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幽玄の笛の音~10月の営業のお知らせ

 

 

 

またまた前回の投稿から、
一カ月が経ちました~!(^▽^;)
9月も、今日で最終日になっちゃいましたね~!

 

実は、馬と仕事をしていた時の話を
今回のブログ記事として書いているんですが、
今日中にはとても書き終わりそうもなく…(^▽^;)

 

9月はまだ記事をアップしていない状態なので、
急遽、本編に先行して
来月の営業の予定をアップしたいと思います。

 

と、その前に少し別のお話を。

 

この間の9月最後の週末は、
谷保天満宮のお祭りでした。
大学通りには屋台がずらりと立ち並び、
外からは太鼓の音が聞こえていました。

 

夕方、外に用足しに出たら、
山車と言うのか祭屋台と言うのか、
駅前でちょうどお囃子と舞いを披露していましたよ!

 

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何とも言えず、懐かしい空気。
日本の文化ってやっぱり良いなぁ、なんて
一人でニヤニヤしちゃったりして。

 

なぜニヤニヤかって?
いえね、タイムリーだったんです。
大きな声ではとても言えないんですけど、
(ひそひそ)実は今、能管の練習を日々行っていまして…。

 

 

総合芸術としての能楽

 

能管と言うのは、 お能の舞囃子で用いる笛です。

 

もうねぇ、吹いてます、なんて
とても言えない位 わずかな経験なので、
本当はこんな話を書く予定じゃなかったんですけど(;^ω^)

 

30代の始め頃、少しだけ謡を学んでいた事がありました。
勤めていた山梨の牧場から実家に戻り、
整体などの勉強を始めていた頃だったと思います。

 

牧場では流鏑馬をやったり、
馬上で長刀を使って演舞したりした時もあったので、
日本の伝統的な文化には興味が向きやすい環境でした。

 

実家に戻って来て、そうしたものと
触れ合う機会がなくなったことを寂しく感じ、

 

武家の文化の中でも最も理解しにくく思えるけれど
その簡素化された動作に見える様式美に惹かれていたこともあって、
(興味を持つ所は、ものが何であれ
やはり身体の動きとその美しさなんです。)
仕舞を学びたいと思ったんですね。

 

ところが、能は総合芸術で、
その基本は「謡」だと言われました。
謡が出来ないと、舞う事もできないと。

 

と言う訳で、まずは謡曲からはじめて、
…で、やがて、どういう訳か仕舞ではなくて
太鼓や笛の練習も少しさせてもらうようになったんですね。

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笛を一曲吹けるようになって間もなく、
独立して仕事をし始めたのをきっかけに、
謡も能管も、お稽古はやめてしまいました。

 

それから8年ぶりになる今年の春の事。
当時お世話になっていた先生から
秋の市民文化祭で笛を吹かない~?
という電話を受けました。

 

いつも笛を吹いている先生が仕舞を舞いたいので、
笛を吹く人を探しているとの事でした。

 

長い年月の間、 ほぼ全く吹いていなかった笛を
急遽練習する事になりました。

 

全く吹けなかったら
丁重にお断りしようと考えていたのですが、
記憶の良い内に身体で覚えた事は、
ちゃんと覚えてるんですよね~。

 

吹きはじめたら、指が勝手に動きました。
秋までなら、何とかなるかも知れないと
お引き受けする事にしました。

 

 

プロは空気を作る

 

さて。 実は本番はもうすぐ。
それに先駆けて、先日、
みんなで揃って合せ稽古をしました。

 

能の囃子は四拍子(しびょうし)と言って、
太鼓(二本の撥で打つ)、小鼓、大鼓(おおかわ)、能管の
4種類の楽器を用います。

 

大鼓は、本職の能楽師の囃子方の先生で、
その日はその先生が稽古もつけて下さいました。

 

大鼓は、それこそ大振りの鼓なんですが、
練習の時には楽器は持たず、
文机を扇で叩きながら拍を打つんですね。
ところが、その文机を打つ音が非常~にデカくて
鋭いんです。

 

こちらは別に怒られてないんですけど、
何となく怒られた気分になっちゃうくらい、
迷いなく鋭い。

 

この音で、稽古に参加していたみんなの
気持ちと集中力が一気に高まって、
稽古場の空気が一変したのが印象的でした。

 

そうなんです。
真剣な稽古場の空気って
どこか神社に似ている感じがあって、

 

