou はちょっとだけ違う考えを持っています。

身体が硬い状態を考えると、自分では「こう動きたい」という意思があるのに、それに反して身体が途中で勝手にブロックをかけたり(痛みを出すなどの方法で)、自分のイメージとは微妙に動きのラインが違ったり・・・なんてことが起きますよね。緊張の強い筋肉や血管にこれ以上負荷をかけさせまいと、身体が一生懸命に防衛して起こる反応ではあるのですが、この時、動きの中で生じる流動的な力に対して身体は抵抗する事になるため、その抵抗力で自ら消耗してしまいます。

一方、柔らかい身体の場合、動きの流動的な力は受け流します。空手と合気道の差を考えてもらうと分かりやすいでしょうか。空手は相手の力を真っ向から受け止めて押さえますが、合気道は相手の動きの流れに乗っかることで、攻撃を受け流して無力化します。

身体は外界を内包する

私たちは、身体の中に外の世界を内包しています。

私たち脊椎動物は、複雑で高度に発達した処理機能をもつ「腸管」です。たとえばパイプ管の実質は管を形成している物質だけで、管の内側の空間は含まれないように、腸管の内側もまた、外の世界なのです。

普段は管の両端(口と肛門)が閉じているため、身体の中に空洞があることを忘れてしまっているだけなのです。

皮膚が外気に触れているように、腸管や肺の中を通る食物や酸素もまた、外の世界のもの。口から体内に放り込んだだけでは、自分の内側に取り込んだことにはならないのです。腸管から吸収されて、初めて自分の一部に変化するわけですから。

腸管に沢山のリンパが存在するのも、腸管が外界と接していることの証拠でしょう。ノドの入口にある扁桃腺と同じく、異物が体内に侵入するのを防ぐ前線基地であることの示唆になります。

腸管の健康は、アトピーなどの免疫疾患と関連付けて語られることが多いですね。皮膚と同様に腸管が外界と接する、いわば自己の境界を形成するものだと考えれば、自己と非自己を区別する免疫(この免疫の定義も議論の余地があると思いますが)とは切っても切れぬ関係性だということが分かります。

*文の無断転載、無断引用は一切お断りいたします。

第3の目を開く

 

霊魂が受肉する際に、

そのエネルギーが入り込む

孔があるという。

 

 

生まれ出てくる際には

その孔は閉じてしまう為、

 

 

いざ死後霊魂が

肉体から出て行こうという時に

孔を探して

目や鼻や耳から抜けようともがく

・・・らしい。

 

 

あちらの世界との

繋がりでもあるこの孔、

 

 

これが開いていると

死に際して霊魂が楽に

身体から離れるだろうということは

想像に難くないが、

更に本来の自分自身につながる事が

可能になるようだ。

 

 

昨今、いろんな種類の

セラピーや療法が出現しているが、

それらも全て元を正せば、

 

 

地上の判断基準や集合無意識などによって

「本来の自由な存在」から乖離している自分自身を、

もう一度本来の自然な姿に近づけていく為の

試みである、と言うことが出来ると思う。

 

 

孔が開いたからといって

すぐに純粋無垢な存在に

なるわけではないと思うが

 

 

(長年蓄積した垢は、

現実にあるものなのだから、

はがれ易くなりこそすれ、

一気に雲散霧消は難しかろう。)、

 

 

日常の世界にいながらにして、

全く霊感などを持ち合わせずとも

あちらの世界につながれる

希望を持てるというのは、

本当に有り難い世の中になったなぁと思う。

 

 

 

筋膜を媒体とする施術の可能性

 

筋膜を媒介にしながら、

クライアントさんの身体のバランスを調整すること。

 

 

この仕事の中に、

ただ単に物理的な肉体を整えているだけではない・・・

という直感をずっと持ち続けていた。

 

 

なぜなら、筋膜を通しての施術を続けるうちに、

自分が相手にしているのは単なる肉体ではなく、

どうやらエネルギーの流れそのものであるらしい、

ということを感じ始めたからだ。

 

 

つい先日、王由衣さんのメルマガ

『エネルギーの海 スピリット通信 (第25号 2009年5月30日発行)』http://archive.mag2html.com/200905302051070000145857000.html

を読んでいて、

私自身が筋膜を扱っていることの本当の意味が分かった気がした。

 

 

メルマガによれば、

筋膜は第5チャクラと関わりが深いと言う。

 

 

その第5チャクラは、いわば肉体の鋳型であり、

その鋳型から滑り落ちてずれている箇所を戻すことで

本来の自分の肉体的なバランスを取り戻すだけでなく、

自分が持って生まれてきた計画(役目)に沿って

生きられるようになる・・・ということであった。

 

 

私はこれを読んで、一種の衝撃を感じた。

「肉体の鋳型=生きる意味を含めた、

生そのものの鋳型(有体に言えば、人生の青写真)」だということか。

 

 

つまり、身体のバランスの在り方が、

自分のあるべき生き方を出来ているかどうかを

示していることになる。

 

 

以前から、身体が整うと

きっといろんな意味で生き易くなる、

ということは分かっていたし、

それが私自身の信念にもなって来た。

 

 

実際、10年来日々の柔軟体操はほぼ欠かしたことがない。

身体の柔軟性は心の柔軟性でもあり、

身体が楽で余裕があると気持ちにも余裕が出来、

今まですごく大きく思えていた事柄が

何のことはないちっぽけなものに思えたりするからだ。

 

 

そして、実際に身体を整える方法論として、

理論的にも感覚的にも納得の行く筋膜療法を学んできた。

 

 

でも、手の感覚が育って

段々とエネルギーの世界に触れ始めるに従って、

自分のやっていることに確信を持てなくなる時が度々あった。

(この迷いは、その日の自分の精神状態にも左右されていたと思う。)

 

 

これは、私の単なる独善的な感覚で、

客観的な事実ではないのではないか、と。

 

 

しかし、筋膜と関わりの深い第5チャクラについての

非常に現象学的な記述を読んでいて、

筋膜自体の手触りと似ていることが分かった。

「滑り落ちる」感覚は筋膜も同じなのである。

 

 

本来あるべき状態でない、

または本来あるべき所からずれている筋膜は、

特徴的な滑り感を持っている。

 

 

筋膜療法は、まさしく

その滑り感を指標にして症状の原因を探すのだ。

 

 

私たち施術者が筋膜という物体の

感覚として知覚しているものが、

エネルギーの視点から見ても

同じ状態であると記述されているということは、

この現象が客観的に実際に起きていることの

証左だと言える。

 

 

またそれ以上に重要なことは、

筋膜を整えるということが、

本来のその人の鋳型・本来の生き方に

その人を戻すことにもつながっているという事。

 

 

これを読んだ時に、私は

本当に自分が取り組もうとしていることは

これなのだ、と分かった。

自分について迷う必要は、これ以上あるまい。

 

 

そして、一つ気づいたことがある。

よく、人は

「(自分の中心や宇宙そのものと)つながっている感覚」

と比喩するが、

実はつながっているのではなく

「はまっている感覚」なのではないか。

 

 

自分の人生の青写真たる鋳型にはまっていれば、

守られている感覚になり、安心して歩いて行ける。

 

 

そして、鋳型からずれてしまった時。

 

 

そうした時に、宗教をはじめとする

自分の行く先を決めてくれそうな組織や、

あるいは人から与えられる役割や仮面の中に

自分をはめてみたくなるのではないだろうか?