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ボルネオ報告③(全4編): 食物は光を持っている。

ボルネオに行ったのも

もう2ヵ月前のことになりました。

つくづく、時間の過ぎる感覚は

東京にいると速いなぁと感じます。

 

日々、これをやらないとあれを終わらせないと、と

常に視線は遠くの前方を見て

やるべきことを鵜の目鷹の目で探す傾向にあるようで、

 

今この時に、

自分の感じている事や気になっている事に対して

十分に意識をとどめておくだけの余裕を持つことを

社会の流れが許容しにくいからなのかな、

と思ったりもします。

 

さてさて、ボルネオに話を移しましょう!DSC_0002_30

 

熱帯性気候のマレーシアは、

何と言っても植物の元気さが日本とは違いました。

市場で売られている葉物野菜はバカでかいですし、

見たことも無い種類の果物も、実に豊富にありました。

 

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左の写真はスネークフルーツ、右はタラップ。

次の記事で、植物や果物の詳細をご紹介する予定ですので、

しばしお待ちくださいね!

 

 

そう言えば、こんなことを教えてくれた人がいました。

熱帯地方では、歩いていれば

どこかしらで食べられる物が生っているから、

あまり頑張って働こうという気にならないらしいよ!と。

…なるほど、それはそうかも知れないですねぇ(^▽^;)

 

 

そうそう!

食べ物は全般的に美味しかったですよ~!

 

料理は辛いし酸っぱいしで、味がはっきりしていて、

飲み物は概して甘すぎるくらい甘いんですけど、

味のバランスが取れているんですよね。

日本人の舌には馴染みやすいと思いました。

 

それに、とにかく安い!

 

大きなショッピングモールの中にはフードコートもあって、

マレーシアの人達が普通に食べる一般的な料理を食べられます。

ランチの時間には、地元の人達も大勢食べに来ています。

 

白いご飯の入った発泡スチロールの容器に、

好きなおかずを選んで自分で盛りつけて、

それをテイクアウトできたりもします。

 

おかずは量ではなくて品数で値段が決まる形式なので、

3品選んで、ご飯におかずの汁をたっぷりかけて行っても

レジで払うのはわずか5リンギット(約170円)!

感動的な安さなのに、どれもハズレなしの美味しさ!

 

他にも、海の近くには屋台街があって、

エビやら魚やらが山の様に積まれています。

食べたいものと調理法を選んでオーダーすると、

その場で大皿の料理を作ってくれます。

 

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これは伊勢海老みたいなものだったかな?

見た目の鮮やかさで食欲が盛り上がって、

非常に美味しかったのです~!

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数あるレストランの中には

東京と同じ相場のところもありましたけど、

何と言っても日本と違うと感じたのは、

食材そのものの力強さでした。

だから、たとえ安いものであっても美味しいし、

食べると本当に満たされて、元気が湧いて来ます。

 

今までは、身体の状態が良ければ

食べ物の良し悪しははさほど問題ではない、

と思っていた所があったのですが(身体バカですね~(^▽^;))、

 

毎日食べている食材の力がこうも違うと、

根本的な「生きる力」の強さが

かなり変わって来るだろうと思います。

それは、何かを生み出したり、

想いを形にする事に情熱を注ぎ続けられる力でもあると思います。

そうした力を支える源の一つが、食事なのだと実感しました。

 

 

少し話は変わりますが、

滝を訪れた自然ツアーでは、

緑の木立が作り出す空気が本当に心地よかったのですが、

その空気を吸うことで

肺が柔らかくなったような感覚を感じました。

 

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美しいマフア滝。

流れの後ろ側に回って

滝を見上げることが出来る。

 

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私たちが日頃接触する環境によって

例えば、リラックスし易いとか、いつも緊張しているとか言った、

いわば身体が帯びているムードみたいなものが

無意識的に左右されているのだと気づかされた体験でした。

 

食べ物にしても空気にしても

生きる上で最も基本的な栄養素ですが、

私たちの心身の状態は

思いのほかこれらの要素によって

大きく規定されてしまうのだと言えそうです。

 

 

ボルネオでの豊かな食体験のお陰で、

「こんなに元気のない食材なのに、

こんなに高いなんて!」と

東京で外食をする度に理不尽さを感じては

ひとり憤慨しております(;^ω^)

 

食事は「元気」とか「活力」を得るために

摂るもののはずです。

だとしたら、食事に払う対価は当然

食事で得られる元気に比例していないとおかしい!