ピーンと張りつめた
一線が通っている感じと言おうか、
おふざけなんかとても場違いで出来ない、
そういう神聖な空気感があるんですよね。

 

伝統文化に限らず、
本格的なお稽古の場を味わうのは久しぶりだったので、
本物の文化の担い手が持っている空気感や、
そうした人が持つ「場の空気」を確実に変える力に、
これがプロなのだなとハッとさせられました。

 

 

日常を裂き、異界を開く

 

詳細を書くとエラク長くなるので省きますが、
この稽古によって、
笛をもっと早く吹かなきゃいけなかったのが
判明しました。

 

イメージ的には2倍速。
肝心の笛からは音が出ずに、
私がヒーヒー言ってました(;・∀・)

 

これはマズい!と、やっとこさ自覚したので、
そこからは毎日、笛を吹いてます。

 

一度、自分の音を録ってみました。
そうしたら、笛の音がヒヨヒヨしていて、
頼りないし芯がない。
聞いている人達に 「大丈夫かな~」と
心配されそうな音です。

 

プロの演奏をネットで探して聞いてみると、
当たり前と言えば当たり前なのですが、
お能の笛は、お能らしい音をしています。

 

節回し、音の勢い、音の帯びる情感。
和笛には、能管の他にも篠笛や
雅楽で用いる竜笛がありますが、

 

和笛はこういう音だと思わせる
特徴的で共通したニュアンスがあるのだなと、
その時気づきました。

 

一方で、私の音は平板で表情がありません。
音は出るけれど、曲になっていない。

 

曲は、一つ一つの「音を紡ぐ」ことで生まれるわけで、
音を拾う事に一生懸命の内は、曲にはならないんですね。
そう気づきはしたものの、
具体的にどうしたら良いかが分からない。

 

限られた短い時間の中で情報を調べて、
音の聞き比べをした結果、息の強さが違う事と、
一音一音にゆらぎ(ビブラートのような)があって、
それが音に豊かな色彩を与えていると 分かりました。

 

 

お能の場合は、
登場する主人公は鬼神や亡者の魂です。
超自然的な存在がこの世に姿を現す、
そのきっかけを作るのが能管の音の役割のようなんですね。

 

能管には、管の内側に「のど」と呼ばれる構造があり、
空気をわざと対流させて
音が出にくい形に作られています。

 

それが、素人に取っては吹くのを困難にさせている反面、
その音色に独特の鋭さを与えています。

 

本来はここにないはずの存在が
この世に顕在化することを可能にする特殊な場。
日常を切り裂き、その「場」を生み出すのが、
音の出にくい能管から生み出される音。

 

雷

 

能舞台の主人公たちも能管も、
両者ともパラドックスな存在です。
何とも、象徴的に繋がっている様な気がします。

 

うむ~、なるほど~。
こんなにも重要な意味合いがあったんだなぁと、
自分で書きながら改めて気づいてみたりして(*’▽’)

 

それでもって、
笛を吹く責任の重大さにも
気付いてしまったぁぁ…。

 

 

とは言え、もう日にちはありません。
音のゆらぎに関しては短時間ではどうにもならないので、
息の強さだけは何とかしたいところです。

 

今必要なのは、笛を吹き続けるのに必要な筋肉と、
間違えても動じることなく先へ進む度胸とをつける、
実戦向きの練習です。

 

自分の笛のかすれた音を聞いていると
気持ちの面で苦しくなって来て
吹き続けるのが難しくなります。

 

そこで、同じ曲目の演奏をネットで探しました。
それに合わせて休まず吹き続けることで、
曲の速さへの適応と、
吹き続ける筋力・耐久力とをつける作戦を立てました。
そして、現在も遂行中~(^▽^;)

 

ちなみに、とにかく吹き続ける事で、
間違えた時だって平気の平左、
冷静に素早く曲に戻れるようになりましたよ!

 

さてさて、
本番の日取りはナイショではありますが(;^ω^)
このにわか仕込みの作戦が功を奏すことを、
どうか皆さんも祈っていてくださいね~!

 

 

10月のお知らせ

 

ちょびっとのつもりが、
またしても、長~い前置きになりました!

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10月の営業のお知らせをお伝えいたします!

