何かをする時には、考え過ぎずにとりあえず取り組んでみる。
Work like thunder.
ケイシーの語った言葉。
バリバリと、とにかく数をこなしていくうちに、
やっている事、形になったものの中から、ちゃんと理想型は見えてくる。
とりあえずでも形にしてみたものの中に、
修正するべきこと、自分が本当に伝えようとしていることの
核になっているものが、ちゃんと見えてくる。
一から頑張って自分の頭で捻り出す必要なんて全然なくて、
いつだって答えはちゃんと「見えてくる」。そこは信頼して大丈夫なんだ。
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「neMu ブログ⑤:心・意識」カテゴリーアーカイブ
私たちに個性を与えるものとは。
眠りながらに透視能力を発揮し、
数々の迷える人たちにリーディングを通して
治療法や魂の本質・使命を伝え続けた
エドガーケイシー。
彼の言葉の数々は崇高で、
信憑性と深遠さを感じさせるものばかりです。
その中で、最近とても重要だと感じたもの。
それは、『自由意志』の概念について。
普段、私達は意志を意識の状態の一つ、
という程度に捉えていると思います。
身体を通して入ってくる情報を脳が収集分析し、
それをどう受け止め、どんな行動をとるか。
選択判断をすること、それが意志の主な役割だと、
私も通常にもれず思っていました。
しかし、ケイシーは言います。
意志は、魂の持つ3つの属性の一つだと。
(以下、『エドガーケイシーに学ぶ幸せの法則』p.123~を参照。)
その属性とは、
マインド、霊的エネルギー、意志の3つを指します。
日本語で言う所の心は、
英語のマインドの概念とは少し違います。
「心」には感情などの心理的な要素が含まれますが、
「マインド」は思考や意識といった概念に近いと言えます。
ケイシーの説明によれば、魂の性質の内、
『創造的な論理、直感、創造力を生み出す』側面を指すようです。
ちなみに、霊的エネルギーとは
『永遠で無限』であり、私達の魂の永続性、
そして私達と言う存在そのものを在らしめている力、
と言えるでしょうか。
意志については、
『独立した固有性、選択の自由を与える』と述べています。
独立した固有性を与えるもの。
つまり、私達がひとりひとり異なる存在である、
その個別性を生んでいるのが「意志」だということです。
う~ん、
すっごく大事!![#IMAGE|S5#]個性を与えてくれるものが何かなんて、
そう言えば考えたことがなかった・・・。
いや、感受性とか感覚とか、そんな風に思ってたかなぁ。
そして、こんな風にも言っています。
私達の意志は、ふだん眠っていると。
『習慣的なパターンや外的な力に任せきりにしている時、
私達の意志は眠っている。
独力で決定することを学んでこそ、
その意志が眠りから目覚める。』
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焼津にてマグロを食べる。
今日は、焼津にてマグロ三昧の一日!
正直に申しまして、
日本近海の魚は放射能が怖くて普段食べ控えているイイジマ。
静岡は本当に魚が美味しくて、
とくにシラスや桜エビには目がないんです。
・・・本当は。
地元の方のことを考えるとゴメンナサイと思いますが、
身体は一つだけ。
守ってあげられるのも自分だけなので、
ここは妥協できません。
(ちなみに、体内の放射能の影響を減らすための
ミネラルを除去するペクチンと、
除去した後に補充する良質のミネラル、
イイジマはこんなものを使っています。
プロペクチンの働きについての映像も、
良かったら見てみて下さいね。)
でも、マグロなら
遠洋で取って清水や焼津で水揚げするから大丈夫かな~!
という発想で、しっかり食べてきましたよ!
おススメは、焼津は小川漁港の魚河岸食堂。
漁港で働く漁師さん達のためなんでしょうね、メニューが豊富!
でもって、私が食べたのは、トロトロ元気丼
・・・って名前だったかな?
