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震災ボランティアのため、仙台へ。

 
東北地方太平洋沖地震によって引き起こされた、東日本大震災。
発生してから、すでに1年半が経過しました。
 
 
当初より、ボランテイア活動に参加することが意識をかすめつつ、
なかなか実現するには至らずにここまで来てしまいました。
 
 
時期はずれの夏休みを取るにあたってネットで検索していたところ、
1~2日の日程でボランティアに従事することが出来るボランティアバスという企画があるのを知り、
被災地での活動参加をやっと実現できました。
 
 
今回行ったのは仙台。
ボランティア活動(主催:ReRoots)の内容は、
細かなガレキの残骸が土に混ざってしまったために、作物を植えることが出来ないでいる田畑の再生のお手伝い。
土を掘り返し、中に転がっている石ころや陶器の破片を取り除く・・・。
非常に地道な、人力でないと出来ない作業です。
 
 
作業の前に、仙台で被害の大きかった荒浜地区へも立ち寄りました。
ここは仙台で唯一の海水浴場:深沼海岸があるところ。
 
 
そこで、たまたま現地の人とお話をする機会がありました。
その時に聞いたお話は、今回の私 の仙台行きに深い経験を与えてくれました。
次のブログで、それをお伝えしたいと思います。
 
 
 
 

選択に迷った時には。

 
選択に迷う時とは・・・
 
 
例えば、
原発反対のデモは気になるし、参加しないことには若干引け目を感じたりもする。
では参加するか?と問われると、う~んと考えてしまう。
そんな場合。
(今の時制、あまり良い例えではないかも知れませんが・・・。
デモに参加されている方々には、心から敬意を表します。)
 
 
こんな感じの迷い方をする場面、
生活の中で度々経験しませんか。
私自身こんな迷いを、ちっちゃい事柄に対しても持ったりします。
その度に、う~ん、と立ち止まるのですね^^;
 
 
迷った時には、ワクワクする方を選択してみたら?
巷ではそんなアドバイスをしてくれたりします。
でも、なんでワクワクが良いのでしょう?
理由が分からないと納得できないイイジマは、
そんな風に言われると余計に、う~ん・・・です。
 
 
上に挙げたデモの例で考えてみた場合、
なぜ迷うのでしょうか?
自分が原発に反対だと思っているのなら、
デモに参加するのは自分の意思表明になりますし、
実際にそこに向けて行動を起こした、という満足を得られるでしょう。
 
 
でも・・・
さて、沢山の「でも」が浮かんできます。
行動を押しとどめる理由はいくらでも挙げられます。
デモでは現実は変えられないのではないかとか、一人で参加するのは不安だとか、
他の誰かがやってるから大丈夫だとか、そんな時間の余裕はないとか。
 
 
いえ、決してデモに参加しろっていう話ではありません。
これは、選択に迷った時の分かり易い状況として、
その一例として挙げているだけなので、
読んでいて思わず気色ばんだりしないでくださいね^^;
 
 
さて、理由はどうあれ、
動かない=動く選択をしないというのは、
そこに自分を動かすだけの動機がないからです。
 
 
人は、自分の内なる目的やテーマに沿った事柄に対しては、
非常な熱意を感じます。
そしてそういう場合、
実際の行動や結果を伴いやすいと思うのです。
なぜなら、
行動せずにはいられないし、
実現するまで諦めずに続けるからです。
 
 
一方、
例えば世間体や常識、建前によって動いている場合、
あるいは人に言われて何となくやっているという場合、
これは自分の内側からの動機や衝動によって行っているのではないため、
何らかの結果を得たり行動し続けるのは難しくなります。
(人に言われて始めたことでも、続けられている場合は、
自分の内なる目的にどこか合致していると思いますよ、
きっと。)
 
 
 自分の内なる目的に沿っている事柄は、
もしかしたらワクワク感じるかもしれませんね。
そういう意味では、
ワクワクするものを選択するのは、一つアリかもしれません。
 
 
ですが、
ここではもう一歩突っ込んで考えます。
自分の内なる目的に沿っていると言うのは、
実際にはどういうことなのでしょうか。
 
 
 例えばイイジマの場合、
人が本来の自分らしさに向かって脱皮し、変化し、統合していく過程をサポートすること。
これが内なる目的です。
なので、人が成長・変化していく様を見ると、
大きな喜びを感じたりします。
(蛇足ですが、今の仕事は正しくこの目的にドンピシャなのです。^^)
 