 

臨時のお休み:10月12日(月)

定休日 : 毎週水・日

営業時間 : 11時~20時(施術の最終受付は17:30)

 

9月末から、急に気温が下がると共に
空気の乾燥も強くなって来ました。

 

あっという間に、
手がカサカサする感じや、
足先が冷えやすい感じが出て来始めました。

 

こういう時期には、特に
ノドの乾燥に要注意ですよね。

風邪を引きやすくなるので、
外出時にはのど飴やマスクを持ち歩くことを
お勧めします!ヽ(^。^)ノ

 

今日の日本では、残念ながら
周りの人への気配りのない方も見受けられます。

電車の中でも人へ向けて
平気でクシャミをする方もいたりするので、
困ったものだなと思います。
(正直を言えば、許せん!と思います(^▽^;))

 

自分が人へ感染させない気遣いと共に、
人から感染源をもらってしまわないように、
自分で出来る最小限の防衛は
心がけたいですよね!

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「揺らぎ」から、一瞬を切り取る。

知人に、プロのカメラマンではないけれども、

とても印象的で美しい写真を撮る人がいます。

この記事の冒頭のシャボン玉を吹く少女の写真

『野焼きの合間に』をはじめ、

文中に出て来る写真も、

今回掲載しているものはすべて、

彼女の珠玉の作品です。

デザイナーを本職とする彼女の作品は、

その対象が人物であっても風景であっても

それ自体とは違う何かを、観る側に語り掛けてきます。

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

『うわさのオアシス』 撮影:M.Kobayashi

沢山の人から彼女の写真に寄せられるSNSのコメントを見ていると、

そう感じているのは決して私だけではない様です。

ず~っと、

彼女の写真の帯びている不思議な空気や

語り掛ける力が一体どこから来ているのか、

私自身が写真の何を通してそう感じているのかを、

理解したいなぁと思っていました。

先日のこと。

それが、やっと分かりました。

そしてその分かったことが、

ここ数か月、私の意識の中で

印象的に引っかかっていた事とも

繋がっていたことに気付きました。

彼女は、写す対象が彼女に働きかけてくる「何か」を

敏感に感じ取ります。

そうした働き掛けを受け取ることが、

写真を撮るきっかけになっているとも言えます。

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi 

『フキノトウと小梅』  撮影:M.Kobayashi

私も含め、写真を撮る多くの人は、

自分が目にしているものそのものを写そうとすると思います。

彼女の場合は、

「働きかけられる私」の存在が、写真の中に息づいているのです。

写す行為を通して記録されるものは、彼女自身の世界であり、

心象風景なのだと思います。

この記事へ彼女の作品を転載したい

という旨のご連絡を差し上げた時に、

彼女はこんな風な表現をしていました。

「『まばゆい何か』が気になって仕方が無くて、

写真を撮っています。」と。

写真を観た人は、彼女の観る世界の中に入り込み、

彼女の「視点」にスッと重なる体験をします。

例えば、この写真のように。

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

『猫に秋刀魚』  撮影:M.Kobayashi

ああぁ、おいしそうだ…。

美味しそう過ぎて、もう、切ないくらい。

観ているこっちまで、

口の中が酸っぱくなって来ます。

つまり、普段の自分とは異なる視野で

ものを見、感じる経験を

写真を通して実際にしているのだと思うのです。

単に写真を見ていると思っている私たちは、

写真を見る瞬間に「異なる視野の中に入る」という自覚を

持つことは、通常ありませんよね。

その為、何とも言えない不思議な気持ちになるわけです。

こうした感覚を体験させてくれる作品と言うのは、

そう沢山はないだろうと思います。

こうしたことを可能にしているのは、彼女が

現実世界を切り取る彼女らしい「平面」を

鮮明に持っている為だろうと思います。

この、現実世界をどういう平面で切り取るか、

その切り取り方が安定的で鮮明であるかどうかが、

その人がプロと名乗っているかどうかに関わらず、

「本物」と「素人」の仕事を分けているのかも知れません。

私たちが目にしているこの世界は、

常に揺らぎ続けています。

これは刻一刻と情勢が変化して行く様な

社会的な側面について言っているのではなく、

私たち人間を含む全ての存在が、

波として動き続ける粒子から成っていることを

念頭に置いています。

分子生物学者の福岡伸一氏は、

著書『動的平衡』の中でこう述べています。

(『動的平衡』p231)

