neMu ブログ⑤:心・意識」カテゴリーアーカイブ

ちょっとだけオムニバス


目次

文字との対話
前置きを少し
純粋なるカマキリの祈り

 


文字との対話



文章を書くのは何のためか?

これは、
こうしてホームページに投稿する記事を書く度に、
この10年自分に投げかけ続けて来た問いです。

前回記事を書いたのは
去年の11月のこと。

本当に書きたい、と感じるまで
無理に書くのは止めよう。

そう考えて
記事を書くのをストップしてから、
早1年と1ヶ月。

いや~、さすがに
そろそろ書かないと!
…と浮かぶ焦りを手放しつつ、

でもそろそろ書いても良いのかなぁ、
書きたい気もするなぁと感じ始めたつい最近のこと。

ふと、こんなことに気付きました。



今まで、文章は一人で書いていると思っていた。
でも、違った!

文章は何よりも、文字との対話なんだ、
と。

文章を書くことは、
自分の思考や意識を文字にすること。

そうやって一つ一つ丁寧に拾い出して
選択的に並べた文字を見ながら、
自分の内なる世界の真実がどんなものであるか、
それを自分で気づいて行く。

自分の内なる世界に気付く作業には、
文字の協力が欠かせない。

文字達は鏡となって、私自身の意識を反射する。

そう言う働きをしてくれるから、
私の意識は自分で選び記した文字から
自分を知ることが出来る。

一人じゃなかった!
一人でやっていたのではなかった!

 文字達との協働作業無くしては、
そうした自分を解き明かす鍵としての文章は
生まれて来ないんだ!



誰かのために書くこと、
ましてやお店に人を呼び込むために
文章を書くようなことは、

私と言う人間の生き方の方向性、
もっと言えば私の魂にはそぐわない、
私にとっては意味を感じられない事だと言うのは
以前から分かっていました。

それでも文章を書いている。
これは一体何のためなのだろう。
どうして自分は文章を書くのだろう?

ず~っと探し続けて来たその答えは、
「何のため?」という問いかけに対して
想定していたものとは全く違う方角から
不意にやって来たわけです。



目からウロコ。
晴天の霹靂。
そうか~、そうだったのか~。

文字を通して自分を知るため。
文字を通して、自分の意識の在り処や
意識の行こうとしている所を知る為。

今、
文字そのものと対話するために、
こうして文章を綴っています。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像



前置きを少し…。



順序が逆になりましたが、
皆様、大変ご無沙汰していました。

1年という時間が経つ間に、
平成が31年で幕を閉じて令和が始まり、

沢山の台風が日本を訪れて、
多くの場所が姿を変え、

消費税が8%から10%へと変わり、
それを待たずして
neMu no ki も料金設定が変更になり、

色んなお店のレジ打ちのお姉さん方が
様々な決済方法にスムーズに対応できるように
なって来た頃に
天皇陛下の即位式やパレードがあり、
日本中がラグビーで熱狂し…。

今は12月中旬。
日中19度という破格の暖かさの中、
遅い紅葉・黄葉が青空に美しく映えています。

目まぐるしく新旧が入れ替わり、
更には何とも風変わりな一年でもありました。

そんな2019年の出来事の中で、
強く印象に残っていて
どうしても書きたいことがあります。

その中の一つが、
次に紹介する
「カマキリの祈り」です。


純粋なるカマキリの祈り



わ~!
驚いた!

何がって?
花を摘みに庭に出たら、
こんな姿のカマキリがいたの。


花はムクゲ。

次の日に見た時には萎んでいたから、
この日がムクゲにとって
最も美しくきれいに開いた、
晴れの日。

全ての花びらを大きく目いっぱい広げた
そのムクゲの花芯に向かって、 
カマキリがまっすぐに立っている。



顔は花芯の少し下の高さにあって、
少し上目遣いに見上げる位置関係。

後ろ足は左右で高さの違う葉に乗せ、
前足は花びらの縁にそっと触れている。

決してバランスを取りやすいようには
見えないのだけれど、
風がそよいで葉がそよりと揺れても 
カマキリはぴくりとも動かない。



「珍しいものが観られるよ~!」 
私の声で母が庭に降りて来たのと
同時くらいだったかな。

それまでは、 周りをウロチョロしながら
様子を覗き込んでいた私を気にしてか、
カマキリもキョロキョロと目線を
動かしていたのだけれど、

急に覚悟を決めたみたいに
頭をすっと下げると、
静止したの。

きちんと合わせた両の鎌の上に
顔を近づけて、
それはまるで花芯に向かって
こうべを垂れるかのよう。

まさに、祈りの姿。


お尻から胸まで
す~っと美しく立ち上がっている、
その力みのない自然な姿勢を観ていたら、
何だろう。

広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩を観ている様な、
神妙な気持ちになっちゃった。

Public Domain(菩薩半跏思惟像 像高131.2cm 中宮寺/朝日新聞社、昭和17年 小川晴暘)


母の目にも、これはやっぱり
祈りに見えたそうで。

― こんなに真剣に、何を祈ってるんだろうね?
― 世界平和かなぁ。



摘み終わった花を片手に
出勤する時にも
カマキリは祈り続けていて、

後で母に聞いてみたところ、
20分以上はそのままの形だったそう。

祈りの姿勢を解いた後は、
鎌を片方ずつきれいに舐めて
丁寧にゆっくり
身体のお手入れをしていたんだって。



この日は8月22日。
ようやっと文章にまとめたのはその2か月後。
更に2か月を経て、今。

この4か月の間に、
本当に色々な事があったと思う。

記事のURLを決めるために、
カマキリを英語でなんて言うのか
調べてみた。

それでもって、



わ~!
またまた驚いた!

何がって?
カマキリは英語でpraying mantiseって言うのだと
初めて知ったから!

prayingは、祈り。

うわっ、
祈りって言葉が入ってた!

一体語源は何だろう?

調べてみたら、
mantiseという言葉自体も
ラテン語で僧侶や預言者という意味だと言う。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412539149

英語圏の人たちにとっては、
カマキリってそんなに尊いイメージの
存在だったのか~。



祈る僧侶。

最初に名付けた人も、
弥勒菩薩みたいなあの姿を
見たのだろうか?

あの気高いカマキリの姿を。




ハートの中心に居る感覚 / 9月までの営業予定

 

目次


9月までの営業予定

意識の在り処
聖なるハートの中心
中心に居ることの難しさ
現実世界の体験を変える体内感覚
自他の境界を見失わせる「前のめり」
「受け取る」ことを阻む体内感覚
中心からズラす力の正体

 

 

9月までの営業予定

 

またまた、ブログをアップするのに

時間が掛かってしまいました!

 

あまりにも間が開くと

「営業してるの?」なんて

密かに心配されている方も

いらっしゃるかも知れませんが、

 

大丈夫です!

neMu no ki は猛暑に負けず

元気に営業しておりますよ~!

 

 

今回は、まずはじめに

今後の営業予定について

お知らせさせて頂きますね。

 

neMu no ki は

9月の3日から1週間、

営業をお休み致します。

 

定期的に通って下さっている方には

早めにお伝えしていましたので、

8月はほぼご予約がいっぱいです。

 

残すところ25日(土)の

一枠のみとなっています。

 

また、同じ理由により、

9月も中旬までいっぱいです。

 

施術をご希望される方は、

出来るだけお早めにお問合せ下さいね!

 

 

 

意識の在り処

 

さて。

今回の記事の本題です。

 

あなたの意識は

どこにいますか?

 

そう聞かれた時に、

すんなり自分の内側に

意識を向けられる人もいれば、

ちょっと戸惑う人もいると思います。

 

意識は、私たちの身体の中に

力が集中しているような、

「焦点化」している感覚を

生み出します。

 

先を読み進める前に、

少し自分の身体の内側に

意識を向けてみて下さい。

 

あなたの意識はどこにいますか?

頭の中でしょうか、

胸の辺りでしょうか?

 

頭と感じた人は、

その焦点を一旦

胸へ下ろしてみて下さい。

 

そして、胸の中心へと

その力の焦点を移してみて下さい。

 

頭の中に居た時と

胸に移ってみた後では、

感覚は変わりますか?

 

胸の中心ではどうでしょう。

 

自分の中の静けさや

寛ぎの感覚などには、

違いを感じられるでしょうか?

 

 

 

聖なるハートの中心

 

少し前の、まだ涼やかだった

初夏の頃のこと。

 

私には、

お気に入りの散歩道が

幾つかあります。

 

その中の一つ、

緑濃く繁るアカシヤや

豊かに実をつけた桑の木が

爽やかな風にそよぐ堤防沿いを

のんびり歩いていた時に、

 

「ハートの中心に戻る」

体験をしました。

 

自分がハートの中心にスポンと

はまったのを体感しました。

 

 

この日は、

ハートの中心の感覚を捉えようと

意識しながら歩いていました。

 

ここで言うハートとは

エネルギーセンターとしての

ハートチャクラです。

 

心臓が正中よりも

少し左寄りであるのに対して、

ハートは正中に位置します。

 

つまり、ハートチャクラは

胸のど真ん中にあります。

 

そして更にその中心には、

聖なるハートの空間

もしくは聖心と呼ばれる「場」があり、

 

私たちはここを通じて、

自分という存在の根源と

他のすべての生命の中心とも

繋がっているそうです。

 

 

この日は、周囲の光景も

ひときわ心地よく、

美しく感じました。

 

「きれいだな~。

気持ち良いな~!」

 

自然の美しさに感激しながら

歩いていたことで、

普段より呼吸も

深くなっていた気がします。

 

ふと、

心臓の周囲の緊張が

解け始めたのを感じました。

 

心臓の外壁がふわ~っと緩み、

それに伴って内部の空間も

大きく広がって行きます。

 

心臓の中で空間が広がる感覚は、

私たちが安心や寛ぎを感じる時の感覚と

とても良く似ています。

同じものと言って良いと思います。

 

 

 

まもなくして、

先程の広がって行く動きとは逆に、

今度はハートの中心に向けて

何かがひゅ~っと集まり始める

感覚が生じました。

 

流れは勢いよく中心に集まると、

最後にスポンという感覚と共に

ハートの中央部で留まりました。

 

 

 

その中央部には、

まるで小さな球形の鋳型が

密かに設置されていたかのようで、

 

流れは球の天辺から流れ込むと

鋳型の内部に満ちて行きました。

 

ちなみに、

球形(もしくは宝珠型)と感じたのは

流れが鋳型を満たし切った時でした。

 

鋳型が満ちた瞬間に

スポッとハマった感覚が生じ、

 

それと共に、

流れによって満たされた空間の形が

分かったのでした。

 

 

 

スポンと

ハマるべきところに

ハマった感覚を感じた時に、

 

自分の意識が

「自分」という存在の中心に

ピタリと収まったのだと分かりました。

 

 

中心に居ることの難しさ

 

こうして、

自分の中心と一致している状態と

そこから来る絶対的な安心感は、

しばらくの間続きました。

 

でも、一度体験したことが

そのまま定着するという具合には

なかなか行かないのですね。

 

やがて、

一体化していた中心から

意識が離れて行こうとして、

身動きし始めました。

 

 

 

意識は中心から前へと

ズレて行こうとします。

 

それを引き戻して、

中心に収め直します。

 

それでもやはり

落ち着かない様子で

また勝手に前に動くので、

また引き戻します。

 

身体の中で

こんなやり取りを

繰り返している内に、

気付きました。

 

前にズレて行くと、

心臓の前面にモヤモヤ

ビリビリするような

苦しく不快な感覚が現れます。

 

中心に戻ると、

寛いだ感覚がふわ~っと全身に広がり

心だけでなく思考も落ち着きます。

 

ハートの中心が

自分の意識にとって

本来居るべき場所であるのは、

こうした感覚からも

確かなようです。

 

それにもかかわらず、

放っておくと意識は中心から離れて

勝手に前にズレて行こうとします。

 

一体何が、

起きているのでしょうか?