 
ここに原発のデモ参加、という選択を持ってくると、
デモに参加すること自体には
私の目的と直接的に合致するところは見つけにくいようです。
 
 
ですが、もし、
デモを通して参加者がどう意識や思考を変化させたか、
という部分に焦点を当てるなら、
これは合致してきます。 
立場としてはデモの参加者であるよりも、
第3者として外側から参加者一人一人をつぶさに観察することの方が
私にとっては重要だ、と言えるかも知れません。
 
 
 選択の際に、
自分の内なる目的に合致しているということに加えて、
その選択が
自分の目的に更なるエネルギーを注いでくれて、
目的の遂行を促進する力となってくれるかどうか。
・・・という視点で見ることが出来れば、
迷いを少し整理しやすくなるのではないかと思うのです。
 
 
 
 
 
 

理解しにくい、1+1=2の理屈。

先日クライアントさんと話していて、こんなテーマが出てきました。
1+1がなぜ2になるのか、その時点で理解につまづいて算数が出来ないお子さんがいる、と。
 
 
かつて、私が短い間ながらマンツーマンの塾講師をしていた時にも居たので、
思っているよりもそういうお子さんは多いのかも知れません。
 かくいう私自身、1+1が何で2になるのか意味が分からない、と小学校で習った当初に思った記憶があります。
 
 
仕事からの帰り道、自転車を漕ぎつつ、
「1+1=2」 このどこら辺に幼い自分は違和感を感じたのか、
遠い記憶をう~んと絞りながら掘り起こしてみました。
意外とすぐに出てきましたよ、答えが^^
 
 
それは、「足す」という言葉で子供の私が思い出すイメージと、
算数の中での「タス」と言う単語が意味するところとの違いです。
 
 
日常生活の中で「たす」という言葉を使うシチュエーションと言うと、
どんな情景が浮かびますか?
お醤油がなくなったら注ぎ足しておいて!とか、お風呂のお湯を足しといたよ~、とか。
そう、流動体のものに対して使うことが多いと思うんです。
流動体に流動体を足したら融合してしまうので、いくら足しても個数としては1なんですよね。
 
 
言葉は、それをよく使う場面とイメージの中で強く結びつき、それによって意味も限局されます。
厳密に言ったら、「リンゴ」という言葉で浮かべるイメージは百人百様、一つたりとも同じものはないわけです。
子供は大人よりも具象性に近いところで生きている
(思考という抽象性の高い世界に囚われがちな大人に比べ、
現実に何を体験しているか、子供はそこに意識が集中している。)と思うので、
一つ一つの言葉は、日常生活の中の具体的な状況におのずと強く結びついて記憶され易いでしょう。
いったん言葉の意味に具体的な枠組が出来てしまうと、
その言葉で表現されたことは、例え内容が違ってもすべて同じ枠組みのものと捉えがちになります。
 
 
なので、1タス1 と言われると、
いくら例題がリンゴであっても、子供の頭の中では2つのものは足したら融合してしまうわけです。
それゆえに、なぜ2になるのかは謎・・・なのではないかと思います。
 
 
さて、ではこの誤謬を引き起こすのを防ぐにはどうしたら良いか?
更に自転車を漕ぎつつ、考えました。
夜風が気持ちよか~♪
 
 
記号=算数のお約束事として使っている「タス」が、
日常の言葉「足す」が持っている意味と微妙にズレた意味で使われているのが問題なのだから、
それを合致させれば良い。
 
 
1に1を「加える」、だと、まだ流動体のイメージから抜け切れない。
個体のイメージが浮かびやすそうな言葉・・・「付ける」ならドウダ!
一つのリンゴの横にもう一つリンゴを持ってきました、というイメージが、
「足す」よりも浮かびやすくないでしょうか?
 
 
「付ける」を、記号らしい単語にするなら・・・「ツキ」・・・いや、おかしい。
「ツク」・・・1ツク1=2。ふむ、なかなか語呂が良いではないの^^
「足す」が「ツク」なら、「引く」は・・・「トル」よね!
 