と思う訳なのです。

 

生きる事に最低限必要な「食べる」という事にさえ

こんなに費用がかかり、

しかもそれに見合ったエネルギーを持たない物を

食べることになっているだなんて。

 

日本は豊かな国だと言われていて、

私も以前は特に疑問も無く

そうなんだろうナと思っていたけれど、

一体豊かさとは何が基準なのかと

今は首を捻らずにはいられません。

 

 

憤慨しているだけでは成長しないので、

自分なりに出来る方法で、

食べ物に元気を取り戻してもらう方法を考えてみました!

 

ちょっとアヤシイ方法だなぁと

思う方もいらっしゃるかも知れませんが、

そのご意見もそれはそれで有りとしつつ、

ご紹介してみますねヽ(^。^)ノ

 

先日ある書籍を読んでいた時の事。

消化についての面白い一節を見つけました。

それは、

食物は光を持っていて、

真っ暗な消化管を通る時に

私たちはその食物の光を吸収する、

というものでした。

 

光とは、マナとか気とかエネルギーという様な概念に

置き換えられると思います。

消化管が真っ暗闇であることにも理由があったのかと、

妙に納得。

 

身体を物理的に構成する栄養素としてだけではなく、

食物が持つ光のエネルギーも

私たちは分け与えてもらってる事になります。

 

そう考えると、加工された食品よりは、

生に近いものの方が光を多く含んでいそうです。

 

ローフードやリビングフードには賛否両論ありますが、

良い面に関しては

食物の持っている生きた酵素をそのまま摂れるから

という理由をよく耳にします。

ですがもしかすると、食物の持っている光を

最大限吸収し易かったりするからかも知れませんよね。

 

一方で、生の野菜であれ果物であれ、

私たちの口に入るものの多くは

色んな薬剤をかけられて

育った地から遠く離れた所へ運ばれてきています。

 

彼らの身になって想像してみると…

店頭に並ぶ頃には頭は朦朧とし、

半ば冬眠した様な状態で、

自分がどこの誰だったのかも

分からなくなっている…かも知れません。

 

口に入れてしまう前に彼らの目を覚ませれば、

食材としての元気=光を取り戻せるのではないか、

なんていう発想が浮かびました。

 

で、実際に何をするかと言いますと。

いわば食材へのヒーリングです(*^^)

手で食材に触れながら、

彼らがまだ土に根を張っていた頃のイメージを

出来るだけ詳細に想像して伝えます。

 

土や空気の匂い、

風のそよぎ、陽の光の暖かさ、

そういったものを実感を伴う様にイメージして、

自分は本当は湿った香りの土から生まれた人参だったとか、

陽を浴びて輝いていたトマトだったとか言うことを、

ちゃんと思い出してもらいます。

 

そうするとどうなるか?

 

さぁて。

その効果のほどについては、

是非ご自身で試して

確かめてみて下さいね!(*’▽’)

 

 

そうそう、ボルネオの食事と言えば、

伝統的なバナナリーフでの食事もして来ましたよ!

 

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大きなバナナの葉の上に、

ライスを中心に色んな種類のおかずを盛りつけます。

 

ちなみに、

一緒に出て来た魚の頭の料理は定番らしいんですが、

こちらはいささかコワモテ。

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伝統食を食べる時には手を使うのですが、

これがなかなか難しい。

 

インドで正式な食べ方を教わった友人の説明によれば、

使う指は右手の3本。親指、示指、中指。

 

おかずとライスを混ぜて一口大にまとめ、

3本の指で掬いあげます。

示指と中指に乗せた食べ物を、

最後に親指で押し出すようにして口の中へ。

 

むむ、

知らぬ間に指4本汚れている。

なぜだ…。

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とまぁ、かような感じで、

意外にも技術が必要です。

 

でも、手で食べるのは、

思っていた以上に

良い風習だと思いました。

 

ご飯やおかずなどの

ぐちゃぐちゃとしたものを手で混ぜるのは

気持ち悪そうだなぁと思っていたのですが、

 

実際にやってみて気づいたのは、

これから食べる物を

口に入れる前に手で確認する事になるんですね。

それが、非常に健全だと思ったんです。

 

日頃、テレビを見ながら食事をするのが

当たり前の習慣になっていましたが、

そのせいで自分が何を食べているのか、

ちゃんと意識せずに食べていました。

 

食べ物に対して失礼という以上に、

自分自身に対して失礼なことをしていたな、と。

これから体内に入って

自分を構成してくれるはずの物を

その都度、認識せずにいたのですから。

 

手で混ぜる工程が入れば、おのずと

何を食べるのかに意識が行きます。

 

何が自分を形作ってくれるのかを

ちゃんと把握しながら食べる事は、

 

自分という存在の土台をしっかり認識し、

自己の同一性を安定させる事にも

繋がっているような気がします。