 

 

 

現実世界の体験を変える体内感覚

 

前にいる感覚と

中心に居る感覚とを

交互に体感している内に、

 

それぞれの感覚の違いが

こんなことを教えてくれました。

 

自分の意識が

ハートの中心よりも前にいる時は、

 

本来の自分の在り方よりも

前のめりになっている状態であること、

 

そして、本来の自分の前に

自分で立ちはだがっているような

状態でもあること。

 

 

 

身体の中で生じ、

私たちが意識的・無意識的に

味わっている体内感覚は、

単なる感覚というだけの

ものではありません。

 

実はこうした体内感覚は、

自分の外側に見ている現実世界を

どのようなものとして体験するか、

それを左右します。

 

(より正確に言うなら、

私たちが外側の世界を

どのような現実として体験しているか、

体内感覚はそれを映し出す

鏡でしかありません。

 

ですが、この鏡が一たび

固定的な形で据えられると、

自分で作り出したこの鏡に

今度は私たち自身が

左右されるようになり、

 

外側の世界を

パターン化した形で

体験し続けることになります。)

 

例えば、

今まで見て来たように、

 

ハートの中心に居る時は

安定感や確実性、

居るべき場所に居ると言った、

肯定的な感覚・感情と共に

私たちはいます。

 

こうした感覚・感情にある時、

普段なら腹が立つ様な事も

大して気にならず、

「あら、そう?」と言うように

サラッと受け流すことが出来るなど、

 

外側の世界の中に見出す刺激にも

容易に左右されることはありません。

 

では、もう一方の

ハートの中心から前にズレた

前のめりの体内感覚の時には、

私たちは外側の世界をどんな風に

体験するのでしょうか?

 

 

 

自他の境界を見失わせる「前のめり」

 

前のめりは、

何かあった時にはいつでも

すぐに現場に駆けつけて対応しようと、

アクセルをふかしている状態と言えます。

 

この時、

私たちは自分と他者の間の

境界を飛び越えて、

相手の領域へ踏み込みがちになります。

 

前のめりであるがゆえに、

互いの境界がどこにあるのかを

見失いやすいのです。

 

また、これは相手の領域に

自分から寄って行っている状態でもあるため、

 

相手の領域で起きている事柄でも、

まるで自分の身に起きていることの様に

はっきりした体内感覚を伴って

体験し易くなります。

 

その結果として、

必要以上に他者の問題に

首を突っ込んでしまったり、

 

相手の気持ちを確かめずに

自分の勝手な判断で

(と言う意識は本人にはないのですが)

相手の領域の問題を結論付けてしまう、

というようなことが起き易くなります。

 

 

 

「受け取る」ことを阻む体内感覚

 

更にもう一つ、

ハートの中心から前にズレて

自分で自分の前に

立ちはだかっている時には、

 

他者が与えてくれるものを

無意識に弾き返し、

自分が受け取ることを

自分で阻止し易くなります。

 

と言うのも、

本来の自分の前に

自分で立ち塞がっている状態とは、

 

外から来る刺激に対して

自己防衛をする構えであり、

すぐに応戦するための

臨戦姿勢であるからです。

 

そのため、

外側からやって来るものは、

 

それが情報であれ

他者の思いやりであれ、

自分に有益なものであれ

そうでないものであれ、

 

その種類や性質を

見極める暇もなく、

反射的に打ち返す反応が

自動的に起きてしまうわけです。

 

 

 

と言うことは、

 

自分が思ったように

他者から認められていないと

感じたり、

 

自分が与えている程には

他者や社会から多くのものを

与えてもらえていないと

感じるような場合も、

 

それは

外側の世界のせいではなく、

 

自分の体内感覚の不安定さから

現実をそのように

感じているだけなのかも知れません。

 

 

 

中心からズラす力の正体

 

散歩の時のお話に

少し戻ります。

 

前にズレると、心臓の前面に

モヤモヤ・ビリビリするような

苦しく不快な感覚が現れたと、

前述しました。

 

この不快感は、

自分を中心からズラそうとする力の

性質を物語っていました。

 

それは、

不安や焦り、恐れや疑いと言った

否定的な思考や感情です。

 

 

否定的な感情や思考を抱く時、

私たちの中には必ず

何らかの緊張が生じています。

 

この緊張は概念的なものではなく、

物理的なレベル、つまり肉体に生じます。

 

どの感情・思考に対して

どこにどの様に緊張が現れるかは、

 

私たちがそれぞれ経て来た

体験や経験によって

少しずつ異なります。

 

ですが、例えば

人との関わりの中で

痛みを感じる体験をすると、

 

愛情のやり取りを司る

ハートチャクラの表面には、

自分を守るための防壁が築かれます。

 

エネルギーの動きが凝集し、

硬い殻のように固まっているのを

イメージしてもらえば良いと思います。

 

外側からの様々な刺激を

その殻によって遮断して、

対処しようとするわけです。

 

エネルギーにこうした変化が

生じるのと同様に、

 

心臓そのものの表面にも、

緊張によって組織を固めたり

厚みを持たせることで、

外の世界から自分を守るために

変化が生じます。

 

 

 

こうして形成された複層的な防壁は、

「凝集」や「緊張」という

活動的な力を帯びた、

言わば生きている能動的な盾です。

 

そして厄介なことに、

私たちを守っているこの忠実な力と、

私たちは多くの場合「一体化」しています。

 

そのため、

私たちが本来の自分に戻ろう、

ハートの中心に戻ろうとした時に、

 

この生きている盾は

私たちが多くの恐れや不安を

抱えていたことを思い出させ、

 

ハートの中心から

防衛のための前線へと、

私たちを引き戻す力として

作用することになります。

 

 

 

本来の自分に還るために

根本から変化しようとする時、

 

それは肉体の変化だけでも

心理・思考面の変化だけでも

為すことは出来ません。

 

肉体の変化は、

パターン化した体内感覚から

抜け出すことで、

現実をより歪みのない形で

体験することを助けてくれます。

 

そうした肉体の変化に加えて、

 

これまで自分自身が

同一化して来た「盾」を、

自分から良い意味で分離して行く

必要があります。

 

盾を形成していた感情や思考は

どのようなものか、

それを一つ一つ意識的に見つけ直し、

それら全てを手放す作業を行います。

 

自分を防衛へと引き戻す

感情や思考のパターンから、

自分自身の力によって

自分を解き放って行くことが、

とても大切になるのです。

 

 

(感情や思考のパターンを手放す方法について知りたい方は、

当サイト内のブログ記事より

『天使に願いを~ネガティブな思考や感情を楽しんで手放す方法』

をご参照ください。)

 

 

形の向こう側にあるもの/年末年始と1月の営業予定

 

 

目次

「形」とは何か?
形態と形成
形態は過去のもの
形の背後にあるカラクリ
形を見ることから抜け出す
「形成」を捉える
今、ここにある。
年末年始と1月の営業予定

 

 

「形」とは何か?

 

私達はなぜ、

「形」を持っているのか。

 

これは私にとっては

長い間の疑問になっていて、

今も答えを探しながらいます。

 

物理的な身体を持っていることの

理由についてもですが、

 

例えば一つ一つの臓器は

なぜあのような姿形をしているのか、

なぜあの形でなくてはいけなかったのか、

と言った点にも興味は尽きません。

 

なぜ、私たちは

形や形態を持っているのか。

これは正面から取り扱うにはまだ難しい題目ですが、

 

形とは一体何なのか、

形は私たちに

何をもたらしているのかについて、

今回はお話してみたいと思います。

 

 

 

形態と形成

 

「ゲシュタルト」と言う言葉があります。

 

ゲーテによれば、

「形態」を表すゲシュタルトという言葉は

何らかの姿形を伴って現れるあらゆる存在を

まとめて指し示すものなのですが、

 

彼はこの言葉に

ある問題が含まれていることを

指摘しています。

 

それは、

この言葉を用いることによって

生動し変化するものが捨象

される点です。

 

つまり、

あらゆる存在が持っている

生き生きとした活動性を、

この言葉は切り捨ててしまう、

というわけです。

 

彼はまたこの言葉によって

相互に作用しあって

全体を形成するそれぞれが固定され、

他とのつながりを断って

一定の性格を示すことになる

とも説明しています。

(註:「」内の太字はゲーテの表現。)

 

本来は、

すべての存在は「全体」の中にあり、

豊かな関係性やつながりの中で

互いに影響を与えたり受け取ったりしています。

 

例えば、対話している相手によって

自分の異なる面が出ることを

誰しも体験したことがあると思いますが、

 

「私」が示している姿も、

その時々の状況や関係性の中で

豊かに自由に変化しているわけです。

 

ところが、ひとたび

「ゲシュタルト/形態」という

表現を用いると、

 

豊かな「全体」の中から

特定の瞬間や部分が

バラバラに切り取られます。

 

そして、それ単独で示す姿を

固定的に捉えることになる、

というわけです。

 

たまたまムスッと機嫌の悪い時に

ぱちりと写真を撮られて、

「あなたって本当に愛想ないわよね~!」

と決めつけられてしまう感じ、

と言ったら良いでしょうか。

 

 

もし、

私たちが直観的に理解しているような

自然のありのままの姿に近づこうとするなら、

形態ではなく「形成」を大切にする必要がある、

とゲーテは続けます。

 

例えば肉体について考えてみると、

肉体は一瞬たりとも

静止したり固定化することはないので、

本質的には「形態」ではありません。

 

仮に意識的にすべての動きを止めても、

呼吸や心臓の拍動によって

身体の活動は維持され、

全身の細胞は振動し続けます。

 

目で見て分からなくても、

そうした運動によって私たちの姿形は

毎瞬ごとに様相を変え続けているわけです。

 

このように、変化し続けて

運動してやむことがない」ものに対して、

ドイツ語ではゲシュタルトという表現と分けて

形成(ビルドゥング)と呼ぶことを、

ゲーテは理に適っていると考えていました。

(参照:潮出版社『ゲーテ全集14/自然科学論』p.43~44)

 

 

 

形態は過去のもの

 

「形態」と「形成」と言う言葉に対する

ゲーテのこうした考え方に触れた時、

 

彼の頭の中にあった理解は、

量子力学でいうところの粒子と波動に

とても近かったのではないかと感じました。

 

量子は、粒子と波動の両方の性質を

同時に持ちます。

 

波動は、

粒子が常に運動し続けている状態であり、

その運動全体が波動です。

 

波動は動き続けているので、

それがある特定の時に

空間のどの位置を占めるかは不確定です。

 

すなわち、

時空間の中で明確な座標を示すことができない

という特徴を持ちます。

 

一方の粒子は、

時空間の中で静止している点なので、

座標を持ちます。

 

 

 

波動を粒子に変え

粒子を波動に変えるのは、

観察者の存在です。

 

外側から私たちが「見る」と、

その見られた瞬間において、

波動であった量子は

時空間の特定の位置に貼り付けられ、

固定されて粒子となります。

 

 

 

観察者の目が離れると、

粒子は波動に戻ります。

 

 

 

形を生み出し、さらに

変化していく過程である「形成」は、

固定することのできない波動と同じです。

 

一方、形成の中から

一瞬間を切り出したものが

「形態」ですから、

これは粒子と同じです。

 

そして形態は、

切り出した瞬間に過去になります。

形成は一瞬も止まることなく、

常に前へと進んでいるからです。

 

そうだとすると、

形や形態を見ながら生活している時、

私達は「今ここ」ではなく、

過去を生きていることに

なるのかも知れません。

 

 

 

 

形の背後にあるカラクリ

 

こんなことに思いを巡らした数日後、

近所の丘陵公園へと散歩に行きました。

 

この日はとても陽の光が美しく、

木々は紅葉していて、

全てが本当に美しい日でした。

 

リラックスした気持ちで森の中を歩き、

ちょっと知らない小道に入ってみたり…。

 

そんなことをしながら歩いている時に、

ふと頭に浮かびました。

 