「個体は、感覚としては

外界と隔てられた実体として存在するように思える。

しかし、ミクロのレベルでは、

たまたまそこに密度が高まっている

分子のゆるい「淀み」でしかないのである。」

波打ち、流れ続ける分子の海、

その中に出来た「淀み」が、

三次元の肉体を持つ私たちという存在。

存在は粒子から成るものだけれど、

そこに時間の概念を加えた時に

粒子は波としての性質を現します。

そして、それぞれの存在、

例えば臓器の一つ一つにも、

それ固有の波の大きさやリズムがあり、

様々な波の入り混じった複雑な倍音の総体として、

私たち一人一人は存在しています。

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

『水たまり』  撮影:M.Kobayashi

少し話が脱線気味になって来ましたが、(;^ω^)

人間に限らず、この世界を彩る全ての存在は、

常に揺らぎ続ける流動体なのです。

これを私の専門である身体に引きつけて考えるなら、

身体もまた、変化し続けることが常です。

留まり、固定化することはもちろん、

それが固定化することを私たちが望むことさえ、

例えそれが理想的な状態に思えるものであったとしても

身体の本質に添った在り方ではないのです。

自然も、建物も、生命も。

私たちが目にする対象の全ても、

それを観る私たちの目も。

揺らぐ目が、

揺らいでいる道具を使って

揺らぎの中にある対象の姿を切り取る。

自分の内なる心象風景を

カメラを用いて瞬間の中に切り取るという事は、

いわば、

揺らぎの合間のわずかな瞬間にのみ生じる

全てが符合するまばゆい閃き、それを捉える、

非常に繊細な「チューニング」のような作業だと

言えるかも知れません。

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi

『空の上は神様の領域』  撮影:M.Kobayashi

死の淵に立つ馬④ ~勝利と歓喜

前回からの続き

 

岳が歩き始めるのと入れ違いに、
大きな注射を手に獣医が現れた。

 

馬の様子を 遠目に見ながら言う。
殺すことはいつでも出来る。
ここまで来たら、トコトン付き合おう。

 

他にも、患畜はいる。
牧場も、明日は連休の初日、来客がある。
いつまでも待っている余裕はない。

 

待つと決めるのは、リスクを負うこと。
覚悟がいる。

 

岳と一緒に歩いていた場長が、戻って来た。

 

動き出してる様な気がするんだよなぁ。(腸が。)

 

彼は、希望的観測ではものを言わない。
だから、言葉に信頼性がある。
みんなの気持ちが、すっかり明るくなっている。

 

止まると、また腹痛が来るかも知れない。
ひたすら、歩かせ続ける。

 

「生き物の世話って、
愚直じゃなきゃ出来ないよね。ふふふ。」

 

「あははは、そうそう!
アホになんないと出来ないよね~!」

 

いつ動き出すとも知れない馬の腸を思いながら、
スタッフが馬場の中を歩かせ続ける。
その横に立って、 岳の腰に手を当てながら一緒に歩く。

 

腰仙関節から エネルギーを通すことで、
少しでも腸が動いてくれれば。

 

岳の腰の高さは自分の肩よりも少し高い。
腕は疲れて来るが、
あれだけの岳の頑張りを見たらこちらだって頑張ろうと思う。

 

場長もスタッフも、昨日から
ほとんど寝ていないと言う。

 

岳には、縁の深い家族もいる。
そこの娘さんも、横に並んで一緒に歩き続ける。

 

歩きながら、思い出話に花が咲く。
岳が大好きだった雌馬の福ちゃん。
彼女が先に逝ってしまった後、岳は抜け殻みたいになっていたこと。

 

若いメスが牧場にやって来たら、
たちまちに元気を取り戻してお尻を追い掛けまわしていたこと。

 

ボロを溜めておく深い穴にハマり込み、
抜け出せなくて、死にかけたこと。

 

助け出す為に救助隊まで来たのに、
牧場スタッフが置いた板を渡って、結局最後は自力で脱出したこと。

 

「いつだって、人には頼らずに
自力で何とかして来たんだよね、岳は。
誇り高い馬だよねぇ。」

 

「岳って、馬主がいたことあるの?」

 

「なかったと思いますよ~。
それに岳は、誰の馬にもならないですよね。ふふ」

 

「あはは、それもそうね!
誰も自分の馬には出来ないわね。」

 

岳の為に集まったのは、全部で9人。

 

人間の言う事は聞かないどころか、むしろ分かってて裏をかいて来る。
仕事だとあからさまに仮病を使うし、いい加減に自由気まま。

 