あぁっ!写真がボケている・・・。ごめんなさい~。
納豆になめこ、ネギトロにとろろにオクラ。
子供の頃には納豆とご飯をまんべんなく
かきまぜカキマゼして食べるのが大好きだったイイジマ。
童心に帰って、かきまぜカキマゼ~[#IMAGE|S60#]一緒にいた友達に「味見・・・しないよね[#IMAGE|S26#]」
ちらりと横目で見て「うん、そうだね。」
・・・だよね[#IMAGE|S37#]
対流する時間(つづき)
<対流する時間>の続き・・・
前回のあらすじ:
思考と行動がチグハグになって、時間と上手く付き合えていない時、体内でモヤモヤした感覚が起きている。その感覚が川の流れの渦と同じ感じだと気づいたところから、時間への考察が始まりました。・・・
時間をコントロールできない時、私の中を流れる時間は渦を巻き、対流しているわけです。時間をコントロールできている時は、もっとすっきりとした感覚です。こちらは、方向性の安定している、直流の感覚と言えます。
時間を直流と感じたり対流と感じたり、その違いを生むものは何なのだろう?
出てきた答えは、ビジョン、目的意識でした。
行く先にビジョンを見ながら行動している時、全ての思考も行動も一つの方向へ向かって流れます。その間に生じる気づきも、その流れを豊かにすることはあっても障碍にはなりません。ですが、一度ビジョンを見失うと、一つ一つの行動がそこだけで完結し、次へのつながりを失います。その間に生じる気づきもまた、生かされるべき方向性を見失います。
時間と上手く付き合うには、どうしてもビジョンを明確にすることが必要なんだと、実感しました。
時間と上手く付き合えているかどうか、その良し悪しは誰にでも何らかの形の影響として現れます。多くの場合は焦りや、時間に追われてる感じ・・・というものかも知れません。ですがその時には、身体の中で時間の流れが渦を巻いているのだと思います。
流れは、他のものへと作用を与える「力」であり、エネルギーです。渦を巻いて滞留した流れは、身体の内側に力を溜めこんで緊張感を作ります。それが、身体そのものの緊張にも、心理的な焦りにもつながっていく。時間は目には見えませんが、私達の心に、肉体に、現実的な力として作用しているのだと気づきました。
対流する時間
<対流する時間>
今日のお話は、「時間」がテーマ。
時間の管理が上手くいっているかどうかを、私達は体の感覚としても感じている、というお話です。
私達の身体は、気血水に代表される様々な「流れ」によって、常に滞りなく流れています。ここに構造的に、あるいは機能的にブロックが生じて流れにくくなった場合が、私達セラピストの出番です^^
時間も、私達の体内の流れを左右する大きな要素の一つなのだと、最近時間管理に取り組み始めて、感じました。
経営の勉強をし始めるとこの間のブログで書きましたが、普段の感覚中心の思考法と頭の使い方を変えていく感じがあります。すると、今までの思考法と衝突が起きて、沢山の気づきが生まれます。
気付きは視野を広げて成長を実感させてくれるのですが、気付きに満足してしまうという傾向が私にはあるようです。すると、反って気付きに囚われて次の行動がなかなか出来ない、ということが起きました。
と同時に、時間を設定して守る、管理する、ということも出来なくなりました。思考と行動がちぐはぐになったことと、時間管理が出来なくなったこと。そこにどんな関連性があるんだろう。そんなことをうっすら考えながら朝の散歩へ行きました。
川面を見ながら歩いていると、ところどころで水流が渦を成しています。ふと、その感覚が自分の中に入って来て、目の前に小さく対流する複数の渦巻きが見えた気がしました。その感覚は、自分の内側で流れる時間の無秩序さ、時間をコントロールできていない時に感じるモヤモヤとした感覚と同じでした。
・・・今回はここまで!
次回、このモヤモヤした感覚を分析して、その正体を明かします^^
お楽しみに!
neMu no ki の3月の営業日! と、風水的片付け。
久しぶりのneMu の花♪
福寿草にクリスマスローズ、猫柳、長い枝はウグイスカグラです。
風水心理学を受講したのは先月のこと。
そこから、とにかく自室のものを選別しては売るなり捨てるなり・・・。
休みの日にはそんな作業をひたすら続け、
気づいたら3月!
占星術を土台にしたコンサルテーションを受けた際に、
お店をグレードアップするようアドバイスされたのは一昨年のこと。
人って、まずは自分の中身・内面が変わらないと、
そう易々と外側の入れ物だけ立派なものに変える、なんて出来ないんですよね。
ちぐはぐ過ぎて気持ち悪いって、自分で感じることには逆らえません。
でも、内面が変わると、
変えようって無理に意識しなくても、
自分の身の回りのものが「これはもう違うな」って自然と見えてくるんですね。
だから、無理に変えることよりも、
理想の方向を見つつも
今歩いているこの道一歩一歩を大切に・・・
あれ、何かの歌詞みたいになっちゃった^^
思い出と結びついる為に捨てられなかったものを手放したら、
からだの感覚もすっきりとした感じがして心地よいです。
実際、ぬいぐるみや書籍を処分したその日に、お腹も気持ちよく壊れましたし!