 
我ながら、なかなかシャレの効いた解決案を考え付いたもので^^
ウキウキしてテンションが上がってしまいました

 
 
ちなみに、1+1が何で2になるのかを理解するのに苦しむ子の話は比較的耳にしますが、
他の、引く・掛ける・割るについては、聞かない気がしませんか?
基本中の基本である足し算が分かれば、他のはその応用だから。
それもそうかも知れませんが、
引く、掛ける、割るは、あまり日常の会話の中で出てこない(特に子供の場合は。)表現のように思います。
日頃使わない分、言葉のイメージがさほど固定されておらず、
数式の中の記号としての意味と、日常の中での意味との間に
あまりギャップを感じずに済むのかなぁ、なんていう風にも思います。
 
 

受容≠自分を抑えて全てを受け入れる

 
 
受容する。
皆さんは、この言葉はどういう意味だと思いますか?
 
 
 
「私は受容する能力が高いんですよ」
なんてたまに胸を張って言う人がいるけれど^^;
そんなことをワザワザ言っているところを見ると、
かなり頑張って意識的に「受容」しているんだな、と思うんです。
 
 
 
でも、本当の受容って、
きっと自分では意識すらせずに、
自然と相手の立場や考え、在り方を、
その「あるがまま」で良いのよね、
って受け止めていることだと思うんです。
 相手を認めることに何の抵抗もないし、その方が自分としても心地良い。
 
 
 
 ↑ この一文で気づかれた方もいるかも知れませんが、
そうなんです、受容を自然と行えるようになるためには、
自分の中の色々な問題や思考のクセ(パターン)がクリアになっていて、
内的な問題を自分の目に映る相手の姿に投影せずにいられるか(これは100%は無理ですね^^;)、
または投影している自分に自覚的になることが出来る。
・・・という内的な条件が整って来て、ようやく可能になることなんです。
 
 
 
 
相手のあるがままを受け止める、ということの中には、
自分自身を抑える、という要素は微塵も入る必要はありません。
相手を認めるのと同じように、それ以上に、自分自身も認めているからです。
 
 
 
ちなみに、もし相手を受容出来る人同士が会話をしたら、
互いが自由に繰り出す個性が響きあって、
思わぬ広がりを持った話に展開して、
非常にワクワクするんではないでしょうか^^
 
 
 
自分で自分を認められたら、
自分の良いところも悪いところも含めて、
全てがそれで心の底からOKだと思えたら、
もう無敵です。
自分の欠点(と相手が目している所)にどんなヤイバが差し込まれても、
「そうなんだよね~」と受けて、スルリと流せます。
自分の全体性には何の影響も与えません。
 
 
 
もし、自分自身を抑えている、という意識を伴っているのなら、
それは受容ではなくて我慢ですよね、きっと^^;
 

経済生活は「友愛」を原則とする  by シュタイナー

訳あってシュタイナーについて調べていたら、ウィキペディアで下記のような記述を発見。
 
 
『戦争を初めとした社会問題の解決策として、「社会有機体三層化運動」を提唱した。社会という有機体を精神生活(文化)、法生活(政治)、経済生活の三つの部分が独立しながらも、精神生活においては「自由」を、法生活(政治)においては「平等」を、経済生活においては「友愛」を原則として、この3つが有機的に結びつくことが健全な社会のあり方であると説いた。』
(抜粋 : http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC#.E6.95.99.E8.82.B2 )
 
 
経済活動の原則は「友愛」。
 
 
これ、最近私が直面している問題の本質を突いている言葉だなぁと、感心しました。
 
 
精神生活とは文化的な創造性を発揮する活動ですから、そこでは誰しもが自分を「自由」に表現できることが原則。
法生活=政治では、すべての人を対等な立場と捉え、また「平等」であるようにしていくことが、
様々なことを遂行していく際の根本的な基準になる。
では、経済生活において、私達の行動の規範となること、その活動の善し悪しを判断する基準となることはなんでしょう?
 