今まで私は植物を見る時に、

「形」で捉えようとしていたのだと。

 

そして、

形態で見ているということは

定義づけをしているということであり、

ジャッジでもあるのだと。

 

 

 

普段何気なく使っている

自分のものの見方は、

物事を流動して変化していく

ありのままの姿を捉えるものではなく、

 

それをある特定の視点で切り取り、

そこで「これはこういうものだ」と

定義を決定づけしようとするものだ、

と気づいたのです。

 

そしてまた、

その一瞬間の印象によって

存在を固定されてしまう側からすると、

これはジャッジに他なりません。

 

「形態を見る」ことの

背後にあるカラクリが、

不意に見えた気がしました。

 

 

 

形を見ることから抜け出す

 

形から物事を捉える目を持って、

私達は生きています。

 

と言うことは、

あらゆる瞬間において、

変化し続ける周囲の情景や環境から

ある一面を選択して切り取り、

それを「形態」として認識し続けている、

ということになります。

 

これは例えるなら、

身体と言う全体性を把握するために

まずはバラバラに細部を切り出して、

部分の描写をしていく、

そんな解剖学的な作業と

似ているかも知れません。

 

分解された身体は、

精巧に組み立て直しても

生きた身体には戻らないように、

 

切り出した「形態」を

どれだけ積み重ねてみても、

自分を取り巻く環境や状況の

本質に辿り着くことは難しそうです。

 

形を見るというのは、

私たちが生まれてから

ずっと使い続けて来た、

現実を把握する方法です。

 

そこから抜け出すには、

どうしたら良いのでしょうか。

 

 

 

「形成」を捉える

 

ゲーテは

自然の生きた直観に到達しようとすれば、

われわれ自身が、この生きた自然の示す

実例そのままに形成を行えるような、

 

動的で伸びやかな状態に

身を置いていなければならない。

と言っていました。

 

それなら、

「形成する力」につながろう。

 

シンプル過ぎる試みのようですが、

私たちの意識の力は現実に働きかけ、

変化を生み出します。

 

意図を定め、信頼し、

改めて葉っぱを眺めました。

 

まもなく

自分の内的な感覚に

かすかな動きが生じ、

葉っぱの中のエネルギーの流れと

自分の感覚がつながった、

と感じました。

 

自分の視野に意識を向けると、

目が捉える景色も

少し変わっています。

 

今までは、例えば植物なら

葉っぱの形や幹の形と言う具合に

植物の部分部分が目に入りがちでした。

 

それが、木全体であったり

山の中でその植物が

どう在るかと言うような、

「全体性」がおのずと映り込んできます。

 

 

また、それまでは

観察する私と観察される植物の間には

「あなたと私」という

越えられない壁がありました。

 

それが今は、

植物の中のエネルギーが

自分を通り抜けて行きます。

 

自分もここの一部なのだ、

一体だという実感がありました。

 

歩き進むと、

森が力を与えてくれるのを

感じます。

 

森の中をそよぎ渡るように

大きな生命力が動いています。

 

その中を歩いて行くと、

歩く毎にその生命力が

流れ込んで来る、

そんな感覚でした。

 

 

 

今、ここにある。

 

もしかすると

森の精霊たちの力だったのしょうか、

大切な体験をさせてもらえたことに

感謝をしながら、

帰路に着きました。

 

途中、

橋に差し掛かった時に、

立ち止まって川を眺めました。

 

少し前に台風があったので、

川はとても澄んでいます。

 

川は台風によって

浄化されていました。

 

青色を湛えた美しい水面を見ている内に、

自分の内側を川が通り過ぎていくように

感じました。

 

川の上に立っていることで、

私も川と一緒に浄化されているのだ、

と分かりました。

 

 

 

きっとこういうことが、

「つながっている」

と言うことなのかも知れない。

 

形の奥にある流れと繋がった時、

そこには観察者も

観察されるものもなく、

すべてが共に変化して行くものの

一部としてあり、同時に全体としてある。

 

…そんなことを思っていると、

小さな川が注ぎ込んでいる合流地点に

アオサギが佇んでいるのが

目に入りました。

 

合流地点に重なるように

鎮座している大きな石の上に、

長い首をスッと伸ばして

微動だにせず立っています。

 

 

静かな、大きな存在感。

 

このアオサギは今、

居るべき場所にいるのだと

感じました。

 

そしてその姿は、

私が理解したことは合っている、

というサインのように思えました。

 

そう感じた瞬間、私の胸の中心から

大きな空間がふわ~っと

広がり始めました。

 

その大きく寛いだ感覚は、

深い安堵感と穏やかさに

変わって行きます。

 

身体のあらゆる感覚が

軽やかになると、

私は自分が子供の様に

自由になったのを感じました。

 

 

 

年末年始と1月の営業予定

 

ここのところ、朝晩の冷え込みも厳しさを増してきて、寒い日が続いていますが、みなさんお元気でいらっしゃいますか~?

 

本当に寒いですけれど、その一方で、今年は例年になく青空も陽の光も美しい日が多いように感じます。空気も澄んでいますよね。

 

…なんて、季節の移ろいを見守りながら楽しんでいる内に、年末が目前!

年末年始の営業予定のお知らせがすっかり遅くなってしまいましたが、お伝えさせて下さいね!

 

年末は29日までの営業で、年始は1月7日(通常は定休日の日曜日に当たっていますが、営業を予定しています。)から開始致します。

 

年内はご予約をお受けすることの出来る空枠がございませんので、これからご予約をお考えの方は、新年に入ってからのお日にちでご検討頂けましたら幸いです。

 

1月は、臨時でのお休みの予定はありません。

 

定休日は毎週水・日曜日となります。

リピートで来て下さっているお客様に限ってのお話ではありますが、ご事情があって水曜日や日曜日でとお考えの場合には承ることも可能ですので、その際にはどうぞご相談下さい。

 

営業時間は11時から20時まで、最終の受付時間は16時となります。

 

ご予約のない日は、急遽休みとさせて頂くことがあります。また、当日のご連絡ですと施術のための準備が間に合わないこともありますので、ご予約の際には前日までにご連絡を下さいますよう、ご理解とご協力をお願い致します。

 

 

少し早いご挨拶ではありますが、今年も一年間ネムノキを応援して下さった皆様に、心より御礼を申し上げます。皆様にとって、来年が今年よりもさらに豊かな一年となりますように。

 

それでは!

どうぞ良いお年をお迎え下さいね~!!

自然界が教えてくれる「自然体」でいることの大切さ /9・10月の営業のお知らせ

 

** 台風で被害に遭われた地域の皆様が一日も早く日常に戻ることが出来ますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

 

目次

 

 

ここ数年、長くて厳しい残暑が9月まで続いていて、秋らしい秋を体験していないのを寂しく思っていたのですが、今年は8月の末頃から急に冷え込むと、足早に秋がやって来ました。

 

少し前から、風に乗ってかすかに金木犀の香りが漂う日もありますね!

 

香りを辿って行くと、まだ少数だけれど、金木犀の小さな花が咲き始めています。本当にちっちゃな花なのに、随分遠くまで香りが届くんですよね。

 

そうか。
開花し始めの頃は、余計に芳香が強いのかも知れません。「これからいよいよ出番だわ~!」っていう勢いがあって。

 

 

 

幸せな自然体

 

9月の初め。

 

抜けるような青空の下、涼しく爽やかな風の吹く秋らしい日がありました。

 

風に誘われるまま川沿いに散歩に出かけると、そこかしこにレースのような花が咲いていました。辺り一面に、香水のような品のある良い香りも漂っています。

 

 

あ~、秋だなぁ~。
なんて空気が美味しいんだろう。

 

ミツバチとカナブンの一種かな?
その香りで呼ばれたんでしょうね。可愛らしい仙人草の中に首をつっこんで、花粉まみれです。

 

 

正しく自然と一体。粉にまみれてても(まみれてるからこそ!?)、その姿はとっても幸せそう。

 

思わず仙人草の前にしゃがみこむと、しばらく彼らの幸せな様子を観察。私も童心に帰ったみたい。妙に楽しいなぁ~。

 

 

 

それからしばらく日を経て、通勤中のこと。頭上でガサガサと大きな音がしました。

 

何だろうと思って見上げてみると、その先にいたのは一羽のカラス。電線の上に止まっているんですが、落ち着かない様子で姿勢をこっちに向けたりあっちに向けたりしています。

 

何をしたいんだろう?と思って改めて見てみると、カラスのいる電線に向けて枝を伸ばしていた柿の木に、葉に紛れるようにして青い実が生っています。

 

カラスはその実をつつきたくて、安定して姿勢を保てるポジションを探していたのでした。

 

しばらくの間、ああでもないこうでもないと姿勢を変えた末に、最後は電線からエイッと思い切って飛び降りました!

 

…と。
思い切った感じの大きな身振りだった割にはごくごく近くにあった枝に止まると、無事に実をつつき始めました。

 

なんだぁ。そんなに近くを狙ってたの?だったら、あんなに電線の上で迷う必要なかっただろうに。
思わず苦笑い。

 

でも、食べたい!っていう自分の欲求に、素直に一生懸命になっていたせいなのかな。迷ってた姿も何だか軽やかで楽しそうで、思わず私もウフフッて笑っちゃいました。

 

 

 

そして、先日のこと。

 

用水路わきの道を散策していたら、水路の中にプカプカ浮いているカモを発見しました。

 

黒と黄色のくちばしに、美しく青い翼鏡(よくきょう)。カルガモです。全部で5羽。狭い水路なので、すごい人(鳥)口密度!(笑)

 

ここは良く散歩で通りますが、カルガモを見かけたのは初めて。しかもこんなに沢山。

 

あ~、カメラを持って来れば良かった!

 

それにしても…。
みんな成鳥だし、普通に大きさがあるのに、5羽が一カ所に密集してる。仲が良いんだなぁ~。しかも身体の向きが揃ってて、シンクロみたい!

 

5羽描くのは大変なので、1羽だけ…。

 

少し先に行けば大きな川もあるのに、幅1mちょっとのところに何でわざわざ?他に競合する鳥がいない水辺で、のんびり過ごしたかったのかな。自分たちだけの空間を楽しみたかったとか?

 

よく見ると、カルガモのいる辺りは植物が茂っていて、周囲よりも特に涼しそうです。

 

 

カルガモとの間は、かなりの至近距離。そのまま歩いて行くと水面から飛び立って逃げそうだったので、カルガモから視線を外して目線を地面に落としながら、用水路とは反対側の端っこに沿って側道を進みました。

 

カルガモたちは止まってるかな?
チラッと横目で見てみると、彼らもこちらへ向かって移動して来ており、私とすれ違う姿がより間近く見えました。

 

あれれ?
逃げるでも止まるでもなく、逆に近づいて来てたんだ。変なの~。こちらの気遣いを分かってくれたのかな?面白いな。それだったら嬉しいな。

 

少し先の方に行くと、5羽そろって仲良く止まりました。やっぱり涼しそうな日陰の場所。「気持ち良いね~!」なんて話していたりするのかしらん。

 

カルガモたちにとっては、みんなで心地よい時間と空間を共有することが幸せの形みたいです。

 

 

どの生き物も、日常的な些細な風景の中で出会ったのだけれど、その姿はどの瞬間を切り取っても本当に自然体。(当たり前なんだけれど!)