処分してみて初めて、
眠らせてあった大量の書籍は
情報をすでに十分にもっているから大丈夫だという安心感、
ぬいぐるみはしっかり自立できていない自分への弁護を、
それぞれ表していたようだと気づきました。
書籍に関しては、手放したら
今まで手をなかなか付けられずにいた仕事に
向き合う気持ちが湧いてきました。
すでに満杯の情報で頭がいっぱいで、それを整理するスキさえなく、
何かに取り掛かるだけの頭の余裕がなかったということなのでしょうね~。
さて、長くなりました!
3月は、16日の土曜日が臨時でお休みとなります。
放射能に加えてPM2.5と言った汚染物質で、
私達を取り巻く空気は肺や呼吸器にとって厳しい状態となっていますよね。
なので、その辺りのことについてお勉強をして参ります。
16日以外は通常通りの営業です。
定休日は毎週水・日、
営業時間は11時~20時までとなります。
春先は
寒さで縮こまっていたからだが急に動き出す季節。
からだの中の緩みやすいところと緊張の強いところの差も強くなり、
調子を崩しやすい時期でもあります。
症状が出たときは、かえってからだも変化(良い意味で)をし易いので、
是非施術を受けに来てみて下さいね!
ネット社会への不信
先日、知り合いが Facebook への招待状をくれました。
ケータイもスマートフォンが主流になっているし、
私達の生活には当たり前のように
ネット世界が入り込んできています。
Facebook への登録は、私の中に
ちょっとした抵抗感を生みました。
なので、とりあえずは一時保留。
ネットで世界中が結ばれているという状況、
自分の行ったことが瞬時に世界を駆け巡り、
自分では責任の取れない範囲にまで拡大するという現状。
そのメリットはもちろん、リスクも大きいのでは。
そのリスクの中には、目に見えないものも
多分に含まれているかも。
顔すら知らない相手と、思考や意識のレベルで
ある意味深くつながる、こうしたことが
私たち人間と言う存在にとって、
どんな影響を与え得るのか。
そこに対する何らの理解なしには、
ちょっと踏み込んで行くのをためらう世界だな・・・。
私自身は、今はまだそんな風に思っています。
ほら、メンタリストDAIGOさんが
パフォーマンスでやってみせるように、
私達は無意識のレベルでかなり
まわりの情報から左右されていて、
自分で自由に選択していると思っていることでさえも、
どこかでパターン的に操られていたりするわけですし。
自分が何によって影響されているのか、それを
なるべく明晰な意識で捉えたい。
その努力が、自分の本来の本質を
濁りのない姿で見せてくれるんじゃないか、
そう期待してたりもするのです[#IMAGE|S32#]写真・画像・文章の複製や無断転載は固くお断り致します。
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存在は、結び目である。
今朝ふと、仏壇の前で思いついたこと。
私達は存在自体が、結び目なのだなと。
生命は男性性と女性性の
結びつきの結果でもあるし、
異なる系統の家の結び付いた、
その結実でもある。
ご先祖様たちがおのおの経験して
学んできた知恵や知識は、
あるいは家という場を通して受け継がれ、
また遺伝子の中で物理的な情報として
受け継がれてくる。
そうやって連綿とつながってきた
一つの流れがまた別の流れと出会うとき、
その結びつきが形を成して表現される。
それが私達、個々の存在なのだなと。
昔の人達は、結び目を
呪力のあるものとして重んじていました。
彼らはひょっとしたら、
存在=生命は結び目であると、
知っていたのかも知れませんね[#IMAGE|S43#]
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中空構造の日本
先日ニュースを見ていた際、これからの日本の住宅事情を考えると、中古住宅をいかに生かしていくかが大切だという話をしていた。
日本では、中古住宅を再利用するという文化が根付いていないのがネックなのだそうだ。