 
それが、「友愛」なんですね。
 
 
とかく、経済活動においては、個人の利益にどうしても焦点が集まりがちです。
いかにお金を儲けるか、いかに人よりも得をするか。
限りのある富や資源を分配していると、私達は無意識の内に考えていますから、
そこには常に競争がつきまとい、人への思いやりや、優しい目線が失われがちになります。
 
 
 私が携わる整体という仕事、サービス産業の一つです。
この産業の特徴は、モノとお金を等価交換するという、単純なお金のやり取りを行なっているのではないという点です。
 
 
サービス業では、実際に金銭を支払う対象として分かり易いモノ・コトガラにプラスして、
サービス提供者側のお客様に対する気遣い、という心のやり取りが乗っかります。
 
 
これが大変重要です。
この気遣い、配慮によって利用者が十分に満足を得られれば、
対価は仮に安くなかったとしても、快く支払われることとと思います。
 
 
 例えば、大家業。これもサービス業のひとつだと思います。
 
 
大家さんはお客=借り手に対して、アパートの一部屋という実際のモノを提供すると共に、
借り手が安心して住める環境作りという配慮をすることによって、
借り手との間に信頼関係を築いていきます。
 
 
大家さんとの賃貸関係は数年をまたぐことが大方でしょうから、
借り手はその信頼関係に満足していればこそ、家賃を気持ちよくお支払いしましょう、となる訳です。
 
 
「配慮」や「思いやり」という要素は、
すなわちシュタイナーの言うところの「友愛」と同じことだと思います。
これらの要素こそ、
無味乾燥で自分本位になりがちなモノとお金のやり取りに、
人間らしく他者を気づかう関係性をムリなく持ち込み、統合してくれる、
重要な要素だと思うのです。
 
 
アジア圏の多くの国では、商品の売買に値段交渉が普通に入りますよね。
あれも、「友愛」の一つの表現ですよね、きっと。
短いやり取りの間でも、相手との関係性を作ることを楽しんでいる訳ですから^^
 
 

不安の解消法・・・原発事故に寄せて。

まだまだ震災からの復興も立ち行かず、関東も原発の不安で緊張感のある日々を送っている状況が続いています。様々な立場や利害の機関や個人から情報があがってきているので、どれを信頼すればよいのか迷いますね。

ここのところ、ナゼか夜中に原発の勉強(節電しなきゃと思いつつ・・・。ネットサーフィンしているだけですけど^^;)をしてしまい、睡眠不足が続いています。・・・ちょっと目の下にクマが出てきました。
連日の厳しい内容の報道。長期化してきているので、思わず見ぬ振りをしてしまいたくなります。でも、ここは踏ん張って、ちゃんと現実を把握する必要があると思います。現実を見て、なおかつ自分で自分を不安に陥れず、冷静に考える必要があると思うのです。
今の状況の中で、自分や家族に出来る対処は何か。万が一の場合には、逃げるのか留まるのか。逃げるとしたら何処を目標に移動するのか。・・・そして、こうしたことを考える前に、まず自分は何を最も大切に思って生きているのか、どんな存在として生きて行きたいのか、それをしっかりと見つめ直すと良いと思うのです。そうすれば、すべての意思決定はその大切なものを基準として、落ち着いて出来ると思います。

それでも不安で、心臓の鼓動が自分で聞こえそう・・・。血管の拍動が強くて、また余震が来たかと思ってしまう・・・。そんな方には、簡単な呼吸法をご紹介しますね!
肩幅に足を開き、ヒザと股関節を曲げます。ちょうど馬に乗っているような姿勢です。両手は木を抱えるように丸く構えます。木は直径50センチくらい。
この状態で、足の裏からゆっくりと息を吸い上げるイメージで呼吸をします。最初は足首までしか上がって来ないかも知れません。
焦らずに何度か繰り返していくと、足の裏からのぼってきた呼吸=大地のエネルギーが、ヒザや股関節、お腹にまで上ってくるようになります。両手を下から上に、エネルギーの流れを誘導するように一緒に動かすと、感覚をつかみ易くなります。
ムリをする必要はありません。太ももの筋肉がちょっとふるふるしてきた・・・という程度で止め、ゆっくりと息を吸いながら立ち上がります。最後に目を閉じて、下腹部に重ねた両手を当てて、ゆっくり深呼吸を一回します。下腹部に手のあたたかさが残ります。
回数を重ねて練習すると、大地にしっかりと根を張っているような体感覚が生まれます。私たちは大地によって生かされている存在。大地が鳴動しているこんな時だからこそ、自然と仲良くなるつもりで試してみてくださいね^^
  傘のような形の緑の花は、バイモ。その右側の白い房になっている花は馬酔木(あせび)。白い花はマーガレット、綺麗な紫は、一度死にかけて蘇り、見事に花開いたビオラ。黄色い花は・・・不明です^^; 

心・技・体ってどういう状態?