 

だから、見ているこちら側もほのぼのした気持ちになって、あ~幸せ、楽しいなぁって、彼らと一緒になって感じるんですよね、きっと。

 

 

 

自然体を妨げるジャッジの意識

 

そう言えば、馬の仕事をしていた20代の頃に、こんなことを考えたことがありました。

 

人間は顔だちや性質が可愛いとか可愛くないとかで優劣を付けてしまうことがある。でも、馬はどんな個体でもみんなどこかしら可愛いって思える。それはどうしてだろう?と。

 

例えば馬と言ったって、顔立ちが美しく整っていることもあれば、ちょっと面白い愛嬌のある顔のこともあります。

 

目が離れていたり、反っ歯だったり、額に大きくへの字の模様があるから「へーちゃん」なんて呼ばれていたり。いやいや、冗談じゃなくて。

 

それに、みんなが競走馬のようにスラっとしていて格好良いわけではありません。中には頭が大きくて首の太い子もいるし、太っちょでお尻の大きいのや、胴体が太くて丸太みたいだから乗り手が足で挟めない、なんていう子もいます。

 

みんな色々です。

 

性格だって、明るいのもいれば、もしも人間だったら自閉症か鬱って診断されるかも知れない、そうでなくても、付き合いにくいって嫌厭されちゃうかもなぁ、と言うような陰の気が強い子もいる…。

 

でも、それはそれ。
不思議と、それぞれみんな可愛いんです。

 

ウマが合う合わないって言うのは(馬だけに…)もちろんあるけれど、どんな姿でもどんな性質でも、例え言うことを全く聞いてくれなくたって(←コラーとかコノヤローとは思いますが。)、そのせいで嫌いになったりなんて無いんです。

 

これは私だけではなくて、世話をしたり、馬と触れあっている馬好きな人たちの表情や態度を見れば、みんなもそんな風に感じているだろうなと分かりました。

 

で、それは何でだろう?と思ったのです。

 

人間同士だと、あの人は言うことを聞いてくれないとか、性格が暗いから、という要素が好き嫌いにつながったり、顔立ちで優劣のジャッジが下ることがあるのに、どうして相手が動物だとそういうことが起こらないのだろう?と。

 

当時考えた答えは、動物には自意識がないから、でした。

 

私は美しいとか、私は可愛くないというような、自分が他者からどんな風に見られるか?と気にするような意識を動物たちは持っていない。だから、いつも自然体でいられる。

 

そうやって自然体であることが、可愛さを感じさせるんじゃないか、という理解です。

 

今なら、これをもう一歩踏み込んだ表現に変えます。彼らが優劣や好き嫌いと言った、言わば価値判断=「ジャッジ」に関わる意識を全く持っていないから、と。

 

ジャッジの意識がなければ、他者を優劣や上下で価値づけることもなければ、自分自身に価値づけをして、自ら卑下するようなことも起こりません。

 

 

 

自分を偽らない素直な表現

 

馬たちと寝起きを共にしていた期間は6年半。今思い返すと、本当に本当に貴重な時間だったなぁと思います。

 

観光客や、普段は馬場の中で練習している乗馬クラブの会員さんなんかがやって来る馬専門の牧場で、その人たちを連れて外乗に行くのが主な仕事でした。

 

富士山が近い土地柄だったこともあり、秋や春などの観光シーズンは忙しく、馬の仕事量も多くなります。

 

忙しい日がしばらく続いたある朝、「仕事だよ~」と小屋に迎えに行くと、中にはこちらにお尻を向けて微動だにしない馬もいます。あらら、普段はちゃんとこっちを向いてくれるんですけどねぇ。

 

つまりこれ、出勤拒否の意思表示なんです(;^ω^)

 

もしこれが人間だったら、仕事が嫌いになって、もう無理!もう辞める!って怒り出しそうなところですけれど、彼らの場合は違います。辛いから怒るって言うことはなくて、辛いから「辛い」って意思表示をしている、という感じなんです。

 

ストレートに自分の感じていることを出して来るけれど、そこには辛い仕事をさせる人間への憤りはありません。「こいつらのせいで自分は辛いんだ!」なんて考えはないんですね。ただ、自分が身体で感じたことを素直に表現しているだけ。

 

(このセリフ、ジャッジの意識の一例です。この言葉の裏側には、例えば「相手がもっと配慮のある人なら…」というような形で、相手を他の存在と比較し、その価値を値踏みする意識が隠れています。そしてこの例からも分かるように、ジャッジの意識は被害者意識と表裏一体でもあります。)

 

こうした表現は、相手を傷つけることがありません。それに、馬自身も自分が表現したいことを抑えてはいないので、とても素直で分かりやすく、付き合い易いんです。そして、このような存在は一緒にいるだけでこちらの心も落ち着き、癒されて行きます。

 

馬たちのこうした姿を見ながら、私も彼らと同じような素直さを持ちたいと無意識の内に感じていた様に思います。

 

私は当時、人の感情に敏感なために気を遣いすぎたり、人の感情が自分に向けられた刃のように感じたりと、人の感情に巻き込まれがちな傾向があったために、人間が苦手でした。

 

そんな中、馬たちの腹蔵ないコミュニケーションに触れたことで、私は初めて気を遣うことなく他者と関わり、その中で安らぎと信頼を感じる経験を持つことが出来ました。馬たちは、私にとって最善のセラピストだったのです。

 

相手に自分の感情を投げ付けることなく、自分の感じたことを、ただ感じたままに素直に表現できる存在であること。そして相手の言葉にも、ジャッジすることなく耳を傾けられること。

 

自分がどんな人間になりたいのか、その理想とする姿も馬たちが教えてくれたと思います。馬たちと過ごした日々からずっと、これは私の中の大切なテーマであり続けています。

 

 

 

9・10月の営業予定

 

9月も半ばを過ぎてしまいましたが(^_^;)、確認のためにブログを見て下さっている方もいると思いますので、営業の日程をお知らせ致しますね!

 

9月は22日(金)、23日(土)29日(金)、10月は14日(土)、26日(木)が臨時でお休みとなります。

 

それ以外は、通常通り11時~20時の間でご予約をお受けしています。(最終受付時間は、17時です。)

 

以前に比べてフレキシブルにご予約をお受けしていますので、定休日となっている水日に関しましても、もしご希望がありましたらまずはご連絡下さいませ。

 

それでは!
皆様からのご連絡をお待ちしています!(*’▽’)
気持ちの良い秋をお過ごし下さいね~!

 

現実を作り出す「意図」の力とそのメカニズム

 

目次

 

 

 

 

無意識にやっている、「恐れ」に基づく選択

 

私たちは日常の中で、

様々な形で判断したり選択したりする場面に出会います。

 

もう9年ほど前になるのですが、

セッションルームの開店準備を行っていた時期のことです。

 

どんな部屋を借りるかから始まって、

壁紙の色、床材の質感、施術ベッドはどうするか…。

 

とにかく、自分で決めなくては行けないことが

次から次に出て来ます。

 

最初の内は、

あんな風にしたい、こんな風にしようか、と

色々と想像しながら選ぶのが楽しかったのですが、

 

次第に、「選んで決める」と言うことに対して

苦痛を感じるようになったことを覚えています。

 

 

 

選んで決めることが大変だと感じたのは、

「失敗してはいけない」という思いが

生じ始めたためでした。

 

沢山のものを選び、購入する中で、

「ありゃ~」と感じるような事が起きると、

同じ失敗を繰り返すまいとして慎重になります。

 

同じ轍を踏まないために、

様々なリスクを洗いざらい計算して検討します。

 

しまいには、

購入するのがどんな小さな物であっても、

 

セッションルームの雰囲気に

どんな風に影響を与えるだろうか、とか、

もっと手頃で良いものがあったりするのではないか、

いや、ここは金額よりも質を優先すべきか…。

 

なんていう迷いが、いちいち

頭の中をグルグル巡るようになり、

決断するまでに時間を要するようになりました。

 

 

 

こんな風に、私たちは日頃、

「失敗しないように」「損をしないように」

「出来るだけ適切なものを」

というような意識を持って

選択や判断に当たっていることが多いと思います。

 

それは買い物だけに限りません。

 

カフェに入って何を頼むかとか、

週末は自分の趣味と友人からの誘いの

どちらを優先したら良いのかとか、

 

彼女の言い分に賛成できないけれど、

果たして正直に言った方が良いのかとか、

 

あるいはもっと大きく、

人生の岐路に立っていて、

自分がどの道へ進んだら良いか

悩んでいる時など、

ありとあらゆる場面に当てはまります。

 

 

 

「失敗しないように」

「間違った選択をしないように」

と考えている時、

私たちの中にあるのは「恐れ」の感情です。

 

本当は、私たちには望ましい理想があり、

いつだってそれに従って

良い選択をしたいと考えているはずです。

 

でも、それに反して実際には、

私たちが選択に際して持つ「意図」は

恐れを反映している場合が多いようなのです。

 

 

 

望みに基づく前向きな意図と、

失敗を避けようとする、恐れに基づく意図。

 

(「意図」と言う言葉がピンと来ない方は、

動機や目的、ヴィジョンなど、

ニュアンスが重なる他の言葉に

適宜置き換えて読んでくださいね。)

 

意図の持ち方が異なれば、

生み出される結果にも違いが現れます。

 

その例を見てみましょう。

 

 

 

「恐れ」が現実になるメカニズム~うつ症状との関連

 

脳と言うのは、

私たちの心や意識の中にあるものを

現実化しようとして働きます。

(これは主に大脳の役割ですが、

それについてはまた書く機会がある時に。)

 

ただし、これは必ずしも

私たちが望むような形で現実化が成される

とは限らないところがミソです。

 

例えば、

こんな話をよく耳にすると思います。

 

小さい頃、母親に理不尽な怒られ方をして、

自分が母親になったら絶対にあんな風には

子供を怒らないゾ!と心に決めていたのに、

自分が母親になってみたら、

 

嫌だったその怒り方と

そっくり同じことをやっていた…。

 

 

 

脳は、私たちが「こういうのは嫌だな~。」

と思っているものも、現実化します。

 

どういうことかと言うと、

脳は私たちの意識が何かにフォーカスしていると、

それに関連する情報を収集し、分析し始め、

現実化へ向けて準備を進めます。

 

嫌だな、嫌だな、と思いながら

繰り返し同じ情景に焦点を当てて見ていると、

意識はそこで展開している事柄を鮮明に記憶します。

 

「嫌だな~」の気持ちが強ければ強いほど、

強い感情と結びついて記憶は克明になり、

より強く刻まれます。

 

「嫌だと意識する→記憶する」

という内的な作業が繰り返される内に、

思考の中にはその記憶に対応した「回路」が

出来上がって行くのです。

 

ある日、母親になった自分が、

幼少だった自分が怒られた時と

同じような状況に出くわします。

 

「同じような状況」をきっかけとして、

思考の中に出来上がっている回路は

自動的に作動し始めます。

 

そして、嫌がっていた母親の言葉が

今度は自分自身の口から飛び出る、

と言う現象が起きます。

 

つまり、望まない言動のパターンが、

知らないうちに脳の中の自動反応式の

回路として組み上がっていたわけで、

 

(厳密には、

この回路は身体の動きや感情も

要素として組み込んでいるので、

脳や思考の中だけで

形成されているわけではありません。

ここでは説明をシンプルにするために、

こうした表現を用いています。)

 

言ってしまった後で

「え~っ!?」と気付いて、

自分で愕然となったりするわけです。

 

(こうした回路も

変えることが出来るものなので、

これを読んで不安に感じた方も、

どうぞ安心してくださいね。)

 

つまり、脳と言うのは、

意識が集中しているものを

現実世界の中で何らかの形を取らせて

現出させる、

 

あるいは

意識の作用に物理的な形を用意する、

と言う役割を担っているのであって、

 

意識が集中しているその対象のものが、

私たちの良心や願望に照らし合わせて

好ましいか好ましくないか、

正しい方向性かどうか、

と識別するようなことはしてくれません。

 

もし、脳みそに

こうした自動識別装置が付いていたら、

選択することや判断することは

どんなに簡単だろう!と思いますが、

 

そうなると、今度は

私たちが持っている自由意思が

機能しないことになります。

 

自由意思を持っていることによって、

私たちは選択や判断の困難さとも

向き合うことになっているわけです。

 

 

 

上述したような、

「嫌だな~」と思っていた母親の行動を

そのまま無意識に踏襲してしまった例は、

「こうはなりたくない」という

「恐れ」に基づく意図を持っていたために、

それが現実化した一例です。

 

恐れや不信に基づいて

選択や判断が成された時、

現れる結果は自分の望んだものとは

異なっているもののように感じます。

 

この場合、

意図・選択は無意識になされているので、

現れた結果(母親の行動の踏襲)を

自分の選んだものだと認識することが

困難なためです。

 

でも、実はすべての結果=現実は

自分で選んでいるものなんですね。

 

もし、「ああいうのは嫌だな~」

と思いながら母親を見るのではなく、

「私はこういう風にありたいな。」

と理想的な姿を思い描けていたなら、

母親の行動を再現することはなかったでしょう。

 

前者は恐れに基づく意図、

後者は前向きなヴィジョンに基づく意図です。

 

 

 

私たちが選択や判断をする機会は

一日の間に何十回となくあります。

 

恐れや不信から選択することが

パターン化していると、

そのすべての機会において

様々なリスクを頭の中に並べ立て、

計算をして…

というプロセスが繰り返されることになります。

 

この思考を毎日毎日繰り返すことは

トレーニングを重ねているようなものなので、

本人としては望んでいないのに

このパターンはどんどん強化されます。

 

やがて、些細なことでも迷うようになり、

次第に自分一人では何も判断できなくなったりします。

 

これは私自身

体験があるので言えるのですが、

 

こうした思考のパターン化こそが、

現代社会においてうつ症状を作り出す

大きな原因となっていると思います。

 

では、こうしたパターンを手放して

現実を望ましいものにするには、

どのように自分の意識と

取り組んでいったら良いのでしょうか?