木曽馬の名誉のために言うなら、
彼らの多くは、真面目な性格。

 

岳は破格に、天真爛漫で、
縛る事の出来ない自由な魂なのだと思う。

 

だから、みんな時間を割いて、
一頭の馬の為にこうして集まっている。
いや、むしろ…

 

珍しく早めに帰宅する予定だった私の他に、
腰痛でたまたま仕事を休んでいた者、
雨天で仕事が流れて身体が急に空いた者。

 

偶然は、2つ重なると偶然ではないという。
こうなると、時間を作れるタイミングで集められたという気がして来る。

 

「俺が辛い思いしてるのに、
耳の傍でうるせえなぁって、
きっと今思ってるんだろうね~、ふふふ。」

 

岳の足取りは、少し落ちて来る。
でも、思ったほど重くはない。

 

大丈夫かも知れない。
でも、どうするかは 岳自身が決める事。

 

やれることはやった。
これで永の別れになっても、悔いはないだろう。

 

家へと戻る電車の中、メールが入った。

 

難産の末、
疝痛の原因と思しきものが除去された、と。

 

ここ最近で、こんなに心の底から
喜びを感じた事があっただろうか。
心臓からワクワクした感覚が上がってくる。

 

岳は、本当に生き返った。
…私達は、勝ったんだ。

 

闘っていた相手は、死ではなく
自分たちの中の都合や諦め。

 

もう終わりにしようと、
状況を明け渡したくなる誘惑。

 

…難産って、もしやほじくり出した?

 

そう、獣医さんが直腸からね!
30分格闘したのよ~!

 

みんなが帰途についた後、
岳の容態は一度急変したそうだ。

 

馬の心拍は、通常30~45と低い。
岳はずっと90で持ち堪えていた。
通常の倍。

 

120になると助からない。
一時、危険水域の100を上回った。

 

みんなの様子が明るかったから
獣医も迷いが出たんだろう。

 

全てが終わったのちに、
場長は振り返ってそう言った。

 

これで最後だから、
薬殺の前に腸の詰まりの除去を試みよう。

 

実力行使をすれば、腸壁を傷付ける。

 

そこが取り除けても、腸全体が
活動を取り戻す保証もない。

 

獣医が勝算を見ていたのか
一か八かだったのか、
それは分からない。けれど

 

最後は、プロの意地
だったのではないかと思う。

 

その後、朝までに
自力での排便が2回あった。
もう、本当に大丈夫だ。

 

ボロには最初、血が混ざったという。
岳と獣医の、奮闘の証。

 

これだから、
獣医は辞められないんだよなぁ。

 

そう言って、岳が助かったのを
一番喜んでいたのは獣医だった、と場長。

 

獣医は、
命を奪う行為の実行を許されている。
生殺与奪の責任を負う。

 

一方の牧場長は、
最終的に生殺与奪の決断をする。
その実行のタイミングを決めるのは、彼の責任。

 

思えば、姿の見えない時間が結構あった。
出来る限りタイミングを 引き延ばそうと、
獣医から離れていたらしい。

 

岳の様な厳しい状態から
復活する馬もいるには居る。
けれど、数は少ない。
獣医は、現実を見据えながら
現実的な判断をする。

 

場長は、馬をよく知り、
その個体の可能性を見ている。

 

どちらも、正しい。
立場と判断基準が違うだけだ。

 

最後の最後は、岳の底力。
でも、全てのタイミングが
噛み合わなければ、こういう
結末にはならなかったかも知れない。

 

横隔膜へのアプローチで、
少し腸が動き出したこと。

 

岳が倒れた時に強く腹を押して、
物理的に腸内のボロを
出口へ送ろうとしたこと。

 

獣医の手の届く範囲にボロがあって、
最終的に掻き出せたこと。

 

そして、みんなが岳に
気持ちを寄せ続けたこと。

 

「俺ってこんなに
人気あるんだって思って、
張り切っちゃったのかもね(笑)」

 

それぞれが持てる力を出し合えば、
状況は変えられる。
予想を覆すことだって出来る。

 

この経験は、私達を
一回り大きくしてくれた。
そう思う。

 

貴重な体験を与えてくれた岳に、
心から感謝を捧げよう。
そんな殊勝なことを言ったら、
きっとあの馬は
ニヤリと笑うだろうけれど。

 

 

終わり

 

 

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