今朝ジョギング中にふと、心技体とはどういう状態なのか、なんてことについてヒラメキました。・・・こうやって、よく突拍子も無くひらめくんです。

一時、『阿羅漢』というカンフー映画にハマリました。主演している若きリー・リンチェイ(現在はジェット・リーという芸名。最近公開していた『エクスペンダブルズ』にも出演していました。)が見せる少林拳は素晴らしくキレがあり、ビデオテープがよれよれになって擦り切れる寸前まで繰り返し観ました。

分野は異なりますが、バレエダンサーの熊川哲也氏のパフォーマンスもリー・リンチェイに近い感じで惹き付けられるものがあるんです。二人の動きに共通して感じる魅力って何だろう?・・・と考えてみると、何よりも緩急の自在さが浮かんできます。

緩急自在といっても、月並みのものではないんです。緩と急の落差がとても大きい。速い動きから瞬時に全ての動きがピタッと止まり、一旦無になる。そこからまた噴き出すように新しい動きが生じてくる。そんな現象が非常に速い速度の中で繰り返し立ち現れてくる・・・そんな感じに見えます。
どうしてあんなに落差のある動きが安定して出来るのか?
その答えが、心技体、なんですね。

速い動きも、ただ速いだけだと粗雑になってしまう。スピードがありつつ「魅せる」と言う事は、その中に技やポーズが安定して行われている丁寧さがある証拠だと思います。意識が先行して先の動作を考えながらやっていると、動きの一つ一つが流れてしまいます。
意識は、エネルギーそのものです。これが心と身体をつなげています。意識が行っているところには、すでにエネルギーが届いています。先の動作に意識が行っていると、今動作をおこなっている身体にはエネルギーが通っていないことになります。空っぽなわけです。
見てる側は、実はこのエネルギーと身体が一致しているかどうかを無意識に、肌で感じています。意識が一致していない場合、速い動作から急停止しようとしてもエネルギーは先走っているので、身体がブレたり流れたりします。こういう状態では、見てる側は美しい「停止」とは感じられないのです。
意識が「今ここ」の動作に集中できていると、「今現在」の動きにエネルギーが通います。魂の入っているパフォーマンスになるわけです。これが、心技体の意味するところ、の様ですヨ^^
 今日のneMu の花
左下から・・・万両(赤く下がった実)、ハナイソギク(白い花)、桜タデの赤い葉、ベニシタン(赤い実)
後ろの列・・・ヤブ茗荷(黒い実)

自分で決めたことをやらないと、どうなるの?

1月に入ってから、どうしてもやる気が湧かない日が続いていました。

こういう時って自分が不甲斐なく感じて、生きている意味まで見失っちゃったりします。

現実世界からどんどん離れていくような、自分の中の歯車の回転がついにパタリと止まったと感じた時に、やっと気付いたんです。何で生きる力を見失ってしまったか、その原因に。

ここ数ヶ月、やらなくちゃ、とか、やった方が良いな、と思っていることを、言い訳を沢山積み上げて先延ばしにしていました。

自分で決めたことをやらない。これは、自分自身を相手に約束したことを破っているわけですから、自分で自分を裏切っていることになります。

自分で自分を裏切り続けていると、何一つ、やる必要性を感じなくなるんです。

今までは、やる意義や重要性があるかどうかを行動の基準にしていました。でも、本当に大切なのは、それをやる価値があるかどうかではないんです。自分でやろうと決めた、それが重要です。

自分でやろうと決めたことには、たとえ社会的な価値はなくても、やる必要があるんです。

それが、自分との約束を守ることに繋がるからです。そして自分との約束を守ることが、自分の中の生きる力をモチベートしてくれるのです。

だって、決めたこと=自分との約束を果たすということは、自分のアイデアや意見を自分自身が尊重して、それを実行するということですから。誰だって、誰かに自分の意見を汲んで協力してもらえると、認められた気持ちで幸せになります。もしそうして協力して認めてくれるのがもう一人の自分だったら、もっともっと幸せで勇気が湧いてくると思いませんか。