 

「意図」の使い方を

変えて行く必要があります。

 

 

 

 

結果を決めるのは、意図(動機)

 

意識の在り方に応じて、

私たちの目の前の現実の中に

それが結果と言う形を伴って

現れてくる。

 

こうした言説は、

成功哲学や精神世界系の分野では、

比較的よく目にします。

 

少し話が飛躍するようですが、

アメリカに心理学者でありながら

有名なサイキックヒーラーでもある

ドリーン・バーチュー女史と言う方がいます。

 

彼女は天使を見ることが出来、

対話することも出来るのですが、

その彼女の著作の中に、

 

「天使に頼んだり祈ったりする時は、

どうなりたいかだけを伝えるように。」と

いう意味合いのことを

天使から告げられたと言う記述が出て来ます。

(『新版・女神の魔法』ドリーン・バーチュー著 島津公美訳/p.209)

 

これは、望んでいる結果を思い描けば、

それを実現する方法は天使が選ぶ。

だから、私たち人間がやるべきことは

望みを明確に意図するだけということでもあり、

 

(むしろ、私たち人間の狭い視野の中で

実現に至る方法まで考えてしまうと、

かえって望みの実現を遠ざけることも

文意から汲み取れます。)

 

結果=現実を生み出す因子として

選択・行動以上に意図が重要であると言うことを、

この記述からも読み取ることが出来ます。

 

 

 

とは言っても、現実には

結果を出すには選択・行動が必要だもの。

それなら、選択・行動だって

結果に影響するよね?

と思いますよね。

 

意図や意識の在り方によって、

選択や行動は左右され、自ずと決まって来ます。

 

これも、例を見てみましょう。

 

 

 

例えば、アパートのお隣に

新しい人が引っ越してきて、

ドアの開け閉めなどの

騒音が気になるな…と思った場合。

 

音に少し気を付けてもらえるよう、

直接話しをしに行ったとします。

 

ここでの最大の目的=意図は、

静かにしてもらうことです。

 

聞いてもらう立場なので、

少し下出になるかも知れません。

 

「この建物は思ったよりも

音が響きやすいようなんです。

私も出来るだけ気を付けますので、

少し気にかけて頂けたらと思いまして。」

 

ところが、

「先住者に対する配慮が足りない」

なんて気持ちがちょっとでもあったりすると、

 

こちらの希望を聞いてもらう

という意識はうっかり消え去り、

相手を責める気配が出て来ます。

 

「音がうるさいので、

少し静かにしてもらえますか?」

 

…ありゃ~(;^ω^)

 

意図の持ち方・意識の在り方は、

選択や行動(言動)に

目に見えぬ形で影響を与え、

それらを自ずと決定づけます。

 

 

 

恐れによって、現実化の過程はゆがむ

 

と言うようなわけで、

何らかの結果が生まれてくる

現実化のプロセスを考えると、

 

まず、

それをやることで自分が何を得たいのか、

その意図(目的・ヴィジョン・動機)を決めて、

それに従って選択・行動が成されることで

そこに結果が自ずと生じてくる。

 

意図→選択・行動→結果、

こういう順序になる訳です。

 

ここで、もし意図の中に

「恐れ」が紛れ込んでいる時には、

前向きで自発的であるべき

意識的な意図の代わりに、

恐れが作り出す言わば「妄想」が

結果を生み出す因子として作用し始めます。

 

 

 

先ほど、選択・行動は

意図や意識の在り方に

影響を受ける、と書きました。

 

前向きな意図の場合、

選択・行動も前向きになるので、

方向性は同じです。

 

一方、

恐れによる妄想の場合は、

 

現実がその妄想通りになるのを

避けようとして

選択・行動がなされるため、

 

意図(この場合は妄想)と

選択・行動の示す方向性は、

逆の向きになります。

 

意図と選択・行動の関係性が、

ここでは歪んでしまっています。

 

 

 

さらに、これらの結果として

現れる現実を比べてみると、

 

前向きで意識的な意図の場合は

選択・行動も前向きでしたから、

結果もそれに準じて現れます。

 

仮に思ったような結果ではなくても、

因果関係がすっきりしているので

次に取るべき行動がすぐ分かり、

がっかりしたり凹んだりすることも

あまりないかも知れません。

 

一方、

恐れによる妄想の場合、

選択・行動は妄想とは逆方向でしたが、

「現れる結果は意図に従う」わけなので、

結果・現実は妄想に則したものになります。

 

ここにもまた、歪みが生じています。

 

このようにして、

意図、選択・行動、結果の間の

関係性が歪み、

それぞれの方向性に混乱が生じた時、

 

私たちの目の前に現れる「現実」は、

私たちの手には負えない

コントロール不能のもののように

見えて来るのです。

 

 

 

 

現実化の過程を正常化するには

 

では、私たちが

「意図→行動→結果」の間に

健全な関係性を取り戻すには、

どうしたら良いのでしょうか?

 

この関係性に秩序を取り戻すには、

日々の努力が必要になります。

 

そもそもの原因は、

日々の選択・判断の際に

無意識に「恐れ」と

繋がっていたことにあります。

 

と言うことは、

すべての選択・判断を

前向きな意図から行うように

変えて行くことが出来れば、

「意図→(選択・判断)行動→結果」の間には

秩序が戻るはずです。

 

(意図を明確にする際に、

そこにどうしても恐れが入る

ということもあると思います。

 

意図そのものをクリアにする為には、

恐れと向き合う取り組みも大切です。

恐れの感情を手放す方法については、

以下の記事を参考にしてくださいね。)

天使に願いを~ネガティブな思考や感情を楽しんで手放す方法/1~2月の営業予定

 

 

取り組むのは、

どんな些細なことでも構いません。

 

例えば、

この仕事を今日中に仕上げないと、

と言うようなシチュエーション。

 

今までは

「できなきゃ上司に叱られる」

と思っていた(無意識の妄想)所を、

 

思い通りに仕上がって

満足している自分の姿を

思い描いてみる(意識的な意図)、

というような具合です。

 

あるいは、

それを受け取ったお客様が

満面の笑顔になっているのを意図する、

というのも良いですよね。

 

 

 

日常的に行っている

ちょっとしたストレッチだって、

 

「ここが固いんだよな~。

やっぱり伸びないな~。」

と思いながら(無意識の妄想)やるのと、

 

「これをやると、流れが良くなって

身体が柔らかくなるはず。」と信頼して、

それを意識的な意図として行うのとでは、

実際に身体の反応も異なります。

 

どんな些細なものであっても、

行動する際にはそれに先立って

こうした前向きな「意図」を

自分の中で思い描く、

 

それを徹底して行うことが出来れば、

意図→行動→結果のプロセスが

秩序を取り戻すだけでなく、

 

先の例で挙げたような

母親の負のパターンを再現するような

自動反復の思考の回路も、

健全な形で書き換えられて

行くだろうと思います。

 

 

 

起きる現実に、信頼を持つ

 

ちなみに、

自分が本当に望んでいることを

まず意図する習慣が出来ると、

結果にも頓着しなくなります。

 

なぜかと言うと、例えば

望まない結果が出てきた場合でも、

それを見て

「なぜ失敗したのか?」と

後ろを向いて考えるのではなく、

 

自分は本当はどうしたかったのか、

本当に望んでいたものは何だったのか、

ということが自分の中でより明確になり、

結果を飛び越えたさらに先へと

目線が行くからです。

 

現れてくる結果は、

自分がいかに失敗したかを

責める材料ではなく、

 

目的を再確認するため、あるいは、

自分の本当の望みが何かを、

より深く理解するために

存在するようになります。

 

 

 

また、望ましい結果を意図することは、

その結果が起きることを

結果に先んじて信頼することでもあります。

 

つまりこの取り組みをすることは、

まず信頼の気持ちを持つこと、

そして結果の如何に関わらず、

その信頼の中にいられるようになる、

と言うことを目指すことにもなるのです。

 

 

 

 

「意図」の持つ本当の重要性:バウンダリ―の強化と、本質的な自己との一体化

 

実は、「意図」の重要性は

意図自体にあるのではなく、

 

意図をするということを通して

2つの重要なことが

可能になる点にあると思います。

 

その一つ目は、

自分自身への信頼を回復し、

自分と他者の世界の間に

健全な線引きをすることが出来る点です。

つまり、自己のバウンダリ―の強化です。

 

自分への信頼を失い

自己不信を深めて行く時、

 

私たちは無意識的に、

自分の取った選択や行動が

間違っていたのではないかと、

自問を繰り返します。

 

そして、

もしかしたらその選択や行動に

利己的な気持ちや自己防衛、あるいは

邪な考えが入り込んでいたのではないか、

と自分の心の中を疑い始めると、

 

自分自身に対する信頼は急速に、

根本から揺らいで行きます。

 

ですがもし、選択・行動をする前に

自分の意図を意識的に把握する習慣を

身につけることが出来れば、

このような形で自分自身を疑うことはなくなり、

自分への信頼が増して行きます。

 

また、自分が前向きな良き意図から

選択・行動したことを自覚していれば、

仮に他の人がそれを否定的に見たとしても、

それはその人なりの受け止め方として

割り切って考えることが出来ます。

 

こうして自分と他者の世界の間に

適切な線引きをすることが出来るので、

他者の世界の中にある

本来は他者自身が向き合うべき問題を、

不必要に抱え込んでしまう様なことから

自分を守ることも可能になります。

 

 

 

二つ目は、

意図をするということを通して、

私たちが一日の内に何度も

高い次元の自己と繋がる機会を

持つことが出来る点です。

 

前の章の最後に述べた、

「結果を見る前に

まず結果を信頼する。」

 

これは高い次元の意識の在り方であり、

全ては調和の中に現れてくる、

ということに対する信頼でもあります。

 

 

 

私たちが何か選択をする時、

そこで考えられる選択肢は

大抵の場合、複数あります。

 

その選択肢の一つ一つには、

その選択を行った「私」がいます。

またその「私」の数だけ、世界もあります。

 

つまり、選択肢の数だけ

幾人もの「私」が同時に存在し、

また幾つもの並行世界が存在していると

考えてみて下さい。

 

もし、恐れに屈して

選択肢Aを選んだ時、「私」は

恐れの中に住み、視野の狭まっている「私A」と、

 

結果を信頼する前向きな意図で

選択肢Bを選ぶ時は、「私」は

今の自分よりも開けた視野を持つ

高い次元にいる「私B」と、

 

それぞれの機会の中で

一体化することになります。

 

 

 

一日の中で何度も行う「選択」において、

すでに高い次元の並行世界にいる

自分自身と繋がることを

繰り返し意図することが出来たなら、

 

私たちは日常の地道(地味(;^ω^))な

取り組みを通して、

高い次元の自己であり本質的な自己である

ハイヤーセルフへと、

私たち自身を近づけて行くことが

出来ると思うのです。

 

 

 

___________________________

 

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天使に願いを~ネガティブな思考や感情を楽しんで手放す方法/1~2月の営業予定

 

1月ももう下旬! 新年を迎えてのご挨拶が

大変遅くなりました~!