確かに、家を購入すると言えば、新築の家が思い浮かぶ。
ヨーロッパでは、古く時間や歴史を積み重ねてきた街並みを、とても大切にしている。
こうした文化圏においては中古住宅が当たり前だし、 それを上手く活用する知恵なんかも発達しているのだろう。
この「人が使ってきたもの」に対する考え方や感覚の違いは、
ひょっとするとキリスト教などの宗教と、日本の神道の性質の違いにその起源を求めることが出来るかも知れない。
神道に独特の催事として、定期的な遷宮がある。
20年だか25年だかに一度という長いサイクルではあるけれど、
その遷宮によって、それまでの年数をかけて蓄積してきたエネルギーを、
良きにつけ悪しきにつけ一掃してしまう。
一度、完全にその場につながる全てのつながりを断ち切ってリセットする、という具合。
この、新しい状態であること、空っぽであることをずっと保ち続けていることが、
神道が他の宗教とは一線を画する特徴と言えるのだそうだ。
日本人は、同じ場を共有する事で受ける影響について敏感に感じ取っていたのかも知れない。
深沼海岸にて、現地のおじいちゃんと出会う。
仙台での一日ボランティア活動の途中で立ち寄った荒浜地区・深沼海岸。
震災前は海水浴場としてにぎわった海岸には浜に沿って松の林があり、
その海側には、今は震災の慰霊碑が立てられています。
松林は防風林だったそうで、その陸側には家屋の土台跡が沢山あります。
海に近接して、人々の暮らしがあったことが伺えます。
そこで出会ったおじいちゃんが話して下さったことを、
聞いたその時の印象を壊さないようにお伝えできたら・・・と思います。
大正15年生まれの子供達の5才のお祝いに、昭和5年に植えられた松の木。
(防風林として深沼海岸沿い7キロに渡ってあり、約30万本が風を通さぬ密度で植えられていたそう。)
慰霊碑のすぐ後ろに立っていた松を指して、
「あの上に海苔網が引っかかってたんだよ」と。
波は松の木を越える高さ(10メートル)で流れ込み、
深沼海水浴場付近の松を根元からへし折った。
今はまばらになった防風林の松は、その頭を海から陸の方へと傾けている。
おじいちゃんは80才、小柄で人なつこい印象の方だ。
「ボランティアで来たんですか?」と話しかけてくれた。
防波堤から、団体で荒浜の海を眺めていたからだろう。
ボランティアバスの説明をすると、
「そんなこと(取り組み)をしてるとは知らなかったなぁ…、東京から。ご苦労様です。」
遠方からのボランティアに驚いた様子で、丁寧に頭を下げてくれた。
今は若林区に住んでいるけれど、この荒浜の海岸っぺりに実家があったこと。
全て流されて、みんないなくなってしまったこと。
ご自分と長男さんは残ったこと。
津波の3日後位に荒浜を訪れると、
慰霊碑の後ろの松から数えて3軒位陸側に入った家(跡)で、
「ビニールにこう包まれて、お孫さんだべなぁ、おじいさんがタバコふかして泣いておったよ。」
ご自分のご実家は慰霊碑につながる道の左側(防風林から20メートル程)にあったそうで、
「家の畑に50人位(亡骸)溜まってて。それをきれいに洗ったり、自衛隊が運んでいったりしたんだわ。」
荒浜地区は死者は「180だか200人だったかな。本当に、あんなの見んさらなくて良かった。」と。
話す目は、赤い。
死者のお弔いをしたかったけれど、
お寺もお墓も流されて無くなってしまったこと。
遠くに見える小高い土山
(目測で、高さ5~6メートル程、海岸からは3~400メートル程の距離だろうか。)の上に、
お寺の屋根が流されて乗っていたこと。
「つまらん話聞かせて悪かったねぇ。」
「お話を聞かせて頂いて、ありがとうございました。」
経験を共有させて頂いたこと、心から感謝しています。
薄日に淡く輝く静かな海には、恐怖の影は微塵もない。
海に背を向けた時に現れて、直接お話をしたおじいちゃん。
静かに淡々と話す、丁寧な物腰のおじいちゃんを通して初めて、
悲しみの現実に触れられた気がした。
慰霊碑と、防風林の近くに整然と立っていた赤い鳥居に手を合わせ、
あの地を守る自然の大いなる存在に感謝を捧げた。