コタツ寝をやめられないワケ

冬場になってから、コタツで眠る日が増えてしまったchiezou。

我が家の場合はコタツがテーブル&イス式なためイスを並べて眠るのだが、イスは硬いし幅が狭いし、こんなところで眠っても身体は休まらない、と分かっていても止められない。

この状態で熟睡は出来ないので、目が覚めるのも早い。まだ日が昇る前に目が開くと、このまま起きるか、布団で寝なおすかを考える。なんとも無駄なことをしていると、毎回情けない気持ちになる。

しかし今日、ふと、なぜコタツで寝る羽目になるのかの理由に気づいた。

我が母は非常に母としての意識の強い人で、子供ら(もう皆いい加減いい年なのですが)が仕事から帰宅するまで起きて待っていることが多い。すると、せっかく待っていてくれたのだから、自分の部屋にすぐに戻ってヨーガをして風呂に入って・・・という選択肢よりも、少しの時間でも一緒にお茶を飲みながら団欒の時間を持つ、という選択肢を選ぼうと思う。

帰ってきてお茶を飲めば、ほっとして動くのが面倒になる。結果、コタツで寝てしまうという図式。お茶を飲むのを止めればいいのだが、親と団欒できる時間というのは日常の中でも意外と少なく、努力をしなければ作り出せない。さて、どちらを取るべきか・・・。

かような選択を知らぬ間に自分の内側で行っていたのだと気づいたら、コタツ寝をしてしまう自分を許してあげようという気になった。

普段、自覚せずに考えたり行ったりしていることは多々あるのだろう。そして無意識の選択・行動を意識で捉え直せた時に、自分のことがもっとよく理解できるようになるようだ。なぜなら、意識せずに行うことというのは、自分の本質の反映に他ならないのだから。

さて、コタツ寝の止められぬ理由が分かったからには、ほどなくまともに布団で寝られる日が来るのではないか・・・という気がして来た。

人間関係=役割の場

 

 

パソコンがここしばらくダウンしてしまい、

書くことがたまってしまったにゃ・・・

 

 

さて、まず頭に浮かんで来たのが

「場の専有理論」。

今日はこれについて書くことにしよう。

 

 

こむずかしいネーミングだが、

しばらく前から興味を持っている

POP(プロセス志向心理学)についての書籍

(藤見幸雄著「痛みと身体の心理学」

http://www.amazon.co.jp/%E7%97%9B%E3%81%BF%E3%81%A8%E8%BA%AB%E4%BD%93%E3%81%AE%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E8%97%A4%E8%A6%8B-%E5%B9%B8%E9%9B%84/dp/4106035383/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1245589367&sr=1-2

の中で見つけた言葉だ。

 

 

この言葉の要旨を説明するとすると、

 

 

人間関係を、拮抗する役割によって

構成される「場」として捉え、

例えば一人が被害者という役割を専有すると、

もう一方は必然的に

残りの加害者役を担うことになる、

というもの。

 

 

こういう対比関係というのは、

無意識の中で日常的に使われている。

 

 

例えば、

「私ばっかりまじめに仕事して、

あの人はいつもさぼってばかり・・・。」

なんて不平の中にも、

 

 

私=被害者または搾取される側、

あの人=加害者または搾取する側、

という役割の割り振りが見て取れる。

 

 

そして、こうして

自分を固定的な役割の中に

はめ込んで考えることが、

その人間関係自体を

固定的な場の中に押し込めることになるのだ。

 

 

なるほど、この「場」の中に

はまらない様にする事は難しいかもしれないが、

はまっている事が自覚できれば、

 

 

更にはその役割に自分をはめているのが

他ならぬ自分自身なのだと自覚できれば、

 

 

人間関係の中で不必要に

傷ついたりすることもなくなってくる。

 

 

私達は、「自我」という

他者との間に境界線を持つ存在である。

 

 

自我は、他者との関係性の場の中で

その在り方を発露させて行く。

 

 

自分自身を客観的に捉える視点

(NLPなどではメタポジションと呼ばれている。)

を持っていれば、

 

 

関係性の場を通して、

自分がどういう価値観を持ち、

どんなものの捉え方をするか、

自分自身の自我の在り方が

明確になっていく。

 

 

関係性の場の中を

蜘蛛の網に掛かることなく、

ひらりひらりと身をかわして

自由にのびのび飛び回る

蝶でありたいものである。