どんだけのんびりなんだ!

っていう感じですが、

 

本年もどうぞ

よろしくお願い致します!

 

今年の年始めは、

空気がとてものんびりと

しているように思いました。

 

例年は、元日に3軒

初詣のはしごを

していたのですが、

 

今年は 初詣に行かなやきゃ!

という気持ちを手放して、

 

本当に自分の好きなように

時間を過ごすことにしました。

 

 

 

そう言えば、

私が子供の頃のお正月は

市内のお店と言うお店の

シャッターが閉まっていて、

町中ひっそりとしていました。

 

三が日の間は

日中でも人の気配がなく、

 

静かで平和なその空気には、

子供心ながらに

特別さを感じたものでした。

 

今年のお正月は

本当に何十年ぶりかで、

そんな「特別」な感じに

近い感覚を味わえたような

気がします。

 

でもそれは、

マイペースに過ごしたから

というだけでは無く、

 

自分の内側に

起きつつある変化が、

反映されたせいでも

あったように思うのです。

 

 

 

ネガティブな思考を手放す

 

昨年の末頃、私は

ある取り組みを始めました。

 

自分の内なるおしゃべりに

自覚的になり、

 

そこで浮かんでくる

ネガティブな思いや考えをすべて

きれいに手放すことです。

 

言うのは簡単だけれど、

実際にやるとなると

どうしたら良いのかわからず、

かなり難しそうなことに

思えますよね。

 

でも、出来るんです。

と言うか、私には

必ず出来ると信頼を感じて

取り組み始めたことがありました。

 

 

今回の記事では、

それが実際に

どんな取り組みなのか、

その詳細について

お話しして行きたいと思います。

 

自分の意識を

クリアにしていく方法の

お話ですので、

 

瞑想をやりたいのに

雑念が浮かんで来て

上手く行かないと言う方や、

 

どうしても

ネガティブな思考から

抜け出せずに

苦しんでいる方には、

 

きっと役に立つ

内容だと思います。

 

その前にまずは

1~2月の営業予定の

お知らせを。

 

 

 

1~2月の営業予定

 

1月23日(月)と

2月27日(月)は

臨時でお休みさせて頂きます。

 

それ以外は通常通りの

営業となります。

 

定休日は毎週水・日曜日、

営業時間は11時~20時、

施術の最終受付時間は

17時とさせて頂いております。

 

施術のご予約は

前日までに

ご連絡下さいます様、

皆様にご協力を

お願いしております。

 

キャンセルや

日程のご変更の際には

ご予約2日前から

キャンセル料が発生

致しますので、

どうぞご注意下さいませ。

 

 

 

感情や思考は「感覚」から生まれる

 

ネガティブな思いや考えを

抱えている時は、

何よりも自分自身が

辛く感じるものです。

 

思いや考えには

「感覚」が伴います。

 

むしろ実際には、

まず感覚が生じます。

 

何かのきっかけで、

気付くか気付かないかの

かすかな感覚が生じると、

 

それはほどなく

「言語」の形態をまとって、

感情や思考として

意識に上ってきます。

 

 

 

浮かんできた思いや考えが

ネガティブなものである時は、

 

モヤッとしたり

イラッとしたりするような

不快な感覚が先行しています。

 

何せ不快なので、

身体はこの感覚を黙って

抱えたままにしておくことが

出来ません。

 

不快さを解消しようとして

身体は自ずと反応を起こします。

 

時には自分でも抑制できずに

相手に怒りをぶつけたり、

 

内側から出ようとする

衝動的な力を

ぐっと押さえ込もうと、

感情を飲み込んでいる自分に

気付いたりします。

 

どちらの場合にしても、

不快な感覚は残念ながら

解消されることがないのは、

誰しも経験を通して

理解されていることだろうと思います。

 

 

 

意識が身体に及ぼす影響の深刻さ

 

ネガティブな思いや考えを

手放すことは、

実は私たちが

健康を保つうえでも

大変重要なことです。

 

私たちの身体は

「嫌だな~」

「失敗した!」

「急がなきゃ」

「なんで私って…」

と言ったような、

 

私たちが日頃

何気なく口にする、

些細な自己非難の

言葉にさえ反応しています。

 

私たち自身の

何気ない一言によって、

身体は緊張し、

身構えるのです。

 

特に緊張が起きやすいのは、

心臓や背中の辺りで、

時には後頚部にも

感じられるかも知れません。

 

私たちが意識せずに

「あ~」と思うたびに、

心臓や背中、首では

律儀に反応が起き、

緊張によって硬くなることを

繰り返しているわけですから、

 

一日経つ内には

身体は何もしなくても

相当バリバリです。

 

それを毎日繰り返すとなると…。

 

健康に良くないわけが

分かりますよね( ;∀;)

 

 

 

さてさて。

 

自己非難や他者への怒りなど

ネガティブな要素を含む

思いや考えは、

 

発散したり

抑え込むことによっては

解消できないことは

先に述べました。

 

これらを手放すのに

カギとなるのは、

「芽」の段階で

察知することです。

 

「芽」とはつまり、

感情や思考になる前の

感覚の段階を指します。

 

それは、

自分の胸の辺りや

みぞおちの辺りに

もわっと湧いて来たり、

 

時には頭の中で

カッと点火するような、

かすかで瞬間的なものです。

 

そうした感覚が

生じたことに気づいたら、

それを自分の中で

解消しようとせずに、

 

私たちよりも

高い次元の存在へと、

処理を委ねます。

 

 

 

天使に願いを。

 

自分の中に

不快さの「芽」が

生まれるのを感じるのは、

 

例えばこんな場面かも

知れません。

 

電車の中に、

大きな声で

電話をしている人が

いた時、

 

たまたま目のあった人に

不機嫌そうな顔で

にらまれた時、

 

朝、出勤前の

急いでいる時間に

父親がトイレを

占拠していた時、

 

いつもきれいにしている

自宅の前で、

タバコのポイ捨てを

発見した時。

 

 

どれも些細なことですが、

数限りない状況で

不快さの「芽」は

生じる可能性があります。

 

それに伴って

身体と心まで

緊張させてしまわない為に、

 

私は自分の守護天使に

「芽」を引き渡して、

光に変えてもらうようにしました。

 

不快さが

生じそうになったら、

心の中で

天使に呼びかけます。

 

「天使さん、

あの方に光と祝福をお願いします。」

 

こうして、不快さを感じる

きっかけになった人や物へと、

光を送ってもらえるように

依頼するのです。

 

 

 

急に天使が出て来たので、

驚いた方もいらっしゃるかも

知れませんね( ^ω^ )

 

この方法は、

ある書籍からヒントを得て

やり始めました。

 

その書籍には「祈り」について

こんなことが書かれていました。

 

「愛とは人の心を

開くエネルギーであり、

私たちは思いによって

それを送るのです。

 

私たちが純粋な愛の光を

人々に送ったとき、

天使の力が

それに結び付いて

奇跡を起こします。

 

もし、そのとき

天使に助力を

お願いすれば、

それはもっと

パワフルになります。」

 

「戦争の起こっている

場所のことを考えるときには、

そこで起こっている悪い事柄に

焦点を合わせないことです。

 

闇の力にエネルギーを

与えることになります。

 

その代わりに、光が

その場所に射しこむように

イメージしてください。

 

天使たちがそこにいる人々を

助けてくれるよう

お願いするのです。

 

あなたの祈りが、

天使たちがそこを訪れ

救うための

光の道筋となります。」

(引用:ダイアナ・クーパー著

『エンジェル・ストーリー』 p.34)

 

 

 

これを読んだ時に、

こんな理解が浮かびました。

 

私たちは他者の配慮のなさや

思いやりのなさを見咎めて

ついつい責めたくなりますが、

 

その代わりに

その人に向けて

光と祝福を送って下さいと

天使に祈ることは、

 

その人に対して直接

天使が働きかけるための

光の道筋を作る事になり、

 

その人が本来持っている

配慮や思いやりの気持ちが

より良く機能するように、

 

間接的ながらも

サポートの手を

差し出すことになるのだ、と。

 

(天使は高い次元の存在で

高い周波数を纏っているため、

 

低い意識でいる人には

近寄りたくても

近寄ることが出来ず、

直接サポートすることが

難しいのだそうです。

 

そこへ、

その人へ向けて祈りが届くと、

 

それが天使の通る

光の道となって

天使がサポートすることが

可能になるようです。)

 

 

 

天使の存在を

信じているかどうかは

ここではひとまず

置いておいて頂いて、

 

願えば変化は起きます。

そして、それは

私たちの内側の感覚で

実際に感じることが出来ます。

(詳しくは後述します。)

 

 

 

あまりに腹が立つような時には、

相手のために祈るのは

難しく思えるかも知れませんが、

 

実際に試してみて、

祈ることで不快感が

解消されるのを

実感するようになると、

 

不快感を握りしめて

腹を立て続けるよりも、

祈ることの方が

明らかに実用的だと

感じられるようになります。

 

 

 

天使に祈った際には、

私たちが気付けなくても

天使はちゃんとそれに

応えてくれているので、

 

「ありがとうございます。」

 

とお礼を言い添えることも

忘れないようにします。

 

 

 

ジャッジの意識や過去の記憶も手放す。

 

実際に天使に祈る際には、

怒りや自己非難が生じそうな

場面だけではなく、

 

自分の中で

他者に対するジャッジが

起きそうになった時にも

必ず行うようにしました。

 

例えば、

目つきの悪い若者を見て

「わ、怖そう」

と思うようなことも、

 

道端で寝起きしている

人を見て、

「大変だろうな~。」

と思うようなこともです。

 

自分の価値基準や

先入観があると、

 

他者との間に

必要のない溝が生まれ、

その人の真実の姿を

見誤りがちになります。

 

ニュートラルに物事を

受け止められるようになるには、

 

小さなジャッジの「芽」も

天使にすべて引き渡して、

これもまた光へ変えてもらうのが

一番良いと思いました。

 

 

 

また、天使には

時空間をまたぐ移動も

可能なはずですから、

今現在における

ネガティブな思いや考えに限らず、

 

思い浮かんで来た

過去の出来事についても、

祈りの対象にしました。

 

過去の出来事で関わった人や、

その時の自分自身もです。

 

思い出した瞬間に、

少しでも自分の内側に

モヤッとする感覚を

感じそうなものは、

片っ端から祈りました。

 

 

 

過去の記憶は、

その痛みが本当に

解消された時には

思い出さなくなり、

 

仮に思い出しても、

その時の感情は伴わず、

冷静に見られるように

なります。

 

思い出す度に

実感を伴う内は、

 

それがまだちゃんと

処理できておらず、

手放せていない証拠なのだ

と言うことも、

 

天使の力を借りることで

改めて分かりました。

 

 

 

 

感情は、理解だけでは解消されない。

 

これをやり始めて数日は、

人とすれ違うたびに

立て続けに天使に向かって

祈らなくてはいけないような、

大変な状態でした。

 

いかに普段、

自分が些細なことに

頻繁に気を取られていたか、

嫌でも分かります。

 

その量の多さには、

自分でも心底驚き、

呆れました。

 

私は、

自分と向き合うことを

大切にできている人間だと

自分では思っていましたが、

 

自分の意識が

これほどまでに外側に

向いている状態だったかと、

初めて気づかされた思いでした。

 

 

 

自己弁護をするようで

恐縮ではありますが(^▽^;)、

 

施術者と言う仕事柄、

自分の内的な問題とは

今までかなり丁寧に

向き合って来ていると思います。

 

学びを深めて行くと、

 

自分の外側に見えているものは

すべて自分の内側の世界の

「投影」であることを、

理解するようになります。

 

その理解は、

自分の内側で起きる

感情のカラクリを

見破ることを

可能にしてくれますが、

 

腹が立つことや

感情の波が起きること自体を

無くしてくれるわけでは

ありません。

 

そのために、

学びが深まって行くほどに

かえって自分の感情に

出口を見出せなくなるという、

 

難しい循環に

嵌まり込んでいた可能性も

あったのかも知れないと

思います。

 

 

 

知っている人だと、腹は立たない。

 

天使に向かって祈ることで

面白いと感じたのは、

 

モヤモヤとした感覚が、

胸の辺りからスッと

引き抜かれるように

消えて行くことです。

 

不快さの「芽」自体を

摘んでもらったから

なのでしょうね、

 

モヤモヤがぶり返すことも

ありません。

 

 

 

祈っても

不快さが消えない時には、

祈り方をより

詳細にしてみます。

 

自分が不快に感じたのは

何に対してだったのか、

それを具体的に

把握し直した上で、

改めて祈ります。

 

私の場合は、

不快さを感じるのは

大抵の場合、

配慮と思いやりの欠如を

感じる時なので、

 

「あの方の配慮と

思いやりの気持ちを浄化し、

光で満たしてください。」

と言うような感じになります。

 

 

 

他の例も挙げてみるなら、

 

家族のケンカを見ると

辛い気持ちになる場合や、

 

人前に立つと

緊張を感じてしまう場合は、

 

ケンカをしている当人達や

その場に同席している人達に向けて

 

「彼らの理解力と受容力に

光と祝福をお願いします。」

というような感じになります。

 

 

 

もう一つ

興味深く感じたのは、

 

天使を通じて

祝福をお願いした相手は、

不思議と身近に感じることです。

 

祈る前に比べると、

「知っている人」という

感じがするのです。

 

失礼があると

知らない人だと立つ腹も、

知っている人だと

意外と「まぁいいか。」

となったりしますよね。

 

祈ることで現れる親近感は、

エネルギー的に

同期が生じることを

示しているのかも知れませんが、

 

理由はともかく、

祈るとその人のことが

気にならなくなったりします。

 

 

 

内側の静けさが、自分を自分と向き合わせてくれる。

 

始めの頃に比べて

不快さを感じる場面が

次第に少なくなり、

 

頭の中で

勝手に起きていた

ネガティブなおしゃべりも、

随分と静かになって来ると、

 

自分の内的世界に

静けさと穏やかさを

感じるようになりました。

 

散歩をしたり

瞑想をしたりしていて

雑念が浮かぶことも

少なくなりました。

 

頭の中のおしゃべりや

勝手に浮かぶ雑念とは、

処理できていなかった

ネガティブな思いや考え

そのものだったのでしょう。

 

そして、

こんなことに気づきました。

 

自由な時間が出来た時、

今までの私は

何となくテレビを見たり

ネットで物色をすることで

時間をつぶしがちな傾向が

あったのですが、

 

それは自分の内側に

つねに不快感が

くすぶっていたせいで、

 

静かにして

自分と共にいようとすると

それが浮かび上がって来る為、

 

無意識的にそれを

避けようとしていたのだな、と。

 

 

 

今でももちろん

テレビやネットは

見る時もありますが、

 

以前に比べてずっと

多くの時間を、

 

自分の内側に意識を向けて

自分とゆっくり一緒にいる、

ということに

使えるようになったと思います。

 

 

 

 

奥深き、写経体験。

先日、京都の東寺を訪れた際に、
写経を体験して来ました[#IMAGE|S43#]
写経は単調な作業。
でも、だからこそなのでしょう、
沢山の「自分の癖」が見えたりして。
東寺の写経は、
榊莫山さんの手による
般若心経をなぞるという形式なので、
習字には自信のない身でも、
心易く取り組むことが出来ます。
お寺の方に聞いたところ、
大抵は40分くらい、早い方だと
30分くらいですよ~、とのこと。
今、京都は「冬の旅」と称して、
様々な寺社で普段は目にする事の出来ない
秘仏などを特別公開しているところが
沢山あります。
そうした箇所には地元の方がいらして
ボランティアで説明をして下さるので、
建造物や仏像の由来やら来歴やらを、
細かく聞くことが出来ます。[#IMAGE|S23#]
東寺でも、日本で最も高い五重塔の
内部の公開をしているし、
宮本武蔵の手による襖絵なども観られるし。
それに加えて、日本三大門の一つと言われる
知恩院の三門の楼上にある釈迦如来像も観たいし…。

時間は足りるかな?[#IMAGE|S39#]
でも、40分で終わるなら大丈夫かな。
お姉さん、写経をしたいのですが。
「寒い中ですけど、頑張ってくださいね。
一文字一文字を仏様だと思って、
心を籠めて書いて下さいね。」
食堂の中に用意された写経所で、
莫山さんの文字に向き合います。
ちなみに真冬のお寺のお堂の中、
暖房器具は一切ありません。
莫山さんの文字は丸みがあって可愛らしく、
それでいてどこかで達観しているような
透明感があって。
私には、そんな印象に思えました。
それを壊さぬように、
筆跡からはみ出ることの無いように。
最初は、筆先を
食い入るように見つめながら
書いて行きます。
始めの「摩訶般若波羅蜜多心経」
と書き終わったところで、
何だか時間が掛かるなぁと^^;
この先200何文字かを
このペースで書くのは、
果てしないなぁなんて考えがチラリ。
書き進めるうちに、
文字を一生懸命なぞっているはずなのに、
何故か右側の角では
筆致が足りなくなる現象が。
莫山さんよりも、早いところで
曲がってしまうんです。
はて、なんでかなぁ?
観察しながら書いていると、
ははぁ、原因を発見。
習字では、筆を立てて書きます。
普段は鉛筆やボールペンを
斜めに持ちますよね。
筆は縦に持ったものの、
目はいつもの習慣で、
筆を左下から捉えていました。
左下から筆先をのぞき込むような感じで。
だから、右の隅の方へ筆が進むと、
手本の文字と筆の重なりが
ちゃんと見えない。
ふむ、では姿勢を正しまして。
今度は筆を上から見下ろすように
構えました。
文字を真下に見ながらだと、
筆使いと莫山さんの文字とが
はっきり確認できます。
そうか~!だから筆は立てて書くのね~[#IMAGE|S38#]
ちなみに、この姿勢だと
ちょっと机が高く感じて、
筆の頭が自分の顔に当たりそう。
なるほど、だから昔の文机は、
あんなに低かったのかな~。
頭ではよく知っている様に
思っていることでも、実際に体感すると
異なる意味づけに気づいたりします。
それが筆遣いのような小さなことでも、
気付けたときは本当に嬉しいのです[#IMAGE|S12#]
身体を通しての「体験」は、
思考の枠には捉えきれない、
様々な位相の情報を与えてくれます。
何かに取り組む時には先入観を持たず、
まず自分が感じることそのものを
大切にする。
感覚で感じ取った情報は、
思考で捉えようとする情報とは、
その厚みも多様さも比較にはならない
豊かさを持ちます。
ただ、その豊かな意味に気付いて
理解するには、時としてかなりの時間を
要する場合もありますよね。
姿勢を正して書く内に、
今度は背中と肩が張ってきました。
ムリに背筋を伸ばしてるわけじゃないのに、
なんでかな~。ふむ。
もう一度、わが身を観察です。
ははぁ、分かりました。
一生懸命、なぞろうなぞろう、
丁寧に丁寧に。莫山さんの字の味を
損なわないように、繊細に。
そうやって書いている内に、
息を詰めていました。
息を詰めると、身体は自ずと緊張します。
寒さも手伝って、背中は
かちこちになってたんですね。
今度は、ゆっくりと
意識的に呼吸をしながら書いてみました。
文字の輪郭が、滑らかになりました。
さらに何度か試すうちに、
こんなことも発見。
今までは、文字のハライを書く時に、
ちょうど詰めていた息を
吐き出すタイミングにしていた様です。
呼吸が急に動くので、
それに筆の動きが影響されて
ハライの勢いや太さが
まちまちだったのだなぁと。
身体の動きを制御するには、呼吸が大切。
ヨガだって気功だって、
息は詰めずに自然に続けるようにって
教わります。
ふむぅ、これも
よく知ってるつもりだったんだけどなぁ^^;
自然な呼吸で書き始めたら、今度は
一文字一文字が、どうもまとまりに
欠けているのが気になり出しました。
莫山さんの文字をなぞってはいるけど、
一つの文字としての有機性や統合性が
何だか抜け落ちてるなぁと。
で、事細か〜くなぞるのを止めました。
文字をぱっと確認して、その印象の中で
一文字書き上げる、みたいにして。
は~、自由だなぁ、
そして書くのが速いなぁ!
「一文字一文字を仏様だと思って」
と言われた時に、私の中ではそれが
「ゆっくり丁寧に」に
置き換わっていたんですね。
でも別に、仏様は
自由で速くても良かったんだなぁと。
自由に素早く書き上げられる文字には、
もはや莫山さんの面影はありません。
莫山さんの力を借りて、
「私」が飛び出てきちゃった感じです。
でも、良いんです。それで。

写経は、内的世界での
感覚と思考の修養なんだなぁ。
そんなことを思いながら終了した時には、
1時間半が経っていました。
どれだけゆっくり書いてたんだか^^;
そりゃもう、寒くてかちこち。当然です。
でもね、とっても楽しかったんです。
静かに自分と向き合う時間って、
贅沢だなぁって。
それにしても…
ひゃあ~![#IMAGE|S8#]
知恩院に間に合うかしら~!?
寒空の京都市中、自転車をこぎこぎ、
一路 知恩院へと向かうのでありました。
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身体を感じるって、どうすれば出来るの?

Yさんは、とても勉強家。
施術の際には、
実にいろんな種類の
質問が飛んできます。

自分の身体がどうなっているか、
身体の状態を維持するためには
何をしたら良いか、

今自分がどんな取り組みをしているか、
その取り組みは
的を得ているかどうか。

事前のカウンセリングでも質問攻め、
施術後のお茶の時間も質問攻め。
わぉ~[#IMAGE|S26#]

普段から沢山の事を考えていなければ、
質問は出て来ないものですよね。
Yさんの意識の高さは、
とても素晴らしいものです。

でもね、せっかく
身体に取り組む時間なのに、
自分の身体と対話しないなんて、
本当はとっても勿体ない。

これは施術者としての、
私の勝手な願いではあるのだけれど。

施術後、身体の感覚を
感じてもらいたくて、
「今日は身体の説明は控えますね。」
「わかりました。質問も抑えます!」

って言ってるソバから、今度は
適切な食事の仕方とか、
セッションルームに活けてある
お花の話とか。

あれ~…
全然、身体に意識が
行ってないみたい~[#IMAGE|S9#]

さすがにシビレを切らして、
「Yさん、質問すごすぎ!(笑)」
と言うと、

「身体の質問
しないようにって思って、
別のこと考えちゃって。」

う~ん、なるほど。
何にしても考えちゃうのかぁ。

「少しね、身体の感覚を
感じてみましょうか。」

「私、感じられないんですよ~。
どうしたら感じられるんだろうって
分からなくて。」

身体は、入ってくる刺激を、
本当は全部ちゃんと
受け止めてるんです。

でも、日常で
必要のない種類の情報は、
脳みそで意識化しないように
選択しています。

そうすることで、
余計な刺激や情報に惑わされて、
エネルギーを消耗するのを防ぎます。
大切な、情報選択のシステムです。

ですが、これは
身体の微細な感覚を
感じないようにさせて
しまうものでもあります。

本当は感じているのだけど、
感じていることに気づかない。

感じていることを把握する
回路を、繋ぎ直すことが必要です。

感じない、と頑なに
思い続けている限り、
感覚を開くのは難しいものです。

まずは、感じないという
先入観を外す必要があるのですが、

はて、どうしたものか・・・。[#IMAGE|S39#]

ふと、ひらめきました。
「Yさん、施術を受けて、
今どんな感じがしていますか?」

「う~ん、感じようと
思ったわけじゃないけど、
(気になっていた)肩はまだ痛いなと」

ふむ、想定内。
「そうでしたよね、
感じるのは難しかったのですよね。
では、今
どんな気持ちがしていますか?」

「・・・あ~、
軽い感じがします。」

[#IMAGE|S23#]うふふ、
軽い「感じ」なんだ~。

「言い訳じゃないけど、
軽い感じがしてるから
いっぱい喋るのかも!

普段
気分の悪いときなんかは、
喋ろうと思っても喋れなくなるし。
楽だから、(今は)
いっぱい喋るんだと思う!」

ふふふ、なるほど~[#IMAGE|S37#]
自己分析だって、
ちゃんと出来てる。

読んでいて、
気づかれたでしょうか?
そうです、Yさんは
ちゃんと感じてるんです。

そして、「感じはどう?」
と聞かれると、
「わからない」けれど、

「気持ちは?」と聞かれると、
感じてることをちゃんと
答えられるんです。

実はこれ、Yさんの
特殊性ではない様です。

今日いらしたNさん。
同じように
「どんな気持ちですか?」
とお聞きしました。すると、

「スッキリしています。
途中は色んなところに
痛みが出てきたけど、
今はそれが消えて、スッキリ。」
「軽い感じ?」
「そう、軽い感じ。」

Tさんにも。
「どんな気持ちですか?」
「ゆったりしています。
胸の辺りが
広がったような・・・」

施術者や
カウンセラーなどの臨床家は、
普段から感覚と感情を
異なるものとして
はっきり区別していますが、
一般的にはそうではないんですね。

YさんもNさんも
Tさんも、
感覚と感情を区別していません。

むしろ、
感情を指す「気持ち」
という単語に対して、
実際は感覚にあたるものを
共通して答えています。

Yさんの問題は、
感覚が感じられないこと
ではなかったことが分かります。

さて、
Yさんにはもう少し深いレベルで
感覚を感じてもらうために、
さらに質問を重ねてみました。

「軽く感じるということですが、
どこで、一番軽いなぁって
感じを受けますか?
その感じはどこで
起きていますか?」」

「[#IMAGE|S39#]…足が軽いです。」

「では、足を実際に
触ってみてください。
何か(いつもと)違いは
感じられますか?」

「ジーパンの上からだけど・・・
今までのブヨブヨした感じが
ないです。
ブヨブヨしたむくみが
あったけど、それがないです。」

「では、その
ブヨブヨしたむくみが
なくなっていることと、
気持ちが軽く感じられる
こととは、
繋がっていそうですか?」

しばらく考えた後に、
「はい!繋がっていると
思います!」と。

Yさんは、施術の間
ず~っと眠っていたので、
身体がどう変化したか
知りませんでした。

この時の施術では、
最も大きく変化したのが
足のむくみでした。

固く、特徴的な
弾力性を伴うむくみ。
ずっと、Yさんが
気にしていた症状です。

こうして、
実際に起きた身体の変化と
内的な体験とが合致する、
ということを
体感してもらいました。

最後にYさんには、
こんな風に説明しました。

感覚を感じるのが難しいなら、
気持ちでも良いんです。

気持ちを感じ取れたなら、
それが身体のどこで
起きているか、探します。

そうやって、
感じたことを、身体の情報に
落とし込んで行くのです。

「どこで」が見つかったなら、
「そこ」で現実的には
どんな変化が起きているか、
確かめてみます。

そうやって、内側で
感じ取った気持ちや感覚を、
現実の身体に起きている現象と
擦り合わせる。

これを地道に丁寧に
繰り返して行くことが、

身体との対話を
可能にするんですヨ[#IMAGE|S43#]と。

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こどもの心

先日もお話した、
「やぼろじ」さんの
ガーデンパーティでの出来事。

 

住宅街と言うことで、
近隣の方々にご迷惑をお掛けしないように
とボランティアが集められて、
交通整理とお客様のご案内の
お手伝いをしました。

 

やぼろじから少し離れた
別会場の「はたけんぼ」で
お客様のお出迎えをしていた時のこと。

 

男の子が会場から出てきて、
別の畑へ入ろうとしています。
よその方の畑にそそうがあっては大変。
声を掛けました。

 

「畑には入らないでね~」
・・・動く気配なし。
入るのは止めてるけど、戻っても来ない。
どうしたのかな?

 

近づいて行って、声を掛けてみました。
「お母さんは一緒に来てるの?」
「うん、中にいる。」
お。しゃべった[#IMAGE|S43#]
「ひつじがいるよ。見てきた?」
「全部見てきた。」

 

はは~ん[#IMAGE|S39#]
もう少ししたら餅つきが始まるし、
丸焼きにした豚も取り出されるんで、
親御さんはそれを待ってるのかな。
あるいは、他の人と
おしゃべりに夢中になってるのかな。

 

背中をみせたままだけど、
でもちゃんと答えてくれる。

「飽きちゃったの?」
「うん、あきた。」
「どんなことが好き?」
・・・しばし考えている様子。
「・・・人・・・」
ゴニョゴニョと口ごもりながら言ったんで
その単語しか聞き取れなかったけど、
本当はみんなと一緒にいたいみたい。
そうかぁ。

三角座りで丸まった背中が、
こわばって見える。
手袋をはずして、何となく
さすってみた。

ちょっとさすってみたけど、
何だかまだ足りないみたいだなぁ。

 

今度は手袋をしたままだけど、
背中に手を当ててみた。
ちょうど、心臓の真裏。
ハートチャクラ。

 

嫌がることなく、しばらく
じっとしていたと思ったら、
ふっと背中の力が抜けた。

 

あぁ、やっぱり。
一度気持ちを損ねると、
身体だって頑なになっちゃうんだよね。
身体が固くなっちゃうと、
気持ちも自力では
元に戻れなくなっちゃう。

 

でね、
背中の力が抜けた途端に
ぱっと立ち上がって
会場に駆けて行ったの。

 

元気が出ると、
ちゃんと自分で動き出すんだ~[#IMAGE|S43#]
って思ったら、
あらら?すぐに戻って来たゾ[#IMAGE|S26#]

見ていると、
また元の位置に座って、
こっちを見ながら
自分の横の地面をぽんぽん叩いてる。
ふふふ、来て欲しいのか~。

 

行きかけたら、
折からの風で
会場から紙皿が飛んできた。
拾い終わって戻ってみると、
ちょうど彼の友達がやって来た。

あぁ、楽しそうな顔をしている。
良かった、
もう一人じゃないよね[#IMAGE|S12#]

「はたけんぼ」の任務が終わって
移動中、今度は、
もう畑に入っちゃってる
別の子供を発見。
親御さんも一緒だけど、
気にしてない。
困ったな~。

普通なら、
別に少しくらい入ったって
そんなに問題になりはしない。

でも、大勢の人間が出入りする
ガーデンパーティ。
地域の人の中には、

日常の静けさを壊されることで
気を尖らせる人だっている。
通常以上に、
開催者側は気を付ける必要がある。

「ねぇねぇ、ぼく~」
手招きしながら呼んでみた。
何て言おうか、
どんな言葉なら分かってもらえるかな、
と考えていると、

畑から出ようと
石垣に手を掛けながら、

「もしかして、本当は
はいっちゃいけなかったのかな~。」と。

そうなの!
ちゃんと分かってたんだ~[#IMAGE|S43#]
「ありがとう~」
と思わず言ったら、

石垣をよじ登りながら、
「ありがとうございました!」

とはっきりとした声で
返事を返して来た。

わ〜ビックリ!
お礼を言ってくれたの?[#IMAGE|S5#]

この「ありがとうございました」、
たぶんだけど。

イケナイことしたら叱られるのに、
叱られなかった。
自分がイケナイことしてるって
分かってるのを、分かっててくれた。
だから、「ありがとう」
だったのかなぁって。

曲がり角まで歩いて
振り向いたら、
目が合った。

手を振ると、目を伏せる。

坂を登って、
畑が見えなくなる手前で
もう一度振り向いた。
また、目が合った。

もう一度、笑顔で手を振った。
今度は、目を伏せない。
どうやら見送ってくれてるみたい。

こどもの心って
繊細で傷つきやすくて、
だからこそ、柔らかくて
素直なんだなぁって、

改めて。

そんなことを感じられたのが、
じんわり嬉しかったのでした[#IMAGE|S12#]

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「やぼろじ」のガーデンパーティ~くにたちの地域性

この間の日曜日、
国立市は谷保にある「やぼろじ」さん
にて行われたガーデンパティ
ボランティアのお手伝いをして来ました![#IMAGE|S43#]

 
これを読んで頂いている方の中には
neMu no ki のある国立(くにたち)に
お住いの方が多くいらっしゃるかなと思うのですが、
やぼろじ、行かれたことがあるでしょうか?

場所は谷保天満宮に程近くて、
谷保駅からも徒歩5分くらい。
蔵のある古民家で、敷地面積も広いのですが、
そこをコミュニティスペースとして再生させて、
地域の人たちを繋ぐような
さまざまな活動の拠点として
使われているんですね。

古くて新しい空間、
箱モノ(建物)は時代の蓄積を感じさせ
それが温かさと懐かしさ、安心感を
私達の心象に与えてくれる一方、
その中で行われる活動は
新しい視野でものを作り出そうとする人たちの
エネルギーで溢れている、

そんな印象の空間でした。
私と同じ世代の方達が中心の活動
と言うこともあり、
非常に共感と刺激を受けました[#IMAGE|S12#]

さて、ガーデンパーティ。
やぼろじと、少し離れた畑「はたけんぼ」の
2会場で行われました。

手づくり洋菓子、こだわりの珈琲、
移動屋台のたい焼き、地物野菜、

紙と木の合板(木だけより
強度が高いらしいです!)を使った木工製品、
美を追求した手加工の金属食器、
骨董、書籍、
可愛いイラストの消しゴムはんこ。

餅つき、
豚の丸焼き(土かまどで焼いてました!)、

羊にポニー。などなど。

実際、ご家族連れがとても多いのが
印象的でした。
連休中と言うこともあったのでしょうが、
他の地域だと、こんなに家族単位で
積極的に遊びに出てくるということは
あまり無いようなんですね。

くにたちは市民運動が盛んな土地柄。
主体的に生きよう、自分たちの手で
暮らし環境を作ろう、守ろうと言う
意識の高い人が多い土地ならではかなぁ
と思いました。

よく、neMu no ki を開くのに
ナゼくにたちを選んだの?
と聞かれるんですが、

住民の意識が高くて
地域を通していろんな活動をしよう
と言う姿勢が感じられることに、
憧れと共感を感じるんです。

新しいものをやって行こうとする時に、
それを後押ししてくれるような力を
地域のエネルギーの動きから
もらえているような気がします。

街自体も、
大正初期に建設されているのですが、
当初から大学を誘致する意図があって
街づくりをしているんですね。

その結果、
ヨーロッパの都市をモデルにした
駅前の大きなロータリーから
どーんと一本走る大通りを中心として
整然とした、個性のはっきりした
街の顔が出来ている訳です。

neMu no ki の物件を探しに
十数年ぶりでくにたちを訪れた時、

この大通りの広さが生み出す
突き抜け感と、
両脇の桜の古木が醸し出す
落ち着きと安定感、
歩道とは別に
自転車用レーンがあるという
余裕ある空間利用を見た時に、

なんて気持ちの良い、
丁寧に整えられた街なんだろう!
って感動したんですね。

こんなところ全部が、
くにたちが大好きな
理由なんですよねぇ^^

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